南北朝時代1338年に、後醍醐天皇が足利氏の勢力を抑えようとして、8歳の皇子・懐良親王を征西
将軍として九州に派遣した。
高良山の主峰、毘沙門岳(312m)に肥後の菊池武光は懐良将軍を奉じ城を築き征西府
とし南朝方の本拠としたのである。
1359年夏、高良山を本陣とする南朝方と、大宰府による北朝方の決戦が大保原・山隈原の草原でくりひろげられた。
懐良親王は、肥後の菊池武光や筑後の草野永幸など、四万の軍を引き連れて筑後川北岸に
陣をしいた。つまり現在の宮の陣である。
対する大宰府勢は少弐頼尚・直資父子と豊後の大友氏時など6万余人、宮の陣の北の味坂に陣を置いて
対峙した。
しばらくの間、両軍膠着状態が続くが、7月19日、武光は精兵5000を選りすぐって夜間行動を
おこした。しかし、少弐氏はすでに味坂の陣を引き払い、花立山(山隈城)に本陣を移していた。
そして少弐氏側は総崩れとなって大宰府に逃れた。
ところで花立山(131m)はちょうど旧筑前国と筑後国との境、筑後平野の中央に孤立した山塊である。
そしてこの花立山の頂上に、北朝方の総帥・少弐頼尚は山隈城を築城し、本陣をこの
城においたのであった。
なおこの両軍が激突した筑後川の戦いでは、大宰府方の少弐直資は討死し、懐良親王や菊池武光も負傷
し、総勢2万6000人が討ち死にした大惨事となった。
なおこの戦いの途中、菊池武光が血刀を山隈原を流れている小川で洗うと、刀は鋸のようになり、川の水は血に染まった。 この故事によって太刀洗の名が生まれた。
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