アメリカの孤独

アメリカの経営者には、ボランティア活動やチャリティを熱心にやる者が多い。
日本でもボランティアをやるが、企業ぐるみでやっているので、趣が違う。
アメリカは経営者が個人でボランティアをしている。
先日テレビでマイクロソフトのビル・ゲイツ夫妻がボランティアをしている姿を映していたが、まるで修道院かナニカの奉仕活動にもみえた。
思い過ごしかもしれないが、たとえどんなに優れた頭脳をもっていたとしても、ドコカで自分の努力や能力をハルカに超えた富を得ている気持ちがあるのかとも想像した。
アメリカン・ドリームというのがあるが、その頂に立って見ると案外と孤独で「寂寥感」漂うものなのかもしれない。
確かに経営とは孤独な決断を強いられる場面がおおく、一歩判断を誤れば、経営者の座から滑り落ちる。
ソノ分破格の高給も取れるが、落ちてしまった経営者に誰も花道など用意してくれない。
ついでにいうと、アメリカは、訴訟社会でもあるので「高み」にある分、様々な「落とし穴」も用意されている。
アメリカでは業績が悪ければ、投資家や株主から責任を追及される場面が非常に多い。
経営陣は、華やかなサクセス・ストーリーの反面、しばしば裁判による厳しい責任追及の標的となり、会社の「重役」はそれほど憧れの対象というわけではなくなっている。
訴訟は、「デイープ・ポケット」すなわち資力のあるものほどターゲットとなりやすい。
だから、アメリカにおける「成功」とは、「訴訟対応保険」と表裏一体化しているという。
こうした訴訟攻勢に対抗する手段として、「企業者向けの賠償責任保険」が発達してきた。
どんな立場の人も、いつ訴えられるか判らないので、その対抗手段として「保険」に加入することになり、その「保険料」たるや莫大である。
企業買収が絡んでくると、経営者の「判断責任」は飛躍的に大きくなる。
かつての世界のビジネスマンにとって憧れの的といえば、リー・アイアコッカを思い浮かべる。
アイアコッカは、GMの重役をやめてクライスラーを再生させたアメリカン・ドリームの体現者である。
後に大統領の候補までなったアイアコッカが、法曹協会の年次総会の席上、居並ぶ弁護士を前に「アメリカ国民の訴訟好きな性格が、産業界への危険負担への意欲を減少させ、国家の競争力に対して脅威になっている」と言明し、「今後100年でアメリカはつぶれる」とまでいった。
さらに「経営者の受難」を表す言葉として、「ゴールデン・パラシュート」という言葉がある。
日本語にすると「黄金の落下傘」だが、M&Aにおいて経営者は責任を追及される場面が多い。
そこで企業を売り渡す際に、経営者が多額の報酬を受け取って退任することをいう。
こうした方法を「ゴールデン・パラシュート」(黄金の落下傘)というそうだが、成功者が無条件に讃えられた「アメリカン・ドリーム」の時代は去り、成功者は様々な茨の枝に囲まれ、孤独の翳り見せている。

アメリカという国は、本質的に「一人ボッチ」の国である。
周知のとうり、アメリカという国は、ピューリタン(清教徒)がヨーロッパから移住して建国した国である。
新しい国であるアメリカには、伝統的な地縁や血縁などの「中間組織」が希薄であり、神と個人との「一対一」の関係を築くことを選択した熱心なキリスト教信仰者の国である。
この人々は、旧世界に別れを告げ、荒野を切り開いて前に進むだけの孤独に耐えられる人々であった。
さて、ピューリタンについて少し付言すると、ヨーロッパ16世紀の宗教改革で生まれた「カルヴァン主義者」のことである。
カルヴァンの教えでは、蓄財を「神の救い」の確信を得る手段として肯定したために、ヨーロッパで勃興する商工業者に広く受け入れられた。
カトリック勢力やイギリス国教会はこれを弾圧したために、熱心なピューリタン達は自由をもとめて新大陸にやってきたのである。
基本的には、カトリックは「蓄財」を積極的には肯定しない。そんな財産があるなら教会に寄付したり、貧しいものに施せということになる。
イエスの山上の垂訓の中の「貧しい者は幸いなり」という言葉に応じて「清貧」を重んじる傾向がある。
ところで、資本主義の発達は、ピューリタンを含むプロテスタンティズムの信仰と関わりが深いと指摘したのはマックス・ウェーバーである。
そしてアメリカに移住したピューリタン(カルヴァン派)ノ信仰の核心は「予定説」であることに特に注目したい。
つまり資本主義のスプリング・ボードは、実はカルヴァンが説いた「予定説」という信仰なのだ。
一般人は、救われるかどうかは信仰の深さとか立派な行動と思いがちであるが、カルヴァンによれば天国にいけるかどうかは、アラカジメ決定してるという。
カルヴァンによれば神というのはものすごく超越的なもので、神がどういうふうに考えて、世界をどう動かすかなどとても深遠で、人間がごときが想像してわかるものではない。
一生懸命「信仰」すれば救われるというのは人間の勝手な思いこみで、人間には、神が何を規準に救う人救わない人を分けるのかはわからない。
人間のおよびもつかない「選び」こそが神の偉大さを示しているというわけである。
確かに、聖書を読むカギリ「選び」の深遠さを肯定せざるをえない場面がたくさんでてくる。
ソノ一つは、新約聖書に登場する二人の「金持ちの」話を比較すればコトタリる。
一人の青年がイエスの元やってきて「自分はどうすれば永遠の命を得られるか」と聞いたシーンがある。
すべてのオキテを守り「アナタと同じように隣人を愛しなさい」と答えるが、青年はソレはすべてやっているという。
この人物は金持ちの息子で、非の打ちどころもない位掟をを守る行い上は申し分のない人間だったのだろう。
いわゆる「善玉」ながら、自分が救われるかどうか確信がない。だからこそイエスの処にきたのだ。
イエスは青年に「モシ完全になりたいのなら、持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」というと、青年はこの言葉を聞き悲しみながら立ち去った。
たくさんの財産を持っていたからである。
その時、イエスは「金持ち天国にはいるのは駱駝がハリの穴を通るより難しい」と語っている。
この話の中で、イエスは青年を少々突き放した感じがイナメない。
さてこの品行方正に思える青年に対して、ザアカイという「悪玉」とわれても仕方がない金持ちがいた。
取税人のかしら、つまりローマの手先となってユダヤ人から税金をしぼりとるため、金持ちだとしても薄汚い罪人と見られていた。
このザアカイはひと目イエスを見ようと、背が低いこともあって木の上に昇ってイエスが通りかかるの待っていた。
するとイエスが、多くの群衆の中で木の上のザアカイを名指しでよび、木からおりてきなさい、今日はザカイの家に泊まりに行くという。
イエスが自分の名前を知っているだけでも驚きなので、一切の都合も聞かずにザアカイの家に泊まるというのだ。
そしてイエスが何事かを語る前に、ザアカイはこれから自分が築いた「不正の富」はすべて貧民に分け与えると答える。
そして、イエスは「今日救いがこの家に来た」と語っている。
こういう「二人の金持ち」対するイエスの態度を見ると、救われる者が「予め定め」られているように思えるし、その「選び」の深遠さは人の考えの及ぶところではない。
さてカルヴァンの教えの特徴は、人は「誰が選らばれているか」わからない。信者は自分が選ばれている人間かどうか、何の証拠もない。
少しでも自分が選ばれた人間である手がかりが欲しい。
そこで「蓄積」したした富でその「証拠」を掴みなさいというわけである。
こんな「奇怪」な考え方が、ナゼ多くの商工業者に受け入れられたのだろうか。
しかしヨクヨク人間心理を考えてみると、カルヴァンに「誰が救われるかはわからない」と言われた時、ホトンドの人は自分が救われない人とは思わない。
人間というものは地震や津波が起こっても自分だけは救われると思う生き物なので、「他の全部が地獄に堕ちても私だけは神に選ばれている」と考える者なのである。
少くとも、カルヴァンの教義に少しでも反応するのは、そういう人々だったにちがいない。
「自分は神に選ばれているに違いない」から一生懸命に勤勉によって「蓄財」に励んで「救い」の確信を得よう。
「職業」は神から与えられた使命であり、各々のがそうした職業意識でがんばるならば、「選ばれて」いるかどうかは「別として」その人は成功する可能性は高い。
そして結果が「財産」のカタチで少しでも表れたら自分は運がいいし、ヤッパリ自分を選んでくれた神様に自然に感謝を捧げる気持ちになる。
カルヴァンの「予定説」は一見「奇妙」な教義だが、ハマッタ人にとっては「エリート意識」をクスグラレルのではないか、と思う。
ただし、カルヴァン派は成功してお金をどんどん貯めるが、それで贅沢をしようとは全然考えない。
「救い」の証拠たる財産を失いたくないので、生活はとても質素で倹約的である。
そこで「予定説」の逆マワリを考えてみた。
「蓄財」こそが「救済」の予定(保障)なのだとしたら、逆に「富の喪失」はただ単に財産を失うこと以上の意味があるのではなかろうか。
1930年代の初頭、アメリカで大恐慌がおきた時、ウオール街で多くの自殺者がでた。
キリスト教では自殺は「罪」であるのにもかかわらずである。
それは単に財産を失ったということではなく、自分には神の「選び」はなかったという絶望感ではなかったろうか。

さて最近、アメリカで「ウオール街を占拠せよ」というカタチで経済格差社会反対運動が起きている。
個人的には、もう少し別の形でこの運動を展開してはどうかと思う。
ウオール街のマネーゲームで勝利してお金持ちになったような人々は、きっと友達もおらず寂しい存在にちがいないから、「お友達になってあげよう」という運動である。
この運動を発想するにあたり、フランス革命時の「ベルサイユ行進」という出来事に示唆されるところ大であった。
ただし、あくまで「参考」ということでソノママ実行してはイケマセン。
フランス・ブルボン王朝のルイ16世と妻マリー・アントワネットの時代には、贅のカギリをつくした王室の姿があった。
「封建的特権の廃止宣言」「人権宣言」によって、一応は全国的な農民蜂起はおさまっていた。
ところが、国王ルイ16世は、これらの宣言を承認しなかった。
王が承認しなければ正式の法律として効力を持たない。
承認を渋る国王に対して市民たちのイラダチは高まっていく。
また、政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめていて、下層市民には食糧が手に入りにくくなっていた。
一家の台所をあずかるパリのおかみさんたちが、キリキリしているところへ流れてくるのが、ヴェルサイユの噂であった。
ヴェルサイユには食糧がたんまりあって、国王や王妃たちは庶民の暮らしなんか気にもせずに、今日もタラフク食べているという。
怒ったパリの女性がパリ市役所前の広場に集まった。
7千人にも達した彼女たちは、国王と議会に食糧を要求するために、「パンをよこせ!」と叫びながら、ヴェルサイユに向かって行進を始めた。
武器をたずさえて、なんと大砲まで引っ張っていく。
パリからヴェルサイユまでは25キロほどの距離があり、大砲をひきながら、約6時間歩き続けた。
ヴェルサイユに着いたのが夕方頃で、国王は例によって狩りに出かけていた。
そこで彼女たちはさらに4時間待った。
みんなが興奮しているところに、国王は帰ってきて、国王は彼女たちの代表と会見する。
武器を持って集団できているので、怒らせてはどうなるかわからない。
王は、彼女たちに丁重に接してパンの配給を約束し、王妃と一緒に宮殿のバルコニーから挨拶するなどのパフォーマンスで、その場を切り抜けようとして、結局、「人権宣言」などを承認させられた。
さらに、女性たちは国王一家に「一緒にパリに帰ろう」と言い出した。
ヴェルサイユのようなところに貴族たちに取り囲まれて暮らしているから、私たち庶民、第三身分の気持ちがわからないんだ。
平民の街パリに一緒にイラッシャイというわけである。
パリにも宮殿があるので、そこで暮らすことはできるけれど、平民に囲まれて「針のムシロ」にすわるようなものだったから、国王としては嫌だったに違いないが抵抗しきれず、翌日、国王一家は女性たちに連れられてパリにやって来た。
この一連の事件を「ヴェルサイユ行進」という。
これ以後、国王一家はパリのテュイルリー宮殿に住み、事実上パリ市民に「監視」されて暮らすようになるのである。
王は表面上は議会に協調し、このまま何事もなければ、ひょっとしたらフランス革命はここで終了したかも知れない。
ところが、ここでルイ16世は、1791年6月、国王は王妃マリー=アントワネットの実家オーストリアへ逃げようしたのである。
ヴェレンヌ町に入ってきたところで逃亡が発覚し、ハジメ王は自分の身分を隠していたがツイニ国王だと認め、翌日国王一家はパリに連れ戻された。
この事件を「ヴァレンヌ逃亡事件」というが、王に対する国民の信頼はこの事件でイッペンに吹き飛んでしまったのである。

カルヴァンのキリスト教の教義に「予定説」があるが、経済学の父アダムスミスにも「予定調和説」というのがある。
アダムスミスは、利潤を追求する利己心が神の「見えざる手」すなわち「市場原理」に導かれて「社会調和」を生むとした。
カルヴァンとアダムスミスに、何らかの思想的な繋がりはないかと調べてみると、大有りだった。
アダム・スミスはスコットランド生まれで、もともとグラスゴー大学の「道徳」の教授であり、スミスが生んだ「古典派経済学」は、「神学理論」の延長として発生したのであり、「神のもと」にいかに社会全体の幸福を築くことができるかという問題意識から出発したものである。
それは日本の「経済」という言葉が「経世済民」(世を経て民を済う)の学として発生したことを連想させる。
日本では個人の営利活動は、「民を救う」ことと結びつけて考えられていた。
それに対してカルヴァン主義の場合には、自分自身のための利益追求という面がかなりハッキリ表面に出ている。
カルヴァン流の「予定調和」にたったアダム・スミスの思想には、個人の自由な経済活動そのものが自動的に「社会全体のため」になるという発想があり、結果として個人は営利活動にさえ専念していればいいという考え方に落ち着いてしまう。
しかしそれが神の「見えざる手」に導かれるというのは、カルヴァンの教義「神の救い」の確証を求めるという信仰が、たとえ利己心のように表れたとしても、少なくとも経済動機の一部を形成しているからではなかろうか。
このような世界からもしも「神」なり「信仰」が消失すれば、個人の「利己心」は単なる「マネー動機」であり「貪り」といってよい世界に陥る。
この世界に「見えざる手」による導きなどアリウルのだろうか。
少なくとも、アダムスミスの時代におけるヨーロッパでの利潤追求とは、第一義的に「自分が神から救済されるため」であり、二義的には「社会全体のため」であった。
またアメリカに移住してきたピューリタン達の受け止め方はそうであったに違いない。
そういうレベルで、「自分のため」という目的と、「社会のため」という目的がかろうじて「共存」できたといえる。
ところが今のアメリカ社会では、神との関係が途切れた「個人」のみが残された結果、利潤追求第一主義に陥り、企業の永続性よりも、いかに短期的に利潤をあげるかが重視されるようになった。
企業が経営者のためにあるものだとすれば、企業が売買されソレ自体がなくなろうと、企業自体が高く売れれば、経営者の利益になる。
企業の売り買いは株でなされるから、企業を高く売ろうとすれば、いかに自社の株を高くするかに関心が集まるようになる。
アダムスミスのいう利己心にはマダ「救いの確信」を得たいという余韻が残っていた。
しかし、現在の「市場万能主義」は、たとえ成功し富をえたとシテモ「救いの確信」とはホド遠い不安を呼び起こすことになる。
地上の富は天上にもってはいけない。
経営者達は、「永遠の命を得るためにはどうすればよか」とイエスに問うたアノ金持ちの青年の気持ちに陥っているのではないか。
アメリカのボランティアやチャリテイ活動は、マネーゲームで富を築くことに対するピューリタンの末裔達の不安の「裏返し」でないのか。
彼らの心の奥のドコカで、「十戒」の第十の戒「汝 貪るなかれ」が響いているのかもしれない。