ファミリーの歴史

ある一家の歴史が「歴史ソノモノ」を物語るかに思えることがある。
そういう意味でのファミリーの歴史といえば、斉藤茂吉の一族を描いた北杜夫「楡家の人々」が圧倒的に面白かった。
時として笑い転げるホドだった。
先日亡くなった安岡章太郎氏の「やせがまん/へそまがり/なまけもの」の思想シリーズは、東京一人暮らしの自分の「精神安定剤」のようなもので、その恩恵はハカリシレない。
「軽妙」なエッセイとはいえ、作家が長くこのようなものを書くのも、作家の内面に余程「整理できぬもの」が存するからに違いない、と思っていた。
しばらくして安岡氏の「流離譚」(りゅうりたん/1981年)という壮大なファミリーの歴史小説が出た。
表紙カバーの解説を見たダケで、作家の「モヤモヤ」の一端を見た思いがした。
「流離譚」は、安岡氏自らのルーツを探る歴史小説となっている。
「流離譚」の面白さはその謎を文献・書簡や現地への旅を通じて探っていく過程である。
ちなみに当時一世を風靡したアレックス・ヘイリーの「ルーツ」は安岡氏が訳したものである。
安岡氏が自身のルーツ探しの原因は、一族の中に親戚に東北ナマリの言葉を話す家があったことだった。
安岡家は土佐藩主・山内容堂の「下士(郷士)」であるが、土佐勤皇党(反幕府/反藩政)に加わり、藩参政の吉田東洋の暗殺者や、板垣退助の「片腕」となって戊辰戦争を戦い福島で戦死した者たちもいた。
そして安岡家の一分の者が、土佐藩士として「白虎隊」で有名な福島における鶴ケ崎城の攻防戦を戦い、そのまま福島に移住していたことを知る。
そして安岡氏は「大きな謎」にぶつかる。
それは安岡家が、土佐藩・山内家の藩体制を支持し、ナロウことなら自分たちもその門閥の末端にでも結びつきたいと願っていた男達が、ドウして幕藩に対抗する「土佐勤王党」の旗上げに、ほとんど一家コゾッテ加盟したかという点である。
よくよくの事情があってのことだったにちがいない。
特に安岡嘉助という人物が、藩参政の吉田東洋暗殺の「刺客」を志願したというのは、何か「宿怨」めいたものサエ感じられる。
それでは安岡家が藩に対して抱いた「宿怨」とは何だったのだろうか。
そこには、土佐藩の内部抗争に絡んで、安岡家と著名な物理学者を出した寺田家の関係など「驚くべき事実」が明かされている。
土佐藩には、「上士」と「下士」との激しい抗争がおきていて、静岡、掛川あたりに祖先をもつ地元民の下士に宇賀喜久馬という人物がいた。
これが安岡章太郎の祖父の母の実弟に当たる人物である。
そして 井口村において起こった上士と下士の抗争の場で宇賀喜久馬がタマタマその場に居合わせという理由だけで、何の罪咎もないのに腹を切らせられるということがおきる。
しかもその切腹の介錯をしたのが、喜久馬の実兄であったのだ。
当時はアタリ前だが、安岡一族は「家名断絶」を防ぎ生活収入と身分保証の基盤たる「土地」を守るため、「親族間結婚」が非常に多く、宇賀喜久馬の切腹でトドメをさす「介錯」したのが実兄である宇賀利正であったのだ。
当時19歳の宇賀喜久馬の非業の死が、その親戚筋にあたる安岡一族間でも「悲憤慷慨」の思いに覆われたことが想像できる。
このことが、安岡家をして「土佐勤皇党」への参加へとなったという推測が成り立つ。
ところで、宇賀喜久馬の切腹を介錯した宇賀利正の長男こそが、後に夏目漱石の弟子となる物理学者にして随筆家の寺田寅彦なのである。
ちなみに寺田寅彦は、「吾輩は猫である」 の寒月君のモデルで、「 天災は忘れたころにやってくる」という有名な言葉を残している。
ひょっとしたら、コノ言葉は寺田家が巻き込まれた抗争事件と無関係ではないかもしれない。
さて山内藩主の参政・吉田東洋を闇討ちにした「土佐勤王党」の実行犯三人のうちの一人が安岡嘉助である。
安岡嘉助は東洋暗殺後に脱藩し、京都代官所を襲った「天誅組事件」の主要メンバーとなり、捕縛され京都奉行所で斬首されている。
その嘉助の実兄である覚之助は安岡本家に婿養子に入り、生まれた男の子が、後に安岡章太郎の祖母の最初の夫となっている。
覚之助は、勤王党のへ弾圧で一度は入牢するが、京都政界で「討幕派」が勢力を盛り返すと釈放され、戊辰戦争に出征した。
戦地では、「上士」の板垣退助に認められ監軍(参謀)に抜擢されるが、鶴ヶ城攻撃直前に流れ弾に当たって即死している。
安岡家で戊辰戦争当時、結核に冒され土佐に残って療養していた安岡権馬という人物いた。
この人が、安岡章太郎の祖母の父の実弟にあたる。
吉田東洋の遺児や植木枝盛らとともに板垣のもとで命懸けで自由民権運動を展開した。
明治まで生きるが、板垣退助ら土佐出身者主導の自由民権派と薩長閥の激突や西南戦争を背景に「政治犯」として長期拘留されている。
というわけで安岡家は、生き残ったのは年老いた者や寡婦、遺児ばかりという状態になるマデ、様々の転変をくりかえした。
こんな一族の「血の奔騰」が、作家・安岡章太郎に強いエートスを与えぬハズもない。

安岡章太郎氏の「やせがまん/へそまがり/なまけもの」の思想シリーズにしばしば登場する場所が、東京・市ヶ谷である。
市ヶ谷が登場する理由は、「落第生」安岡が何年間が通っていた城北予備校があるからである。
もうひとつの理由は、同じく「第三の新人」とよばれた作家・吉行淳之介との交友があり、吉行宅が市ヶ谷に存在したからである。
東京・市ヶ谷のお堀端の土手は春先は桜の名所で、学生が通学で歩くのには贅沢スギルといっていいほど眺めのイイ場所である。
個人的には、そのゼイタクを充分に味わうことができた。
大学時代にこの細い道を歩いていると「吉行あぐり美容室」という看板が立っている建物に遭遇した。
「吉行あぐり」とは、作家吉行淳之介のお母様ではないかと思いつつ、なおも「営業」が続けられていることに驚いた、というより唖然とした。
かつて吉行一家はコノアタリに住んでいたのかと感慨にふけった。
吉行一家とは、いわずとしれた作家・吉行淳之介、女優・吉行和子、詩人の吉行理恵のことである。
美容室は、後にJR市ヶ谷駅前のビルの中に移転され、今この建物は失われている。
さてこの吉行一家のファミリー・ヒストリーも、日本の歴史を背負っていることがわかる。
NHKドラマ「あぐり」のモデルともなった 吉行あぐりは、1907年に岡山の弁護士一家に生まれた。
第一岡山高等女学校在学中に15歳で作家吉行エイスケと結婚し、その後、「アメリカ帰り」の洋髪美容師・山野千枝子の内弟子を経て、1929年東京市ヶ谷に美容室を開店した。
1940年に、夫・エイスケと死別しその後、再婚している。
戦後は「山の手美容室」を「あぐり美容室」にした。
我が大学時代に、市ヶ谷の土手で遭遇した当時の「あぐり美容室」では馴染みの客に限定して店を開いていたようだ。
吉行あぐりさんは、最高齢の美容師免許所持者として百歳を超えて今ナオ健在であるのは、驚き以外のなにものでない。
息子の淳之介、理恵はすでに他界しておられるからだ。
吉行あぐりの歴史を振り返ると、当時の「スペイン風邪」の流行で、父と姉を失い、事業を興すも失敗し、一文無しになったことがあった。
15歳で作家の吉行エイスケという不良に嫁いだのも学校に行かせてくれるという話だったからだ。
しかし15歳の結婚は、あの頃でも世間の噂になったという。
また、あの当時女性が働くことはほとんどなく、吉行の義父に「女髪結いになるのか」とたいそう怒られて、こわくて義父の顔サエ見ることもできなかったほどだ。
それどころか、娘・和子がやってる女優は「河原乞食」、息子・淳之介の仕事なら「三文文士」にすぎないという風潮さえあった。
淳之介が作家になったのは、早くして亡くなった父の影響ではなかった。
淳之介は中学を出るまで少年雑誌しか読んだことがなかった。
ところが静岡高校で周りに「刺激」されて、作家を目指すようになったという。
吉行和子は3歳の時から喘息持ちで、学校にも殆ど行かず、この先どうなるのかと心配した。
ただものすごく手先が器用で、人形の着物を実にうまく作ったりしていた。
一番下の理恵は、マン丸太っていて一日外に出て遊んでバカリいた。
しかし今では、和子がドコにいるかわからないくらい外国にいて、理恵の方は一日中家に閉じ隠って物を書いているのだから、人間どうなるかわからない。
ともあれ吉行あぐりは、働く女性、手に職をつけた女性の草分け的存在である。
早くに夫を亡くし、一人で負債を背負い、たった1人で3人のこどもを育てた。
三人とも「あの」という言葉がつくくらい著名人となったが、「明治人」というホームページのインタビュアーによれば、吉行あぐりの言葉からはそうした苦労をカンジさせるところはないという。
むしろ「不便を懐かしむ」という口吻だったという。

アルジェリアの人質・襲撃事件で知られることになった「日揮」の社名は設立当時の社名である「日本揮発油株式会社」に由来する。
主な業務は、「製品を作る製造設備を造る事」である。
製造設備の内訳は、石油精製プラント、石油化学・化学プラント、LNGプラント、天然ガス処理プラント等を手がけている。
1928年「日本揮発油株式会社」の設立の際、会長が島徳蔵、社長・実吉雅郎、専務・関口寿、常務・角田駒治といった経営陣でスタートしている。
この会社のトップを飾る名前・「島徳蔵」という名前は、どうしてもこの会社の今日の業務内容とは似つかわしくない、と思った。
島徳蔵という人物は、大阪北浜の悪名高き「相場師」なのである。
ということは、「日揮」の社史にも、何某かの転変の歴史が秘められているにちがいないと推測した。
島徳蔵は、第一次世界大戦真っ最中に、増資新株の権利取りとサヤ取り、そしてインサイダ-を含めての荒稼ぎは凄まじかったといわれている。
情報をくれた政治家関係者と連日料亭では豪遊の宴に興じ札束をバラ撒いた。
そして、その政治力と金の力 で1916年に大阪株式取引所の6代目の理事長に就任している。
そして、資本金を6倍半にさせたり、上海取引所設立の利権を手に入れ、「株価操作」で巨万の富をカキき集めた。
その「株価操縦」の手口においては、仲間を騙したり、裏切ることもハバカラなかった。
この島徳蔵の創った「島商店」に入社した実吉雅朗が1928年に現在の「日揮」の前身「日本揮発油株式会社」を設立した。
実吉雅朗(さねよしまさあき)は島徳の長女を妻として、島商店を「製品を作る製造設備を造る」企業に変貌させたのである。
さらに実吉は「遺産」を寄附し1968年、日揮・実吉奨学会前身の「実吉奨学会」を設立した。
理工系の学科を専攻する大学生・大学院生に対する奨学金の貸与および給与、さらに若手研究者への研究費助成を行うことを目的として設立している。
ところで島徳蔵の次女の夫が郵政大臣・野田卯一であり、現在の野田聖子衆議院議員につながっている。
以上のように、「島商店」から「日揮」へという全く異なるの業種への転換も、ファミリーの歴史から見れば理解しやすい。
ところで、福岡のファミリーの歴史として紹介したい一族が、現在の職場近くにある。
それは福岡県糟屋郡須恵町からでた高場家・田原家といった「眼医者の家系」である。
さて、黒田藩と「目薬」との関わりは深い。
黒田藩では江戸時代には多くの名眼科医をだした。
福岡の眼医者に最初に関心をもったのは、「玄洋社創設」に関わりが深い高場乱の家が須惠町の眼医者の出身であることを知ってからである。
黒田藩と眼医者との関わりはソレばかりではない。
黒田藩はもともと、琵琶湖畔・賤ヶ岳近くの木の本町あたりに「源流」があったが、軍令にそむき近江を追われ(岡山)の備前長船に一旦落ち着く。
備前長船の地は刀鍛冶が多く目を病む者が多く「目薬」を作って売っていた。
6代目・黒田高政が流浪と貧困の果て没すると7代目重隆は広峰大明の神主の宣託により「目薬」の製造と販売をはじめ大きな富を築いた。
富を得た黒田氏は、ある種商人的発想で近燐の地侍や小豪族達を家臣に組み込んでいく。
そして備前福岡に移り一党を担って播磨に進出するのである。
油売りであった斎藤道三や、堺の薬を扱う商人の子として生まれた小西行長を思いうかべる。
黒田官兵衛(如水)の時代に、関が原の戦いでの功績により黒田家は九州北部の豊前にはいる。
豊前中津は後に藩医に前野良沢がでて幕末には洋学が発展した土地柄であった。
福沢諭吉の生誕地であることで知られる。
そして官兵衛の子・黒田長政の時代に中津から福岡にきた黒田藩は、高場順世をはじめとする眼科の名医に恵まれたのである。
天正期、日本で最初の医学校を開いたのはポルトガルの外科医ルイス・アルメイダである。
彼は晩年天草に住んだため、天草には古くからポルトガル系の治療法が伝わり、高場順世もその系列に属していた。
高場順世は、その後牢人の身としてさすらい、現在の福岡県粕屋郡須恵村に落ち着き眼科医を開業した。
高場順世の門下生・田原順貞、高場正節らが独立し、その医術を子孫に伝えていったのである。
というわけで須恵村は「眼療宿場」として栄え、目薬の里として世に知られるようになった。
眼医者では洗眼・点眼を繰り返し時には簡単な手術もおこなった。
効果を確かめるために、最低75日の滞在が要求されたために、「宿屋」が必要とされたのである。
村人が眼病人宿屋を兼ね、またある者は目薬の製造販売を行ったのである。
最盛期には、59軒の宿ができて人々は宿屋稼業・目薬販売・行商と忙しく働いた。
田原眼科の人気は高場眼科に優り、参勤交代の折に藩主に同行する機会が増えると、江戸で大名家に招かれて治療したためにその名声は全国に広がった。
今現在、須恵町に行ってみると、「田原眼科屋敷跡」の石碑が建っている。
石碑には田原眼科が江戸後期において大眼科であったこと、上須恵町が眼療宿場として繁栄したことが書かれてある。
また59軒の宿屋の一つである桝屋跡が今も残っている。
また一方で、高場正節は藩医・岡家の名取養子となり「高場眼科中興の祖」とよばれている。
この高場小節の系統は、日本の現代史に思わぬ「奇才」を生み出すことになる。
この頃、高場眼科は上須恵町から博多の町に進出し、櫛田神社から萬行寺に面する道に面してあった。
ところでJR博多駅近くの全日空ホテルのほぼ向かいあたりは人参畑があった。
福岡藩で厳重な監視の下、高麗人参を栽培していた場所であり人参畑とよんでいた。
現在は、「人参畑公園」という人々の憩いの場所となっている。
この場所には江戸末期に興志社、通称「人参畑塾」という私塾があった。
人参畑にこの私塾を興した女傑・高場乱(たかばおさむ) は高場正節の三男・正山の娘にあたる眼科医であった。
そして玄洋社につらなる人材を多くコノ私塾で育てた。
実は、玄洋社社主・頭山満が高場乱に出会ったのは「眼の治療」のためであったといわれている。
なお高場正山の妻の姉ミチは、後の勤皇の歌人・野村望東尼の母である。
高場家や田原家を中心とした福岡における眼医者の繁栄もまた、日本の歴史を「綾なす」ヒトコマである。