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オートバイの英雄

おおよその人間は、自分が生きていくのに精一杯で、他人の生活を守るまでの余裕はない。
しかしそれどころか、自ら進んで外国の革命や解放に自らの命を差し出す人は歴史上少なくない。
「フランス人権宣言」を起草したラファイエットもそのひとりで、貴族でありながらも、若い頃はアメリカの独立戦争に「義勇兵」として参加している。
また、作家のヘミングウエイも、若い頃にはスペインの「反フランコ人民戦線」に参加して、その体験を元に名作「誰が為に鐘は鳴る」を残している。
他に思いつく歴史上の人物は多いが、ある「特異」な点に着目した時、三人の人物が思い浮かんだ。
「アラビアのロレンス」とよばれたイギリスのロレンス大佐、南米の革命家チェ・ゲバラ、そしてソ連のスパイとして日本で活動したドイツ人のゾルゲである。
その三人の「特異な」共通点というのは「オートバイ熱」のことで、それぞれを主人公とする映画で、彼らがオートバイで疾走する姿を見た時、オートバイもしくはスピードは彼らの生き方そのものを暗示しているように思えた。
さらに三人は、突出した行動力に加えて、人間的魅力を兼ね備えた独立不羈の人で、畳?の上では死ねなかった点でも共通している。

映画監督デビット・リーンは、「人間の営み」を雄大な自然の中で謳いあげた。
監督が描く人間のドラマ自体も壮大だが、それを凌駕するような大自然の猛威が、いずれも圧倒するような画面の中に描かれている。
「アラビアのロレンス」では波のようにうねる砂漠、「ライアンの娘」ではとてつもない海嵐、「ドクトルジバゴ」では果てしない豪雪といった、熱き人間ドラマをさえ呑みこんでしまいそうな自然の営み。
その意味で、映画の主人公は人間に立ちはだかる自然だったかもしれない。
さて、第一次世界大戦が始まる前アラブ地方はオスマン・トルコに支配されていた。
大戦が始まると、オスマントルコはドイツ側につき、英仏と戦う。この時イギリスは、トルコ支配下のアラブ人を味方につけるために、戦後、東アラブ地方にアラブの独立国家をつくるという約束を与えた。
フセイン・マクマホン協定である。
1916年これを信じたアラブ側によって独立が宣言され、トルコに対するアラブの反乱がおきる。
この時、アラブの反乱軍に加わり烏合の衆に近い諸部族を組織して率い、イギリスとの連絡にあたったのが、トーマス・ロレンス大佐である。
ロレンスはもともと考古学者として、アラブ人と早くから交流し、現地の情報に通じていたため、イギリス軍は彼の存在を見逃さず情報将校として用いたのだ。
さて、映画「アラビアのロレンス」ではピーター・オトゥールがロレンス大佐を演じたが、その実際の外貌は一人のカメラマンに焼け付くような印象を残している。
「アラブ人群集の中に一人、目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年の姿をみかけた。まるで中世十字軍戦争当時の戦士がそのまま抜け出してきたかと思えた」。
また、ロレンス大佐がアラブ人を操縦する「天才」につき、彼と行動をともにした将校が次のように語っている。
「彼らの感情を不気味なまでに感じ取る能力、あるいはまた彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力」。
さらに別の将校は、「ロレンスという男は、彼自身および彼の部下に対する静かな信頼、そしてけして命令するのではなく、ただかくかくして欲しいと依頼するだけで、見事に目的を達しうる人間であった」と語っている。
実は、映画「アラビアのロレンス」の中で一番印象に残ったのが次の会話だった。
「ロレンス大佐、あなたを砂漠にひきつけているのは何です?」という質問に対して、「清潔だからだ」と応えた場面である。
このセリフから、詳細は省くが、彼の出生にまつわる「影」のようなものを感じる。
またこの言葉から、砂漠の上空を飛ぶことを愛したフランス人を思い起こした。「夜間飛行」「星の王子様」で知られるサンデグジュペリである。
サンデグジュペリはフランス貴族階級に生まれるが、学校の勉強は大嫌い、特に算数が苦手だったため、海軍の学校を目指して3年も受験勉強するも、結果は不合格だった。
その後、モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、婚約者の家族が「飛行士」という仕事を低く見ていたため、他の仕事を探した。
そして、瓦製造会社やトラック製造販売会社で仕事をするが、仕事の単調さにウンザリして、夜は街にくりだし金を使い果たす毎日だった。
結局、婚約も破棄され、職も失った。そして何の目標もなく失意の中で考えることは、「大空」のことばかりであったという。
そして郵便航空会社の面接をうけ整備士の仕事から始め、それから輸送パイロットの資格をとり、ついには自分の「天職」を見つけた。
この仕事は、危険な夜間にも飛行するため、最大の効率をもって操縦する高度な技術が求められた。
そして1927年にモロッコにある飛行場の主任に任命された。
当時の長距離飛行では、たびたび燃料を補給しなければならず、飛行機が「不時着」すると現地のムーア人(北西アフリカのイスラム教教)が飛行機の乗組員を捕虜にして、スペイン政府に武器や金品を要求するなどの出来事が頻発していた。
ところが、サンは航路の中継点でム-ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりした。
そして星の降る村の風景、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民、壮大な自然などがサンの心の養分となり、文学的イマジネーションの「源泉」ともなっていったのである。その一方で、「虚飾」にみちた地上生活にますます嫌気がさしていった。
フランス帰国後、「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ-ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会うものの、彼の心を慰めたものは結局、大空と砂漠だけしかなかった。
サンは作家として知られた後も、砂漠にあって降る星を見上げて暮らした1年あまりの年月が、人生で一番幸せな日々だったと回想している。
サンデグジュペリは、1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したが、以後消息を絶っている。
さて、このサンデグジュペリと同じように、砂漠をこよなく愛し、自らのアイデンティティを砂漠に求めたのが、ロレンス大佐である。
ロレンスは異文化のアラブ人を統率するにあたって次のように語っている。
「外国人が他民族の国民運動を動かすということ、それはとにかく困難な仕事なのだ。ことにキリスト教徒の定住的人間が、回教徒の遊牧民を指導するなどといえば、それは二重にも三重にも困難が重なってくる」。
また、アラブの反乱を指揮する限り、少なくとも外国人だから彼らの命を守る義務を躊躇するといった批判だけは受けたくなかったと述懐している。
また彼らの心を掴むためには、兵卒とともに食い、彼らの服を着、彼らと同じ生活に堪え、しかも彼らの間に自ら頭角を抜きん出るのでなければ、何人といえどもとうてい彼らを率いることは不可能であろうとも語っている。
そして、ロレンスが組織し率いた「アラブの反乱」は、あくまで民族革命であるべきことが根本として、革命の結果がまたしても西欧白人の新しい植民地建設に終わってはならないという、あくまでもアラブ独立に寄り添うハズのものであった。
しかし、ロレンスはアラブ人から「砂漠の英雄」とまで讃えられる一方、自分が軍上層部に利用されている事実を知るようになる。
結局、イギリスや列強諸国との「二枚舌外交」に気がつき始めたのだが、アラブ人の部族同士の対立という現実からもロレンスの思いは裏切られていく。
その後、ロレンスはイギリス帰国し、平穏の日々が続くかた思えた47歳の時に、オートバイ事故でなくなっている。

今までオートバイに人生をかけた人に数人会ったことがあるが、作家の中にも、「オートバイ作家」といっていい人がいる。
作家の戸井十月(といじゅうがつ)は、若い頃より自らの生き方の理想を南米の革命家チェゲバラに見出し、自らオートバイでゲバラの旅跡を追跡し「チェゲバラの遙かな旅」という本を書いている。
チェ・ゲバラは、アルゼンチンの経済的に裕福な家庭で育った。ただ未熟児で喘息を患っていたため、両親は人一倍、ゲバラの健康には気をつかったが、ゲバラ自身はその病のおかげで強力な「克己心」を身につけている。
ブエノスアイレス大学で医学を学び、1951年~52年在学中に年上の友人とともにオートバイで南アメリカをまわる放浪旅行を経験している。
オンボロのオートバイでの旅立ちは、あまりにも恵まれた自分自身との決別でもあった。
ゲバラの旅は金もなく行く先々で仕事をしながらであったが、ゲバラの視線は常に下層で暮らす人々へと向かい、南米各地の貧困と鉱山での非人間的な扱いを見聞するうちに、次第に社会正義に目覚めていく。
ある鉱山労働者は、賃上げを求めたり労働条件をよくするように頼むと、鉱山主は機関銃をぶっ放したと語った。
その一方で、医学生二人の旅は、東海道五十三次のヤジさんキタさんほどではないにせよ、かなりの「珍道中」ではあったといえる。
二人は、旅の間にいくつかの職業と人格を演じ分ける術を身につけていた。ある時は、ぼろをまとった放浪者、ある時はハンセン病専門の医者、そして一夜漬けの民俗学者やトラック運転手、時にサッカーのコーチにもなりすました。
大学卒業後には、別の友人とオートバイで再び南米放浪の旅に出て、革命の進むボリビアを旅した後、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行しグアテマラに行き着いた。
グアテマラで医師を続ける最中、祖国ペルーを追われ亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い共鳴し、彼女と結婚する。
しかし、ゲバラがラテンアメリカで最も自由で民主的な国と評したグアテマラの革命政権だったが、アメリカCIAに後押しされた「反抗勢力」によって瓦解してしまう。
1955年7月失意と怒りを抱いて妻ガデアとともにメキシコに移ったが、この地で亡命中の反体制派キューバ人のリーダーであるフィデル・カストロと出会い、共産主義の思想に共感を覚える。
実は、カストロはキューバ、オリエンテ州の農場主の五番目の子として生まれており、ゲバラ同様にカストロもまた経済的に恵まれた家の出であった。
ゲバラと違っているのは、そしてハバナ大学時代から学生運動のリーダーとして活躍していた点である。
キューバの独裁政権打倒を目指すカストロに共感したゲバラは、一夜にして「反バティスタ」武装ゲリラ闘争に身を投じることを決意した。
しかしゲバラは1967年にボリビア国軍に捕まえられ、銃殺されている。

一般の人々が抱くのイメージと実際がまったく異なる人物が、リヒャルト・ゾルゲではなかろうか。
石井花子さんが書いた「人間ゾルゲ」などを読むと、スパイとして日本政府の中枢にまで入り込めたのは、むしろ人の警戒心を解くような「好男子」だからではないかという思いがする。
1930年代、日本政府の中枢にまで接近し、最高国家機密漏洩を行った人物リヒヤルト・ゾルゲとはいかなる人物だったのか。
ゾルゲは若き日に第一次世界大戦に参加し自ら負傷し戦争の悲惨と狂おしさを目の当たりにした。
国家と国家の利害が激しくぶつかり合い無辜の市民の血が流される。
平等で平和のない世界を夢見たゾルゲは、共産主義が説く世界革命の思想に共感し、モスクワに本部をおくコミンテルン(国際共産党)のメンバーとなった。
ゾルゲはドイツの新聞社「フランクフルタ-・ツァイトゥング」の特派員という肩書きの元当時列強の情報が飛び交っていた上海に渡った。そこですでに「大地の娘」で世に知られた女性アグネス・スメドレ-と出会い日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実(おざき ほつみ)と出会う。
尾崎もコミンテルンのメンバーでゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
ゾルゲが日本の最高国家機密にアクセスできたがこの尾崎と通じてなのであるが、この尾崎はなんと当時の近衛首相のブレーン集団であった「昭和研究会」のメンバーなのであった。
社会主義に傾倒する尾崎が近衛のブレ-ンであるのはなんとも意外だが、実は近衛首相は若き日、当時社会主義者で「貧乏物語」で世に知られた河上肇に学ぼうと東大ではなく京大で学んだという経歴がある。
ただ近衛家というのは、日本の最高の名族である藤原氏の子孫で、行き詰まりつつあった中国や米国との関係の打開のために、多くの国民の期待を集めての首相就任であった。
ところで、近衛首相のブレーンのひとりがである尾崎がゾルゲに流した情報の中に、独ソ戦の命運を握るようなものがあった。
中国との戦闘が長期化する中、日本は北に進出しようという意見と、南方に進撃しようという二つの考えがあった。
前者は、同盟国ドイツがソビエトと優位に戦えば、満州との国境は手薄となりソ連と有利に戦えるという考え方で、後者は、多くの資源がある南方に進出して足場を固めようというネライである。
政府の最終決定は南方進撃であるが、これをゾルゲはモスクワに打電した。
その結果ソビエトは、「日本の北進はない」として、すべての兵力を満州からヨーロッパへと振り向けることができたのである。
ところでゾルゲがモスクワにその情報を流したのはドイツ大使館からでであるが、ドイツ人ではあっても敵対するソ連のスパイでいち新聞記者にすぎないゾルゲに、どうしてそれが可能だったのだろうか。
ゾルゲは、日本にくる前に上海ですでにオットーと出会っており、オットーの紹介でドイツ大使の「私設情報担当」として出入りするようになっていたのだ。
そして、オットーがドイツ本国へ送るべき日本に関する報告や分析もゾルゲが書いたとされている。
また、夫オットー公認の下でオットー夫人とは常識を超えた仲にまでなっている。
しかし、まさか日本の同盟国ドイツ大使館から、敵対するモスクワに国家機密が送られていようとは誰も想像していなかった。
それにしても、ゾルゲの胆力はたいしたものだと思う。
さて、自分は別のHP原稿にゾルゲのことを「居候の天才」と書いたことがあるが、実は、ゾルゲとともに暮らした日本人女性がおり、その日本人妻こそ前述の「人間ゾルゲ」を書いた石井花子さんである。
石井さんは銀座のラインゴールドというカフェでゾルゲと知り合い、1941年に逮捕されるまで共に暮らしている。
実は日本の官憲は独自調査により機密情報がソ連に打電されていることを知っていた。
ただその「発信源」がなかなかわからなかった。
多くの外国人を調べるなかで、石井さんにゾルゲに変わったところがないか尋ねた。
「夫の正体」をまったく知らない石井さんは、夫が時々釣りに出かけることを告げた。
特高は行楽客を装い富士のふもとにある湖を張り込んだ。魚の跳ねる音しか聞こえない静寂おおう湖上に浮かぶのは一艇のボ-トだった。
ボート上には二つの黒い影があり、ひとつの影が湖に何かを投げたようだ。
二人が去った後、特高は湖上にちぎられたメモを見つけた。紙きれをつぎ合わせてみると、そこには暗号が書かれていた。ゾルゲがついにコミンテルンのスパイであることが発覚した瞬間だった。
1944年11月7日ロシア革命記念日の日に、ゾルゲは尾崎秀美とともに巣鴨刑務所でに処刑された。
最後にゾルゲは「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返した。
ソ連およびロシアにおいて、ゾルゲの功績は高く評価され、モスクワには「ゾルゲ像」も建ち英雄視されている。
一方日本で、ゾルゲの墓の存在は長く不明だったが、石井さんはそれ見つけ出し、2000年に亡くなるまで花を手向け続けたという。