メダルの舞台裏

オリンピックでの感動は、選手から選手に渡される「繋ぎ」の強さにあるように思う。
それは、銀メダルの快挙に沸いた男子400メートルリレーで渡されたような目に見える「バトン」ではなく、心のタスキのようなもの。
そして「心のタスキ」は選手間ばかりではなく、舞台裏の職人たちから、オリンピックに出場出来なかった選手たちの間にも、共有されていた。
1964年10月1日、東京オリンピック。雲ひとつない晴天の日、聖火最終ランナー・坂井義則により点火された灯火は、大会最終日の10月24日まで燃え続けた。
坂井義則は広島出身の早稲田大学の陸上選手。その大役に選ばれた理由は、原爆投下の日を誕生日とした偶然で、オリンピックが平和の祭典であるというメッセージをこめたものだった。
ちなみに。坂井は大学卒業後、フジテレビに入社するが、アナウンサー・故逸見正孝と同期である。
実は、この「聖火台」が作られたのは、1962年に公開された吉永さゆり主演の映画の舞台となった「キューポラのある街」である。
埼玉県の川口市は、火鉢などの鋳物を製造する街として知られ、その巨大な煙突のような溶鉱炉をキューポラという。
そして、この「聖火台」の製造において、職人である親から子へ「心のたすき」が渡されていた。
当時、オリンピックをテレビで見るものにとって、その苦闘を知る由もなかった。
川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助のもとに聖火台の製作依頼がきたのは、アジア競技大会まであと半年という切羽詰まったタイミングだった。
アジア競技会とは、1958年5月に開催された第3回アジア競技大会のことである。
川口鋳物師の心意気を見せようと、萬之助は、期限が迫る中、採算を度外視して引き受けた。
聖火台の製作期間は3カ月。作業は昼夜を問わず行われ、2カ月後には鋳型を作り上げ、1958年2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」を迎えた。
「湯」とは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした約1400度の鋳鉄。液状になった鋳鉄を鋳型に流し込む作業が「湯入れ」だ。
強度を均一にするため、注ぐ「湯」の温度管理には繊細な注意が求められる。
しかし、この作業が始まってまもなく、鋳型が爆発、湯入れは失敗に終わる。精根尽き果てた萬之助、8日後、帰らぬ人となった。享年68であった。
その壮絶な死は、息子の文吾には知らされなかった。
完成までに残された期間はわずか1カ月。父の死を知れば重責を引き継いだ文吾にどんな影響があるかと心配した家族の決断だった。
やがて葬儀の日、文吾は初めてそのことを知る。
父を見送る文吾は「弔い合戦」と決意を固め、プレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業に没頭した。
やがて迎えた湯入れの日、そしてついに成功した。ゆるやかに冷やされ、はずされた型枠の中からは、父子の魂が創り上げた見事な聖火台が姿を現した。
この聖火台は、アジア競技大会で聖火が点火され、6年後の東京オリンピックの開会式で、全世界が注目する中、開会式で聖火を燃え上がらせた。
聖火台には「鈴萬」の文字が刻まれていた。

1976年モントリオール五輪で、男子体操団体総合は日本が金メダルに輝いた。
「裏舞台」で起きたことを知れば、これほど選手が「ひとつ」となった金メダルも珍しいかもしれない。
そこには、日本人選手の進出を留めようとするソ連および東欧のチカラが相当に働いていた。
なにしろ、開催直前にソ連のチトフという人物が「国際体操連盟会長」に就任し、審判団もソ連など「東欧勢」が多数を占めた。
種目別の各国出場枠が「2」になったのも、日本のメダル独占を防ぐためだったといわれている。
また大会直前、エース笠松が虫垂炎になり離脱し、補欠の五十嵐が代わって出場したことも不安材料だった。
ソ連との激烈な争いの中、ソ連の高得点に対して日本の得点は抑えられ、日本は「規定」でソ連に0・5点のリードを許していた。
そして「自由演技」3種目目、日本に追い討ちをかけるようなことがおこった。
藤本が「つり輪」の着地で負傷し係員に連れ去られた。
靱帯(じんたい)を痛める重症であったにもかかわらず、医務室では痛み止めを打つことを拒否された。
会場に戻りたいと頼んでも拒否され、部屋に1人残され、外からのカギで閉じ込められた。
それは、ソ連影響下の「体操連盟の係員」による実質的「監禁」だった。
ソ連側のネライは、試合会場に戻らぬ藤本のことで、日本選手の「動揺」の誘おうというものだった。
当時の団体総合は6人が演技して「上位5人」の得点を採用する方式であったため、6人目の「不在」は1人の「失敗も許されない」ということを意味した。
日本選手団は、姿が見えない藤本に不安を抱きつつ残り3種目を残していた。失敗は許されないというプレッシャーの中、選手たちは、ひとりひとりが自分の責任を果たすこと以外にはなかった。
特に加藤初男、塚原光男、監物永三の3人は68年メキシコ大会から3大会連続出場で、「体操ニッポン」の伝統を背っていただけに、プレッシャーはかなり強かったと思われる。
一番若い梶山は比較的冷静で、最後の鉄棒では一番手で登場し、皆に勢いをつける演技を披露した。
そのうち、カナダの観客は日本に味方し、日本に高得点を求め、ソ連にはブーイングが起きはじめた。
藤本の「不在」が、かえって日本勢に勢いを与えた感さえあった。
補欠から繰り上がった五十嵐久人は、鉄棒で世界で初めて「伸身後方2回宙返り」を決めたものの、採点に時間がかかり15分間も中断したのは、舞台裏の「熾烈さ」を物語っていた。
失敗やケガが許されない残りの二種目、跳馬と平行棒を日本が「完璧な演技」を続けるのに対し、有利に立っていたソ連側にミスが続出した。
日本得意の「鉄棒」の最終演技者は塚原光男だった。
藤本を除く5人の選手が見守る中「月面宙返り」(ムーンサルト)の着地が決まった。
塚原が9・90高得点を出した瞬間、日本の逆転金メダル、団体総合5連覇が決まった。
5人は抱き合って号泣した。すべてがソ連を勝たせるように動いていた体操競技の「裏舞台」だったが、日本は観客を味方につけつつ、選手一丸で勝ち取った金メダル。
世界初の「ムーンサルト」での着地の場面をモントリオール大会すべての競技でのベスト・シーンと評する人も多かった。

1964年東京オリンピックで、日本女子チームは「東洋の魔女」と呼ばれた。
しかしこのところバレーボールでは男女とも好結果をあまり見たことがなかった。
失礼ながら、前回のロンドン大会での日本女子チームの「銅メダル」は、意外なものだった。
しかし、その背後に監督とボール作りに励んだ職人たちの交流と、広島の「モノ作り」の歴史との関わりがあった。
バレーボールおよびバスケットボールの世界シェアNO1は、いずれも広島にある会社で、オリンピックの「公式ボール」が製作されている。
そのボール製作の源流を探ると、とても意外なことに砂鉄と木炭を使った日本古来の「たたら製鉄」にたどり着く。
たたら製鉄とバレーボールがどう関係するのかが、歴史の面白いところだ。
バレーボールは、ゴムのシートを成形機に入れて袋を作り、高圧の空気や硫黄で加工する。
糸で袋の周りを巻いて強度と反発力をつけ、最後に人工皮革や牛革などの天然皮革を貼っていくのが基本的な作り方である。
バレーボールシェア日本一の会社「ミカサ」の歴史をたどれば次のとおり。
1895年、地元出身の増田増太郎氏が英語を学ぼうとハワイに渡った。 勤務先のホテルで足音のしないゴム底靴に驚き、ゴム製造の技術を知る。
帰国後の1903年にゴム草履(ぞうり)の製造を始め、17年にミカサの前身となる増田ゴム工業所を設立した。
第1次世界大戦でドイツなどでの生産が停滞。広島はそれを埋める「特需」に沸いた。
戦後、原爆で焦土と化した広島で、増田ゴムと名前を変えた現在のミカサは進駐軍の指導で「運動用ゴムボール」の生産から再出発した。
では、戦後まもない日本でそれほど多くのゴムの供給がどうしてあったのだろう。
実はその秘密は、広島の安芸太田町の加計という地域にとれる「砂鉄」にある。
北広島町内では古代から江戸時代にかけての製鉄場跡が約200ヵ所見つかっており、盛んに製鉄が行われていたことがうかがえる。
加計は出雲と並ぶ中国地方の「たたら製鉄」の中心地だった。
江戸時代の広島藩主・浅野家はこの砂鉄を原料に下級武士の手内職として「針つくり」を広めた。
長崎や京都への出荷で栄え、広島針は全国に知られた。
時代は下り昭和の初め、広島県のメーカーは中国やタイに大量の針を輸出していた。
行きはたくさんの針を積む一方で、帰りの船は空っぽ。これではもったいないとアジア各地で採取できる安い「生ゴム」を持ち帰ったところ、広島のゴム産業が伸びたのである。
例えば、軍手の通気性の良さとゴム手袋の滑りにくさを兼ね備えた「ゴム張り手袋」は、40年以上のロングセラーとなっている。
さてオリンピックの公式ボールとして採用された「ミカサ」のバレーボールだが、協会より「長くラリー」が続くものという要請を受け、従来12枚で貼っていたゴムを、指のひっかりが少ない8枚とし、レシーブに有利なものとした。
女子バレーボール監督の眞鍋政義は、ミカサの工場を訪問して、職人たちの話を聞き、新しい「ボールの特性」を研究した。
そして、主流だったジャンピングサーブよりも、「無回転ボール」の方が、相手のレシーブミスを誘発しやすいことを見出した。
実際、ロンドンオリンピックで、試合の要所で「無回転サーブ」が相手を惑わせたシーンが多くあったのを思い出す。
ロンドンオリンピック、日本女子バレーの「銅メダル」の背後に、広島針とゴムの歴史があった。

1998年長野五輪スキージャンプ団体戦では、最強メンバーの布陣で臨み、団体初の「金メダル」を獲得した。
前回大会のリレハンメルの最終ジャンプでミスをして金メダルを逃した原田雅彦には格別な思いがあった。
ただ、原田選手が涙ながらに「おれじゃないんだよ、みんなでつかんだんだよ」と語った言葉の裏には我々の知らない意味があった。
ジャンプ団体1本目が終了する頃に天候が急速に悪化し吹雪になっり雪が積もり出した。助走路が滑らなくなり、期待されていた原田選手が失速した。
天候は回復せず、ジュリー(Jury)と呼ばれる「審判の最高責任者」の判断で、競技の続行か終了かが決まってしまう。
この時点での日本の成績は4位で、このまま競技が終了となればメダルに届かない。
第二回目が行われるか行われないか固唾を呑んで待ったが、それは、多くの日本人がメダルを諦めるほどの「猛吹雪」だったように思う。
1回目で1位であったオーストリアのジュリーは、競技を終えようと提言してきた。
それに加え他の3人のジュリーは上位につけているぶん、コノママ終わってしまった方が都合が良かったのである。
日本人ジュエリーは、選手達はこの試合のために頑張ってきたのでヤスヤスと試合を終えてはならないと提案し、テストジャンパーたちが飛んで安定的に且つ安全性が証明できれば「続行」にしようという結果となった。
そして、出場選手以外の選手による「テスト」と称するジャンプが、吹雪の中で次々と続いく姿がテレビで放映された。
観客からは、時々拍手がおこるもの、テレビの解説者から「テストジャンプ」へのコメントはほとんどなく、この「テストジャンプ」の意味を知らされることはなかった。
ところで、この時飛んだ25名のテストジャンパーの中に、西方仁也の名前があった。
西方仁也はあの原田雅彦選手と同期で、1994年リレハンメル五輪ジャンプ団体で銀を取った選手の中の一人である。
西方は、長野五輪の「選手枠」を狙っていたが、腰痛で日本代表から外れており、テストジャンパー”の一人として招集されていた。
世界でもトップクラスの実力派ジャンパーだっただけに、テストジャンパーとしての参加には、複雑な思いがあったことであろう。
テストジャンパーとは整備を終えたジャンプ台の「安全性」を実際にジャンプして確かめる役割をになっている。
要するに、出場選手達に怪我がないように事前に飛んで「証明」するのが役割であり、自らは怪我の危険を冒すことにもなる。
したがて彼らの仕事は、「悪条件」の下でこそ与えられる仕事であり、相当のテクニックと経験がないと出来ない。つまり、集められたのは実力派のジャンパーばかりである。
皆長野オリンピックを目指すも、叶わなかった選手達であるだけに、悔しい思いを抱えていたのである。
安い民宿を定宿とされ、朝6時に起きて8時にはジャンプ台にいてテストジャンプをする。
ところで試合中断の間、25人のテストジャンパーたちは、転倒をしたりバランスを崩して失速すれば試合の再開はナイこと知っていた。
この時、テストジャンパー達はソレマデの悔しい思いを捨てて、日本ジャンプチームの窮地を救わねばと「一丸」となって雪のジャンプ台から「次々」と飛んだ。
それは、雪で前が見えない状態であっただけに、恐怖との戦いでもあった。
次々と飛んだのは、雪が助走路に積もっていかないように、後の人が飛びやすくするためだった。
なかには、130メートルを超える見事なジャンプを見せるが、それでもジュリー達は納得せず、かつての銀メダリストで五輪選手と同等の実力と思われる西方仁也を指名し、西方がいいジャンプを飛んで安全を証明すれば「続行」の判断を下すとした。
その時、西方には何メートル以上という目安は知らされていなかったのだが、西方はこの時、何の記録にも残らないジャンプがいかに「重い」かということを初めて知る。
今度は自分がツナグ番だとの想いでジャンプに向かい、見事123mの結果を出した。
そして、この結果をみたジュリーは「試合続行」を決断したのである。
そして本番2回目が再開され、岡部選手137m、斎藤選手124mと大ジャンプが続いた。
次は原田選手がジャンプ台に向かう途中、テストジャンパーの控え室にいる西方と声をかけあった。
原田は骨が折れてもかまわないと、前傾を維持しつつ奇跡の137mジャンプをした。
そして、最後に船木が125mを飛んで金メダルが確定した。
ジャンプ台の前に、メダリストとともに、25人のテストジャンパーが一枚の写真に収まった。
オリンピック出場、不出場のわだかまりを捨てて、全員で獲得した金メダルであった。