父子の十字架

日本における特攻作戦の始まりは、「桜花作戦」というものだった。
太平洋戦争末期、日本が劣勢に立つ戦局を一気に挽回するために、特攻兵器「桜花」を導入する作戦だった。
かつて、阿川弘之が小説「雲の墓標」で描いたのは、この「桜花」に乗り込まんとした特攻隊の青年達の姿である。
「桜花」は、機首部に大型の爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、航続距離が短いため母機に吊るして目標に接近させなくてはならない。
目標に近づくや搭乗員は「桜花」に乗り移って、母機から切り離し、火薬ロケットを噴射させて誘導しながら滑空して、敵艦に「体当たり」するものである。
「一発必中」と喧伝されたが、この特攻兵器こそは、世界に類を見ない有人誘導式ミサイルで、「凶器」とも「狂器」ともいえる新型兵器だった。
なお、連合国側からは、その非人間性ゆえに、日本語の「馬鹿」にちなんだ”BAKA BONB”(馬鹿爆弾)なるコードネームで呼ばれていた。
この「有人誘導爆弾」を思いついたのは、ひとりの海軍少尉だったが、その考えを航空技術廠に持って行った時の様子は、当時、航空技術廠で技官だった人物が戦後書いた本に記載してある。
発案者「O海軍少尉」と航空設計技師の三木忠直とのヤリトリは次のようなものであった。
童顔の廠長と向き合ってイカツイ肩の男が座っており、差し出した名刺は海軍少尉「O」。
その右肩にペン書きで第1081海軍航空隊とある。
廠長:「一発必中の爆弾なんだかね」。
三木忠直:「それで誘導装置は?」。
O海軍少尉:「人間が乗ります」。
三木忠直:「なんだって?何が一発必中だ。そんなものが作れるか。冗談じゃない」。
廠長:「三木部員、技術的な検討だけでもしてあげたらどうかな?」。
三木忠直:「技術的に見てもこれは兵器と呼べる代物ではありません。少尉、君は体当たり体当たりと言われるが一体だれを乗せるつもりだ」。
O海軍少尉:「私が乗って行きます。私が」。
三木は絶句した。切羽詰まった戦局を打開しようという一念とはいえ、こともなげに命を捨てるという相手に虚を突かれた。
この提案を受けた航空本部は「軍令部」(=海軍本部)に意見を求めたところ、ちょうど「特攻兵器研究」の真最中で、この提案に飛びついた。
そして間もなく、正式な「試作命令」が空技廠に下ったのである。そして、実際の設計は提案に猛反対した三木忠直技術少佐が担当することになった。
風洞実験結果、空力計算書、基礎設計書など「基礎資料」を基にわずか1週間で基礎図面を書き上げ、さらにその1週間後には「1号機」を完成させた。
戦闘員の「人命」を考慮にいれなければ「飛行機」とは案外と簡単につくれるものなのだ。
帰還を考える必要のない兵器であることから、ジュラルミンや銅等の戦略物資に該当する各種金属を消費しないように材料は木材と鋼材を多用し、車輪はなかった。
また、着陸進入を考慮した翼型ではなく、ただの平板の尾翼を持つなど、高速で飛行し「ある程度操舵ができる」程度にしか設計されていない。
ただし、この新兵器に対して実戦のパイロットから、「日本一の俺が最精鋭を連れて行っても桜花作戦は成功しない、必ず全滅する」と、現実を直視していない上層部に対して血を吐くような批判も出た。
なによりの欠点は、この小型爆弾を下げた大型飛行機(母機)は敵に狙われやすく、周囲を攻撃機で守られながら飛行しなければ、敵艦に近づけない。
したがって、母機が敵艦隊に接近するためには、「制空権」の確保が前提となるのだが、制空権を握っているくらいなら、「特攻」なんて必要がない。
さて以上は、別稿で以前書いた文章の一部だが、「有人誘導爆弾」による特攻作戦のアイデアを出した人物をあえて「O海軍少尉」としたのは、この作戦を提案した人物に「有人誘導爆弾」の責を全面的に負わせるようで、名前を明らかにすることが躊躇われたからである。
海軍少尉は、たかだかアイデアを提案した人物であり、それを現実のものとすること方が、はるかに強力なチカラを必要とするにちがいないと思えたからだ。
ところが先日のNHKの「ETV特集」では、海軍少尉の息子が「父の実像」を追跡するという内容で、はっきりと「大田正一」と名前が出ていたため、以下では実名を使いたい。
実は、「有人誘導爆弾」桜花は、発案者・大田正一の頭文字をとって「○大金物」(まるだいかなもの)とも呼ばれた。
そして、大田正一は終戦の3日後、零戦に乗って海に飛び込み、自殺を遂げたとされていた。
その時の様子を目撃した隊員は、「戦闘機が古いミシンが縫うように、するすると空に舞い上がったと思ったら、いつのまにか見えなくなった。ところが後で、漁船に助けられたという連絡がはいった」と語った。
そして同僚たちの中に、大田の目撃情報が寄せられるようになった。
実際、大田正一は生きていた。「横山」という偽名を使い、新しい家庭を作っていたのだ。

さて、前述の「ETV特集」は、戦後70年の節目に、息子の大屋隆司氏(63)が妻とともに、戦争中の父を知る元桜花搭乗員を訪ね、父・大田正一の実像を探っていくという内容だった。
そして、息子は、知られざる「大田正一」の過去と向きあうことになる。
隆司氏は父親の名が「偽名」だとは知らずに育ってきたが、中学生の時に母親から父親の本当の名前を聞いた。以来、隆司氏は母方の「大屋」姓を名乗った。
ただ息子は、それ以上詳しい話を聞くことはできなかった。
その後息子は、父親が「有人誘導爆弾」の提案者であることを知るが、まずそういう兵器を考え出すその人間性を疑わざるをえなかった。
そして、子煩悩でやさしかった父と、そういう兵器を考え出せる非情さとが、どうしても結びつかなかった。
父は本当はどんな人間だったのか。父が背負い続けたものとはいったい何だったのか。 そのことがずっと心の中で澱のように沈んでいった。
父の死後、息子は父の素性を調べる中で、家族に隠してきた事実が少しずつ分かってきた。
大田正一は、1928年15歳の時に海軍を志願し、日中戦争にも参加した叩き上げの軍人だった。
魚雷や爆弾を投下する攻撃機の搭乗員で、行く先を指示する偵察員として戦火をくぐり抜けてきた。
しかし1942年、ミッドウェー海戦に敗北以降、各地で消耗戦が続き戦況は悪化する一方であった。
そんな中、大田は戦局を挽回する秘策として思いついのが「有人誘導爆弾」であった。
桜花の構想は海軍に採用され、1944年秋には茨城県神ノ池に訓練基地ができた。
そして、各地から搭乗員が集められ「神雷部隊」が誕生する。
大田正一は発案者としてこの部隊へ特別待遇で迎え入れられ、一人表札を掲げられた個室が与えられた。
しかし1945年3月21日、初めての桜花攻撃を行ったが、2トンを超える桜花をつり下げその重みで動きが鈍くなった母機は桜花もろとも撃ち落され、1機も敵艦に到達することさえできなかった。
もともと桜花攻撃では桜花を抱いて動きの鈍い攻撃機を、その4倍の数の戦闘機で護衛するはずであった。
ところが実際に援護にあたった戦闘機は半分にも満たなかった。
結局、神雷部隊は期待された戦果を上げることができず、敗戦までに829人が戦死している。
大田正一は「自分が乗っていく」と言っていたにも関わらず出撃隊員になることはなかった。
しかも作戦の失敗が続いた後も大田正一は新聞に「英雄」として登場した。
このことがさらに隊員たちの気持ちを逆撫でした。
大田正一が桜花を発案したとされる1944年、不利な戦況を前に政府はどうにかして国民の士気を高め、もう一度戦局を打開できないかと模索していた。
実は軍や政府は死と引き換えに大きな戦火をあげる新兵器の登場が国民の戦意を高揚させる手段になると考えてきた。
ちょうどその頃、死を前提とした新兵器の必要性を仲間に説いていたのが大田正一だった。
結局、多くの戦死者を出して終わった桜花による特攻作戦だったが、発案者である大田正一は自ら桜花に乗ることはなく終戦をむかえた。
大田正一は終戦の3日後、戦闘機に飛び乗り自殺を図り、大田は死亡したとされ、戸籍も抹消された。
しかし、大田正一は全国各地で目撃され、新しく戸籍を得たというウワサも流れた。
かつての搭乗員の元に現れては金の無心をしたという話も残っている。
大田正一の自殺は狂言だったとまでささやかれたが、その行方は誰にも分からなかった。

前述のとうり、大田正一の「有人誘導爆弾」の案に激しく抵抗したのが、当時の航空機設計技師の三木忠直である。
三木は終戦後、現実となった人間爆弾「桜花」の設計者としての「十字架」を背負って生きていかねばならなかった。
そして三木は、あたかも過去を清算するかのように、「新幹線」プロジェクトの技術開発の中心として邁進していった。
かつて開発した「桜花」は帰ってくるための補助車輪も燃料も積んでいない飛行機であり、技術者としては絶対に作りたくないモノであった。
しかしそれは「戦時」であり、その抵抗感を押し切るだけの時代の「切迫感」が漂っていた。
それでも三木は、自分の設計した「有人誘導爆弾」で多くの戦闘員を死なせてしまったことに負い目を感じるところがあり、キリスト教の洗礼をうけている。
そういえば「ETV」特集で、生き残ったひとりの戦闘員の印象に残った言葉があった。
「1945年8月15日までは神様。それ以後は、チンピラ」。
三木は終戦時に働き盛りの30代だったが、戦争責任問題で就職はできず、ようやくて国鉄の外郭団体の「国鉄鉄道技術研究所」に職を得ることができた。
ただ、研究所とは名ばかりで、不況で食えない技術者達を吸収する組織だった。
それでも三木は、その当時の気持ちを、「とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにした」と語っている。
そして、「今度こそは、本当に日本人の役に立つ技術開発をする」という決意であった。
当時の国鉄は、発展する「航空旅客産業」の発展に対しても危機感をつのらせていた。
確かに東京ー大阪間の7時間と1時間30分では、勝負は目に見えているからだ。
そこで三木は「東京―大阪 3時間台」と銘打った一大プランを打ち出し、1958年7月、国鉄総裁の前でその実現可能性を力説した。
そして国鉄総裁は三木の情熱と確信に押されて「新幹線プロジェクト」にゴーサインを出すこととなったのである。
実は、新幹線開発には、三木らが生み出した「航空機」開発の技術が余すところなく注入されている。
まず第一に空気抵抗の少ない流線型の車体が、粘土細工によって、幾度となく試作された。
この開発に当たって、三木の脳裏には常に自分が作った急降下爆撃機「銀河」の流線型ボディがあったという。
また、世界最高水準の250キロを超える超高速での走行には、車体の「揺れ」を防ぐ技術開発が必要であったが、 当時史上最強の運動性能を持つと言われたゼロ戦の機体の揺れを制御する技術を研究していた技術者が招かれた。
さらに、安全面を重視する時、電車が近づいた時や地震があった時など、安全装置が働いて、新幹線が「自動で停止する」ような仕組みが必要とされた。
これが世界に誇る「自動列車制御装置」(ATC)で、やはり軍で「信号技術」を研究していた技術者があたった。
そして1964年10月、東京オリンピックの開催に合わせるかたちで、東海道新幹線は開通し、東京~大阪間を当初の目標通り3時間半で走破する「夢の超特急」が最高速度210キロを記録した。
新幹線は、オリンピックで世界中から集まった人々の賞賛を浴び、日本の科学技術の水準の高さを内外に示すと共に、以後の日本経済の飛躍的な発展の「原動力」ともなっていった。
しかし、三木忠直は新幹線の完成によって、「自分持っている技術のすべては出し尽くした」と国鉄へ「辞表」を提出し、周囲を唖然させている。

ところで、大田正一は、1951年頃から大阪でひっそりと暮らしていた。
素性を隠し大屋義子さん(現91歳)と出会い家庭を築いた。
義子さんは、初めて大田正一を見たとき、かっこよく頼りがいがあると思ったという。
しかし、まもなく騙されたと思うようになった。
すぐに仕事をやめてしまうからである。
しかし真相は、大田は働こうにも、必要な書類が出せなかったのである。
婚姻届は出せず、仕事はいつも不安定で20以上の職を転々とし、家計は義子さんが支えた。
義子さんは夫になぜ「偽名」なのか、「戸籍」がないのか、その理由を聞いたことがあった。
しかし、肝心なことは教えてくれず、義子さんも、子供たちのこともあり、それ以上深入りすることにはタメライがあった。
大田は、近所の人ともあいさつ程度で友人と呼べる人はおらず、一人椅子に座りずっと空を眺めていることが多かったという。
大田正一は平成6年12月7日に亡くなった。
さて、息子が父「大田正一」の実像を追うなかでわかってきたことがある。
大田正一は、たかだか海軍少尉であり、いかに彼が「有人誘導爆弾」などを提案したとしても、上層部はいとも簡単に一蹴できたはずである。
しかし、その案が上層部に伝わるや、時を経ずして「現実」のものとなった。
大田正一は、自分が「有人誘導爆弾」に乗って戦局を挽回したいという一心から提案したにすぎない。
折りしも起死回生の作戦を狙っていた軍上層部の方が、それに乗っかって「主導的な役割」を果たしたというのが真相であろう。
敵の艦船に体当たりするなど軍上層部の口からからは言い出しにくいことだが、現場のパイロットからの提案であれば抵抗も少なく、「我も彼も」と後に続く戦闘員が現れることも期待できる。
大田正一は、はからずも飛行機に乗ることなく「英雄視」され、各地の部隊で「桜花作戦」の必要を説く講演に引っ張り出された。
「桜花作戦」に参加する若者たちは、何も知らぬまま部隊に入れられた。
ところが悲しいことに、大田の講演を聞いた後に、この作戦に参加することを呼びかけたところ、一人がその意思を表明するや、次から次へと「自分も」と名乗りを上げていった。
その中には、「血判」を押すものさえいた。
結局、大田正一の提案はピタリと軍上層部の意向に沿うものであり、上層部によって都合よく利用された可能性が高い。
このことは、生き残った大田の同僚が、息子の隆司氏に語ったことでもあり、それによって息子の背負った「重み」も幾分軽くなったかにみえた。
しかし、父親が考え出した「非情の兵器」の十字架を負った息子の旅は、まだまだ続くように思えた。