大移動の真相

シルクロードを伝わって東へ移動した人は文字どおり「絹の交易」があった。アメリカに入植した人々が西へ西へと移動したのは、太平洋岸の黄金とか鯨を求めたからだといわれている。
日本には、ペルシアなど中近東からやってきた人々の痕跡があるのだが、何のために日本にきたのだろう。
たとえば、有明海に注ぐ筑後川にある福岡県久留米市吉井町の珍塚古墳の壁画に描かれた、"太陽"と"鳥"のいる「舟遊び」の絵があるが、エジプトのピラミッドで見つかった絵とほぼ同じ図柄である。
彼らの中には、太陽崇拝をするものがいて、「陽出ずる国」「日の本(もと)」に、一体「何が」あるのかを知りたくて、原始の船で東をめざした。
そして彼らは、それ以上に進みようがないところまで来たら、そこが日本であったということだ。
そして彼らの子孫が、太陽の神「アマテラス」を祀り、「鳥が居る門」つまり鳥居を「太陽礼拝」の入り口とした、などという飛んだ解釈も楽しい。
彼らは、絹や金や鯨を目指したのではなく、ただひたすらに太陽に向かって走ってきたのだ。青春ドラマさながらの「純粋さ」をもって。
イギリスの清教徒「ピューリタン」は、「純粋/清い(ピュア)」が語源となっている。
ならば、太陽崇拝の彼らこそ「ピューリタン」の名にふさわしい。
ちなみに、彼らがその創始に一部関わったに違いない「かんながらのみち」は、心の「純粋さ/明朗さ」に重きをおいている。

今、多くの難民がシリアからギリシア経由で、ヨーロッパに渡っている。
その移動の規模と時間の長さからみて、いくつかの世界史の中の「民族大移動」を思いおこす。
いくつか例をあげると、ゲルマン人の大移動、中国の共産党の長征、アメリカの西海岸への移動など。
J・フォード監督によって1940年に製作された映画「怒りの葡萄」は、その前年1939年に発表されたJ・スタインベックの小説「怒りの葡萄」を比較的忠実に映画化したものである。
アメリカ中部に砂嵐地帯と呼ぶ乾燥地があり、この乾燥と貧困が多くの農民の生活を不能にした。
「怒りの葡萄」は、自然の猛威と経済変動に土地を追われ、安住の地と新しい家を求めて長い旅に出る農民一家の物語である。
若き日のH・フォンダ演ずる主人公トム・ジョードが刑務所を仮出所し、実家に帰るところから映画は始まる。
折からの砂嵐の中、トムたちは家にたどり着くが、家には誰もいない。トムの留守中、一体何があったのか。途方に暮れるトムたちの前に近在の農民ミュリーが現れ、事情を説明する。
彼によると、この地の小作農たちは、干ばつとそれに引き続く大砂塵、そして1台で小作農15戸分もの働きをするキャタピラーを備えたトラクターなどの大型農業機械のために農地を追われ、新しい仕事と土地を求めて次々にカリフォルニアへ向けて移動しつつあるという。
結局、ジョード一家も土地を追われることになり、新天地カリフォルニアを目指す旅に備え、家財道具一式を売り払う。
それで200ドルを得た一家は、おんぼろトラックを購入し、それに必要最小限のもの一切合切を詰め込んでカリフォルニアに向けて出発する。
家族は12人、新天地を目指しての長い旅路は、旧約聖書「出エジプト記」の物語、すなわち指導者モーゼに率いられて、「乳と蜜の流れる約束の地」を目指すイスラエルの民の長い旅路を髣髴とさせる。
では、彼らを追い出したのは何なのか。
直接、家を押しつぶしたのはブルトーザーとその運転手だが、もちろん、運転手の背後には彼を雇っている「会社」があり、さらにその背後には会社に金を貸している金融資本、すなわち「銀行」がある。
こうした容赦の無い資本主義経済というシステムに対する憤りは、「怒りの葡萄」というタイトルに込められている。
人びとの魂の中には、「怒りの葡萄」が、しだいに満ちてく実っていく。収穫のときをめざして、しだいにおびただしく実っていく。
スタインベックは「原作」で、カリフォルニアに大量の果実や穀物が実っているのに、一方には飢えた人々が多くいるのに、それらの果実や穀物が収穫されず、むざむざと腐れ果てていく様子を描いている。
なぜ、こういうことが起こるのか。
大農園・大資本による果実の価格操作と農業労働者に対する賃金操作の結果なのである。
かくて、富めるものは一層豊かになって土地と資本を増やしていくが、貧しいものは一層貧しくなり、わずかに持っていた農地までも失ってしまう。
現代の格差社会に通じる物語だが、現代の生態学の立場から、「怒りの葡萄」を見直してみると、別の問題が浮かび上がってくるという。
農民たちを土地から追い立てたもう一つの原因である「大砂塵」は果たして単なる「自然の猛威」とした片付けられるか、という問題である。
大砂塵に最も激しく見舞われた地域がオクラホマ州やカンザス州を中心にした、アメリカ中部の大草原地帯であったことを考えると、単に天災とばかりは言えない側面が浮かび上がってくる。
というのも、この地域は、そもそも年間を通じて降水量が少なく、その意味では耕作には適さない土地だったのである。
この地域の土壌・気温・降水量などに最もふさわしい植生は背の高くない草であり、それゆえ大草原が拡がっていたのである。
『大草原の小さな家』で描いているように、19世紀から20世紀にかけて、多くのフロンティア・スピリットに溢れた開拓農民が草原地帯に入植し、開墾して耕作を開始したのだった。
このような努力は、一時的にはアメリカの農業生産力を高め、特に第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパの穀物倉庫として多大の利益を挙げた。
しかし、この地域の開墾は、生態学的にみれば、安定した状態にあった極相の破壊、あるいは「生態系の破壊」を意味していた。
そして本来、耕作に適さず、むしろ草原を利用した牧畜に向いている土地を強引に耕作地にしたツケは、いつかは払わねばならない。
耕作によって表面を覆っていた草を失い、露出した土地は、この地方をしばしば襲う干ばつによって乾燥し、1930年代、折からの強風によって砂塵となって舞い上がった。
そのように考えると、痩せた土地を、多大のエネルギーを使って開墾し、努力の割には多くを報われず、挙げ句の果ては、農業の資本主義化に取り残され、土地を追われたジョード一家のような開拓農民たち。
彼らには残酷な言い方だが、「大砂塵」は開拓の結果として起こった「人災」とも言えそうだ。

現在多くの難民を出しているシリアとはどいういう国なのか。この難民は、直接的には政府・反政府・IS国の三つ巴の戦いによる戦乱をさけるための「政治難民」である。
さて、世界史で「シリア」と名のつく大国は、ふたつ。
古代においてはアッシリア。
もう一つはアレキサンドロス帝国が分割された「セレウコス朝シリア」で、今日のシリアに一番繋がっているとみてよい国である。
しかし、それ以前のBC7Cの新バビロニア王国の征服地域にすでに「シリア」という地名があり、首都である「ダマスクス」もできていた。
それぐらい古い歴史をもつ地だが、その後ローマ帝国→イスラム帝国→オスマントルコ→フランスと支配の歴史がくりかえされ、独立したのは1946年である。
シリアは「小国」でありながら、5カ国と「国境」を接している類まれな国家である。したがってソノ外交政策たるや、日本人の想像が及ばない「神経戦」が求められてきた。
独立してからも政情不安がつづき、バース党の政権ができてからも派閥抗争などが頻発する。
1970年、アサド将軍がクーデターにより政権を獲得、翌年大統領になってようやく安定化した。
シリアという国は、人口の10%程度のイスラム教アラウィー派という「少数派」が、政権と軍・治安機関の主要ポストを独占し、圧倒的多数のスンニー派の国民を支配している。
そこで、アサド政権側も反政府勢力側も「相手側を倒さない限り、自分たちは生き残れない」という危機感にとり憑かれている。
アサド大統領親子の世襲支配は40年以上に及ぶが、軍や治安機関の最上層部はアサド政権を死守することで結束し、「秘密警察」を動員して反対派を徹底的に抑え込むことを行ってきた。
多数派のスンニー派からも政権に「忠誠」を誓っている軍人たちがいて、彼らが今さら「反体制派」に寝返ったとしても、「裏切り者」としてほぼ確実に殺されるだけである。
そこで彼らは支配層にしがみついて、支配層を「死守」する外はないのである。
シリアの首都はダマスカスであるが、古代より交通の要衝であり、世界最古の「都市」といっていい。
日本の福岡と同緯度にあるダマスカスは、美しい都でエデンの園が「天上の楽園」ならば、ダマスカスは「地上の楽園」とよばれた。
さらに十戒で知られる「モーセ終焉の地」ネボ山、ヤコブが妻リベカで出会ったハランの地、ダマスコのクリスチャン「弾圧」に向かっていたパウロ回心の地など、シリアはまさに「聖書の舞台」である。
ダマスカスはまた、イスラム教徒にとっても特別な町の一つである。
ムハンマドにより創始されたイスラム教は、ムハンマドの死後はウンマ(信仰共同体)の総意で選ばれた「カリフ(教主)」が最高指導者となった。
656年、ウマイヤ家の長老で第3代カリフのウスマーンがメディナでの暴動で殺害された。
その時「シリア総督」であった同じウマイア家のムアーウィヤは血族としての報復の権利を求めて、「第4代カリフ」に即位したアリーと対立し、軍事衝突にまで発展した。
661年にアリーが暗殺されるとムアーウィヤは唯一のかつ正式のカリフとなり、それ以降カリフ位はウマイア家により世襲されることになる。
これがウマイア朝(661-750年)であり、ムアーウィヤは都をダマスカスに置き、イスラム世界をさらに拡大していくことになる。
さて、このシリア王国には、歴史に名を残す一人の「女王」が出ている。
紀元3世紀頃、砂漠の国シリアの中央に、パルミラという小さな町があった。今では廃虚のみで見る影もないが、強大な「ローマ帝国」を向こうに回し、地中海の覇をかけて雌雄を争った偉大な歴史を残している。
その当時、この地に君臨したのは、ゼノビアという気丈で美しく気高い女王であった。
ゼノビアは子供の頃から、才色ともにすぐれ、12才になる頃には頭角を表わし、ラクダに乗れば大人顔負けの技量を発揮し、父に代わってジプシー全体を指導できるほどになっていた。
パルミラのオアシスは、タクラマカン砂漠を経て延々と続く「シルクロードの終着点」に位置しており、東西貿易中継の要として繁栄の絶頂にあった。
たくさんのバザールが開かれ、東西から金、銀、宝石、絹、塩などの商品や装飾美術品、様々な珍しい品々が取り引きされ、各国の商人で賑わう毎日であった。
それゆえに、東のササン朝ペルシアや西のローマ帝国が、この国を虎視眈々と狙っていたのである。
そしてローマ帝国はその軍隊を送り込み、パルミラを自らの支配下におき、思惑通り重税を課すことに成功したのである。
しかしパルミラの人々は、いつの日か反乱を起こし、ローマの束縛から逃れるべく機会をうかがっていた。
その頃、ローマ帝国支配の元でパルミラを統治していた若い貴族オーデナサスが、当時18歳のゼノビアを見初め、二人は結婚し、ゼノビアはパルミラの王妃として宮殿に移り住んだ。
オーデナサスもゼノビアもローマの支配から逃れるべく、密かに砂漠に野営しては「兵の訓練」に大半の時間を費やすようになっていった。
ゼノビアの誇り高く類まれな美貌とで、部下の兵士たちを魅了し、士官たちの心を完全に掌握するようになっていた。
そして、今やローマ帝国からの解放の時が到来したとばかり、満を持してパルミラの北に駐屯しているローマ軍に襲いかかったのである。
不意を突かれたローマ軍は、たちまち大混乱を起こし、算を乱して敗走した。ゼノビアの軍は、敗走するローマ軍を徹底的に打ち破り、ここにパルミラ市民の「悲願の独立」は達成されたのである。
この勝利に喜び、驚嘆した周辺の国々は、次々にゼノビアの軍団に寝返って、たちまちのうちに強大な力に膨れ上がった。
しかし、夫であるオーデナサスが行軍中に暗殺されるという突然の悲劇に見舞われた。
ゼノビアはオーデナサスの意志を受け継ぐことに全力を傾けて、自ら「絶対専制君主」となり、一息つく間もなくローマの「属州の」一つであるエジプトに7万の大軍を進めた。
彼女の軍団は一度の戦いで勝利をおさめ、エジプト全土を制覇してしまったのである。
ゼノビアは、すべての民から慕われ、快く最高君主として受け入れられ、人々はゼノビアの軍をローマからの「解放者」として歓迎したのである。
しかしやがて、ローマ帝国は、パルミラを一気にたたき潰さんと「最精鋭」とうたわれた最強の軍団を多数くり出してきた。
戦いは地中海沿岸の都市で幾度となく繰り返され、ゼノビアの軍は後退を余儀なくされていった。
その後、ローマに捕まり連れいかれたゼノビアだが、その後の記録は途絶えたままである。
歴史家ギボンは、「褐色の肌、異常な輝きを持つ大きな黒い目、力強く響きのある声、男勝りの理解力と学識をもち、女性の中ではもっとも愛らしく、もっとも英傑的である彼女は、オリエントで最も気高く最も美しい女王であった」 と書いている。
そして、IS国が破壊して問題となった遺跡こそ、ゼノビアのいたパルミラの遺跡群である。

最近の「原油安」は我々にとっては有り難いが、「原油安」の原因は、シェールガスや深海油田の開発がされた結果、石油の供給過剰が起きたことによる。
シェールガスは2000年前半に米テキサス州で開発が成功し生産が本格化した。
近年はオイルにもその技術が活用されて生産が伸び、2015年には、アメリカはサウジを抑えて世界最大の「原油産出国」になった。
サウジが自噴の石油井戸だが、これに比べて「シェールオイル」はコストが高いものの、アメリカはシェールオイルでほぼ自給できるので中東の石油に依存しなくて済む方向にある。
だがアメリカには、同盟国のために石油を確保するという「石油の番人」の役割、ひいてはドルの価値を維持する役割が残っている。
石油が20世紀を繁栄に導き、その先頭をアメリカが走りその覇権を確立した。
かつてのアメリカなら「人権擁護」の御旗の下、シリアへの軍事介入をチラつかせ、シリア情勢に安定化をもたらしたかもしれないが、今やそれだけのプレゼンスを欠いている。
ところで最近パリで開かれたCOP21では、地球温度上昇を1.5℃にしようと二酸化炭素の排出を減らすことが決まった。
太陽光や風力など「再生可能エネルギー」の普及がさらに本格化すれば、世界でパワーシフトが起きそうだ。
特に、アメリカは中東で軍事展開するインセンティブを失う。
中東のとどまることを知らない混乱とヨーロッパへの難民の「大移動」も、そうした「パワーシフト」の表れなのではないだろうか。

王朝創建後もディアドコイ戦争は決着がつかず、BC301年に最大の激戦となったイプソスの戦いでセレウコス1世は当時最大の領域を継承しようとしていたアンティゴノス1世と会戦することとなった。
セレウコス1世は自軍の兵力は少なかったが、インドのマウリヤ朝マガダ国のチャンドラグプタ王と同盟を組み、数百頭の戦象を得た。
小アジア中西部のイプソスは激戦場と化した。
結果、セレウコス1世が勝利を収め、アンティゴノス1世は戦死し、マケドニアの領土はいっきに縮小して小アジアの一部とギリシアを領有するに留まり、一方のセレウコス朝はシリア地方と小アジア過半、そしてその以東のインダス川沿いにまでおよぶ広大な地域を領有し、まさにディアドコイの勝者となった。
このためセレウコス1世はニカトル(勝利王。征服者)と言われた。
セレウコス朝の首都セレウキアは人口が増加し、南方のバビロンにかわって繁盛したが、勝者となったセレウコス1世は首都移転を考え、BC300年、地中海東岸に流れるオロンテス川左岸に、新首都・アンティオキアを建設した。
この名称はアレクサンドロス3世の家臣であったセレウコス1世の父アンティオコス(生没年不詳)に因むといわれている。
セレウコス朝シリア王国の新しい首都となったアンティオキアは、セレウキア同様、目覚ましく発展していき、ヘレニズムを代表する都市となっていった。
一般的には、シリアはアラブ圏の中で最もロシア(旧ソ連)に近く、アメリカと「一心同体」に近いイスラエルと国境を接して対峙しているというイメージがある。
1967年の第3次中東戦争によって、イスラエル国境付近のシリアのゴラン高原が占領され、1973年の第4次中東戦争で一時奪回したものの、その後再占領され今日に至っている。
今ではPKOが入り、両軍の兵力を引離しているが、シリアは「反イスラエル」の急先鋒であったのだ。
2007年には、イスラエルは空爆によりシリアの「核施設」を一気に破壊して世界に衝撃を与えたことなどもあったあった。
今日の「シリア情勢」は、アメリカが「人権擁護」の御旗の下にシリアに「介入」するいいチャンスであるといえなくもない。
一方、国連安保理の常任理事国であるロシアと中国は、シリアとの軍事的・経済的な関係を重視し、アサド大統領の退陣を強く表明マデはしていない。