しなやかさと強さと

古代の哲学には、人間の体は宇宙の「縮図」という考え方があった。
つまり人体は「ミクロコスモス」ということなのだが、今の科学の目で見ても間違ってはいない。
我々の体の中には、地球上に存在する主な元素がほとんど含まれているばかりか、人体と海水の元素の組成や比率は、かなり似通っている。
これは、生命が海水中で生まれて「進化」したことを示す有力な証拠といってもよい。
さらに今、人間は宇宙探査機「はやぶさ」などで、宇宙の彼方からその起源を求めているが、それが明かしたところでは、宇宙は地球を構成する物質と、ほとんど変わらない元素で出来ているということだ。
宇宙は「ビッグバン」によって、どんどん膨張している存在であるらしく、逆さまに「宇宙→地球→人体」と遡っていくと、人体には宇宙の歴史が収められているといえる。
つまり、人体は小さな宇宙すなわち「ミクロコスモス」なのだ。
さて、新たな元素の発見は新しい物質科学の始まりを意味し、新物質はさまざまに利用され、人々の生活を豊かにしてきた。
そして最近、九州大学の研究室が「113番目」の元素を発見し、日本にその「命名権」を与えられた。これは日本初ばかりか「アジア初」の快挙であるという。
ただ、元素は単に発見する時代から、様々に操作されてようやく見つかるものらしく、今回発見された113番元素は10年近い年月をかけ、3原子を合成・発見したものだ。
また寿命も「約1000分の2秒」と短く、瞬く間にほかの元素へと壊変していくため、今のところ人々の生活に直接に関わることはないと考えられている。
とはいえ、元素は世界の構成要素であり、これを探求することは、人類に様々な知見を与えてくれることに違いはない。
この113元素の組み合わせで無限に近い物質が生み出されるが、古代ギリシアの自然哲学に、「4原質説」というのがあった。
そして「物質とは何か」という問いに対して、ギリシア時代には、二つの異なった答えがあった。
ひとつは、前述の「4原質説」で、アリストテレスによって集大成された。
もうひとつは「原子論」で、ギリシア時代には「異端的」な考え方とされたが、17世紀に復活して現代の物質観にも通じるもの。
物質の根源といえば、「万物の根源は水である」と論じたのはターレスがよく知られるが、それ以外にもアナクシメネスは「空気」、ヘラクレイトスは「火」をそれぞれ「始源物質」であるとした。
こうした論議を受けてエンペドクレスは「土、水、空気、火」の4つを始源物質であるとし、万物はこの四つの物質がさまざまな割合いで混合されて成っているというのである。
この「四つの物質ぐらいで」と馬鹿にしてはいけない。我々は、コンピュータ上で色を表現するのに、「赤・青・緑」というわずか三色の濃淡の組み合わせで無限の「色合い」が出来ることを知っている。
アリストテレスは、エンベドクレスの議論を発展させて、「質料」としての基体に、「温-冷」・「乾-湿」という相対立する「4つの性質」が付与されることによって「4つの原質」が現出するとした。
そして、アリストテレスの物質観は、われわれが日常的に観察することのできる物質の変化や運動を実に巧みに説明してくれる。
たとえば、土は手を離すと落下するし、水は低い方へと流れる。一方、焚き火の際に観察されるように、空気や火(炎)は勢いよく上昇する。
水を熱すれば空気(水蒸気)になるという身近な経験を見事に説明してくれる。
この理論によって、自然界に生じている多彩な物質変化が体系的に説明可能となったのである。
それどころか、物質が「相互転換可能」ということは、工夫次第では、人間にとって有用で貴重な物質、たとえば「金」や「不老不死」の薬も作り出すことができるということを意味している。
というわけで、古代エジプト以来の歴史をもつ「錬金術」(Alchemy)がアリストテレスの物質観にそのよりどころを見い出したのも、当然といえる。
一方、「温、冷、乾、湿」などといった人間の感覚知覚は相対的でアヤフヤなものと考え、そのようなものに基礎をおく物質観に満足できなかった自然哲学者達もいた。
その代表がデモクリトスで、彼は多様な物質の根底には、これ以上分割できない究極の粒子つまり「原子」(atom)があり、この原子の組み合わせの結果として、前述の四性質はもとより、「固い、柔らかい、黒い、白い、甘い、辛い」等の種々の性質をもった物質が存在していると考えたのである。
ただ、原子とは定義上「これ以上分割ができないもの」で、理性によってのみ想定することができるもので、感覚でとらえることはできないのが難点であった。
この「原子論」によれば、原子は空虚(真空)の中を飛び回っている。なぜなら、原子と原子の間には何もない空間がなければならないからである。
もし、原子と原子の間に物質が存在すれば、さらに分割可能となるから、「原子の定義」に反することになる。そのため、原子論は論理的に「真空」の存在を前提としている。
しかし、真空中を原子が飛び回っていて、森羅万象はその現れにすぎないとする考え方は、きわめて「唯物論的=無神論的」であり、そのためギリシアの自然哲学では「異端」的とみなされたのである。

最近、様々な「ハイテク素材」が登場するなか、「しなやかさと強さ」を兼ね備えた素材の研究開発には特別に興味深いものがある。
そのひとつが、日本が今や世界をリードする「炭素繊維」の開発である。
先日、日本の東レが開発した「炭素繊維」がボーイング737の航空機に使われているというニュースがでていた。
炭素繊維は、髪の毛よりも細くて鉄の10倍もの強度があり、それを特殊な合金で固めたものが、航空機の機体の素材になる。
というわけで、航空機はアルミ合金などの金属ではなく、今や「繊維」で出来ているといって過言ではない。
そして機体の重さが半分になれば、燃費がよくなり、航空運輸の世界に大きな変革をもたらした。
かつての航空機は大型で主要都市を結び、その主要都市のハブ空港から、小都市に中型飛行機を飛ばしていた。
しかし今や燃費がよくなった中型飛行機でヨーロッパやアメリカ東岸までも「直接」飛ぶことが出来るようになったのである。
「炭素繊維」の起源を求め遡ると、19紀末トーマス・エジソンとジョセフ・スワンが木綿や竹を焼いて作った「炭素繊維」を用いて電球を発明した。
実はこれが「炭素繊維」の実用化の始まりだが、タングステンのフィラメントの出現によって忘れ去られてしまった感がある。
1959年には、アメリカのユニオン・カーバイドの子会社がレーヨンから黒鉛を生む世界初の「炭素繊維」を発明し、炭素繊維がふたたび注目された。
そして、木綿、ビスコースレーヨンの織物を原料とする「炭素繊維」が、耐熱性が要求されるロケット噴射口の材料とし用いられた。
しかし今や、世界で圧倒的な「シェア」を占める「炭素繊維」は、1961年に通商産業省工業技術院大阪工業試験所(現産業技術総合研究所)の進藤昭男博士が発明した方式を、日本の企業が発展させたものである。
そして1970年代からは「しなやかで強い」炭素繊維は、釣り竿、ゴルフシャフト、ラケットなど、様々な生活用品に使われるようになった。
また、2000年代にはいって、航空宇宙分野での実証が進み、「炭素繊維」の信頼性が認められるようになってからは、自動車の車体への用途が注目されている。
軽くて強いうえ、鉄に比べるとコストも低いので、自動車の各パーツに炭素繊維を使うと「3割程度」重量が軽くなって燃費が良くなる分、二酸化炭素の「排出量」の削減効果も期待される。
さらに、次世代の電気自動車においても、電池の電極等に「炭素繊維」を用いて、リチウムの電池の軽量小型化によって、資源問題への「一助」ともなりうるのである。
さらにもうひとつ、「しなやかさと強さ」を兼ね備えた素材開発の中で、目を見張るような斬新な研究が行われている。
それは、カイコにクモの糸を吐かせることによって生まれる「スパイダー・シルク」の開発である。
芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」や映画「スパイダーマン」には、主人公がクモ糸にぶら下がる場面が登場する。
これはけして絵空事ではなく、クモの糸を束ねて作った直径3ミリのひもで、体重66キログラムのヒトをぶらさげることができるのだという。
もし、鉛筆の太さのクモ糸を用いて大きなクモの巣を大空に張れば、時速800キロ で飛んで来るジャンボ・ジェット機を止めることさえできるらしい。
また、強度の高い鉄鋼を使ってバイオリンは作れないが、クモの糸を弦にしたバイオリンが試しに作られたことがある。
そのバイオリンは、通常のガット弦の場合よりも、柔らかな音を奏でることができた。
つまり、クモの糸はしなやかさと強さをあわせ持った、現代のハイテク素材をしのぐ「究極の素材」なのである。
またクモ糸は、伸縮性、耐久性などで高い機能性をもつばかりか、環境にもやさしい素材である。
というのも、クモは劣化した糸を食べて、その糸タンパク質をアミノ酸に分解する。
消化吸収したアミノ酸を素材として、またお尻から新しい糸を生産する究極のリサイクルシステムを実行している。
そこでクモ糸は、「脱石油」という観点からも注目され始めているのであるが、残念ながら「大量生産」には向かない。
クモは「縄張り」を持つ肉食性の生き物であり、仲間のクモが縄張りに侵入すると「共食い」が始まってしまう。
「共食い」を防ぐため、クモの大量飼育には密集を避ける大きな空間が必要で、クモ糸の量産を困難にしている。
仮に大きな空間でクモを大量飼育したとしても、クモが作る糸はカイコのように1種類ではなく、強度や伸縮性の異なった種々の糸を作っており、目的にあった糸だけを回収することは困難である。
これらが、クモ糸の工業的大量生産にとっての「障害」となっている。
そこで、クモに頼らないクモ糸の開発、すなわちクモ糸遺伝子を微生物、動植物の細胞などに組み込んで、クモ糸タンパク質を生成して「紡糸」する方法が試みられている。
まず思いつくのは、クモと同様に糸作りをするカイコである。
カイコのシルク(絹)とスパイダーシルクの「混合物」として作らせると、両者の特徴を持ち合わせた「新しい素材」を生産することが出来るはずである。
カイコは糸タンパク質を大量生産する能力に優れて、カイコはクモとは異なり、「共食い」はしない。
そこで、クモ糸の遺伝子をカイコの染色体ゲノムの中に導入して、カイコがクモ糸を吐くように遺伝子操作すると人為的な紡糸操作が不要になり、その分生産コストも安くなる。
現段階では、カイコの生理学的負担を軽減するため、「絹糸腺」だけでクモ糸タンパク質を生産するように設計してある。
そして、こうして育成したカイコは、「カイコ絹成分」と「クモ糸成分」が混合したシルクを吐く。
そして、カイコ本来の絹遺伝子を抑えていけば、「スパイダーシルク100%」の糸をカイコに吐かせ得るかもしれない。
現在、信州大学の中垣教授らが、クモ糸の成分を約10%含有する絹糸「スパイダーシルク」の開発に成功し、靴下メーカーと共同で作った靴下の試作品を公開している。
靴下の試作に用いたシルクの強度や伸縮性は、まだデータにバラツキはあるものの、従来の絹糸より丈夫で柔らかいシルクなのだそうだ。
また、弾力性に富む牽引糸は、「銃弾」が当たった時の衝撃吸収効果が大きいため、「防弾チョッキ」用の素材としても有望視されている。

聖書には、神は「自身に似せて」人間を土のチリから作ったとある。
それは、人間の体を構成する物質が、他の動植物と何ら変わりのない組成であることを考えれば、「土のチリ」というのは納得できる。
ただし、神は土をこねて粘土細工のように人間を造型したという意味ではない。
人間も他の動物同様に、環境に適応できるように「進化」の過程を経て作られたということだ。
ただし、聖書の「創造説」と「進化論」と決定的に袂を分かつのは、神は人間に「命の息」(霊)を吹き込んだという点である(創世記2)。
このことこそ、神が「自身に似せた」人間を作ったということだ。
したがって、生物学的(物質的)にどうあろうと、人間を「サル世界」の頂点にある存在とみなすことはできない。人間は、あくまでも他の動物とは「一線」を画する存在なのである。
ところが旧約聖書によれば、人間は善悪の木を食べて、エデンの園を追放されて以来、人間は「死すべき」存在となった。そしてその霊はたかだか120年までしか留まらないという(創世記6章)。
また、「エデンの園」追放以来、地は呪われた(創世記3章17節)とあるので、土のチリたる人間は「滅び行く」肉体の中で死を迎えることになったということだ。
そうした人間の「絶対的滅び」に対して、使徒パウロは新約聖書において、それを超えゆく道を示した。
そして、その「生死」を突き抜けた信仰は、生き方にも「しなやかさと強さ」を生みだしたといえる。
「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている 」(ピリピ人4章)。
そして、パウロは自身を「土の器」と表わし、その土の器の中の「宝」こそは、我々を「滅びの縄目」から解放するといっている。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるためである」(第二コリント4章)。
「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、御霊(聖霊)の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである」(ローマ8章)。
パウロはここでいう「体があがなわれる」とは、「復活」を意味するもので、その保証となるのが「御霊」といっているのである。
そしてこの宝(聖霊)とは、イエスが「神の国は、あなたがたのただ中にある」(ルカ17章)といったことに対応している。
したがって、パウロは来るべき神の国を「先取り」しているともいえる。
人間という「土の器」は宇宙の「過去」を集積するが、その内なる「宝」は、宇宙の「Next(未来)」を約束している。