生みの苦しみ

最近マララという16歳の少女が国連で「訴える姿」を見て、「マハトマ」という言葉が浮かんだ。
この日彼女が16歳の誕生日ということだったから、実質15年の生の経歴に基づいてNYの国連で演説を行い、パン・ギムン事務総長に「提言」を提出することになったのだ。
それだけでも「驚異の16歳」だが、彼女は去年10月、パキスタン北部で通学途中に「タリバン武装勢力」に銃撃され、「重傷」をさえも負っていた。
タリバン政権は、アフガニスタンでも女の子の教育を禁止したり、女性が男性の家族に付き添われないで「外出」することを認めないなど、「女性の権利」を侵害してきた。
マララさん自身、スベテの子どもたちに教育を、女の子も差別されることなく学校に通う権利があると訴え続けていたために、待ち伏せされて、「狙い撃ち」された。
マララさんの父親もタリバンの弾圧を受けながら地元で学校を経営してきた「教育者」である。
パキスタン北部でマララさんが暮らす地域に「女の子」への教育を禁止する「タリバンの布告」が出て、「学校が閉鎖」に追い込まれた。
しかし、一貫してマララさんは父親とともに女の子への「教育の権利」を訴え続けた。
そうしたマララさんの「影響力」をタリバンは嫌い、マララさんの声を「封じ」ようとしたのである。
襲撃事件直後、マララさんはイギリスに搬送され、子どもの治療を専門に行う病院で手術を受け、今年2月に退院、4月からイギリスの女子校に通うまでに回復した。
タリバンは、ママラさんへの襲撃はこれからも続けると「警告」していたが、マララさんは「屈する」ことなく、しかも自分を襲撃した人々を「憎もう」とは思わないといっている。
16歳にして、このような精神とは一体何か。
「偉大なる魂」(=マハトマ)のようなものを感じるのだが、ソレはどこからくるのか。
マララさんのような「魂」のモチ主はなかなかイナイが、アエテ西欧と日本に探してみた。

「生みの苦しみ」という言葉を人に当てハメル人ならば、コノ人ほどピタリの人はいない。
レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、「農薬」の無制限な使用について世界で始めて「警告」を発した書である。
ソノ本は、全米バカリではなく世界をも揺り動かした。
この「沈黙の春」につき注目すべきことは、この本の内容バカリではない。
作者が「執筆」において戦わなければならなかった「戦いの大きさ」、つまり「生みの苦しみ」の大きさにあった。
それは彼女自身の病や身内の不幸にトドマラず、州政府、中央政府、製薬会社などを「敵」にマワシテの執筆だったからだ。
世に烈女とか猛女トカいわれる女性がいることは確かだが、彼女の写真からは、そうしたイメージは全くワイテこない。
ムシロ柔和さや穏やかさが表情から滲み出ている。
それは、「慈愛」といっていいかもしれない。
ソモソモ人一倍繊細でなければ、「自然界の叫び」を聞くことはできなかったであろう。
実は「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する「誹謗・中傷」にまで及んでいた。
そして彼女はある本に次のようなことを語っている。
「創造あふれる作家はどのようなものか、どんな魂の栄養をとらなければならないか、ほんとうはだれも知らないと思います。確かなのは、私を人間として深く愛してくれる人、ときには押しつぶされそうな創造的な努力の負担を、自分のことのように受け入れてくれる包容力と理解の深さをもつ人、相手の痛みや心身の疲れ、ときに訪れる暗い絶望感に気づくことのできる人、私や私が作ろうとしているものを慈しんでくれる人がいる、そのことが私にとっては欠かせないということです。」
この文章は、彼女を支えた力とは一体「何だったのか」、ソノ一端を伝えているように思う。
レイチェル・カーソンはアメリカ・ペンシルベニアで生まれ、母親の影響の下、文学的才能を開花させていく。
そして地元のペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻するが、必修科目となっていた生物学の授業に魅せられる。
彼女は、悩み抜いた末に方向転換し、生物学者になるべく歩み始める。
そして海洋生物学者として本を出し、全米図書賞の候補になるほど、その名は知れ渡っていった。
彼女の転機となったのは、1958年1月に彼女が受けた「一通の手紙」であった。
その手紙には身近なところで毎年巣をつくっていた鳥が、「薬剤」のシャワーによりムゴイ死に方をしていたことが綴られていた。
役所が殺虫剤DDTの散布をしてからというもの、いつも友人の家にやってきていたコマツグミが次々に死んでしまったという手紙だった。
この日からレイチェルの4年間におよぶ闘いが始まった。
レイチェルはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、この問題にトゲのように突き刺さっている人類の「過剰な技術」の問題のいっさいに取り組んだ。
1939年に発見されたDDTが害虫を駆逐し、農作物の大きな「収穫の向上」が見られていた。
その経済的な利益はハカリしれず、州当局も積極的に散布を推進していた。
しかし、DDTなどの合成化学物質の蓄積が「環境悪化」を招くことは、イマダ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが、彼女の「警告」はホトンド取り上げられることはなかった。
しかしその「生みの過程」では、覆いカブサルように苦難が待ち構えていた。
まず彼女に生命に対する目を開かせてくれた最愛の母親を失うという不幸、母親を失った親戚の子供を「養子」にむかえて育てる負担もあった。
そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行と、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ-ンの嵐。
また彼女はカツテアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働いたこともあるが、ソノ政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は、本を執筆する際に少しでも「疑問」を覚えたならば、直接手紙を書いて尋ねたのである。
そこには、彼女なりの「戦略」があった。
ソレハ、これから敵となって戦うであろう政府や州政府に対して、自分を「擁護」してくれるカモシレナイ専門家達を巻き込むということであった。
そして、彼女は自身の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
そして1962年、「沈黙の春」を書き上げた彼女は、編集者の「感動に満ちた」電話の声を聞き、すべての「労苦」が報われたと感じた。
レイチェルは、母親を5歳で失った姪の息子を「養子」として育てるが、この幼いロジャーをメインの森や海辺に連れ出しては、大きな自然や小さな生命の「驚異」を二人で楽しんだ。
レイチェルが面白いものを見つけるたびに、無意識のうちに喜びの声をあげるので、ロジャーもいつのまにか色々なものに注意をむけるようになっていったという。
「このようにして、毎年、毎年、幼い心に焼きつけられてゆくすばらしい光景の記憶は、彼が失った睡眠時間をおぎなってあまりあるはるかにたいせつな影響を、彼の人間性にあたえているはずだとわたしたちは感じていました」と書いている。
レイチェル自身は「神秘さや不思議さ」に目を見はる感性のことを 「センス・オブ・ワンダー」と表している。
そしてコノ感性は、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは「自然の源泉」からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ「解毒剤」になってくれるといっている。
つまり、レイチェル自身、そのように母から育てられ、その体験に基づく「センス オブ ワンダー」こそが様々な「敵」と戦う力となったということに違いない。
レイチェルは友人に次のような手紙を書いている。
「私がいまやっていることの重要性をいかに深く確信しているかをあなたはわかっていると思うの。事態を知っているのに"沈黙" をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います。」
彼女を支えた力は、「逆説的」だが彼女自身の「死の予感」であった。
「沈黙の春」執筆中に癌の宣告をうけたレイチェルは、「生命のつながり」に対する直感つまり「センス オブ ワンダー」に導かれ、すべての命に対する「慈愛」のようなものを生んだに違いない。
1964年4月14日、56歳の彼女はメリーランド州シルバースプリングで生涯を終え、彼女が最も愛した海へと帰っていった。
レイチェルは或る自著の最後を、スウェーデンの海洋学者が息子に残した言葉、「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先にな何があるのかというかぎりない好奇心だろうね」という言葉で、締めくくっている。
さて、レイチェル・カーソンの「レイチェル」という名前の由来は、旧約聖書に登場する「ラケル」である。
兄エサウから逃れて伯父ラバンの元へきたヤコブはラケルを見初め、生まれた子が後にエジプトの宰相となるヨセフである。
ラケルは、その弟であるベニミヤミンを生む際に、「難産」で命を落とした。
ベニヤミンは「生みの苦しみ」を意味する名前である。
またイエス誕生に際して、ヘロデによって多くの幼子が殺されたが、新約聖書では「ラケルの叫び声が聞こえる」と預言書から引用されている。
ところで、レイチェル・カーソンには実の子供はなかったが、「沈黙の春」という書物の「生みの苦しみ」は壮絶なものであった。
名前というのは、その人の生涯をピタリと「暗示」していることがある。

さて、レイチェル・カーソンと比較的近い分野で、「生みの苦しみ」の言葉が当てハマル人といえば、日本の「華岡青洲の妻」を思い浮かべる。
江戸時代、華岡青洲は世界で初めて「全身麻酔」下で外科手術に成功し人である。
そしてこの「麻酔薬」開発のプロセスコソが「生みの苦しみ」とよぶにフサワシイ壮絶さだった。
青洲の「偉業」は、和歌山県の紀ノ川を下った平山村(現在の紀の川市)で達成された。
そして「華岡青洲の妻」とは、その麻酔開発のために自らの体を差し出した女性だった。
ところで、作家有吉佐和子は、ソノ「麻酔薬」完成にいたる経緯を「華岡青洲の妻」に著し、舞台やテレビドラマでもしばしば取り上げられた。
華岡青洲は1760年に紀州平山でやはり医師であった父直道の長男として生まれた。
青洲が生きた時代は江戸時代末期で松平定信が「寛政の改革」を行い、杉田玄白や伊能忠敬と同時期に活躍した頃だが、「麻酔なし」の手術は患者にとって「地獄の責め苦」であったといってよい。
また外科医にとっても、痛みに耐えかねて暴れ、泣き叫ぶ患者の「手術」を続けることは大変なストレスだった。
その辺は、黒澤明の映画「赤ひげ」でも、描かれていたと思う。
そこで、痛みのない手術を可能にする「麻酔」の開発は、患者ばかりではなく、外科医にとっても、待ち望まれたことだった。
華岡青洲が開発した「麻酔方法」は、チョウセンアサガオなど数種類の薬草を配合した麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を内服するというものであった。
チョウセンアサガオは、三世紀頃の中国で「麻酔薬」として使われていたと言い伝えられていたが、ソノ具体的な配合や使い方に関する記録は何も残っていなかった。
青洲はチョウセンアサガオに数種類の薬草を加え、繰り返し動物実験を行った。
そして驚くべきことは、母於継と妻加恵は共に「人体実験」を自ら申し出たことだった。
そして、実に20年の歳月をかけて「通仙散」を開発した。
華岡青洲の母・於継は、豪商の娘で美女としても近在に名を知られていた。
そんな女性が貧乏な医者のもとに嫁ぎ、それでも凛として生きている姿は、地元でも評判だった。
一方、華岡青洲の妻となる加恵は士族の娘で、於継の姿を幼い頃に初めて盗み見て以来、その美しさと賢さにずっと憧れを抱いていた。
加恵は、身体強健であり、於継が望んだとおりの嫁だった。躾が行き届き、気丈で、しっかりとした自分の考えを持っていた。
しかし、それが、姑と嫁の仲をコジラセルことになる。
そのアタリは、有吉佐和子の「華岡青洲の妻」の主要なテーマになっている。
事実はよくわからないが、小説の中では「本格的」な実験は妻に対してのみ行っている。
つまり、今自分が行っていることの意義、その大変さなどを真に理解してくれている者こそが「妻」だと思っていた。
妻は理解してくれていると思うからこそ、彼はかなり危険な人体実験を彼女に施すことができた。
しかし気持ちはどうあれ、客観的にみて青洲は麻酔薬完成に向けて、妻にかなり「非情」なことをしている。
小説では、妻が「視力を失って」、青洲は、改めて妻に人体実験を施したことを悔やむことになる。
しかし、それはイズレ誰かにしなければならなかったことであり、それをできる相手は、自分のしていることを「本当に」理解してくれている人でなければならなかった。
青洲は、盲目になった妻を深く愛し、医学の話や患者の話、自分の悩みなども打ち明けている。
この妻になら、何でも言えるという思いが彼にはあっただろうし、妻も夫の気持ちによく沿っていたのだろう。
そして「壮絶な」試行錯誤の末に、1804年10月13日、青洲45歳のときに「通仙散」による全身麻酔下での「外科手術」を成功させた。
「近代麻酔」の起源とされるウィリアム・モートンがエーテル麻酔下手術の公開実験に成功したのが1846年だったから、青洲の業績はそれに先立つこと約40年の快挙であった。
一方、青洲の麻酔はといえば、通仙散が飲み薬であるために麻酔が効き始めるまでに約2時間、手術を始められるまでに約4時間後、目覚めまでに6~8時間と、現在の麻酔と比べて「格段」の時間を要するものでした。
青洲は長年にわたる実験の成果で通仙散が完成した時期に合わせて、全身麻酔による「乳がん」手術に踏み切った。
欧米ではすでに16世紀頃より乳がんを「切除」することは行われていたが、麻酔がないために患者の痛みもさることながら手術の結果は惨憺たるものだった。
しかし、青洲はドイツ人ハイステルの教科書で西欧では「乳がん」を摘出していることを知り、牛の角で切り裂かれ乳房を失った女性がマッタク元気に治ったことを経験したため、是非とも乳がんを手術で治したいと考えた。
青洲自身の妹がガンで亡くなっていたことも、この病気の治療に対する強い「思い入れ」となっていた。
初めての手術の成功を受けて、青洲の名は日本中に知れ渡ることとなり、全国から乳がん患者が集まってきた。
紀州平山で青洲が手術した乳がん患者の名前が「乳巌姓名録」という記録に遺されている。
その数はナント152名に及んでいるという。
その生涯を医療にささげた青洲は、1835年10月、76歳の生涯を閉じた。
ちなみに、日本麻酔学会はシンボルマークとして、「通仙散」の主成分である「曼陀羅華」(チョウセンアサガオ)の花をシンボルマークとしている。
また「医聖華岡青洲顕彰会」は平山の地に「青洲の里」という記念施設を建設し、ソコはたくさんの観光客で賑わう。
その賑わいから少し離れた小さな丘の木立の中に華岡家代々の墓所があり、母於継、妻加恵の墓とともに、青洲の墓石が一際大きく立っている。