「葦舟」をこぐ人々

およそ3万年前人類はどのように今の台湾から沖縄に渡ったのか。
先日、そのことを検証しようと、国立科学博物館などのグループが当時を想像して「草の舟」を作った。
目的地の西表島に到着したものの舟は潮に流され、全体の半分以上の区間で航海を見合わせ、伴走船に引かれることになった。
「祖先の実像に迫りたいと思ったが、どうやって海を渡ったのか逆に謎が深まった」と研究グループは述べている。
さて、ヒトの歴史においては最古の船というのが「葦船」である。葦船とは「葦」(パピルス・リード)を縄で束ねただけの原始的な船で、このたびテレビで見た「草船」と同じ型であろう。
古くは、エジプト文明やティワナコ文明に登場し、ティグリス川、ペルーの海岸線、アマゾン川、ラプラタ川、ナイル河、チチカカ湖、ヴィクトリア湖等に現存している。
実は、「葦船」は日本の「古事記」にも登場する。
イザナギノミコトとイザナミノミコトとの間に生まれた最初の神様である蛭子命(ひるこ)が、「葦舟」に乗せられて海に流されたと記されている。
そればかりか「葦船」は日本各地も今も現存している。秋田市の日吉八幡神社や鹿島神社などでは、「葦船」が神輿となっており、神事に際して「葦船」の姿が見られる。
「葦船」を使って漁が行われていたという話も伝えられており、屋根を葺いたり、むしろを編んだり、その記憶は生活の中に脈々と受け継がれているのだ。
さて「葦舟」で思い浮かべるのが旧約聖書に登場するモーセである。
イスラエルが飢饉でエジプトに寄寓したさい、エジプトのファラオの命令で奴隷であったイスラエルは子供を殺すことを命じられる。
一人の母親がそれに忍びず、産まれて間も無い子モーセを「葦舟」に乗せてナイル川に流す。
この時、たまたまナイル川の下流ではファラオの王女が水辺で水遊びをしおり、そこに「葦舟」に乗せられたモーセが流れてくる。
哀れむ王女は、幼い赤子であるモーセを拾い上げ、王子として育てることを決意する。
成人した後、モーセは自分の出生の秘密を知り、エジプトの豪奢な生活を去りシナイ山のふもとで静かな牧畜生活を営む。
ところが、80歳にして神より、エジプト王にイスラエルを去らせることを告げるよう命ぜられる。
ここからが「出エジプト」のドラマの始まりである。

テレビで「草船をこぐ人々」を見ながら、突飛な思いが浮かんだ。
それは「魏志倭人伝」にある朝鮮帯方郡から邪馬台国への行程についてだが、福岡にあった伊都国までは具体的で詳細であるにもかかわらす、それ以降は「水行10日陸行1月」などと、それまでの「○○より東200里」などといった記述に比べ、極端に「大雑把」になっていることに関わることである。
つまり「伊都国」以降は不確かな伝聞や推定に基づくものであるとして、学者たちは方角や距離が間違っていると、それぞれ「畿内説」「九州説」を唱えているのだが、原文(の訳文)を実際に読むと、「魏志倭人伝」の著者は、邪馬台国の「位置」を意図的にボカシたのではないか、という気さえしてくる。
少なくとも、まともに「邪馬台国」に至る道を伝える気持ちを放棄しているようにも思えるのだが、それがナゼかということである。
ところで、世界の中の民族の中で、日本人ほど己のルーツを知らない民族はいないといわれいている。
一方、世界にはイスラエル12部族中「10部族」など歴史的に「行方不明」となった民族もある。
それとともに、ユダヤ人にとって、とてつもなく重要な「紛失物」が存在する。
それはモーセがシナイ山で受けた「十戒」が刻まれた石板2枚とそれを入れる「契約の箱」である。
この箱は「失われたアーク」とよばれ、しばしば物語や映画の題材となっている。
「契約の箱」は、内にも外にも金が張りめぐらされており、エルサレムの神殿の「至聖所」といわれる場所に安置されていた。
イスラエル人が移動するに際しては、移動式神殿とともにその「契約の箱」も移動したのである。
それは、イスラエル人にとって、単なる金でも箱でもなく、神と古代イスラエル人との「契約の証」なのである。
欧米がしばしば「契約社会」いわれるが、この箱こそがその「始源」であるといっても過言ではない。
古代イスラエルが新バビロニアのネブカドネツァルによって攻められ、BC587年、エルサレムの神殿が破壊されるに及んで、その行方は杳としてわからなくなった。
ユダヤ人ラビであるM・トケイヤー氏がその著「日本買いませんか」(1976年)で明らかにしていることによると、マッカーサーが占領当時、四国の石鎚山において「契約の箱」の調査をしていた。
石鎚山がシナイ山によく似ているらしく、実際に「失われたアーク」伝説が残っているという。
中世ヨーロッパにおける十字軍遠征の一つの目的は、この「契約の箱」を探すこともあったのである。
これは、ユダヤ教徒のヴィジョンである「イスラエル完全復興」からみると、重大事である。
何しろ「契約書」がないのだから。
ユダヤ人は、おおよそ紀元1世紀ごろにローマに攻められ、以後「離散し」(ディアスポラ)国を失った。
そして長い迫害と放浪の末に、1948年に国連によりようやく「イスラエル国家成立」を認められ「復興」することができた。
これは、聖書の「申命記30章」にあるごとくに「あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める」という預言が実現したともとらえられる。
しかし、この事実をもって彼らは「イスラエル完全復興」と心底から思えないに違いない。絶対に!
それは、イスラエル周辺に「アラブ人居住区」をもち、常にテロの不安にさらされているからではない。
それを探るために、この「契約の箱」が一時期ペリシテ人(パレスティナの語源)によって奪われた時の事態を、旧約聖書の「Ⅰサムエル記」からみたい。
その時、イスラエルは打ち負かされ、「契約の箱」はペリシテ人に奪われてしまい、その結果「イ・カボデ」(神の栄光は去った)のである。
「主のことばはまれにしかなく、幻も示されない」という「神の臨在」喪失の時代を迎える。
ただ預言者サムエルにだけは、主はご自身のことばをもって現わされた。
この時代にイスラエルの民は、他の国と同じように人間の王を求め、はじめてイスラエルに「王制」が導入されることになる。
最初の王としてサウルが立てられたが、その「礼拝態度」はキワメテお粗末だったといってよい。
そして「契約の箱」はペリシテ人に奪われる結果となるが、反対にペリシテ人はこの箱の故に「疫病」に悩まされ、多くの者が打たれたという。
そこでペリシテ人は、その箱をアシュドテ、ガテ、エクロンへとたらい回しにし、結局、神の箱は贈り物をつけられてイスラエルに送り返された。
「契約の箱」がペリシテ領内にあったのは「7ヶ月」であったという。
結局「契約の箱」は、奪い取ったペリシテ人には「災い」をもたらし、イスラエルはソレを「取り戻す」に及んで「その力を回復」したことがわかる。
現在、かつての「エルサレムの神殿」にはイスラム教徒により「岩のドーム」がもうけられており、神殿に収ムベキ「契約の箱」が失われている。
ダルマに「目」が入っていない状態で、それなくしてイスラエル王国の完全復興はありえない。
「聖書の黙示録」には、それが見い出されるという預言がなされてあり(ヨハネ黙示録11章)、ますます彼らはそれを探し出そうとしているのである。

大多数の人にとって、古代イスラエルと日本の間に何らかの「繋が」りがあろうなどとは、その位置関係からしてユメユメ思わないにちがいない。
しかし、古代イスラエルの十二部族のうち「十部族」がシルクロードを移動した痕跡が各地に残っている。つまり「ユダヤ人・コミュニティ」と思わせる地名や遺跡がアジア各地に点在しているのだ。
ちなみに、イスラエル十二部族のうちパレスチナに残った二部族のうちの一つ「ユダ族」の名前から、古代イスラエル人は「ユダヤ人」という名前でよばれるようになった。
さて、シルクロードの終点こそが「日本」である。その点で、我が地元・福岡県の吉井町の珍塚古墳に「エジプトのファラオが舟で遊ぶ壁画」(下図)が存在することは、驚きという他はない。
そしてもしも、「契約の箱」がシルクロードを伝わって日本に移動したのなら、「契約の箱」を運ぶことを許された「部族」に注目するのが自然である。
実は、それが許されたのはイスラエル十二部族中で「レビ族」の人々である。
「レビ族」はユダヤ社会にあって代々「祭司職」を務めた血統であり、世俗の職から離れ神へのささげものを食することが許され、その血統は今も続いている。
彼らが「契約の箱」を運ぶその姿は、日本人が祭りに際して「神輿」を運ぶ姿にソックリである。
イスラエルが紅海を渡ってシナイ山で十戒をうけた時のように、「葦の舟」を漕いで日本海を渡り、どこかの山懐に「契約の箱」を隠した可能性はないか。
ここで注目したいのが、京都府の丹後半島の「元伊勢籠神社」で、大陸からやってきた「海部族」がを作ったというが、レビ族と関係はないのだろうか。何しろ、この神社こそ「伊勢大社」の源流なのだから。
ちなみに、「草の舟」で台湾から日本への航海にトライした国立科学博物館のリーダーの名は「海部陽介」氏である。
さらに、8世紀の平安京の建設にあたっては、韓半島から渡ってきた「渡来人」秦氏(はたうじ)が中心的な役割を果たした。
それ以前ワンクッションあって、平安京遷都の10年ほど前に長岡京遷都を行っているが、その時、「造宮使」藤原種継が暗殺されて、あらためて平安京に遷都がきまった。
実は、この藤原種継の母親が「秦氏」であり、京都市右京区「太秦(うずまさ)」がその本拠にあたる。
数年前まで「雅楽家」としてマスコミにしばしば登場した東儀秀樹氏だが、東儀氏は奈良時代から続く雅楽の「楽家」(がくけ)の家系に生まれ、1500年ほど前まで溯る由緒ある家柄なのだが、そのルーツは秦氏である。
聖徳太子が生きていた時代の秦氏の族長こそ東儀氏の先祖であたる「秦河勝」で、聖徳太子のブレーン及びパトロン的存在でもあった。
その証拠に、秦河勝は太秦に「広隆寺」を建て、聖徳太子より「弥勒菩薩」半跏思惟像を賜り、それをコノ寺に安置している。
また、右京区西京極には「川勝寺」とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」との碑がある。
数年前に、瀬戸内海に面した「秦氏ゆかり」と聞いた岡山県の赤穂市に近い港町「坂越」を訪れたところ、神社の境内で東儀氏の名をみつけ、東儀氏が秦氏から「分かれた一族」であることを初めて知った次第である。
秦河勝は、聖徳太子亡き後、蘇我入鹿の迫害をさけ、坂越にやってきたのだ。
村人の朝廷への願い出により、創建されたのが「大避神社」である。
なお秦河勝が、故郷の「弓月国」からもってきた「胡王面」がこの神社にあり、そこには「天使ケルビム」の像が彫られている。
このケルビムは、「契約の箱」にとりつけられたもと同じであり、イスラエルと秦氏との関係を物語る最も有力な「証拠」である。
秦氏は、「日本書紀」によると応神天皇14年に「弓月君」(ゆづきのきみ)が、朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し「秦氏」の基となったという。
彼らは、キリスト教「ネストリウス派」ではなかったかと推測される。
ネストリウス派は、インドや中国に伝わるが、中国では「景教」と呼ばれた。
ということは、ザビエルによる「キリスト教伝来」よりも9世紀も溯る聖徳太子の時代には、「福音書」の内容などが日本に伝わっていたことになる。
秦氏が仕えた聖徳太子の本名は「厩戸皇子」(うまやどおうじ)だが、イエス・キリストが「馬小屋」で生まれた伝説を連想させる名前ではないか。
一応、彼らの「出身地」は朝鮮半島となっているが、朝鮮半島は単なる「経由地」であり、そのルーツはペルシャからウィグルを経由して中国・秦国にやって来たのである。
その西域諸国のウィグルあたりに「三日月王国」という国があり、中国の史書「資治通鑑」では、この国を「弓月(クルジャ)王国」と表記している。
秦氏は中国の秦の「万里の長城」の建設に従事し、土木事業に優れた能力を身に着けていた。
そこで彼らは、天皇の権威を誇示するために「巨大前方後円墳」の建設をはじめ、数々の土木工事を行ってきた。
例えば、淀川流域は氾濫が多く荒れ果てていたが、ここに堤防を築き難しい「治水工事」をやってのけ、「京都盆地」一帯をソノ所有地にした。
その際、相次ぐ鴨川や桂川の氾濫で荒れ果てた土地を治水工事によって川の流れを大きく変えて、そこを住みやすい土地に改良していったのである。
この秦氏は645年の「大化の改新」後に、秦、畑、波田、羽田などの「姓」に変えていった。
これらの人々が住んっだ場所が畑野、畠山、波多野、八幡などの地名がついたのである。
ところで平安京遷都には秦氏が大きく関わり、平安遷都のための巨額な資金も「秦島麻呂」が出した。
「平安京」という名は、イスラエルのエルサレムと同じ意味で、エル・サレムはヘブル語で「平安の都」という意味である。
また京都の近くに「琵琶湖」があるが、イスラエルには琵琶湖と大きさも形も似た「ガラリヤ湖」という湖がある。
「ガラリヤ湖」は、古代には「キネレテ湖」と呼ばれていて、「キレネテ」とは「琵琶」を意味している。
また、平安京を建設した秦氏は、全国に数多くある「稲荷神社」の創建にも深く関わっている。
その稲荷神社の頂点に立つのが、京都の伏見稲荷大社で、秦氏の首領だった「秦公伊呂具」が創建したものである。
実は、稲荷神社は秦氏の「氏神」であったのだ。
都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。
さらに、空海が東寺建造の際に秦氏が稲荷山(現在の伏見稲荷の地)から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の「守護神」とみなされるようになった。
ところで「魏志倭人伝」において、238年卑弥呼が魏国に朝貢して「親魏倭王」の称号をうけている。渡来人の秦氏が日本にやてきたのは283年で、「三国志」を書いた陳寿がなくなったのが297年である。
さて我が「疑問」は、陳寿が「三国志」中の「魏志倭人伝」を書くにあたり、邪馬台国に至る過程をボカシた理由である。
陳寿は、その行程を一般には伝えたくなかったのだ。
あくまでも仮定の話だが、イスラエルの「契約の箱」が日本に運ばれているとすると、当時の「邪馬台国」に「契約の箱」がある、またはソレに関する情報がある「可能性」を意識したにちがいない。
というわけで、陳寿は邪馬台国の「場所」を正確に書き記すことをタメらったのだ。
ちなみに、秦氏とイスラエル10部族との関係性は大いにありそうだが、「三国志」の著者・陳寿とイスラエルの関係を示す資料には、今のところ出会えていない。
もっとも、記録者の陳寿より「邪馬台国行程」の元データの提供者が、それをボカした可能性の方が高いが、いずれにせよカナリ突飛な推理ではあります。