変装・脱出・救出

変装の上、脱出や救出を図る映画やドラマは数多いが、歴史の中には、「フィクション」にも劣らない、ドラマチックな話がある。
それも、シリアス系からハッピー系まで、なかなかバラエティに富んでいる。
例えば、いわゆる「蛮社の獄」で幕府から追われた医者・高野長英が、火事の際に獄を脱出し「薬品で顔を焼いて」別人となりすまして逃亡した。
その後、幕府によって隠れていたところを発見され、格闘の末に亡くなっている。
この話はシリアス系の部類だが、天下の副将軍・水戸光圀が「変装」して庶民に成りすまし、助さん・角さんを従えて諸国を遍歴したドラマはハッピー系に入れてよいであろう。
ほぼ1時間以内に解決し最後は必ずハッピーエンドで終わるフィクションだからだ。
一応、水戸黄門の変装の動機は、副将軍による国情視察ということだが、世界史に目をやると、国王による国情視察を兼ねた、笑いをさそうエピソードがある。
ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)で、彼の時代から 「ロシア帝国」とよばれる。
ピョートルは造船マニアで、それが昂じて「大帝」の名に似つかわしくない変装をやったが、すっかりバレてしまった。
ピョートル1世は、真摯にロシアを近代化し、ヨーロッパ風の国に仕立てあげたいと考えた。
そこで世界の趨勢にしたがい、ロシアのとるべき進路は重商主義と考え、そのためには海外貿易を活発化しなければならない。
大帝はその手始めに、ヨーロッパ風の国造りのためにはヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考えて、1697年、総勢250名の「大使節団」をヨーロッパ諸国に派遣した。
この時、生来じっとしていられないタチのピョートル1世は、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、「身分を隠して」使節団に加わっている。
各国を視察してまわるが、オランダでピョートル1世は「造船所」がすっかり気に入ってしまう。
そしてナント「一職工」として就職してしまったのである。
身分を隠して働きはじめるが、2メートルを超える長身の男はロシアの皇帝にちがいないと噂が広まり、見物人が増えてだんだん仕事にならなくなって辞めざるをえなくなった。
大帝は「船造り」が大好きで、毎日が夢のように楽しく、毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会を繰り広げ、宿屋から損害賠償を請求されることもあったという。
ピョートル大帝の人間味が伝わってくるが、今時の若者なら「かッわいい!」を連発することだろう。

NHK大河ドラマ「真田丸」の時代のエピソードとして「千姫脱出」がある。
それは、ひとりの男の悲恋と結びついて、哀感漂うペーソス系脱出劇で、同じ17Cのフランスの実在の哲学者「シラノ・ド・ベルシュラク」の物語を思いおこさせる。
さて、織田信長の妹といえば美貌の「お市の方」、近江の戦国武将・浅井長政に嫁いで三人の娘が生まれる。
美貌を受け継いだ三姉妹(茶々・初・江)は、母が再婚した柴田勝家(浅井家の敵方)の元、小谷城で育つ。
その柴田勝家は母・市とともに豊臣秀吉によって自害に追い込まれたが、次に三人姉妹は秀吉の庇護にはいり、茶々は秀吉の側室(淀君)となっている。
このように、敗者となっても一族の血を残して行くために敵方の庇護に入るのが、戦国の姫君達のいわば「宿命」といってよい。
ちなみに「浅井三姉妹」の末っ子の江は二代将軍・徳川秀忠の妻となり、千姫を生む。
そして、千姫はなんと豊臣秀吉と茶々(淀君)との間に生まれた秀頼の正室となるという、ややこしい関係の中にはいる。
つまり、淀君から見ると息子・秀頼と姪の千姫の結婚である。
そして、千姫は徳川家の娘でありながら、今度は豊臣方の姫君となり、大阪の陣では徳川方によって滅ぼされる側に置かれることになる。
そしていよいよ豊臣方が徳川方によって滅ぼされる段になると、千姫も殺されることが予想されるため、徳川家康によって「待った」がかかり、家康命による「千姫救出作戦」がおこなわれた。
その際、千姫を豊臣方から救出した者には、「千姫を与える」という約束が交わされていた。
そこで津和野出身の坂崎直盛という武将が名乗りをあげ、大阪城に突入。
長槍を振るって奮戦し、見事千姫を救い出したが、その際に顔に火傷を負い、醜い面相になってしまった。
その後、約束通り千姫を嫁に貰おうと徳川家に申し入れた坂崎であったが、千姫は醜い面相の坂崎を嫌ったため、祖父・家康も言を左右し、なかなか話がまとまらなかった。
そして、当の約束の本人である家康が死んでしまったのち、後を継いだ秀忠は、千姫を譜代の名門・本多家の嫡男・忠時の元へ嫁がせることに決めてしまった。
坂崎は約束を盾に猛抗議するも、約束の当人である家康が亡くなったため、話は覆らなかった。
その結果、武士の面目も潰されたかたちの坂崎は、こうなったら嫁ぐ途中の千姫を強奪せんと、一族を集め、江戸市中で兵を挙げた。
結局、「千姫救出」には成功した坂崎ではあったが、「千姫強奪」には失敗し、自害に追い込まれるという、あまりにも悲しい結末を迎える。
ただ、千姫の方も、夫秀頼と側室との間にできた2人の子の助命を家康に願い出るものの、「反徳川」の旗頭となりかねない若君・秀頼は処刑され、姫は命を助けられ鎌倉の尼寺へ送られた。

2012年、公開されたアメリカ映画「アルゴ」は、1979年のイランのアメリカ大使館人質事件を題材とした映画で、実話に基く奇想天外な変装・脱出劇が描かれている。
イラン革命の真最中の1979年、イスラム過激派グループがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、52人のアメリカ人外交官が人質に取られた。
だが占拠される直前、6人のアメリカ人外交官は大使館から脱出し、カナダ大使公邸に匿われる。
脱出者がイラン側に見つかれば「公開処刑」の可能性が高く、知らせを受けたアメリカ政府は、すぐに彼らの「国外救出作戦」を検討し始める。
6人のパスポートを「偽造」したものの、アメリカ大使館でシュレッダーにかけた6人の写真は、イラン側の「人海戦術」で復元することに成功しつつあった。
また、彼らをカナダ人としてイランから安全に出国する「理由」を仕立て上げるのが問題だった。
英語教師に仕立てようか、農業の調査官にしようか、など様々な検討がなされた後、CIAの「人質奪還のプロ」トニー・メンデスが考えたアイデアは、まるで映画のような奇想天外なものだった。
6人にSF映画のロケハンに来たハリウッドの撮影スタッフのフリをさせるという作戦。
そしてメンデスは敵を騙すためには、まず味方を騙すことが必要であると考えた。
さっそくハリウッドへと飛び、「猿の惑星」などで活躍する特殊メイク界のジョン・チェンバースの力を借りて「ニセ映画」をでっち上げる。
メンデス、チェンバース、そして映画界の面々はこのデッテ上げに「真実味」をもたせるため、脚本の権利を取得、「スタジオ・シックス」というニセの製作会社を設立、雑誌に広告を掲載、製作発表パーティを開催してニセ映画「アルゴ」を世界に向けて宣伝した。
さらに、メンデスはテヘランへと向かい、6人の館員にカナダ人「映画スタッフ」にみせかける特訓を行った。
カナダの大統領は誰かとか、都市の名前とか基本知識から徹底的に叩き込んだ。
数日の特訓ののち、一行は空港へと向かう。
そして、ニセの書類で税関をクグリ抜ける緊迫の手順を踏んで、ついにチューリッヒ行きの飛行機に乗り込むことに成功した。
そして、飛行機がイランの領空を抜けて脱出を成し遂げた時、安堵感から彼らはブラッディ・メアリー(カクテル)で祝杯を挙げるのである。

日本の近現代史の中で、226事件ほど国中を震撼させた事件はない。要するに陸軍の皇道派が一気に政権を奪うための、政府のトップを狙った同時多発テロである。
そしてこの事件の裏側には、映画「アルゴ」を思い起こさせる奇想天外な「首相救出作戦」が展開されたことは、あまり知られていない。
「アルゴ」のロケハンを首相の「弔問客」とすると、この救出劇となる。
1936年2月25日、東京は記録的な大雪に見舞われた。
「桜田門外の変」もそうだが、歴史を変えるテロ事件の時には、東京に大雪が降るらしい。
それは、迫り来る人々の足音を消すに都合がよい条件にもなったし、飛び散った血痕は、人々に事件の記憶をより鮮烈にとどめおく結果にもなった。
雪が深々と降り積もる中、総理官邸は和やかなお祝いムードに包まれていた。
その主人の総理大臣・岡田啓介は、選挙を終えたばかり。官邸にいたのはいつも岡田啓介を身近で支える人ばかりあった。
その中には、岡田総理を父のように慕う秘書官の福田耕(ふくだたがやす)がいた。
彼らのうち誰も、数時間後に大事件に巻き込まれるなど想像もできないことだった。
秘書の福田が自分の官舎に戻ったのは日付もかわった26日の午前1時過ぎであった。そして午前5時ごろ、凄まじい銃声が静寂を破り、目が覚めた福田は外を眺めた。
福田の目に飛び込んできたのは、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿であった。
彼はすぐに官舎を飛び出そうとしたが玄関に居た兵に制止された。後にわかったことは、この日、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300で、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけた。
そして、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。
そんな中、福田は応援を頼もうと、憲兵隊曹長に電話を掛けるが、かつてない大クーデターの前に為す術がなかった。
そのとき福田が耳にしたのは、兵たちの「万歳の声」。それは岡田首相が殺害されたことを意味するものだった。
そして襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、静けさを取り戻していた。
福田は同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。
尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。 福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。
さらに女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
彼らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
襲撃直後に、捜索を続ける下士官に女中部屋の押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去る。
そして女中たちは怯えて動けない振りをして首相を守り通してきたのだった。
それでは、松尾伝像大佐に一体何がおきていたのか。時間をさかのぼってみよう。
義弟で私設秘書官でもあった松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー格の香田大尉、栗原中尉らも将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画と見比べ岡田首相本人であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、岡田首相を救援に動き出した。政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていたのは女中部屋の押入れで、脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
ところが事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきたのだ。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような奇想天外な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人に只ならぬ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ 」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。
救出後「君、たばこを持っているか?」が総理の初めての言葉であった。
その2日後、二・二六事件は終結した。周囲の命懸けの行動が首相暗殺という事態を防いだ。
命を救われた岡田啓介首相は、事件を防げなかったことに責任を感じ辞職し官邸を去った。
そして事件から16年後に84歳でこの世を去った。
岡田元首相は、2・26事件で、自分を守って亡くなった5人の位牌を作り自宅で供養し続けた。
首相救出作戦を敢行した福田は晩年まで事件の詳細について多くを語ろうとしなかった。
その理由を窺わせるものが、岡田元首相が彼に贈った漢詩の書幅。「栄枯論ずるに足らず」。
尊敬する元首相の座右の銘を自宅に掛け、自分の信条として死ぬまで大切に守った。
人からあれこれ言われても、言い訳や手柄を語る必要はない。自分の真心は天のみが知っているという意味が込められている。