輝く学部設立

大学の学部設立には、個人の意図を離れて、人々の運命の重なり合いによって出来たようなものがある。
そんな興味深い例を、長崎大学「医学部」、同志社大学「神学部」、立教大学「観光学部」に見出すことができる。
さて、オランダ・ユトレヒトの街にはオランダで一番大きなドム教会がある。教会横には、オランダ建国の祖のひとり ヤン・ファン・ナッソーの像が立っている。
このユトレヒトは、世界的に有名なキャラクターを生んだ街としても知られる。
日本でも有名なうさぎの「ミッフィー」で、ユトレヒト出身のデザイナーが描いた絵本に主人公として登場する。
作者のディック・ブルーナは、現在でもこの街の運河沿いにアトリエを構えて活動しているという。
またこの街は、日本との関わりが深い街である。
幕末維新の日本に20名近くのオランダの軍医が来日して近代的医学を日本人に教授したが、彼らの大半の出身校が 1822年から68年までの間ここに置かれた「ユトレヒト陸軍軍医学校」であった。
この学校はホテルに改造されているものの、運河沿いに現存している。
卒業生ポンペは長崎大学、ヌンスフェルトは熊本大学と京都府立医科大学、ロイトルは岡山大学、ボードウィンは大阪大学と東京大学、スロイスは金沢大学のそれぞれの前身で教えている。
特に、長崎大学医学部の前身「長崎養生所」での医学教育は後進に多大の影響を与えた。
アントニウス・フランシスカス・ボードウィンは、ユトレヒト陸軍軍医学校とユトレヒト大学医学部で医学を学び、ここ陸軍軍医学校で教官を勤めた。
1862年、先に日本の出島に滞在していた弟の働きかけにより、江戸幕府の招きを受けて来日し、「長崎養生所」の教頭となる。
その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、また養生所の基礎科学教育の充実に貢献した。
養生所、医学校教頭としてオランダ医学の普及に努めたほか、物理学や化学の日本の教育制度にも尽力を費やした。
ボードウィンは特に眼科に優れており、日本に初めて「検眼鏡」を導入している。
ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤の処方が日本人に伝播され、独自の改良を経たものとして「太田胃散」と「守田宝丹」がある。
あまり知られていないが、上野に病院を立てる計画が持ち上がったときに、上野の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言したことも、彼の功績である。
上野公園にあるボードウィンの銅像が、そのことを物語っている。
またもうひとり、長崎大学医学部の創立に関わったのが、ユトレヒト陸軍軍医学校の卒業生ポンベである。
1857年、日本の軍医派遣要請に応じて、海軍伝習指揮官カッテンディーケに選ばれた28才の軍医ポンペは、医学校を設立すべく日本にやってきた。
当時、幕府寄合医師・松本良順は、オランダ政府派遣の軍医が来ることを知り、外国奉行の永井尚志を説得し、「海軍伝習生御用医」として長崎にいた。
そして、松本良順らはボンベの講義をうけ、「医学校開設」というポンペの考えに共鳴し、まず「医学伝習」を海軍伝習から独立させるよう努力した。
ポンペは医学全般を一人で教え、長崎で5年間全身全霊をそそぎ込んで苦闘した。
科学の基礎知識の無い学生に理解できるはずもなく、わかりやすくして言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えねばならなかった。
そのカリキュラムは自分の受けた「ユトレヒト陸軍軍医学校」に類似し、全く手抜きする事なく基礎から一歩一歩と階段を登るように教えられたという。
松本良順とその弟子のオランダ語の深い素養もポンペの講義理解伝達に大きな助けとなった。
「解剖学」は精巧な人体解剖紙模型を用いて行なわれたが、ポンペはほどなく囚人の「人体解剖実習」を長崎奉行に願い出た。
牢内の囚人達が反対の騒動を起こした時、良順は解剖実習に「献体」する事の意義を説き、献体した囚人には処刑後、僧による読経を許し「手厚く供養」すると約束して騒ぎをおさめた。
当時の長崎奉行がポンペと松本に好意的で医学校建設に助力を惜しまなかったことも大きい。
1859年9月西坂の丘でポンペは市民の反感のなか日本初の「人体解剖実習」が行われた。
それにしても、長崎の西坂の丘といえば江戸時代の26聖人殉教の地である。
ポンペは貧乏人は無料で診察し、侍町人、日本人西洋人の区別はいっさいしなかった。
封建社会に育った門人達に医師にとってはなんら階級の差別などないこと、貧富・上下の差別はなく、ただ病人があるだけだということを養生所で身をもって実践し教えていた。
ボンベが5年間にみた患者は、1万5千人に達し、コレラや梅毒の上陸を阻止するための努力は、長崎の町の人々に浸透し人々は、ポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになった。
1861年9月20日「養生所」が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成した。「養生所」は医学校(医学所)に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身である。
ちなみに、1857年11月12日、ボンベが長崎奉行所・医学伝習所西役所の一室で松本良順とその弟子達12名に最初の講義を行なったその日が「長崎大学医学部」の創立記念日となっている。
長崎大学医学部の校是となっているポンペの言葉は、「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい」。
ポンペは卒業証書を学生に渡したあと、後任のボードウィン(前述)の着任を待って1862年11月に帰国している。

外国の大学は、ハーバード大学はじめ「神学校」からスタートした大学が多い。
しかし「神学校」といっても学問全般を学ぶのだが、日本の大学の「神学部出身」となれば、大概は教会の牧師や伝道師、キリスト教関係の教職につく人がほとんどである。
しかし中には、「神学部出身」でありながら、それとはかけ離れた分野で活躍する人々もいる。
NHK大河ドラマ「八重の桜」で八重の夫・新島襄が創立したのが同志社大学だが、キリスト教プロテスタント精神を基に「同志社英学校」として創立された。
同志社大学の神学部は必ずしも牧師養成ではなく、卒業後の進路は他学部と変わらず一般企業への就職が多く、ユダヤ教やイスラム教の課程が充実しているのも特徴である。
さて同志社大学「神学部出身」といえば、フォークソング歌手の岡林信康やはしだのりひこ、軍事評論家の小川和久、そして外務省出身の著述家・佐藤優などがいる。
小川和久は「通信制」で高校を卒業して自衛隊に入るが、依願退職した後に西洋思想の基盤であるキリスト教を学ぶために同志社神学部への進学を望んだ。
しかしクリスチャンでなかったために受験資格がなく、同学部事務長宅へ直談判に行き「非クリスチャン学生第1号」となったという。
小川は熊本県八代市出身だが、同志社の「神学部」の設置の歴史は、意外にも遠い九州・熊本の地と縁が深い。
明治時代初期、熊本県には「熊本洋学校」という英学校があった。
当初は男子校であったが、女性も入学が出来るようになり、当時では珍しい「男女共学」となっていた。
1876年、熊本県にある熊本洋学校で「或る事件」が起きた。
それは京都の薩摩藩邸跡に同志社の新校舎が完成する少し前のことである。
熊本洋学校の教師LL.ジェーンズは宣教師ではなかったが、自宅で希望者に聖書を教えていたところ、熊本洋学校の海老名弾正・徳富蘇峰らを含む生徒35名がキリスト教を信仰するようになり、洗礼を受けた。
そして1876年1月30日、ジェーンズに感化された35名が、熊本県郊外の花岡山で、誓約書「奉教趣意書」に署名をして、キリスト教結社を組織したのである。
このとき、花岡山で誓約書「奉教趣意書」に署名した生徒35人は、後に「熊本バンド」と呼ばれるようになる。
当時はキリスト教が受け入れられない時代であったために、「花岡山事件」が大問題となり、熊本洋学校は保守派から批判を受けることになる。
その結果、ジェーンズは解雇となり、熊本洋学校も「閉鎖」に追い込まれた。
そのうえ彼らは「村八部」となり、家族からも迫害を受ける生徒もいたという。
このため、京都に同志社英学校が開校する事を知ったジェーンズは、手紙で新島襄に生徒の引き受けを依頼した。
新島襄は教師ジェーンズの依頼を引き受け、同志社英学校に「神学課」(バイブル・クラス)を新設して、熊本洋学校の生徒を受け入れたのである。
行き場を失った熊本洋学校の生徒20数名が京都へ移住し、同志社英学校へ入学したのは、薩摩藩邸跡に「新校舎」が完成した直後のことだった。
同志社英学校の新校舎が完成したものの、生徒不足で行き先が不安だったが、熊本洋学校から「熊本バント」が転校してきたことにより、学校が賑やかになったのである。
また、ジェーンズは陸軍出身で規律を重んじる教育方針だったが、新島襄は自由を重んじる教育方針だった。
ふたつは相反する教育方針だったため、熊本バンドのメンバーは必ずしも同志社の校風が合わなかった。
また、教師ジェーンズから英語で高度な教育を受けていた熊本バンドにとっては、同志社英学校の教育内容には不満があったようだ。
このころ、熊本洋学校を解雇されたジェーンズは、大阪にある大阪洋学校で教師をしていた。
そこで、熊本バンドのメンバーはジェーンズに相談した。
すると、ジェーンズは熊本バンドに「生徒には意見を言う権利がある。まずは校長の新島襄に改革案を提示しなさい」と諭した。
このため、熊本バンドは同志社英学校へ戻って、校長の新島襄に「改革案」を提示した。すると、新島襄は熊本バンドの提案を絶賛して採用した。
学生の意見など聞き入れられないと思っていた熊本バンドは、新島襄の度量の大きさに感服し、同志社英学校に残ることになった。
一方、新島襄は熊本バンドのために、ジェーンズを同志社英学校の教師として迎え入れようとしたのだが、ジェーンズは正式な「宣教師」ではなかったため、他の宣教師教師の反対にあい断念したという。
同志社大学神学部卒業生のフォークシンガー・はしだのりひこは、北山修(現、九大医学部教授)らとフォーク・クルセダーズを結成した。
その代表曲「帰って来たヨッパライ」では、「天国いいとこ 一度はおいで」などと天国をチャカしてみせたのにも、彼固有の”屈折感”が垣間見える。ちなみに、クルセダーズは「十字軍」を意味する。

神奈川県箱根には歴史の舞台となった二つの老舗旅館がある。
そのひとつは江戸時代の半ば頃から続く老舗旅館「奈良屋」で、大名が参勤交代の際に宿泊する「旅籠」として使われる大きな旅館だった。
明治維新後、横浜の居留の在住外国人の避暑地として、箱根・宮ノ下は、外国人の間でもよく知られるようになった。
カゴで片道22時間の行程であったが、奈良屋旅館にも外国人は宿泊していたことが推測できる。
もうひとつが富士屋で山口仙之助が創業した。
山口仙之助は、横浜の漢方医を家業とする家に生まれた。遊廓「神風楼」の養子となり、江戸浅草の漢学塾で学んだ後、維新の際に横浜に出て商業を研究した。
1871年に渡米したが、アメリカでは生活難のために皿洗いなどの仕事に従事し、ようやくにして牛を購入して日本に持ち帰り、「牧畜業」を志すようになった。
しかし突然にソノ意志を翻して牛を売り払い、慶應義塾に入り、福沢諭吉により「国際観光」の必要性を諭された。
卒業後の1878年に、外人客専門の保養地宿泊施設が無いことに着目し、箱根宮ノ下の老舗旅館「藤屋旅館」を改築して「富士屋ホテル」を開業した。
名称の由来は富士山を眺望できる場所にあるからだが、日本のシンボルを意識しての名前であっただろう。
しかし、1883年、宮ノ下をおそった大火で、「富士屋ホテル」も「奈良屋旅館」も全焼したのである。
翌年、山口仙之助は、養父に援助を請い一階建ての「アイビー」を建築し、1891年現在の本館を建築した。
1887年には、ライバルである奈良屋旅館は富士屋ホテルを意識して洋風ホテルを建築し「奈良屋ホテル」と呼ばれ再出発した。
両ホテルとも、横浜の居留地の発展とともに、箱根を訪れる外国人も増え、「外国人争奪戦」が行われるようになった。
そこで1893年両者が協定を結び、富士屋は「外国人専門ホテル」に、奈良屋は「日本人専門旅館」というように棲み分けすることとなった。
山口仙之助は当初から「外国人の金を取るをもって目的とす」という言葉を残し、「外国人を対象とした本格的なリゾートホテル」をめざした。そのため、日本文化を伝える展示や工夫がされている。
岩崎弥之助や古河市兵衛が宿泊に来ても「外国人専用」ということで、ホテルゆえ泊まらせなかったという。
富士屋には、ヘレン・ケラーやチャップリンも宿泊しており、別館にはジョン・レノンとオノ・ヨーコが滞留していたこともある。
1945年終戦で、富士屋ホテルはGHQによって接収せられ、富士屋ホテルはGHQの首脳が滞在する一方で、奈良屋旅館には、当時の日本の首脳が滞在し「憲法草案」が考案された。
この「憲法草案」とは終戦時、幻となった「松本案」のことで、実にこの奈良屋の一室で書かれたのである。
奈良屋旅館は、大隈重信、緒方竹虎、岸信介などの政治家たちも静養し、政財界人が多数訪れる格式高い老舗名旅館だったが、2001年(平成13年)その歴史を閉じた。
さて、山口仙之助はホテルの経営ばかりではなく、箱根の発展に力を注ぎ、私費で道路を開いたり水力発電の会社も立ち上げた。
1904年には水力電気事業を開始し、宮ノ下水力電気所を設置した。また温泉村の村長となり、続いて塔之沢~宮ノ下間の三道を自力で開墾して道路を整備(現在の国道1号)した。
一方、国道1号に面した富士屋ホテルは年始の「箱根駅伝中継」では選手の位置関係を示す際に使われる「ランドマーク的存在」となっている。
山口仙之助は1904年に死去(63歳)したが、娘婿の山口正造が専務に就任した。
山口正造は、日光金谷ホテルの創業者・金谷善一郎の次男だったが、富士屋ホテルにホテル経営を学びに来た際、山口仙之助に気に入られ娘婿となったのである。
兄、金谷眞一が金谷ホテルを継ぎ、山口正造が富士屋ホテルを継いだことになる。
金谷兄弟はともに「立教大学出身」で共にアメリカ留学を経験している。
富士屋ホテルの3代目の社長となった山口正造は「乗合バス」の運行をしたり、ホテルマンの育成にも力を注ぎ、1930年「富士屋ホテルトレーニングスクール」を立ち上げている。
このスクールは1944年山口正造の死により途絶えたが、山口の遺産が寄贈され立教大学「観光学部」が設立された。