自己決定権

生命に関する「倫理基準」というものがある。
1970年代に確立したもので、「成人で判断能力のあるものは、身体と生命を含む"自己のもの"について、他人に危害を加えない限り、たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも、"自己決定"の権利をもち、自己決定に必要な情報の告知を受けることができる」というものだ。
この基準はあくまでも「生命」に関することなのだが、「自己決定/自己責任」という観点から広く社会的問題に当てはめることができそうだ。
まずは、①の「成人の判断能力」についてである。
昨今は覚醒剤使用や精神的障害者の「責任能力」を問う事件が頻発している。
また凶悪犯罪でも「責任能力なし」と野に放たれた人物が、再発事件を犯すことなどが起きている。
日本では「刑法39条」で、心神喪失者を「責任能力ナシ」として処罰せず、心神耗弱者を限定責任能力としてその刑を減軽することを定めている。
森田芳光監督で1999年制作で、タイトルはそのものズバリ「刑法39条」という映画があった。
国際世論へ訴えかける意図があったのか、この映画はベルリン国際映画祭に出品された。
主人公は劇団の役者という設定で、実の娘を殺されるが、犯人は「刑法39条」によって無罪となる。
このことに憤りを感じた主人公は、自ら「多重人格」を装って犯人を殺し復讐を果たそうとする。
そして、自分とは違う「別の人格」が犯行におよんだとして、自分が無罪であることを主張する。
そして一人の女医が主人公の精神鑑定にあたる。
ところがその精神鑑定中に、主人公の表情に突如として「凶暴」の風が現れ、女医に襲いかかる。
女医は恐怖でその場から逃げようとするが、絞め殺される最後の一瞬、主人公の「殺意」が消えたことを感じ取る。
主人公は正常な人間なのではないのか。女医は、主人公が役者としての能力を生かし「多重人格」を演じているのではないのかと疑うようになる。
そして主人公の周辺を調べるうちに、娘を殺された夫婦が「刑法39条」をタテに生きている犯人に対して、逆に「刑法39条」をタテに復讐しようとしていた真相が、次第に明らかになっていく。
現行「民法」は最近になってようやく改正されたが、現行「刑法」は1907年(明治40年)の公布以来、ほとんど改正されずに今日に至っている。
さて個人的には1980年「新宿駅西口バス放火事件」が記憶に残る。犯人は飲酒してコトにおよんだが、6人もの人々が亡くなったが、犯人に「動機」とよべるものはなく「心身耕弱」とされた。
しかも、過去に酒を飲んで住居に不法侵入して警察に逮捕され、その際に医療入院して「精神分裂病」の診断を受け「起訴」を免れたという経歴があった。
刑法39条によって「了解しがたい異常さ」は、かえって無罪または減刑の根拠となる。
つまり異常な行動を取った方が罪が軽くなるということだ。
覚醒剤は幻覚や妄想を引き起こす薬物だが、それらに支配された行為は、心神喪失ないし心神耕弱とみなされる。
社会的な意識でも、自ら覚せい剤を使用して、何人もの人びとを死傷させておきながら「責任能力なし」で無罪放免にするのは、被害者からすれば何とも忍びないだろう。
実際は、犯罪者の心理については「名医」といわれる精神鑑定者でもはわからないというのが「本音」で、そうだからこそ「心神耕弱」やら「心神喪失」というのが便利な言葉として存在しているのだという。
日本ではコノ「心神喪失」が簡単に乱発され、不起訴または無罪となる殺人者だけで毎年数十人に達し、その数が外国よりも突出して多く、もはや国際的スキャンダルだという専門家もいる。
ちなみにスウェーデンやデンマークでの法曹界では「心神耕弱」という概念を早くから削除していて、スウェーデンでは1965年の改正で「結果責任」という概念を明記したという。
日本ではナントイッテモ、「刑事治療処遇施設」が十分に確保されていない点が大きい。
また「成人の判断能力」については、社会の高齢化にともなう「認知症」の問題があり、正常な判断ができない老人に対して、「成年後見制度」における条件の緩和などの議論が起きている。

次に、②「身体と生命を含む”自己のもの”について」である。
芥川龍之介の「羅生門」でみるとおり平安時代には髪の毛を死体から奪って売ろうとした老婆がいた。
ひとりの人間にとって、髪の毛は再生可能だが臓器は一般に再生可能ではない。
2008年アカデミー賞の受賞作品「スラム・ドッグ・ミリオネア」は、「闇臓器」売買に関わる人身売買が描かれていて、かなり衝撃的であった。
臓器のひとつひとつが人間の生存に関わる不可欠なものであり、それを取りだして他者に移し替える行為の合法性は、人間の生命観や死生観とも関わり、本質的な問いを投げかけている。
人間は「心臓死」→「脳死」→「呼吸停止」という自然の流れにそって「呼吸停止」をもって死亡宣告される。
「呼吸停止」は誰しも納得できる確実な「死」であるが、交通事故などで脳を破損して病院に送られた人が、先端医学のおかげで「脳死」の段階で踏み留まったとする。
新しい臓器がありさえすれば命が助かる人も多くいる。
そこに臓器移植の技術が実際にある以上、自分の臓器を他人の臓器として使ってもらいたいと思う人、またはその人の関係者がいることはありうる。
例えば亡くなった子供の臓器が誰か他の子供の中で生きていると思うことが慰めであり救いと考える人もいるだろう。
「臓器移植」で一番の問題は、「植物状態」と「脳死」との混乱である。
「植物状態」の場合には、脳幹の外側の大脳が破壊された状態で、脳幹そのものは働いており、自分で呼吸もでき、食物も喉に入れてやると消化し排便もでき、汗もかけば、瞬きもする。
ただ意思や感情など自発的な反応ができないというにすぎない。
一般的に、人が再生可能なのは「植物状態」のことで「脳死状態」のことではない。
「脳死状態」では、人工呼吸器をはずせばスグに自然な死へと移行する状態をいう。人工呼吸器が、全身の組織が死ぬ前に「脳幹」に代わって呼吸を可能にさせているにすぎない。
結局、「脳死」という死が、「人体」のパーツの市場価値(または闇価格)という現象をも生み出したのである。
日本人は死体にメスを入れ傷つけることに対して抵抗観があるようである。
キリスト教では霊魂と肉体の分離、あるいは「復活」の信仰があるが、復活は「新しい体」を身に着けるから、死体にメスをいれることにはそれほど大きな抵抗感はないのかもしれない。
その意味では、江戸時代に「解体新書」(1774年)を書いた前野良沢や杉田玄白の勇気は大変なものだったと思う。
日本では、従来の臓器移植法で「脳死」による臓器提供が認められていなかったため、手術をうける為に海外渡航する人が増えた。
そのためには相当な金を必要とし、それだけの経済力がない人、募金に頼るほどの勇気がない人にとって、経済力による「命の格差」を生む。
また、安さを求めて「闇」に恃む傾向さえ生じる。
そこで、日本でもその可能性をめぐって議論されて、1998年に「臓器移植法」が成立した。
その最大のポイントは臓器提供に限って「脳死は人の死」としたことだが、もちろん臓器提を拒否することもできる。
そして「ドナーカード」によって「臓器提供」の意思を確かめる手立てとしたが思った以上に普及せず、2009年改正法では、本人の意思が「書面」という確かな形で残されていない人でも、家族の承諾で提供できるようにした点である。
また子供については、14才以下でも臓器提供は可能とした。
結局「脳死」は医師達が新たに見出した死、あるいは近代医療機械が生みだした新しい死のカタチというべきものである。
しかし今や「自分のものか」と、大きく問われているのは、臓器よりも「遺伝子」ではなかろうか。
今「検査ビジネス」というものが普及しつつあり、その中核となるのが「遺伝子検査」だ。
遺伝性乳がんの発症リスクの診断や、抗癌剤に効き目があるかなどを調べる「医学的検査」から、肥満タイプや長寿の可能性などを調べるビジネスまで幅広い。
ところで、アメリカ最大手の或る「精子バンク」は、事務所を超名門大学の傍に置いている。ドナーを探すのに、有名大学の学生が最も理想的だからという。
精子提供者によれば1回100ドルぐらいの謝礼しかうけず、金めあてというより、人助けや社会貢献の思いも強くあるという。
この「精子バンク」の利用者は、初期は子供に恵まれないカップルが多かったが、しだいに未婚女性とか同性愛者に変わっていったという。
そして彼女らがバンクに聞きたがる筆問の断然トップは、「ドナーは誰に似ている」かということである。
ちなみに数少ない日本人のドナーの中に「浅野忠信似」というものがあった。
そしてドナーの写真や「子供時代の写真」も見ることができる。
まるで、「オンラインショッピング」の感覚で身長・髪や目の色などの条件を出せるのもこの会社のウリである。
遡ること1980年に、天才のスーパー遺伝子を受け継ぐ子供を増やし、人類を悲劇から救うと銘打った「ノーベル賞受賞者精子バンク」と呼ばれた精子バンクが設立されている。
この「才能検査」は中国上海の企業が08年から提供し、2年後に日本でもはじまった。
申し込みは月に60~70件あり、調べた年齢は10歳未満がホトンドである。
学習や絵画など延べ41項目の潜在能力を判定し「国際学会や論文で発表され、研究者なら誰でも認める評価内容」と説明する。
だがこの検査で実際に調べているのは19個にとどまっており、内向性・楽観性・美的感覚など5項目は、ある1個の遺伝子だけで判定している。
ある遺伝医学の大学教授が、「子供の才能がわかる」という遺伝子検査をインターネットで注文した。
送られてきた綿棒で自分の口の粘膜の細胞をコスリとって返送すると結果が届く。費用は5万8千円ナリ。
教授は、1ヶ月後に送られた結果を見て苦笑した。「集中する時間が短く、外部からの影響を受けやすい。学習には不向き」と書いてあったからだ。
最近では、「デザイナーベイビー」という言葉も登場しているが、「命」を質で分けて選択している「優生学的」な不気味さを覚える。

次に、③「他人に危害を加えない限り、たとえ当人にとって理性的にみて不合理な結果になろうとも、自己決定の権利をもつ」とはどういうことか。
アメリカの国立公園「グランド・キャニオン」に行くと、警告を促す看板がある。「毎年、何人か落ちて死んでいます。あなたも気をつけてください。自己責任です」。
たいてい絶壁には、柵がある。崖が高いほど、安全のために柵を作るのが、一般的だが、グランド・キャニオンの絶壁には、柵がない。
崖から下を見下ろすと、何百メートルもあり、落ちれば、確実に死ぬ。
観光客は、その平然と書かれた警告文を見た後、皆急に口数が減り、真剣な顔つきで歩き始める。
ところで医療の話に戻れば、「その選択が周囲からみて不合理にみえること」については、宗教的理由に基づく輸血拒否が思い浮かぶ。
「輸血拒否」が他人に迷惑をかけないとしても、それが「自分の」子供に対する輸血拒否であるならば、そこまで「親権」は認められるだろうか。
また今日の高齢化社会において、周囲も自分も「長く行き過ぎた」という思いを抱く老人はたくさんいるのではなかろうか。
特に高齢者の医療費の増大は、そでに健康保険制度を破綻に追い込んでいる。
そんな中で、病に苦しんでいる老人の「安楽死」や「尊厳死」を認め、その条件の緩和を考えることは「自己決定権」の尊重という人権要件にもかなうのではなかろうか。
ちなみに「安楽死」は意図的に死期を早めることで、「尊厳死」は治療を控え自然な死を迎えられるようにすることである。

最後に、④「それに必要な情報を受ける権利をもつ」。
医学では「インフォームド・コンセント」という言葉があるが、「説明を受けた上での同意」を意味する。
医者が患者さんに対して治療説明(治療方法・意味・効果・危険性・その後の予想や治療にかかる費用など)を行い、その上で治療の同意を得ることをいう。
医療行為は、医者がほとんどの情報を握っているため、患者の意思は尊重されない。
そこで医師の都合のいいポイントが高い治療法が選択され、それが必要でもない治療や薬の提供を受けることにもなる。
そこで医師が患者に必要な情報を提供し、患者が自らの責任において治療法を自己決定するように方向にある。
さて様々な個人情報の中で、究極の個人情報というのが「遺伝子情報」である。
最近では、大根の「遺伝子情報」がすべて解読されたというニュースがあったが、人間の遺伝子情報も、10年後にはすべて解読されるといわれている。
人間にとって、その「情報」をどう受け止め活用するかが大きな問題となる。それは福音にもなるし、不幸の種になるかもしれない。
そのことのヒントとして、日本オリンピック委員会(JOC)による「エリート・アカデミー」に近い、福岡県をあげて2009年から実施している「タレント発掘事業」である。
最初に、およそ「20種類」の運動能力テストを行い、瞬発力や持久力、反射神経などを測定し、県全域から成績が上位だった子どもを選抜する。
そして、小学5年から中学3年までの間に、個人種目からチーム種目まで、最大で「28の競技」を体験させる。
こうした過程から、その選手が「世界を目指せる競技は何か」につき、「適性」を徹底的に見極める。
このプログラムに参加し、その才能を開花させたのが、太宰府市にある県立高校3年(当時)の女子生徒である。
10メートル離れた的を正確に狙い撃つ「ライフル射撃」の適性を見いだされた。
ワズカ数回の練習で「高得点」をマークし、福岡県ライフル射撃協会の理事が、「ぜひとも」とライフル射撃に誘ったほどだった。
そして女子生徒は、作年1月の国際大会で、抜群の集中力を見せて「銅メダル」を獲得し、その「才能」を実証してみせたのである。
この女子生徒は、意外なことに、小さいころから「集中力がない子」といわれたという。
一体誰が「射撃」に向いてるナンテ思いつくだろう。本人が一番驚いているのだから。
この女子生徒の場合は、中学のバスケットボール部に所属していたが、バスケットボールではオリンピックを目指せるほどのチカラはなかった。
「バスケしたいのに」とか、「走りたいのに」と思いつつも、本格的にライフル射撃に打ち込み、出場した大会でイイ結果を出すにつれて、気持ちも固まっていったという。
今や3年後のリオデジャネイロや、7年後の東京、オリンピックでのメダル獲得が期待されている。
しかし、その選択が本人にとって幸せだったかはわからない。
知らない方が良いことはたくさんある。