無駄とバグ

哲学者の鷲田清一氏が、朝日新聞の「折々の言葉」で演出家の蜷川幸雄さんの言葉を紹介していた。
「光がいったときには、普通の人の屈折率よりも違う ふうに光が入って、演劇が立ち上がるんだ」。
世の習いにうまく合わせられない人、生き方がこじれている人のほうが、演出に対し複雑に反射するので、演技に独特の綾が生まれるからだという。
おのずから時代の陰を背負ったような演技になって、それだけ厚みを増すのかもしれない。
これは、「俳優」について語っているのだが、それは「人生」というドラマにおいても同じことが言えそうだ。
今、”SEKAI NO OWARI”のステージなどに登場する「パラパラ動画」が人々の感動を呼んでいる。
制作者は「鉄拳」という人物だが、プロレスのマスクをしているので、その実像はつかめない。
元々漫画家志望で、初期の作品があるコンクールで入選したものの、次が出ず漫画家の夢を断念した。
高校卒業後は二番目の夢であったプロレスの世界を目指して、FMW(超戦闘プロレス)に入団がかなうが、「レフェリー」としての採用だったことにガッカリ。まもなく退団する。
次いで俳優の世界に挑戦。1995年に劇団東俳に入団するものの、「滑舌」の悪さははなかな修正できず、こちらも退団する。
そこで、自分の挫折の繰り返しを「逆手」にとって、「滑舌の悪いレスラーの格好をしたゴツイ男が得意の絵を活かして芸をしたらどうだろう」と考え、「芸人」の世界に飛び込んだ。
独特の風体のお笑い芸人「鉄拳」として活動を始め、ある程度人気を得ることができた。
その後、個人事務所「鉄拳社」に籍を移すが、唯一のマネージャーの退社で、全ての仕事を一人ですることになってしまう。
そのうち、体を壊して8か月間休養することになった。
そこで、「マネージャー不在」を解消するために吉本興業へ移籍するが、周りのスゴサに圧倒され、芸人としての自信を失い、2011年夏に芸人を辞めることを決断する。
芸人引退を胸にしばらく仕事をこなしていたら、芸人がカラオケ・ビデオに「パラパラ漫画」を描くという企画があった。
他の芸人がドタキャンし、急遽絵の描ける芸人としてオファーが入り、これを受けた。
ところが、これがテレビのプロデューサーなどの目に留まり、「パラパラ漫画家」としてテレビ出演が増え、芸人廃業を撤回するに至ったという。
芸人の「鉄拳」が世に広く知られたきっかけは、イギリスのロックバンドMUSEの楽曲「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」をバックに、左右に揺れる振り子の中に夫婦の半生をマジックペンで描いた「振り子」であった。
それが、日本国内のみならず海外を含めて一躍注目を集めることになり、逆に「振り子」の映像が「エクソジェネシス(脱出創世記):交響曲第3部(あがない)」の公式プロモーションビデオに採用されるに至り、全米・ヨーロッパなど世界各地で配信された。
そして、鉄拳のペーソスあふれる「パラパラ動画」は、多くの人々の心をとらえた。その感動は、演出家・蜷川幸雄のいうところの「光の屈折率」の高さによるものかもしれない。
また「鉄拳」氏のような人生を見ると、ムダや回り道が「パラパラ動画」の感動をつくったといえる。
その限りでいえば、その人生に一点の「無駄」もなかったということだ。
そもそも「無駄」という言葉は、ある一定の価値観から言えるものであって、社会全般で「無駄」なんて言葉が出ること自体、世の中が一つの方向に流れている危険な「兆候」なのだ。

今、文系の学問は役に立たないから学部を「廃止しよう」ナンテいう議論がでている。
こういう話を聞くとすぐに思い出す言葉がある。「ベスト オブ ブライテスト」。訳すと賢者の中の最高の賢者、あるいはその下で働いた最もIQの高い人たちのこと。
この人々が明らかにしたことは、スマートな賢者の方が、よほど無駄なものを作り出すということだ。
2004年、国立大学は財政支出を削減する行政改革の一環として、「法人」という組織に変更された。また、国立大学の「再編統合」を行い、101校あった国立大学は86校まで減らした。
そのうえさらに経営効率を上げることが求められ、教員養成学部や人文社会科学系学部の「廃止」という議論が提起されたのである。
文系学部の教育や研究は、理系と比較して成果が出るまでに時間がかるうえ、経済界が必要とするものにストレートには結び付かない面がある。
そこで、経済界からの期待は、理工系分野に大きく、文部科学省が国立大学に提示した改革プランも、理工系人材の育成に焦点をあてたものとなっている。
さて「ベスト オブ ブライテスト」という言葉には、どこか皮肉交じりニュアンスがある。
なぜなら、アメリカ合衆国をベトナム戦争の泥沼に引きずりこんでいったホワイトハウスの「最良にして、最も聡明な」はずの人々を克明に描いたドキュメンタリーのタイトルだからだ。
こうした「ベスト オブ ブライテスト」の下で国の安全保障に関わった人々は、2000年代に入って、世界経済を危殆に頻せしめるほどの大きな過ちを犯すことになる。
2008年のリーマン・ショックである。
つまり、世界中をサブプライムローンの泥沼に引きずり込んだ「元軍事産業」に従事していた金融工学の創造者達のことである。
核兵器や宇宙開発競争が下火になった時代であったから、軍事産業の科学者達が次の活躍の場を求めてウォール街に流れ込んだためである。
自分は大学で経済学を学んだが、最初に徹底的に仕込まれたことは、「経済学」がものごとの「価値」を追求する学問ではなく、ある一定の価値を所与として、それをいかに合理的・効率的に実現するかという学問だということだった。
したがって、経済学があたかも自然科学を学ぶように、数学を多用することにあった。
ところが、その数学の利用方法が「確率論」を中心としたものに変化し、特に金融の世界で数学的モデルに基づいた計量分析が重要視されていく方向で様変わりしていった。
そして多くの金融機関は、最優秀な頭脳をもつ「クォンツ」たる素質を持った理系人材の登用に躍起になった。
彼らは、金融工学を創造し、証券化商品やCDSといった新たな金融商品を生み出し、世界のマネーをウォール街に呼び寄せていく。
その技術は結局、金融取引につきものの貸し倒れなどのリスクを自在に操る技術である。
「証券化」はリスクを一つに集め封じこめ沈殿させ、CDSはリスクをまったく関係の無い「第三者」に肩代わりさせゼロにするというものだった。
「リスク・ゼロ」への熱狂的な幻想が撒かれ、リスクがあるからこそ抑えられていた欲望が解き放たれ、いつのまにか金融工学は「モンスター」と化したのである。
そして、サブプライム・ローン大量に生み出され破綻したのも、その「想定」の根本的な欠陥があったからだが、それを見えなくしたのも、何らかの「想像力」「想定力」が欠如していたからにちがいない。
つまり、複雑な金融の世界を「理系的発想」によってしかみないところに欠陥があったのではなかろうか。
それは今、人工頭脳(AI)の発展が著しいため、それらの技術を応用できる理系的能力、あるいはビッグデータを解析できる理系的人材が要求されていることと重なるように思える。
それらのAIに何をさせるか、どんな問いを解かせるかといった設定は、人間社会の広い文脈の中で考えるべきことであり、人間の存在を掘り下げることが必要になってくる。
そして、AIを運用したり適用するうえのセンスや空想力が求められるともいえる。
そういうことを「無駄」と思うようになった時、かつて「金融技術」で起きたようなことが、日常の世界までも起きかねない。
例えば、AIによる自動運転は人間が運転するよりも安全といわれている。だから事故発生率の少ないAI自動車を導入するのが、一番よいというわけにもいかない。
車のシェアが始まっている現状の中、無人運転で人を移送することを考えると、それは車の所有という観念を薄めていくし、車社会の概念を根底から変えていくに違いない。
つまりAI自動車ひとつにせよ、広い「社会的文脈」の中から考えなければならないということであり、それは「文系的」な表現力や空想力、感性がますます必要な社会だということだ。
そういう点の欠如が悲劇を招いた一人の天才化学者を思い浮かべる。それは、ドイツのノーベル賞科学者フリッツ・ハーバーの生涯である。
時代はビスマルクの統治下、ユダヤ人の両親のもとに生まれたハーバーは化学の道を志し、「反ユダヤ主義」の障壁にも負けず、もちまえの勤勉さでカールスルーエ大学に職を得る。
まず、合成肥料の元となるアンモニアの合成法を開発し、ドイツの「食糧危機」を救った。
しかしアンモニアは「火薬」の原料でもあったため、ドイツは第一次世界大戦へと突入するやそれが爆薬として利用される。
しかし、ドイツが戦況不利になるにつれ、ハーパーは早く戦争を終わらせるために「毒ガス開発」に没頭していく。
ハーパーの妻クララも優秀な科学者であったが、夫のこうした研究に対して「自殺」というカタチで抗議を示した。
それでも、ハーパーは突き進んだ。ハーパーは、いわゆる「専門バカ」で、自分の科学研究がどういう道を開いていくか、想像力に欠けていたのだろうか、それともユダヤ人である自分がドイツ社会に受けいれられるために、何でもやろうとしたのだろうか。
個人的には、後者のように思える。それは、訪日時の講演で「美の繊細さが日本独自の独創的な文化だろう」と、日本のすばらしさを真っ先に理解した人物でもあったからだ。
ドイツは第二次世界大戦では日本と同盟を組むが、ハーバーは日本への技術供与に貢献し、1926年には日独の文化交流機関「ベルリン日本研究所」を開設、初代所長に就任した。そこで日本の星製薬の創業者・星一らとも技術的な関わりをもっている。
ハーパーは戦争をはやく終わらせられなかったことに絶望すると同時に、ユダヤ教を棄てたにもかかわらすアドルフ・ヒトラーはハーバーに危害を加えようとする。
共同研究者だったボッシュは「こんな迫害をしていると、優秀なユダヤ人科学者はドイツを出て行ってしまう」とヒットラーを諌めるが、ヒットラーの根強い人種的偏見またはその政治的効果への信念を打ち砕くことはできなかった。
そして、ボッシュの言葉通り、アインシュタインをはじめとする科学者たちが亡命する。
そして誰よりも祖国ドイツに身命を捧げたはずのハーバーは、逃亡先のスイスのバーゼルで客死する。
しかしハーバーの最大の誤算は、戦争を早く終わらせようと開発した「毒ガス」が多くのユダヤ人同胞を死に追いやったことだった。

1968年の映画「2001年宇宙の旅」の原作では、コンピューターが暴走する原因は一種のバグあった。
実際、世の中の多くの課題は、碁や将棋のようなゲームとは違っている。不確かで不完全な情報に溢れているからだ。
たとえば車の運転の際は、他の車も走行し、歩行者もいる。それぞれが意図を持ち、必ずしも合理的に動かない。もの影ら飛び突然出してくることもある。
山坂といった地形的な変則性もあるし、雨や雪という天候条件の変化もある。
囲碁などのゲームが「完全情報問題」とすると、これらは「不完全情報問題」といえ、これらの問題こそがAIにとって今後の挑戦相手となる。
例えば、医療・生命科学分野で生み出される研究情報の量は圧倒的で、信頼できないものも多い。
膨大な情報をAIがある程度理解して抽出し、「仮説」をつくって検証していけば、今まで見えなかったものが見えてくるのかもしれない。
つまりある疾患に対して、よりよい「治療法」が見つかる可能性は高くなるということだ。
ここで重要なのは、AIが勝手に知識を拡大していくというこで、AIのように知識を生み出す機械が登場しつつありその延長上では、機械が機械をつくるかもしれない。
また、人工知能が自ら考え始めている今、人の裏を読み始めたアルファ碁は、相手を油断させたり、命令に対して従順であるフリをすることだってありうるからだ。
最も恐ろしい「バグ」は、人工知能が何を考えているか、人間が把握できなくなる事態である。
ところで、人間は出た結果について原因を求める。
因果関係を辿ることが可能なストーリーがないと人間は生きていけない。
ところが、人工知能に理由づけはいらない。相関関係から確率論的に導いた結論に基づき、目的に向けて「最適の行動」を取るだけである。
ということは、集積したデータと解析によって、AIは答えを出し、行動に移す。そこには一切の無駄はない。
実は、このプロセスというのは、マンハッタンの「クォンツ」達が金融の世界でやったことを、もっと広い範囲でやっていることのようにも見える。
そこで起きる「バグ」は我々の想像のつかないものだが、その影響は人間生活の隅々におよぶに違いない。
だが、AIのすべて人間社会を危機に陥れる方向に向かうというわけではない。
囲碁の世界で、米グーグル傘下のAI装備の「アルファ碁」が世界のトップ・プロを4勝1敗で下した。
碁はゲームの中で最も難しく、人間が簡単に負けるはずがないという幻想は打ち砕かれた。
AIが、予想を上回る進化をとげたポイントは、「深層学習」という機械学習である。
人間の脳の神経回路をまねた仕組みである「ニューラルネットワーク」を多層的にしたもので非常に高い精度の「パターン認識」ができる。
これで盤面を理解し、打ち手のパターン分類を行う。
そのうえで、勝利する確率が高い「手筋」を候補として残す「強化学習」を使うことで、打ち手を決定するのだという。
解説者がすぐに理解できないAIの指し手の意味が、しばらく後になってから分かる、ということが繰り返し起きていた。
人間同士の対局では、盤面の「周辺部」が主戦場になる。周辺部のほうが打ち手が限られ、先読みしやすいためだそうだ。
ところがこのたび、AIが打った手の意味がすぐにはよく分からないのに、気がつくと、人間には先読みしにくい「盤面中央」で、AIが広大な領土を確保してしまっていたのだ。
最先端のAIシステムは、人間には「見えていないもの」を見ているということだ。
これは単に、現在の状況認識にとどまらず、何をすればどういうことが起きるのか、「未来を見通す」力にもなりうる。
ちょうどアルファ碁が「人間がみえていないもの」を見、それだけに未来予想の確度があがれば、人間の命を救う可能性もあるのだ。
それは、地震や津波などの災害ばかりではなく、犯罪が起きる可能性などの人為性が高いものに対する予想も含む。
こうなると、AIが我々を滅ぼすというより、それがないと人類が滅びるかもしれないということである。
冒頭の哲学者・鷲田清一氏は次のようにも書いている。
文は織物の「文(あや)」で、理は石の「肌理(きめ)」で、どっちも模様、ないしは筋のこと。
文と理は対立する学問ではなく、排除する関係でもない。
「ムダ」を排除する社会ほど、巨大な「バグ」を生むということだ。