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市場が埋まる

「金融緩和と為替安にたよって株価を上げる経済ではなく、内需によって生み出される経済が望ましい」という。この話、何か違和感を感じる。
人間は必要なモノを必要なダケ消費して生きていけばいいし、将来が不安ならそれに備えて貯蓄していくのが自然な道筋だ。
内需拡大は、雇用を生み出すためだが、確かにこの市場経済社会は皆ができるだけオカネを使わなければ維持できないシステムのようだ。
しかし オカネは使わず、モノは作らない方が、地球環境にも資源の維持にもよほどよい。
この世に生きる「希望」ならまだしも、マネー拡大による「物価上昇期待」ぐらいで経済を引き上げようナンテいう政策はモハヤ持続不能の状態にある。
ミハエル・エンデ作に「モモ」という哲学的童話を思い出した。この物語に「時間泥棒」とか「時間貯蓄銀行」なるものが登場する。
モモという女の子が住む町に灰色の男達がやってきて、人々に時間を「節約」しなさいという。
人々は時間を節約しようと、 人生を楽しむことを忘れて、せかせかと生活するようになるが、実はその節約した時間分盗まれているのだ。
「期待」を創出して金を使わせるというのは、わざわざ必要のないものを買わせるという意味でいえば、人々の貯蓄を「盗んでいる」ことにはならないか。
モモの町で、灰色の男たちの支配は進んでいき、大人は「時間貯蓄家」になり、子どもはみな「子どもの家」で監視されて夢見ることを忘れてゆく。つまり彼らは「希望泥棒」でもあるのだ。
さて今日「市場万能主義」といわれるが、その行き着く先に一体何があるのか。
最近その姿がいくらかオボロゲに見えるようになった気がする。
それは市場の一部が、社会に埋もれていく姿なのだが、市場が社会に埋もれるとうどういうことか。
経済人類学者のカ-ル・ポランニーは近代社会に特徴として「市場の勃興」というものをあげた。
経済というものは本来は社会に「埋めこまれて」いたのだが、土地や労働力が「経済的取引」の対象となるに及んで、社会から「離床」したのというのだ。
かつて人々は、お金だけで結びつく「抽象的な経済」ではなく、相互に知ったもの同士、仮に顔まで知らなくとも「通婚圏」でとか「葬儀圏」など「社会的」に色づけられた圏域があった。
その圏域を中心に経済的な取り引きが行われていたといってよい。
それは、人と人との永続的な関係を前提とした「贈与」や「交換」が行われていたのだ。
つまり経済行為が「社会的関係」を超えておこなわれるのではない。こういう状態コソが、経済活動が社会に「埋め込まれ」ていることを意味し、なにかしらの「市場機能」が存在したとしても、それはサブ的機能でしかない経済のことだ。
カール・ポランニーは、1980年代に市場を社会的関係に埋め込むことが必要だといったが、この「市場万能」の流れにあってそれは不可能にも思えた。
しかしそれは市場万能の行き過ぎの結果として、再び市場が「社会に埋めこまれる」ことが起きつつある。
しかも、ITを中心とした「情報技術」の高度化によって起きているということである。
ところで、今日に至る資本主義の発達は、「市場経済」と「政府経済」の成長ととらえることができる。
人は、市場によって収入を得、そこで人の価値さえ測られるため、市場経済に労力をつぎ込んできた。
一方「家庭経済」や「共同経済」に人々の価値が評価されるモノサシは存在せず、ここに時間やお金を使う場面というのは、少なかったといえるだろう。
ただ、資本主義自由経済は、「政府経済」の成長によって一部修正されたが、地域社会はその権限を国家に譲りわたしスギた傾向がある。
さらには、権限を国家から「ヨーロッパ議会」に譲り渡したところに、ヨーロッパに行き詰まり感がただよっている。
さて、政府は市場経済からの「あがり」を元手として、歳入・歳出というカタチで現れる「財政活動」を営んできた。
ところが今、市場経済からの上がりダケで政府経済を運営するのが難しくなり、あえてそれをしようとするならば「質の低下」は免れえない。
そこで、「市場経済」とも「政府経済」とも外れた地点に生活の基軸をおこうとしている人々が増えている。
その立地点コソが、「家庭経済」であり「共同体経済」なのである。
ただ、このような活動を通して得られた収入はしばしば「申告」されないため、政府の税収を欠乏させ政府経済を縮小させる。それが、いいことなのか、悪いことなのか誰にもわからない。
ただ、ミハエルエンデの「寓話」に即していうならば、「灰色の男達の支配が終わり、人々が劇場に戻りつつある」といえるだろう。

そもそも、なぜカネというものが生まれたのか。
モノを交換するとき、自分が欲しいものを相手が持っているとしても、相手が自分が持っているとは限らないからだ。
そこで一端オカネに換えておけば、オカネは交換手段としてあらゆるモノと換えられるから、一気に交換の範囲が広がることになるからだ。
しかし、インターネットの掲示板などは、自分の必要と相手の必要の一致を探し出すことを可能にした。
逼迫した経済下、ギリシャで「物々交換」が復活している。
つまり、移動や運搬のコストが見合う範囲での「物々交換」が可能になったのだ。
農業地域やエーゲ海の島々では、共存の手段として物々交換が残っているが、今や果物、野菜、穀物、農機具類、衣服から労働サービスまで、交換経済が日増しに盛んになっている。
実際にギリシアでは、「物々交換」が行わている範囲での「地域通貨」というものも生まれている。
例えば、肉屋の店主はスリ減ったトラックのタイヤの交換を延ばしに延ばしてきたが、タイヤを替えたら340ユーロ(約4万6千円)はするところを「肉」と交換で支払ったという。
この肉屋は「トレードナウ(Tradenow)」というアテネ発のオンライン交換クラブを通じてタイヤの売り手や本業での新客を見つけた。
しかも、トレードナウは独自の通貨「トレードポイント(tradepoint)」を発行している。
このシステムでは、1トレードポイント=1ユーロと見なす。これを元にして利用者は直接物々交換するか、物やサービスを得るために必要なトレードポイントをためるかする。
結局、トレードナウのシステムは、実際に物やサービスをオンラインにのせ、需要と供給を引き合わせる。いわば、何千年も前の伝統を「デジタル」でよみがえらせた、というものだ。
こうした交換システムは事態の後退を招くだけと見る向きもある。しかし、カネというものが存在しなかった昔から、経済は物々交換を通して行われていた。
今の時代のカネは信用できない。一部の者たちに偏在していて、他の多くの人びとには不足している。
また、ケタ違いの失業率に直面するスペインで、数百万におよぶスペインの無職の若者達は、まだ「銀行」と名がつくものが、自分の背中を支えてくれているという思いを慰めにしているという。
銀行といっても貸金業の金融機関ではなく、「時間銀行」といったもので、参加者が自分たちの労力を「時間」で交換するシステムのことだ。
例えばAさんは車持っておらず、タクシーには高くて乗れないのでほかの時間銀行のメンバーに移動手段を頼っている。
家の修理も同じだ。その代わりAはメンバーの高齢の親族の世話をしたり、子どものパーティーを準備したり、引っ越しの手伝いで荷物を運んだりすることもある。
「時間銀行」の存在は、現金の節約になるだけでなく、大変な時期でも前向きに取り組むコミュニティーの一員だと感じさせ、気持ちを盛りたててくれる。
「時間銀行」に加え、自助活動のなかには都市部に増えてきた物々交換市場や、小売業界にてこ入れするための「地域通貨」、不用品を再利用するための「チャリティーネットワーク」といったものが含まれる。
環境保護グループは最近、空き地のオーナーと、野菜を栽培したい人たちを結びつけ、収穫を分け合うというシステムを導入した。
中間業者のいない運動」も起こり、中間業者の利益分を減らして生産者と消費者が直接売買した。
ただ、医師の診療時間の1単位はベビーシッターの1単位とは時間が同じでも価値が違う。
時間の等価交換をどうするかで、「取引の責任」をどう確立するかなどが課題である。
さて、日本にも伝統的な「相互扶助「の仕組みがあり、それはちょうどスペインの「時間銀行」を思わせるものである。
江戸時代まで、農村共同体では「ユイ」という労働交換、「モヤイ」という共同作業、そして「講」(金融講)という相互銀行に発展する機能などが存在していた。
家を建てるために隣の人の労働力を借りた人が、次の年に家を建てた人に労働力を貸すといったものが「ユイ」であり、「モヤイ」というのは、川の堤防つくりや木の伐採など村人達が、協力して行う作業である。
最近、子どもがひとりでも入れる「こども食堂」が増えているという。
こどもがおなかをすかせたり、家でひとりでご飯を食べたりしている子を支えようと、地域の人々がご飯を提供している。
支援団体のほか、主婦や自営業者が仲間と一緒に、公民館や寺などで開いている食堂も多い。
平成の「相互扶助社会」は「地縁」ではなく「知縁」によって結ばれる。
その縁は、恒常的であるよりも暫定的なもので、特定の目的のために見知らぬものたちが「この指とまれ」の掛け声で集まるという特徴をもつ。
昔の共同体は空間的にも時間的にも恒常的に生活のすべてが一つに繋がっていたが、今日の共同体は問題や関心によっていくつもの重層するネットワ-クの環の一つとして成立し、課題が解消すればそこからいつでも離脱できるという側面をもっている。

30年ほど前、アルビン・トフラーの「第三の波」という本が大ブームとなった。
トフラーは、第一の波である農業社会、第二の波である工業社会で、その当時が第三の波にあたるの情報化社会の「入り口」にあることを提言していた。
そして、第三の波の特徴は、産業社会(第二の波)で分離した生産と消費が、「再び」統合する社会のことである。
トフラーは、それをプロダクションとコンシューマーを合成した「プロシューマー」という言葉でアラワし、家庭が「外在化」してきた機能を取り戻して「家族ベース」の社会がやってくると予言したのである。
確かに、家庭が居ながらにして「職場」になる動きはスデニ起きていた。
しかしトフラーの予測で一番「マサカ」と思えたことの一つは、家庭が「生産機能」をもつことであった。
当時でも、「DIY」の普及とか、家庭菜園の可能性とか、或る程度の「在宅医療」の可能性ぐらいは、頭に描くことはできた。
しかしこの程度では「プロシューマー」とはいえるほどのものではない。
家庭で、消費者が必要なものを自分でつくる「自給自足」に近似していく社会コソが「プロシューマーの時代」といえる。
しかし、大規模生産における「規模の経済」のメリットを捨ててまで、「プロシューマー」が広がっていく可能性があるのか。
ヨホド新たな「生産方式」でも生まれない限りは、「プロシューマーの時代」の「実現性」はカナリ薄いと思っていた。
しかし今や、3Dプリンタがそれを可能にしてくれている。
3Dプリンターは、色々なカタチをした道具をまったく同じ形で立体コピーして作り出す技術である。
素材面で元のものと違うことが難点ではある。
そして実際に家庭向けの3Dプリンターが相次いで発売されている。
これまで、立体物をつくるには、設計図にあたる3Dデータが必要だが個人には入手が難しかった。
ところがアメリカの3Dプリンターの最大手の会社が、3Dデータをダウンロードできる店舗を開いた。
フィギュアや花瓶、コップなどが自宅で簡単につくれる。
ユニークなところでは、チョコレートや砂糖を原料に、菓子やケーキをつくるプリンターを発表した。
つまり「印刷」の対象となるものが、樹脂にかぎらず、食材にまで広がってきたことを意味している。
3Dプリンター」は、「パーソナル・ファブリケーター」というべきものである。
「ファブラボ」とよばれるものがすで存在している。
最新の工作機械を設置した 「市民工房」や、その世界的ネットワークを指すもので、日本にも鎌倉・渋谷・つくばに「拠点」がある。
ここでは所定の手続きさえ踏めば、誰でも3Dプリンタやマシニングセンタ・カッティングマシーンなどの高価な工作機械を無料で使用することができ、自分の思い描くアイデアを形にすることが可能となっている。
3Dプリンタさえあれば、自分でデザインした物を自分の手で形にすることが可能になる。
これにより、トフラーいうところの「プロシューマー」という個人が、「パーソナル・ファブリケーター」という手段で、自らの好みに応じて作品や製品を作れるようになってきたというわけである。
今のところ、家庭用のファビリケーター(3Dプリンタ)を使って、低コストで「フィギュア」を個人的に作ったりしている人がいる。
一方、トフラーの予言の中で、一番外れていると思えるのが、「家族ベース」の定住社会というものである。
トフラーは情報化がすすめば、人は会社にゆかずとも家庭の中でコンピュータを使って仕事ができるので「在宅勤務」が増えると予言した。
確かに、最先端の情報機器を備えつけた自宅で、店に行かずとも銀行に行かずとも、オンラインで繋がるので外出の必要がないし、「家庭」で過ごす時間は増える可能性がでてきた。
人々は、会社通いで満員列車の揺られることもなく「エレクトリック・コテッジ」(電子小屋)と化した家庭で「快適」な生活を営むことができる。
トフラーの予測を超えたものとして「スマートシティ」の構想があげられる。
スマートシティは、ITや環境技術などの先端技術を駆使して街全体の電力の有効利用を図ることで、省資源化を徹底した「環境配慮型都市」である。
トフラーの予測の根底には「進歩主義」という世界観があったように思える。
世界は科学技術の進歩によってドンドン良い方向に向かってるという世界観だ。
しかし2010年代、格差の大きく非正規雇用を多く抱え込む世代は、安定した家族ソノモノのを築くことを困難にしている。
そして多くの人々が「ノマド的生活」に頼らざるをえない。
「ノマド」とは草を求めて移動する放牧者の意味で、非正規の仕事を求めて各地を移動するのを常態とするライフスタイルをとる。
ある部分、「携帯電話」はノマド的生活の必需品ともなっている。
実は、トフラーが「第三の波」を書いた時点で知らなかった技術がこの「携帯電話」の普及である。
「携帯電話」や「スマート・フォン」などの情報機器の発達は、人が家にジットしている方向に社会を向かわせたのではなく、ますます「移動する」可能性を高めていったようにも思える。
最後に、スマートフォンの普及は、ガムの需要を激減させたことを付言しておこう。
「絶滅黒髪少女」ならぬ、「絶滅ガムかみ少女」。