野球選手の御先祖

最近、霧島酒造という焼酎の会社の贈答品パンフレットを眺めた時、その社長の名前に目にとまった。
「江夏順吉」~もしやと思って調べてみると、予想があたった。
元プロ野球選手の江夏豊は、その一族であった。
予想があたったというのは、江夏豊の風貌とかプレーが、薩摩隼人(例えば西郷隆盛)を感じさせるものがあったからだ。
よくいえば「美学を貫く」、悪くいえば「時代遅れ」。その美学とは、サムライの美学である。
江夏豊が巨人戦に初めて登板したのは、1967年5月31日後楽園球場のゲームであった。
リリーフの大役が廻って来た高卒ルーキー江夏は、怖じることもなく当時5年連続本塁打王の大打者・王貞治と対戦し、三球三振で斬って取った。
この時はじめて「プロでメシが食える」と自信がついたと、回想している。
そして先輩の村山実が長嶋茂雄との対決にこだわったように、王貞治との対決にこだわった。
そして王との対決ではほとんどストレート真っ向勝負にこだわり続けた。
そして江夏が、生涯でもっとも本塁打を多く打たれたのも王貞治であった。
その一番のエピソードは1970年6月11日。通算1000奪三振記録を「王さんから獲る」と志願の登板。王に対し「ストレートの握り」を見せて勝負を挑んだ。
しかしその王に2ホーマーを打たれ、新聞は「個人記録に拘り、チームの勝利を犠牲にした」と批判した。
また1968年には401奪三振世界記録を樹立するが、日本タイ記録である353個目の三振を王から奪った。
さらに「新記録は王さんから獲る」の公約を守るため打者一巡「三振を獲らずにアウトだけを獲る」という曲芸をやってのけ、実際に新記録の354個目の三振を王から奪った。
こうした江夏は、「勝ち負け以上のものがあること」をプレーで示したサムライともいえる。
さて江夏豊は、鹿児島県出身の母親が、大阪大空襲で疎開した奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで生を享けた。
間もなく両親が離婚し父も失踪したため、生後半年で鹿児島県市来町の母の実家に移って5年間を過ごした後、母と二人の兄と共に兵庫県尼崎市に移り、高校卒業まで尼崎で育っている。
兄弟姉妹皆父親が違う複雑な家庭であり、江夏姓も母方の姓だった。なお、江夏とは南九州に多い姓で、本来は「こうか」と読む。
「江夏(コウカ)」は中国河南省泌陽県の北にあり 漢朝になって湖北省武漢あたりが「江夏」と称されたといわれている。

1646年、明末の乱をさけて、中国広東省潮州より、船を出して薩摩の国内之浦に入港した一団があった。
鹿児島県・内之浦は当時都城藩の飛地であったが、この一団の中に漢方医・何欽吉(かきんきつ)がいた。
彼らは志布志を経由して都城の唐人町に入居する。
欽吉は漢方の医者としてかなり功績があり島津家にも仕えていた。
都城市営西墓地の北側に黒い自然石で墓石があり これは県指定の史跡ととなっている。
その一団の一人が 江夏七官で、その後出身地にまつわる日本名を名乗り都城に住み始めた。つまり、この江夏七官が江夏家第一代である。
江夏の祖先は漢学者であったらしく島津家で漢学を教えていた。
江夏七官は日本人と結婚した後、都城市三股町梶山に住み、そこに氏神様を祭って大切にしていた。というわけで都城には江夏の子孫が多く住んでいる。
「黒霧島」の酒造会社もその分家一族である。
週刊文春(2009年9月)によれば、霧島酒造を創業したのは江夏豊の「祖父」で、宮崎県都城市に本社及び工場を置いていると掲載されたらしいが、霧島酒造創業者との関係については、記事の信頼性に疑問あるらしい。とはいっても「江夏一族」であることには違いはない。
1916年、霧島酒造は創業者の江夏吉助が、都城で芋焼酎の製造を始めたのが会社の起源である。
1955年、工場近くで掘り当てた天然水を「霧島裂罅水」(きりしまれっかすい)と命名し、それ以降は一貫して「霧島裂罅水」で仕込んだ焼酎を中心に作り続けている。
「乙類焼酎」を「本格焼酎」の名称・表示にすることを提案したのは、二代目社長・江夏順吉で、1957年に熊本県で開かれた「九州旧式焼酎協議会」での会議で「本格焼酎」の名称使用を提唱した。
そして、1962年の大蔵省令により法的にも「本格焼酎」の呼称が正式に認められた。
江夏順吉は地方酒造会社の跡継ぎながら、東京帝国大学(現・東京大学)工学部で応用化学を学んだ学者肌の人物でもあり、自ら焼酎のブレンディングや蒸留機の改良などに取り組んだ。
江夏豊が現役の時代に、酒造会社との関係が言及されることはなかったのは、このころ会社は零細企業といってよく「黒霧島」の名もナカッタ。
しかし、3代目社長の江夏順行の経営体制下では、順吉時代の高品質路線を継承しつつ、芋焼酎の臭みを押さえた新商品「黒霧島」の開発と営業拡販に努め、2000年代の焼酎ブーム期にも着実な事業拡大を継続した。
その結果、2012年には売上高が初めて500億円超を達成し、本格焼酎メーカーで売上高日本一となっている。

江夏豊のルーツが中国湖北省なら、王貞治は台湾出身。そして、両者の勝負の舞台が「後楽園球場」。
この「後楽園」に縁が深いのが明の遺臣・朱舜水であるが、「江夏七官」とよく似た経緯で日本にやってきているのが面白い。
1644年 徳川家光の時代、中国では李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺し明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。
しかし、「明朝復活」をはかろうという遺臣達がいた。
その一人が明の武将・鄭成功で、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に「反攻」を試みようとしていた。
鄭成功の方はあえなく39歳の若さで台湾で急死したため、明末の儒者であった朱舜水は「明朝復興」を諦めざるをえず、日本に亡命した。
そして長崎の地で朱舜水と最初のコンタクトをもったのが、福岡柳河藩の安東省庵であった。
安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義した。
ところで朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした「実学」で、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも及んだ。
光圀は庭園の造成に当たっても朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を取り入れた。
後楽園の名は、中国の范仲淹(はんちゅうえん)「岳陽楼記」にある「先憂後楽」から名づけられた。
「民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ。」という光圀の政治信条によったものといわれているが、朱舜水こそ「後楽園」の名の提案者である。

最近、たまたま福岡県の高校野球指導者の中に、記憶に残る元・高校球児の名前をみつけた。
「楠城徹」と「今久留主邦明」の名前。懐かしさと同時に、福岡県の二人の高校球児が時を隔てて、こうして「相まみえる」ことに感動さえ覚えた。
実は、当時の高校野球の解説者が「この大会のNO1捕手は、小倉の楠木選手か博多工業の今久留主選手かどちらかでしょう」と語ったのをいまだに鮮明に覚えているからだ。
1969年「春の選抜」に、楠城徹は小倉高校の4番捕手、今来留主邦明は博多工業高校の4番捕手として出場している。
小倉高校は1回戦で2-4で太田幸司擁する三沢高校に敗れているが、この年博多工業高校は全国「ベスト4」になっている。
博多工業高校の岩崎投手のヨコに大きく曲がるスライダーに多くの打者が翻弄される姿は、見ていて爽快だった。
岩崎投手は、ドラフト4位で東映フライアーズ(現・日ハム)に入団し、1974年に引退。現在は糸島ボーイズの代表である。
さて楠城と今久留主は「主将で4番捕手」以外にも色々共通点があるが、まずは高校卒業後に巨人からドラフト指名(楠城:巨人7位/今久留主:9位)をうけたことである。
そして二人ともそれを拒否し、それぞれ早稲田大学、明治大学と進んでいる。
特に楠城は早稲田大学の野球部主将として「日米大学選手権野球」の第二回全日本チーム主将もつとめた。
この時のオーダーには、「藤波(中大)・山下(慶大)・山本功(法大)・佐野(中大)・中畑(駒大)」など錚々たるメンバーがいた。
一方、今久留主は博多工業高校で主将と捕手を務め1968、69年の春に甲子園出場し、69年にはベスト4に入ったが、その夏は福岡大会4回戦で敗退している。
明治大に進学して、その後は社会人の日本鋼管福山(現JFE西日本)でアマチュア界で活躍した。
そして楠城と今来留主の最終の共通点は、ふたりとも故郷・福岡県の高校野球の指導者となっていることである。
楠城は、九州国際大学付属高校監督、今来留主は福岡市西区の筑前高校のコーチとして高校野球の指導にあたっている。
こうして二人がそろって福岡県の高校野球の指導者として立つことになったのも、2014年1月にプロ野球経験者が高校生を指導する道が開け、教員でなくても監督ができるように条件が緩和されたからだ。
ところで「今久留主(いまくるす)」という名前は、稀少な名であるが、鹿児島県を中心に分布している名前だという。
台湾が日本統治下にあった1931年、夏の甲子園大会に出場し決勝にまで進出した台湾チームがあった。その時の監督は近藤兵太郎という人だった。
近藤は1888年に愛媛県松山市萱町で生まれで、1903年に松山商業に入学し、創部間もない弱小の野球部に入って内野・外野手として活躍し、主将も務めた。
卒業後は徴兵検査を受けて松山歩兵二十二連隊入営、陸軍伍長として満期除隊し、家業を継いだ。
周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれる反面、生徒から「まむしと近藤監督にはふれるな」といわれるほどに恐れられた。
1918年に母校・松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督)となり、翌年にははやくも松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導いている。
1919年秋、野球部コーチを辞任するや台湾へと赴き、1925年に嘉義商工学校に「簿記教諭」として着任した。
その後1931年、同じ嘉義にある嘉義農林学校の野球部の1931年に監督に就任した。
この年には、はやくも嘉義農林を第17回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)においてチームを初出場ながら決勝まで導いている。
決勝では、この年から史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ、準優勝に終わっている。
近藤は1946年に日本に引き揚げ、晩年は新田高等学校や愛媛大学などで野球部監督を務めた。
近藤は嘉義農林の野球部が台湾人、日本人、原住民族の混成チームであることに違和感を覚えず、校内で野球に適した生徒を見つけて野球部に入部させた。
そこで台湾最強チームを作るべく、松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、チームを創部3年めにして、全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
準優勝したメンバーのうち、レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族(高砂族)4人であった。先住民族の走力のせいか、非常に快速のチームで、準々決勝の札幌商戦では1試合で8盗塁を記録している。
当時の嘉義農林の活躍はセンセーショナルで、作家・菊池寛は観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と記している。
また近藤兵太郎は、「日本人、台湾人、先住民族(高砂族)が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」とまで言っている。
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チームが弱いはずがないというわけだ。
ちなみに、現・北海道日本ハムファイターズの「陽岱鋼」(よう だいかん)は、台湾の台東県台東市出身で、台湾の原住民・アミ族出身である。
台湾人史上最高位の指名(ドラフト1位)を受け、台湾では話題となった。
日本国籍を持たないが、日本の高等学校(福岡第一高校)に3年以上在籍していたため、規定により日本国籍を持つ選手と同等の扱いを受けている。
そして2014年台湾で、近藤が指導した嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の野球部の活躍を描いた映画がつくられた。
「KANO 1931海の向こうの甲子園」で、翌年日本でも公開され、永瀬正敏が近藤を演じている。
「KANO」は、それまで1勝もしたことがない嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園で大旋風を巻き起こした実話をもとに制作され、台湾映画史上、空前の大ヒットとなった。
ところで、近藤兵太郎は、嘉義農林を率いて春夏連続出場した1935年夏の甲子園で、準々決勝の相手は母校の松山商業であった。
延長戦の末4-5で惜敗したが、松山商はその後、準決勝・決勝と勝って初の全国制覇を達成している。
応援に駆け付けた近藤兵太郎は松山商を率いていたかつての教え子・森茂雄監督と涙を流して喜んだという。
そして、1935年嘉義農林学校が夏の甲子園に出場し8強に進んだ時の日本人選手の中に、今久留主淳(いまくるす すなお)という選手がいた。
今久留主淳は、戦後はプロ野球・西鉄(現西武)などで内野手として活躍し、現役引退後、西鉄のコーチや寮長として選手を育てた。
この今久留主淳の息子こそ福岡市の筑前高校野球部のコーチ今久留主邦明コーチである。
この今久留主淳を嘉義農林学校で指導したのが近藤兵太郎で、「古豪松山商業」の基礎をつくった人物といってよい。
今久留主邦明が博多工業の主将捕手4番として出場したのは1969年「春の選抜」だが、その年の夏の甲子園で、松山商業が三沢高校との死闘の末、全国制覇を成し遂げている。
三沢高校のエース大田幸司はロシア人の血をひく甲子園の元祖アイドルだが、名勝負を生んだ野球選手の背後には、大海原の波頭を超えて日本に渡った先祖達のドラマチックな生涯があった。