弱さのチカラ

2012年当時7才のオーウェン・ホーキンス君は、世界でも100例ほどしかない難病を抱えていた。
彼の筋肉は常に緊張している状態で、筋肉の力を緩めることはできない。
友人達からは、顔の表情が妙だと笑われ、 人前にでることさえできなかった。当然、知らない人と話す事ができず、広場恐怖症も抱えていた。
広場恐怖症というのは、何かが起きて人が集まってくることを極度に恐れるというものだという。
両親は、どうせ治らない病気だからと、薬さえ飲まなくなったオーウェン君に手を焼いていた。
そんなある時、一匹の犬が北ロンドンにある路線に繋がれて放置されていた。
そして、その犬は列車にひかれ、しっぽと後ろ足に酷いダメージを受けてしまった。
その犬は英国動物虐待防止協会に助けられるまで約5日間なんとかよろよろと歩ける状態にあったが、感染症が酷く、ついに後ろ足1本とシッポを切断するしかなかった。
一旦はある家に引き取られたが、 他の犬に襲われ、再び英国動物虐待防止協会へ戻ってくることとなった。
犬を救助した人々は、犬を愛してくれる家族を探したいと一生懸命だった。
そんな時、オーウェン君の父はフェイスブックで、犬の事を知り、犬に会う事を決めた。
自分の息子のことで精いっぱいなのに、犬の世話までする余裕はないとためらったが、妻に相談するとその犬がかわいそうだからと何とかしたいと言った。
そして犬の受け入れを一番に訴えたのが、他ならぬオーウェン君であった。
そして、犬は手術を受けた6週間後に彼らの元にやってきった。
その時犬は玄関に入るや、何かを知っていたかのように一目散に2階に駆け上った。
驚いた両親はあわてて二階に上がると、そこにはオーエン君に寄り添うようにいる犬の姿があった。
オーウェン君の家族は、犬に名前を「ハッチ(Haatchi」)と名付け、少年とハッチはただちに「お互い」をサポートし始めた。
そればかりか、少年と犬の関係は信じられない奇跡を生んだ。人前に出る事こともできなかったオーウェン君は車イスで犬と散歩にでかけるようになった。
そして、片足のない犬のことを聞かれると、どんなにハッチがすごい犬なのかを必死に説明するようになった。
それどころか、自らすすんで様々な人にハッチについて話したがるようになった。
そして広場恐怖症であったことが嘘であったかのように、ドックショーに行きたがるようにもなった。
オーウェン君との出会いは、ハッチにとっても劇的な変化をもたらした。
ハッチは、「セラピードック」としてのトレーニングを終えて、 足を切断された兵士や末期症状の子供たちを訪問するようになった。
ハッチは国際動物福祉基金で表彰され、2013年にオーウェン君はは世界最大のドックショーでハッチとの出会いを多くの人々の前で語り、「生涯の友達部門」で優勝した。
ところで犬の名前がハッチとは、日本の「忠犬ハチ公」を思い出すが、そういえば2009年に公開されたアメリカ映画リチャードギア主演の「HACHI 約束の犬」(原題: Hachi: A Dog's Tale)があった。
これは、日本映画「ハチ公物語」(1987年)のリメイク作品である。
舞台は、アメリカ東海岸の郊外にあるベッドリッジ駅。物語は大学教授のパーカーが、その駅舎で迷子になっていた秋田犬の仔犬を保護して家に連れ帰るところから始まる。
オーウェン君を紹介したイギリスのドキュメンタリーではふれられていなかったが、この映画から、犬の名前が付けられたのではなかろうか。
今や待ち合わせ場所の目印でしかない渋谷の「忠犬ハチ公」像だが、イギリスにおける少年と犬の奇跡の実話に一役買ったことになる。
人間と動物の関わりならば、ある動物番組で紹介されたイルカの謎の行動を思い出す。
ブラジルのとある場所に、イルカと一緒に漁をする、まるで夢のような世界がある。
、 ブラジル南部のラグナあたりでは、長い間イルカの助けを借りて漁師たちが魚を捕まえており、地元の人々にとってイルカはかけがえのない存在となっている。
そのイルカの活躍ぷりは半端なものではない。
まず、イルカたちが牧羊犬のように、ボラの群れを漁師の方へ誘導する。そして漁師たちに網をなげるタイミングを、頭やしっぽで水面を叩いて知らせる。
すると、漁師がそれに応じて、網を投げてボラをとるというものだ。
ここで、ひとつ気になるのは「なぜイルカは漁の手伝いをするのか?」である。
なぜなら漁を手伝っているこのイルカたちは、この行動からエサなどのメリットを何も得られないからだ。
それにもかかわらず、何代にも渡ってこのイルカたちはラグナの人々を助けており、研究者たちの間で長年の謎となっている。
ある研究によると、漁を手伝っているのは150頭のイルカのうち、50頭だという。
残りの100頭は漁から離れた場所でじっとしており、この50頭たちは群れのなかでも、最も友好的なイルカだろうと研究者たちは語っている。

子ども向けのマーケットで、ロボットが利用されている。
ただこのロボットは「おもちゃ」としてではなく、子供のコミュニケーション育成のためのロボットで、特に自閉症児のトレーニングにおいてその「有用性」に注目が高まっている。
自閉症児は、自分の気持ちを伝えられないだけでなく、相手の感情を推し量ることも苦手だ。
人々は、それをどうにかできないかと様々な工夫をしてきたわけだが、意外なことが判明してきた。
トレーニング用としては、人間よりもロボットが役立つらしいということである。
ロボットがなぜいいのかというと、子供はロボットに「安心感」を持つからだという。
人間が相手だと、その表情や存在の複雑さを察することにオーバーロード状態を起こすと言われている。
つまり、感じていることに対して自分の「処理能力」が追いつかなくなり、パンクしてしまうのだ。
ロボットには限られた動作や表情しかなく、予想不能な行動は起こさない。それでいて、ちょっと楽しい会話ができる。それが子どもの関心を引き出せるのだ。
こうした目的で使われるロボットは、小さなヒューマノイド型のロボットや、ぬいぐるみのようなモジャモジャした「弱い系」のロボットである。
あるいは、簡単な生き物の形をして、それがちょっと動くというタイプのものもある。
重要なことは、子どもが行ったり言ったことに対して表情やしぐさで反応することである。
それは、「どんな食べ物が好き?」とか「昨日は何をしたの?」といったような他愛ないものだ。
子どもがそれに対して返答すると、さらにロボットも答える。そうして会話が進む。
あるいは、本を読んだり、つづり方を一緒に勉強したりもする。 さらには、会話から進んで、ジェスチャーを真似し合ったり、一緒に踊ったりもする。
実は、こうしたインターアクティブなヤリトリには「裏」がある。
その場にはいないカウンセラーやセラピストがリアルタイムで入力して、ロボットにしゃべらせる方法をとるのだという。
ロボットにはカメラが付いているので、子どもの反応や言ったことがモニターできるのだ。
相手と自分の間でやりとりが成立し、何かが「通い合っている」実感がもてるのがポイントである。
現在、ロボット会社と大学の研究室、病院などが協力して、自閉症児の診断と治療のためにロボットを使ったプロジェクトが世界各地で進められている。
ロボットが子どもに何かを尋ねたり指示したりするだけではなく、子どももロボットに何かを教えたりするといった方法もある。
そうすることによって、自閉症児は他人と関わったり世話をしたりするというソーシャル・スキルを少しずつ身につけることができる。
ロボットが血の通わぬものとして遠ざける考えもあるが、使い方によっては人間の心理や行動にプラスの影響を与えうるのだ。
最近のニュースで、刑務所を出た人が孤独などを理由に再び罪を犯さないようにするため、都内の更生保護施設は人型ロボットを導入しすることになったという。
身寄りのない出所者の話し相手として活用する取り組みだが、職員などには話しにくい悩みや本音をロボット相手に話すことで、孤独感の解消につながることが期待されている。

数年前に、フランス映画「最強のふたり」という映画が公開された。
全身麻痺となった富豪フィリップとスラム街出身で前科のある黒人青年ドリスという、おおよそ出会うはずのない「対照的」な二人が、強い絆で結ばれるという「実話」を元にした映画である。
黒人青年ドリスは、「不採用通知」欲しさにある富豪のヘルパーの面接にやってきた。
「生活保護手当」が不採用通知三つで出るからである。
ところが90人に近い応募者の面接のなかで、富豪フリップが選んだのはナントこのスラム出身の黒人青年ドリスだったのだ。
フィリップは90人の応募者の中でドリスだけが自分を「病人」として見ていなかったからだという。
結局、腫れ物に触れるような接し方をされる屈辱より、同情のかけらも見せないドリスの言動がフィリップによほどありがたかったのだろう。
黒人青年ドリスは過去を語る。両親は離婚し、叔母から育てられる。叔母は朝早くから遅くまでビル清掃の仕事で、一人で子供たちを養う。
スラムの集合住宅の中で乱暴者として生活をしてきた。
一方、富豪のフリップは首から下の身体は、神経麻痺、夜中に発作も起こる。
援助がなければ食事、入浴、排泄など、基本的な日常生活は不可能。
貧困家庭で育ったドリスが職業安定所で見つけた仕事は、この紳士の日常生活、身の回りの全世話役であった。
紳士を世話する女性秘書から「この仕事に1週間、我慢できる人はいない」と告げられる。
紳士は、応募者から彼を選んだが、親しい友人からは、そんな素性のわからない、不良青年を雇うことは、やめたほうがいいとアドバイスされる。
富豪のフリップは、そんなまわりの心配をよそにそんなドリスを採用し、ドリスは豪華な一人部屋をあてがわれ、「貧困生活」から別れる。
そして、あまりに対照的な生活環境で育った二人のちぐはぐなコンビ生活が始まる。
子供がそのままデカくなったようなドリスは常識や偏見に縛られず、「障害者を障害者とも思わぬ」言動でフィリップを容赦なくオチョクル。
ドリスはこれまでの世話人と全く異なり、全身麻痺となっていたフィリップに対して同情も遠慮もしなければ容赦もない。
体を洗うにも、まるで「洗車」でもしているかのような洗いカタをする始末。
熱湯を紳士の素足に溢し、無反応・無表情の紳士に驚きカツ面白がって、再び熱湯をかける。
青年の紳士への態度は、しだいに信頼関係を深め、二人は全く異なる過去を語っていく。
ある日、ドリスがフィリップに「どうして自分を採用したか」について問うた時に、二人の心に「絆」のようなものが生まれていく。
またドリスはフィリップに、友達が一人もいない自分が初めて友達を持つことができたと語る。
「最強のふたり」は、卑屈になっていたかもしれない二人が信頼し、対等な関係を築くプロセスがとても痛快に描かれている。
実は、この映画を思い出したのは、「弱いロボット」のコンセプトを知ったからである。
介護現場などでは、ロボットが発揮できる「技術」の議論に終始している。
お年寄りの口に食べ物を運ぶ。その体をベッドから車いすに移動させる。しかし、老人がモノように扱われていないか。
どんな点に配慮すれば、老人の「尊厳」が保てるのかが重要である。
昨今、囲碁で人間を打ち負かせたとか、入試問題を解くたなど「人間の能力」を超えた「人工頭脳」装備のロボットばかりが宣伝されている。
その一方で、豊橋技術科学大学の岡田美智男教授は、アエテひとり人では何もできない、人間の助けや働きかけで動く「弱いロボット」を提唱している。
ロボットの制御理論の専門家からは「どこがロボットだ」となるかもしれない。
最近作の一つは「トーキング・アリー」で、楕円の顔の真ん中に目があるだけ。
聞き手がいると、「あのね、今日ね、学校でね」と話すが、聞き手が目線をはずすと「聞いてないの?」とばかり、不服そうに話をやめてしまう。
おどおど話して、かわいいですよ。たどたどしくても、相手の態度やタイミングを見ながら話してくれると、やさしく感じる。
いかに流暢に話せても、「寒くなったね」といって、「現在の気温はセ氏7度です」と返事が来たら、会話は止まる。
また、自動販売機の音声で「こんにちは」と言う合成音がよく聞こえるが、これにいちいち返事をする責任を感じない。
もしも時々、「音声」がくしゃみしたり口ごもったりしたなら、感謝の言葉でもかけたりするかもしれない。
誰にもある「弱さ」や「不完全さ」が相手に補完され、支えられてコミュニケーションになる。
つまり「できないこ/頼ること」は、プラスの価値にもなり得るのだ。
我々は、何かを話すとき、親しい相手が相づちを打ってフォローしてくれると意思疎通ができるのに、不機嫌そうな相手だと、いつも以上にたどたどしくなってしまうのを体験する。
と考えてきました。
他にも、人間のアクションを引き出す「弱いロボット」達がいる。
一緒に手をつないで歩くだけの「マコのて」、ゴミを拾いたそうなそぷりで人間の手助けを引き出す「ゴミ箱ロボット」などは、人間性あふれるロボットだ。
ゴミ箱形のロボットは、いかにも掃除をしてくれそうな姿なのに、自分では拾えず、拾ってくれそうな人にそーっと近寄り、ゴミのまわりをウロウロして、思わず人に拾わせてしまう。
自分では拾わないのに人間がゴミが入ると、軽く会釈をする、そのダメぶりに心がなごむ。
その他、むにゃむにゃと声を出す「む〜(Muu)」という目玉だけのロボット。
コミュニケーション障害のある子どものそばに置くと、誰にも関わろうとしない消極的な子どもが、お母さんが驚くほど一生懸命に話しかけるようになる。
どこか頼りなく、「む〜」の「弱さ」が、子どもたちの関わりの力を引き出している。
ロボットのもつ「弱さ」や「不完全さ」は、人間が持っている「弱さ」や「不完全さ」と同じで、人間は本来的に、他者にゆだねたり、支えられたりする相互作用の中で存在するのだ。
人間という存在は不完全で、周囲と一つのシステムをつくり、常に調整しているからだ。
ここが、弱い、これが足りないと「旗印」を立てることは、誰かが何らかの介入をしてくる余地を与えるということである。
人にとって、頼られることは、本来嬉しいことなのだ。
他力を呼び込むことで、思わぬ楽しい展開が生まれることもある。
それこそが、弱さが生む力であり、弱さの希望である。