絵筆の光明

最近、テレビで見たアメリカのニュースだが、犯人の逃亡をヘリコプターのカメラが追っていたが、見失ってしまう。
ヘリコプターが上空で立ち往生しているのを見た、地上の8歳から12歳の子供15名ほどが、地面に寝そべって 「絵文字」を作った。
それは、犯人が逃げた方向を示す「矢印」だった。
その「矢印」の先の森の中で、犯人はあえなく御用となったのだが、それにしてもナントいう「機転」であり、チームワークだろうか。
さて、歴史の中で「絵師」となった人の中で、絵を描こうと志ざしたものなんて一握りであろう。
大概は、絵を描くほかに身を立てる術がなく、急場しのぎではじめた人が多いに違いない。
それでも、彼らは「絵筆」の指し示す方向に、「光明」を見出したということだろう。
江戸・元禄時代の画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう)は、華やかな世界に身をおき、桜の散るのを予感するように、吉原での時々を「絵筆」で留めおこうとした。
一蝶は、花魁の太鼓持ちをし、裏方の世界まで知り尽くしていた。それは、蝶がかりそめの戯れを楽しむかのように舞う世界であった。
彼は、美人画も描いたが、それよりむしろ庶民を生き生きと描いた絵こそが出色だった。「吉原風俗図巻」では、客と遊女との喧嘩や、女が嘘泣きで客を巧みに引き止めている姿などを描いている。
実は、こうした絵を一蝶が描いた場所は、絶海の孤島であった。
というのも、ある日突然、晴天の霹靂にあったように、三宅島への島流しを申しわたされる。
表向きは馬を虐待した「生類憐みの令」違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の「散財」をさせたからだとされた。
煌びやかな吉原の世界から一転して、死だけが待つ孤島へと移送された。
永久に生きては帰れない流人生活の中で、一蝶は島民のために「七福神」などを描いていたが、「天神様」つまり菅原道真の表情がかなり怒っているのは、一蝶の気持ちを反映していたのかもしれない。
それでも一蝶は、人を喜ばせるのが性分だったようで、毘沙門天、恵比寿様などの絵をを安く描いて漁民に渡した。
そのうち、新島の梅田家が「地獄に仏」となった。三宅島に流されていく途中に風待ちのため立ち寄った梅田家が、一蝶の絵を売ってくれたからだ。
そのうち「画才」が江戸に届いたのか、江戸から注文がきはじめ、一蝶は背いっぱいの力をふるって懐かしい江戸での遊興の日々を描いたのである。
実は、先述の「吉原風俗図巻」は、三宅島で描いたもので、「四季日待図巻」では 眠ることなく朝日をおがむ神事の様子を、庶民の表情とともに生き生きと描いている。
神主さんから博打まで、裏で鶏をさばく人まで横幅約7メ-トルに描きこんだこの画は、一蝶が幅広く視線が行き届く絵かきであったことを物語っている。
そして、1709年に奇跡がおこる。
将軍代替わりで、生類あわれみの令に関する流人が赦免となったのだ。
一蝶の人生活はあしかけ12年。58歳になっていた。
深川寺前に居を構えると、豪商に取り入り、英一蝶として再スタートした。
その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。
この名作の中に「雨宿り図屏風」という絵がある。
雨をさけるために武家屋敷の門前に身を寄せて凌ぐ人々の姿、坊主もおれば物売りもいるし子供達はむしろ雨にはしゃいでいるのに、ただ武士のみが困ったぞと陰鬱な表情で空を眺めている姿。
元禄時代を「峠の時代」とよんだ通産官僚もいたが、英一蝶は、なにかの「予兆」をこの絵の中に描きこんでいるように思えて仕方がない。

渡辺崋山は蘭学者として知られるが、優れた絵師でもあった。
絵を描いたのは、あくまでも生活の必要のためだったが、人の内奥にまでも描いた秀作を生んだ。ちょうど、オランダの画家のレンブラントのように陰影に満ちた人々の表情をとらえた。
渡辺崋山は、1793年、江戸麹町田原藩邸で長男として生まれた。崋山は幼名を源之助より虎之助にかえ、8才で若君のお伽役となり、後に藩主より登の名を賜わった。
財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出さなければならなかった。
このため崋山も貧しさを救うため、絵を描く「内職」をしながら学問に励んでいる。
12才の崋山は、徂徠学派の儒学者に学び、幕府の昌平黌にも学籍を置いたこともある。また、当時の学者文人らと交友し、詩文、和歌、俳諧にも通じた。
その一方で、谷文晁らに絵を学び、26才頃には画家として有名になった。
その作品には多くの重要文化財が残っているが、中でも、国宝「鷹見泉石像」などは、外形だけでなく、「内面」の性格をあらわしいる。
西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は大きい。
実際に、渡辺崋山は、蘭学者でもあるので、きっとその影響を受けているに違いない。
ちなみに、レンブラントが亡くなったおおよそ100年後に、渡辺崋山が生まれている。
1832年、崋山は家老に就任し「紀州藩破船流木掠取事件」、幕命の「新田干拓計画」などの難かしい事件を解決した。
また、田原藩は救民のための義倉「報民倉」を建設し、1750年からの天保の大飢饉では、一人の餓死流亡者も出さなかった。
この点では、米沢藩主・上杉鷹山と同様で、翌年幕府は全国で唯一田原藩を「表彰」したほどだった。
さらに、この頃、黒船が近海に接近するため、崋山は「外国船の旗印」を描いて沿海の村々の庄屋に配り、海岸の防備や見張りに当たらせた。
要するに、崋山は日本の「内優外患」に素早く反応したのだが、幕府の外国船砲撃の無謀さを批判したため、いわゆる「蛮社の獄」で捕縛され、永久蟄居を言い渡される。
ところが、門人が渡辺家の貧窮を救うため絵を売ったところ問題視され、藩に迷惑がおよぶことを恐れた崋山は、獄中にて切腹している。

北海道といえば「北の大地」といわれ、あの雄大な風景のただ中にあって、絵心のある人ならば絵筆をとらずにはいられないであろう。
だが、そんな美しい自然ではなく、当時「蝦夷」(えみし)とも呼ばれた「化外の民」の人々の姿を微細に描いた人がいる。
それでは、なぜその絵かきは、アイヌの人々を、それほどまでのリアリティをもって描いたのだろうか。
その理由を探るには、まずは蝦夷地に「北加伊(カイ)道」という名をつけた松浦武四郎の生涯から語るのが妥当であろう。
松浦武四郎は、伊勢国(三重県)出身の1887年生まれ、生来の旅好きで16歳の頃より、全国いたるところを旅した。
しかし、その旅の費用は、どう工面したのだろうか。
伊勢といえば江戸時代当時は「伊勢参り」だが、伊勢の人たちは伊勢参りの旅人を手あつくもてなし、そのお礼として各地の人々が武四郎を助けてくれた。
全国各地を旅するうち、とうとう辿り着いたのが最北の蝦夷地(今の北海道)。
未知の大地での旅を支えてくれたのは、住民のアイヌの人たちで、けわしい山野や想像を絶する気候に苦楽をともにするうち、武四郎は彼らが故郷をそう呼ぶ「カイ」での暮らし、そして過酷な現実を知ることになる。
1855年には、幕府の役人に抜擢され、蝦夷地をくまなく跋渉して樺太にも渡り、道路開墾の策や札幌に統治の府を置くべきことを箱館奉行に上申した。
その「東西蝦夷山川地理取調図」は北海道経営の基礎にもなる大業であった。
しかし、これだけなら武四郎はアイヌ民族史に通じた専門家として終わったであろう。
武四郎の真髄は、さらに踏み込んで、調査で出会ったアイヌの人々についてありのままに描き、「近世蝦夷人物誌」などまとめたことにある。
その最大の目的は、江戸でアイヌの人々の苦境を広く伝えんとするものであったから、その業績は一役人の域を超えていたといえる。
当時、江戸末期のアイヌの生活は、日本人との交易によって日本の商品への依存がますます強まるなかで、先祖代々の狩猟や漁労の生活が「激変」していた。
アイヌは、アメリカ先住民と同じく金属や衣服などを植民者や出入りの商人から購入することで生活の便宜を高めた。
しかしこの合理化は、アイヌの生活を日本社会の生活水準や道徳基準への適応を強いる結果ともなった。
また、交易に必要な鳥獣類を得るために必要を超えて頻繁に狩猟を試みたことで、鳥獣を近くの生息地から遠方に追い払うことになった。
北海道の奥地まで探検した武四郎にとって、砂金採集のための水流調整や地形変化によって鮭の遡上や産卵を妨害した和人の行為は苦々しいものだったにちがいない。
武四郎は、長いことアイヌ民族が尊重してきた鳥獣や魚介などの生態系が、松前藩の商場知行制(あきないばちぎょう)(家臣に主要地の漁労権を与えて米に代わる知行を割り与える制度)の発展によって、アイヌの精神と物質生活を支える存在から「企業の動物」に変わっていく様子を的確に分析した。
そして、弱まる生存システムを補うためにますます「交易品」に依存する悪循環に陥るアイヌの非運を嘆いた。
アイヌのいちばん有名な交易品は俵物(たわらもの)(茹(ゆ)でて干した海鼠(なまこ)・干し鮑(あわび)・昆布)、動物の毛皮やいろいろな薬種であったが、その取引勘定にも伝説化した「不正」が跋扈したことは日本人として恥ずかしいことだともいっている。
大ぶりな10尾の鮭(さけ)を数えるのに、1から始めるのでなく「はじめ」としてまず1尾取り、1、2と続き10の後に「おしまい」でまた1尾余分に取る勘定である。
ひどい場所にいけば、「まんなか」と数えてさらに1尾持っていくという「詐欺的」計算さえしたともいわれる。
武四郎の北方探検は江戸にも知られ、幕末には、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)らは蝦夷地情報を知るために、武四郎の家を訪れていたという。
そして明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結し「開拓使」が設置されると、これまでの調査実績を認められ、「開拓判官」の職に任命された。
判官とは、次官に次ぐポストで、武四郎が新天地で理想の政治を目指すには十分な職であったハズだった。
武四郎の最初の仕事は、この北の大地に「新たな名前」をつけること。
武四郎の脳裏に浮かんだのは「カイ」。つまり、アイヌの人たちが故郷を呼ぶ名を含めた「北加伊(カイ)道」という名である。
実際、武四郎は、アイヌ民族の生活と伝統的な生態系を守ろうとする真面目な政策を公に採用しようともがき続けた。
しかし、開拓長官となった公家の東久世通禧(ひがしくぜ・みちとみ)は、商人たちに賄賂攻勢をかけられて、松浦の提言を骨抜きにしたようだ。
また武四郎は、律令制度における「遥任」(ようにん)のように東京で勤務させられて、北海道現地で手腕を振るうこもできない状態にさせられた。
孤立した武四郎は、開拓使を辞めてしまう。それでも終身15人扶持(ぶち)(米価換算150万円ほど)を給された異例の厚遇は、新政府の「後ろめたさ」の表れであろうか。
その後、雅号として「馬角斎(ばかくさい)」を名乗ったともいわれるが、それは明治新政府に対するアテツケだったのかもしれない。
ちなみに初代の開拓長官・東久世通禧は、禁門の変で逃れた七卿のうち九州大宰府に逃れた「五卿」の一人で、福岡県二日市の武蔵寺(ぶぞうじ)の近くに、その「歌碑」がある。

アイヌの苦境を書物を通じて訴えたのが、伊勢の松浦武四郎であったが、その一方で12人のアイヌの有力者達の微細なまでに正確に描いたのが、北海道松前生まれの蠣崎波響(かきざきはきょう)である。
波響は、圧倒的な写生の力で人気を誇った京の都の絵師・円山応挙に師事し、その画風から「松前応挙」とも称されるようになる。
そんな波響の本職は絵師ではなく、松前藩の「家老」にまでなった武士だった。
波響は、松前藩主・松前資広の五男に生まれ、8歳の頃「馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられている。つまり絵の才能は、早くから表れていたといってよい。
では、そんな立場の人物がなぜアイヌの有力者たちの「肖像画」を描いたのだろうか。
それを解く手がかりとなるのが、今から32年前にフランスの美術館で見つかった波響の傑作。長い間、行方不明だったため「幻の名画」と言われている「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)である。
実はこの絵が生まれたのには、当時の国際情勢もカランデ、ある意味松前藩の「存亡」がかかっていたといってもよい。
当時、ロシアがカムチャッカ半島そして千島列島まで進出しようとしていた時代で、幕府は北海道・松前藩の「統治能力」を問題にしていた。
ところが1789年、国後島とメナシのアイヌが和人商人の酷使に耐えかねて蜂起し、現地にいた70人余りの和人を殺害したとうクナシリ・メナシの戦いが起きた。
このままでは、松前藩主の「統治能力」が問われかねない。 そこで松前藩は260名の討伐隊を派遣し、その指揮官の一人が蠣崎波響だった。
戦いを鎮圧した後に討伐隊は藩に協力した43人のアイヌを松前城に同行し、さらに翌年にも協力したアイヌに対する二度目の謁見の場が設けられた。
藩主の命を受けた蠣崎波響は、アイヌのうちもっとも功労があると認められた12人の肖像画を描いたのである。
これが「夷酋列像」で、アイヌの人々と「友好な関係」を築いていることを幕府にアピールしようとしたのである。
そして、蠣崎は、クナシリ・メナシの戦いで失いかけた「藩の威信」を回復するために、絵を持参して上洛した。
光格天皇はこの「夷酋列像」を見て、大いに賞賛したというから、松前藩の企図はあたったわけだ。
ところが17年後、松前藩とロシアが内通していると疑いをかけられ、梁川(福島県伊達市)へ配置換えを命じられる。
さらに松前藩は、貧窮が激しく、「藩自体」を召し上げられる危険性さえもあった。
そこで、その頃家老を務めていた蠣崎は、自身の「絵の才能」をフル活用することにした。
それは絵を描いて自分絵を売り、藩の財政の立て直しをはかったのである。
そして、絵を携え京都へ行った際に円山応挙と出会い、彼の弟子になった。
そして蠣崎は「絵の資金」を得て、元の松前藩に戻れるよう働きかけ、1821年に晴れてそれが許されたのである。
その5年後、蠣崎波響は63歳でこの世を去った。
蠣崎波響にとって、絵を描くことの意味は何か。蠣崎が「夷酋列像」を描いたのも、アイヌへの愛情でも、民俗的関心でもなく、あくまでも「政治的」なもので、松浦武四郎とは好対照をなしている。
それは「絵心」というより、「藩の存亡」の危険に突き動かされたといってよい。
唐突だが、1960年代、フランスのドゴールにモナコ公国が併合されそうになった時、それまでモナコの風習になじもうとしなかった王妃グレース・ケリーがあえて理想の「モナコ王妃」を演じて、公国存亡の危機を救ったことを思いうかべる。
それにしても、蠣崎波響ほど「絵筆」に光明を見出した人も少ないであろう。