出遅れた人々

歴史の中に「この時、この人」というようなタイミングで現れ出でる人がいる。
ソノ人一個人としてみれば「遅れて」きたのかもしれないが、「時代相」からみればグット・タイミングな人なのだ。
反対に、溢れんばかりの才気がありながら、生まれるのが「早すぎた」と思わざるを得ない人もいる。
「遅れた」ことが幸いして、彼らの「使命」をより効果的に実現できた感のある人々もいる。
彼らが出遅れたのは、若き日に「病」を発したからである。
そして、一度は死線を彷徨う経験をした。
彼らは、人の世の「冷たさ」にも「人情」の温かさにも人一倍敏感にナッタであろう。
また、命を賭すれば何でもできると、ハラが据わったかもしれない。
つまり、彼らが「出遅れた」ということはハンディばかりではないということだ。
もちろん、「功罪相相半ば」「毀誉褒貶」という言葉もあるとおり、彼らの仕事には「負の側面」も多くあったことは否定できない。
しかし「アノ時/アノ場面」で、彼らに「代わり」うる人材がイタカと思う時に、天はヤハリ彼らを「用意していた」というべきではないか。
最近、「国民所得倍増計画」(1960年)のことが新聞に取り上げるようになった。
安倍政権以来、「夢よもう一度」という機運が高まっているということだろう。
またアベノミクスでも、「物価上昇率2パ-セント」を目標に金融緩和を行うなど「数値目標」を掲げている点でも、「所得倍増計画」と共通している。
しかし、アベノミクスの金融緩和策は今のところ「円安→輸出増→景気浮揚」というルートで功を奏してはいるものの、3本目の矢である「成長戦略」が説得力に欠ける面は否めない。
産業競争力会議の「成長戦略」が決定した矢先に、株が「失望売り」をしているのは、設備投資主体の「内需」を喚起するほどの「成長戦略」を打ち出せないということであろう。
今の日本で「成長戦略」を打ち出し人々を納得させるのは至難の業なのだが、ソレはかつての「所得倍増計画」においても同様であった。
所得が増えるどころか「減る時代」をマジカに体験した人々からすると、国民の所得を10年以内に倍増させるというのは、夢のマタ夢のような「成長戦略」である。
しかし、「所得倍増計画」はそれを期待以上のカタチで実現させることが出来た。
ここで今と当時の経済情勢や国際環境の「相違」を論じるつもりはない。
ただ悲観論が多い中で、「所得倍増」というタワゴトを大胆に言い放った池田勇人という首相がいたこと。
そしてそのタワゴトとも思える計画を「経済理論」で纏わせた下村治というエコノミストいたことを語りたいのである。

旧吉田学校の優等生の一人といわれる池田勇人首相は、「所得倍増」を唱え日本を「政治の時代」から「経済の時代」に転換させ、日本の「高度経済成長」の路線を敷いた人物である。
1960年7月、池田内閣発足し、サッソクその年の暮れに「所得倍増計画」が閣議決定されると、民間企業の「設備投資」を原動力に経済は成長し、国民の「生活水準」は格段に上がっていった。
池田内閣が成立した時に、「日本の独立」や「安保改定」ナド戦後処理に関する大きな「案件」はヒトマズ片付いたことが「経済重視政策」に転換した要因でもあった。
サラニ、「安保改定」をめぐる激しい保守・革新の激突などで疲弊した人々の目を「経済」に転じさせようという「政治的意図」もあったと思う。
そして「安保の岸」から「経済の池田」へ、そのキャッチ・フレーズこそが「所得倍増」であった。
ちなみに、岸信介首相は現在の安倍首相の祖父にあたる。
岸の後を継いだ池田首相は、「寛容と忍耐」「低姿勢」「所得倍増」といった平易なスロ-ガンで世論に訴えかけた。
一方で「貧乏人は麦を喰え」など、「真意」を伝えられなかった面を差し引いても、一国の政治家としてはドウカと思える「失言」があったことも事実である。
そして、池田の派閥「宏池会」に近い経済人、学者、官僚など多くが池田政権のイシズエとなった。
舞台は、パレスホテル箱根。当時は箱根観光ホテルといい、山深い裏手に池田の「別邸」があった。
つまり、池田の「知恵袋」たちがあつまり、「所得倍増計画」を精緻なものに仕上げようとこのホテルにこもった。
「所得倍増」の源流は一橋大学長を務めた中山伊知郎が、1959年1月3日の読売新聞に載せた寄稿だったという。
ところで、政治治家と特定の官僚が「タッグ」を組んで政策を実現していくというのは、キットよくあることであろう。
しかし個人的には、表立った実例をあまりしらない。
最近では鈴木宗男と外務省官僚の佐藤優を思い浮かべるが、こちらは「偽計罪」などというヨロシクナイ事件で「表面化」したものだった。
所得倍増計画は、池田勇人と下村治という「出遅れた」二人のタッグによって実現した感がある。
下村は池田のマワリをかためていた大平正芳や宮沢喜一とともに、中山理論を「所得倍増論」に昇華させていった。
さて、池田勇人首相とタッグを組んだ下村治もやはり病気で出遅れた人物である。
池田の派閥「宏池会」の事務局長・田村敏夫が、役に立つ秀才が省内にいると言って下村を池田に引き合わせたのである。
下村治は1934年東大経済学部を出て大蔵省に入った。
経済企画庁の前身、経済安定本部で最初の「経済白書」の執筆にかかわった。
そこでは、大蔵省出身の田村がイニシアティブを取ったが、彼は「木曜会」(宏池会)は経済を「旗印」にした。
ソノ中核として、近代経済学の数式を使ったモデル分析を駆使する下村治を据えた。
下村は、東大卒で大蔵省に入省したものの、結核の病に悩んだ。そのせいで大蔵省では「主流」からはずれた。
しかし結局ソレが、独自の経済理論を深めるうえでカエッテ役立ったかもしれない。
池田も下村もともに、「死と隣り合わせ」の病にかかりソレを克服したこととで「官界」に復帰している。
下村は1948年ごろ結核にかかり徐々に衰弱していった。長男によれば「あの時は、本人も「もうだめだ」と思ったようだという。
ソレデモ下村は病床で「論文」を執筆する。
闘病は結果的に、下村を官僚ポストの階段ではなくエコノミストへの道を進ませた。
下村の「経済予測」では、日本経済は現在「勃興期」にあり、民間の「設備投資」意欲は旺盛で、年率10パーセント以上の成長を続けると「楽観論」をうちだした。
下村経済理論の核心は、統制経済ではなく自由経済である。
一方で、下村の根底には「国のために尽くす」という思いが強くあり、やはり「国のために尽くす」という覚悟があった池田勇人と遭遇して大きな力を得たカタチとなった。
悲観論も多くあった中で日本という国を「肯定的」にとらえていた点で共通している。
ソレモ「成長見通し」については、下村治の「綿密な」分析に裏付けられていたのである。
そうした体験がコノ計画を強力に推進した「原動力」となったのではなかろうか。
逆境を乗り越えたことは、下村の「経済理論」に確信を与えた。

池田の若き日の経歴を見ると、池田の次に首相となる佐藤栄作と同じく、五高(熊本)にまわされている。
特別に優秀というわけでもなかったのだろう。
池田は、翌年にもう一度一高にチャレンジしようと五高を1学期で退学するが、翌年も結果は同じで、それで佐藤よりも一年遅れをトルことになった。
さらに池田は東大受験にも失敗し、京大法学部にすすんだ後、大蔵省に入った。
官僚の世界では一高から東大が主流であったので、五高から京大は「傍流」であったといってよい。
しかも昭和のはじめの時代、池田が宇都宮税務署長だった頃、全身に水ブクレができる皮膚病にかかった。
そして妻が看病ツカレで亡くなるという「悲劇」を味わい、長引く闘病生活で大蔵省「退職」に追い込まれてしまった。
広島県竹原の生家で「失意のドン底」にいたのを、同郷で遠い親戚筋にあたる女性が懸命の看病で支えたという。
この女性が後に結婚することになる満枝さんある。
親族はいまだに池田が回復したのは、治療法もなく奇病とされた時代にあって「奇跡」だったと語っている。
池田は、病気回復後「全快挨拶」のために東京に出て三越に立ち寄った。
そこから大蔵省に挨拶の電話したところ「復職」させてやるから戻ってこいという返事であった。
この時、池田は日立に就職が「内定」していたので、この時の「電話」は「運命の電話」となった。
ところで池田首相の朋友(または弟分)である前尾繁三郎(元衆議院議長)も池田と非常に似かよった経過をタドッテ大蔵省に復帰している。
前尾は、大蔵省入省2年目の1930年11月、風邪で高熱を出して診察を受けたところ、湿性肋膜炎と診断され、入院した。
入院半年しても病が治るアテもないまま「長期療養」のため休職し、帰郷した。
前尾は成績優秀だったが、家が貧しく中学時に担任から援助してもらって進学したことがある。
前尾は後に、人の世話になって学校を卒業して、働いたのもつかの間、闘病にあたら若き日を「空費」しなければならなかったのは「耐え難い」苦痛だったと振り返っている。
1934年4月、前尾は病状が落ち着いたので上京して大蔵省に顔を出した。
かつての同僚は「そこまでよくなっているなら復職しろ」と勧めてくれた。
ソコデ当時の秘書課長に相談に行くと「5年も遊んだものは将来の人事の上で困るから」と断られた。
ところが、数日後、その秘書課長が「帝人事件」で召還されてしまったのである。
そして後任の秘書課長・石渡荘太郎が「復職」を認めてくれたという。
同年6月、前尾は和歌山税務署長に赴任した。
翌年4月、大阪の玉造税務署長だった池田勇人が前尾に会いにきて夜を徹して飲むほどに、酔うほどに意気投合した。
同じく長期療養を強いられるという悲嘆を味わった。「遅れてきた」二入が肝胆合照らす仲となり、親交を深めていくことは自然の成り行きであったであろう。
友との出会いで力を得たのか、前尾は、和歌山税務署長時代の2年間で前尾の体調は回復し、肋膜に水もタマラなくなった。
一方、池田は宇都宮税務署長以後「税務畑」を中心に歩み、「税の専門家」と知られるようになった。
そして終戦の年には「主税局長」になり、昇進において同期とほぼ並んでいる。
ところで池田と同じ年に五高に入った佐藤栄作は東大へ進むが「運輸省」に入っており、二人とも「出世コース」から離れていたことが幸いした。
終戦時に処分されることなく、「上」が公職追放でいなくなったオカゲで自然と地位が上がっていった。
また一度は死線をさまよった。一度は死んだと思える「難病」を克服したからコソ、物事を楽観できる人間になれたのかもしれない。
「山より大きな猪(しし)は出ない」が池田の口癖であった。
それだけに、経済大国への扉を開いた池田の「わたしは嘘はつきません」という愚直な響きの言葉に、重みがあった。
そして経済が得意な池田が、政治の季節が終わった時に、経済の時代を築くべく内閣の首班となったのは、歴史における「めぐりあわせ」といえるかもしえない。

さて財界にも、池田と同じく大学をでて病になり出遅れた人物がいる。元経団連の副会長である花村仁八郎である。
花村はは、東大をでてすぐに結核となり、知人の紹介によりしばらくの間、福岡市南区老司にあるの「少年院」で教官をしたことがある。
花村は後に財界の自民党に対する献金の割り振りをつくり、それが「花村リスト」として世に知られる。
1954年 造船疑獄により海運関係のトップと保守系代議士があいついで逮捕された。
このとき検察側は、造船工業会などからわいろを受け取った疑いで佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を急いだが、犬養健法相は指揮権を発動し、逮捕を阻止して辞職した。
この時、捜査の対象になった政治家・官僚・会社員は千人をこえ、会社役員・運輸省役人の二人が自殺した。
この事件をキカケに経団連は財界の「政治献金」を一本化しようとするが、政治献金問題の「中心的役割」を果たしたのが花村仁八郎であった。
花村は企業・団体から出してもらう政治資金は自由経済体制を堅持する「保険料」と位置づけ、「花村リスト」といわれる献金の割り当て表を作り、これが以後「財界献金の原典」となった。
企業の政治献金を取り仕切り「財界政治部長」の異名をとり、長年政界と財界の資金のパイプ役を務めた花村は1975年経団連の事務総長、1976年事務総長兼務で副会長に就任し、この間、日本航空の会長も務めた。
花村は、大学卒業後に少年院で涙ながらに少年達の身の上話を聞いたことが、後の財界の世話人と呼ばれるようになる「下地」をつくった語っている。

アベノミクスという造語は、所得倍増と違って、だれが言い出したのか、はっきりしない。
だが言葉の造語の起源についてはオクとしても、ソノ「仕掛人」と目される人は少々意外な人であった。
自民党日本経済再生本部事務局長の山本幸三元副経済産業相(福岡10区)である。
福岡県北九州市生まれで、1967年福岡県立京都(みやこ)高等学校卒業した。
東大では当初物理学を志し理科一類に入学したが、途中で卒業後の志望を官僚に変更したため、経済学部に進学した。
大学時代の恩師は小宮隆太郎で、小宮からは大学に残って研究を続けるよう勧められたという。
しかし、1971年、大蔵省に入省した。
山本は、東日本大震災(3・11)のあと、直ちに「復興に20兆円の国債を発行しろ」と3・17緊急アピールを発表して全議員に配った。
本人によれば、ソレをそのまま採用していたら民主党政権は健在だったかもしれないが、彼らは経済政策について「日銀マフィア」に牛耳られていたのだという。
そのうち、安倍(晋三・首相)がドコカで「日銀は問題だ」と言ってると聞いて、山本はすぐに安倍のところに行った。
本当にもう一回「政権」をやるなら、「経済の安倍」でやれ、憲法とか安保はアトマワシだと語ったという。
山本がそのために、議員連盟を作ろう。安倍を会長にするからというと、安倍は快諾した。
そこから、アベノミクスが始まったといってよい。
2011年から、安倍が会長、山本が幹事長となって、「増税によらない復興財源を求める会」、「日銀法改正でデフレ・円高を解消する会」と次々「議連」を作った。
安倍は、岩田規久男、岩田一政、浜田宏一、伊藤隆敏ら専門の経済学者学者を「講師」に招いて1年半、勉強会を重ねたのだ。
このメンバーは山本幸三と同じく東大「小宮ゼミ」に属するか、何らかの影響を受けた学者達のようである。
山本によれば、安倍氏は「勘がよく」経済を理解したのだという。
ともあれ、「経済の安倍」としての「再登場」には、正直驚いているが、そういえば、安倍首相も一度「病」の為に首相を辞任した人だった。
「病」で一度は辞任したゆえに、かえってリスクをとるだけの「ハラ」がすわったかもしれない。