スポーツと偏見

スポーツの歴史は、差別と偏見との戦いでもある。
日本では、サッカーやマラソンなどで女性アスリートの活躍が目立つが、さすがに「レスリング」や「重量挙げ」に女性選手が登場した時はカナリ驚いた。
しかし今ではアタリマエになってしまった感がある。
それを思うと、スポーツはかなり女性の「社会進出」に「意識の上」で貢献した部分が大きいのではないだろうか。
しかし、女性が体育競技をすることソノモノについて、ある種の「偏見」と戦わなければならない時代があった。
そして、女学生が動きヤスイように「セーラー服」が生まれたのは、そうした意識変化の過程の「ヒトコマ」といえるかもしれない。
現在の福岡女学院は、1885年福岡市呉服町に「英和女学校」として生徒数二十数名で発足した。
その後、天神校舎・平尾校舎を経て現在地の福岡市南区日佐に1960年に移転した。
1915年にアメリカからエリザベス・リー校長が9代目の校長として着任した。
以後、途中帰国を含め計11年間、福岡の地にトドマリ中央区平尾(現在の九電体育館あたり)への校舎移転やメイ・クイーン祭(五月の女王)などの学園祭創設など、多くの足跡を残した。
新任のリ-校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボ-ルやバレ-ボ-ルを指導した。
ところがこれが思わぬ「不評」を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマで、これでバレーやバスケットをやると、どうしても汚れてしまう。
「この間洗濯したばかりなのに、もうこんなに汚れてしまって!」ぐらいならマダシモ、「すそを乱して飛び跳ねるているようでは、嫁のもらいてがなくなる」といった「苦情」まで寄せられた。
生徒達の表情はスポ-ツを通して日増しに明るくなるのに「反比例」して、悪評は日毎に増していった。
頭を抱えたリ-校長は、着物とハカマに変わる「新しい制服」はナイカと探し始めた。
いろいろ洋服屋を訪ねたり、雑誌をめくったりしたが、ナカナカいい制服は見つからない。
思案のあげく、リ-校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた「水兵服」を思い出した。
自分のトランクの中にコソ、大ブレイクの「火種」が潜んでいたとは。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リ-校長持参の「水兵服」をモデルに「試着品」を作らせた。
そして保護者にも披露しつつ「試作」すること8回、ようやくリー校長の「GOサイン」が出て、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
そして、このセーラー服姿は、街行く人々の注目を集めた。
やがて函館のミッションスクールからの照会があり、洋服屋の主人は北海道に1ヶ月の出張となる。
さらに東洋英和(東京)・プ-ル(大阪)・九州女学院(熊本)・西南女学院(小倉)などから続々とサンプルの依頼が届き、洋服屋主人は「セーラー服づくり」に東奔西走の日々を送ることになる。
エリザベス・リー校長が「心血を注いだ」セーラー服のは全国に「先駆け」となったのである。
この時完成した「セーラー服」は、現在の福岡女学院の制服とホトンド変わらないということは、リー校長のセンスの先進性を物語っているといえよう。

人見絹枝は1907年岡山市に生まれた。
女学校時代に文学的資質のみならず、陸上競技の走・跳のみならず投擲競技にも「非凡な才能」を見せた。
陸上を始めた頃、周りの人々から「冷たい目」で見られたと述懐している。
1928年初めて「女子競技」が認められたアムステルダムオリンピックに、陸上選手として出場した。
女子800m走に出場した人見は、最後まで競り合った末に、見事「銀メダル」に輝いた。
オリンピックで初めて日本人女性がメダルを獲ったものの、日本では「冷たい視線」が待ち受けていた。
日本ではイマダ、女性が短いズボンを履いて素肌を出して、男の様に走るなど、もってのホカというような風潮があったからである。
それでも人見は、未来の後輩達・女子陸上選手達を守ろうと頑張りぬいた。
人見の戦いには、川上音ニ郎の妻・貞奴(さだやっこ)の格闘と似かよったところがある。
1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で「女形」が死亡する事態が生じた。
興行主から女の役は女性がするべきで「女形」は認められないと拒否されたため、急遽代役を務めたのが、日本初の「女優誕生」となったのである。
フランス公演で「拍手喝采」の成功をおさめたが、「凱旋帰国」のツモリだったが、日本での視線は冷ヤヤカだったといってよい。
その貞奴が「自分ができなければ、女性が役者になる道は開けない」と語っていたが、人見も同じように「自分が好成績を残さなければ、女性選手の道はない」と語っていた。
ところで人見は、その後も数々の大会に出場する傍ら、選手の育成や公演を行い、若い選手達を連れて海外遠征を行なうため懸命に働いた。
そして1931年、疲労がたまり体調を崩し、肺炎とわかり24歳の若さでコノ世を去った。
現在、高校野球で当たり前のように目にするプラカードを持っての入場や、吹奏楽演奏、勝利者チームの校歌斉唱などは、人見の「発案」によって定着したものである。

「ピンポン外交」という言葉はコノ言葉はかつて「世界卓球協会会長」である荻村伊知朗氏の「代名詞」となった感じがする。
確かに荻村氏こそは1991年千葉幕張世界大会における韓国・北朝鮮「南北単一チーム」を実現した最大の「功労者」であった。
そして荻村氏は「日中友好」においても、師匠にあたる日本卓球教会会長で愛知工業大学理事長の後藤鉀二氏の「意思」を引き継ぎ、大きな「役割」を果たしている。
世界卓球名古屋大会(1971年)において後藤鉀二氏がお膳立てした「中国参加」の20年後の千葉大会で、今度は荻村氏が韓国・北朝鮮の「単一チーム」を実現させたのである。
ところで荻村氏は、「選手としても」1954年初出場で世界チャンピオンに輝き、1956年の東京大会で二度目のチャンピオンになった実績があった。
荻村氏が、日本の代表選手として世界大会に最初に参加した1954年当時、参加選手は自分で80万円の渡航費用を手当てする必要があった。
しかし当時の日本はマダ貧しく、一般のサラリーマンの平均年収が10万円に満たない時代で、荻村個人ではとても用意できる金額ではなかった。
そこで卓球場の仲間たちは街頭募金や有料の模範試合などを開き、ナントカそのお金を集め荻村の世界大会参加を実現にコギつけたという経緯があった。
そして、荻村氏が日本チーム団を率いて中国を訪問した際に、周恩来首相にに荻村氏は中国がコレカラ卓球に力をいれていくために力を貸して欲しい旨を告げられた。
その際に、周恩来は荻村氏に「驚くよう」な内容のことを語り明かしている。
中国には早くから国家的にスポ-ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが婦人の間で広がっていた「纏足」という習慣であったことである。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足が美しい(可愛い)とされた伝統があったからである。
しかし纏足は女性を家に縛り付けておこうという男性側の都合でできたトンデモナイ悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことは、この「纏足」をヤメさせることに繋がるというものであった。
さらに中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていて、日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をハネカエシタのにならい、中国も卓球というスポ-ツで「自信を回復」したいということを語った。
さらに、中国は貧しい国なのでお金のかかるスポ-ツを採用する余裕はないが、卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので、卓球を「スポーツ振興」のために採用するという内容だった。
当時20代だった荻村氏は、周恩来の「自分の胸の内を明かす」ように語った言葉を聞き漏らさずにシッカリと受け止めた。
「周恩来の言葉」は、荻村氏にとっても身にツマサレル思いであったのだ。
荻村氏は、1954年選手として世界卓球に初参加した際の日本選手に対するブーイングも忘れられないものであった。
荻村氏が初出場した1954年当時は、日本は国連にも加盟できなかったばかりか、戦争中の「悪者」イメージがつきまとい、国際大会においても日本選手に対する観客の「視線」には厳しいものがあった。
ところが、ある試合の中で対戦相手の外国人選手がピンポン玉を拾いにフェンスを越えようとした瞬間、バランスをこわし「転倒」しそうになった。
その時、身を翻した荻村氏が床に飛び込んで、その選手を転倒の怪我から救った。
その姿を見た時から、観客の日本選手に対するブーイングはすっかり消えたという。
この大会でチャンピオンとなり、元祖「世界のイチロー」となったのである。

1964年「東京オリンピック誘致」に自らの身を投げうった民間人夫婦がいた。
彼らが戦ったのは、アメリカ社会におけるイワレなき「日系人差別」であった。
そして、東京オリンピックの次にメキシコオリンピックが開催されたのも、この夫婦のハタラキによるものであったのである。
フレッド・和田勇の父、和田善兵衛は1892年に和 歌山県からカナダのバンクーバーへ「出稼ぎ漁師」として移住している。
その後、同郷の玉江と結婚し、1907年に和田勇氏が生まれた時には、カナダ国境に近い米国ワシントン州ベリングハムで小さな食堂を経営していた。
しかし和田氏は、生活苦のために4歳の時に和歌山の母方の祖父母に預けられた。
9歳で米国に戻ったが、弟たちが次々と 生まれ、居場所がなくなって、12歳の時からシアトル郊外の 農園に住み込んで、雑役夫をしながら学校に通った。
17歳のときにサンフランシスコの農作物チェーン店に移り、1年後にはソノ「仕事ぶり」が評価されて店長に抜擢された。
さらにその2年後には独立してオークランド市内に「野菜販売」の屋台を出すようになる。
当時アメリカの青果店では様々な種類の野菜をゴチャマゼに陳列するのが当たり前だったのに対し、和田氏の店は「陳列」を工夫して野菜を種類別に「見栄え」のするように店頭に並べた。
そして、この青果店は大繁盛し、和田氏はオークランドの「日系人社会」で一躍注目される存在となった。
日本流「おもてなし」が海外が認められたということかもしれない。
そして和田氏は、1933年26歳の時に正子と結婚した。そして二人の子が生まれた。
1941年和田氏は、34歳の若さにして、25人の従業員と3軒の店を持ち、日系食料品約70店からなる協同組合の理事長になっていた。
しかし、同年12月に太平洋戦争が勃発すると「状況」は一変した。
日系人の太平洋沿岸3州での居住が禁止されてしまったことから、「強制収容所行き」をヨシとしなかった和田氏はユタ州の農園が人手不足で困っている事を聞きつけ、翌1942年3月にユタ州に移り「大規模な農園」を開設した。
しかし農園の経営は非常に苦しく、1944年に農園の経営をあきらめ、同年5月に同じユタ州の別の農地に移り「家族で」農業を営んだ。
1945年8月15日、和田氏は日本の敗戦を知った。戦争は一日も早く終わって欲しかったが、日本にもアメリカにも負けてもらいたくなかった。
和田夫妻は空襲で焼け野原になったと聞く祖国のことを思うと、涙が止まらなかった。
戦後、子供達が喘息持ちとなったという事情からオークランドには戻らず、湿気の少ないロサンゼルスに移住しスーパーマーケットを開いた。
このスーパーも非常に繁盛し、カリフォルニア州内で17店舗を構えるまでに成長させた。
そうした中、1949年8月、選手8名からなる日本水泳チー ムがロサンゼルスに到着した。
全米水泳大会に出場するスポーツ界「戦後初」の海外遠征である。
前年にロンドンで戦後初のオリンピックが開かれていたが、日本は参加できず、日本選手権を「同時期」に開催して「記録の上」で競うことにした。
1500メートル自由形決勝で、1位の古橋と2位の橋爪が出した記録は、ロンドンの金メダリストより40秒以上も速い世界新記録だったが、「公認」されなかった。
ロスを中心とする西海岸だけで10万人以上の日系人が住んでいたが、日本のプールは短いに違いないとか、日本のストップウォッチは壊れているとか書き立てるアメリカの新聞に、日系人は悔しい思いをしていた。
当時日本はイマダ占領下にあり、GHQのマッカーサーに「出国許可」を得て遠征したが、「旧敵国」としてジャップと言われたり、唾を吐きかけたり、ホテル宿泊を「拒否」されたりした。
彼らは日本の敗戦で「肩身の狭い」思いをし、白人から「ジャップ」と蔑まれてきただけに、祖国日本の選手たちに熱い期待をかけていたのである。
そして和田夫妻は、選手たちの「宿泊」から食事までスベテ「自費」で面倒見ようと申し出たのである。
妻正子は、おいしく栄養のつく「日本食」でもてなした。
日本で貧しい食事しかしていなかった選手たちは、正子のごちそうに大喜びし、広いベッドで十分な睡眠をとった。
また和田氏は、練習のためのオリンピック・プールへの「送り迎え」を担当した。
そしていよいよ全米選手権が始まった。
結局、日本チームは3日間で自由形6種目中5種目に優勝、9つの世界新記録を樹立し、個人では古橋が1位、橋爪が3位、さらに団体対抗戦でも「圧倒的」な得点で優勝を飾った。
古橋と橋爪をたちまち50人ほどの白人が取り囲んで、「グレート・スイマー!」「フライング・フィッシュ・オブ・フジヤマ!」と賞賛した。
和田夫妻もバンザイをしながら、止めどなく涙があふれた。
和田邸での内輪の祝賀パーティーで、古橋選手らの活躍によって、ジャップと呼ばれていたのが、一夜にしてジャパニーズになり、みんな胸を張って街を歩けるようになったと、涙を浮かべつつ挨拶した。
そして実際、日系人の「入店拒否」がなくなっていったのである。
また和田氏はコレを契機として、当時日本水泳連盟会長だった田畑政治や東京大学総長だった南原繁、後に東京都知事となる東龍太郎らと親交が生まれた。
1958年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が設立されるが、和田氏も田畑・東らに懇願される形で委員に就任した。
和田氏は東京でオリンピックやれば日本人に勇気と自信を持たせることができ、日本は大きくジャンプできるにちがいないと、その仕事に燃え上がった。
しかも、デトロイトや、ウィーン、ブリュッセルなどもオリンピックに「立候補する」という情報が入っていたため、モハヤ店のことなど「二の次」となってしまった。
和田氏は「中南米諸国の票」がカギを握っていると考え、自費で各国のオリンピック委員を自ら説得して回ろうと考えた。
しかし、スーパーの客として知り合った1人のメキシコ以外には、南米にはなんのツテもなかった。
そのメキシコ人の農園を訪問し、誰でもいいから「有力者」を1人紹介して欲しいと説得し、ようやく1人のIOC委員への面会まで「辿りつく」ことができた。
そして和田氏はその人物に、オリンピックはいままで欧米でしか開催されたことがない、東京で開くことに投票してもらえないかと「懇願」した。
しかし委員は、南米の国々はアメリカの開催を何より望んでいる、アメリカの意向を無視することはできないと拒否した。
そこで和田氏はその委員にオリンピックを「一緒に」実現しないかと意外な訴えをした。
片や「アジア初」の東京開催が実現したら、「中南米初」のメキシコシティー開催を支援しようと訴えたのである。
この言葉に、メキシコ人のIOC委員の心が動いた。
1959年、外務大臣の手配で和田氏は「特命移動大使」権限を与えられ、首相からの「親書」をもってプロペラ機に乗り込んで、南米10カ国を1ヶ月以上かけて廻る旅に出発した。
そしてIOC総会では、事前のデトロイト、ウィーンが東京よりも有利という「予想」を覆し、1回目の投票で東京が「過半数」を制し、1964年「東京オリンピックの開催」が決定したのである。
和田氏は、開催決定後は日本オリンピック委員会(JOC)の名誉委員となり、東京の次に開催される「メキシコオリンピック」の誘致活動にも尽力した。
1968年にソノ「実現」を見ることにより、メキシコへの「恩返し」を果たしたのである。
晩年は、福祉事業に力を注ぎ、日系の高齢者施設群を運営する「Keiro」の生みの親ともいわれ、日系社会の高齢者のために、看護病院や老人ホームを設立して総合的看護施設網の整備に尽力した。
2001年2月12日、肺炎のためロサンゼルス市内の病院で亡くなっている。