地中海と「潮騒」

新型ウイルスのニュースを聞くたびに「メタモルフォーゼ」(変身態)という言葉が頭をよぎる。
ウイルスは、毒性の弱いものから強いもの変身するメタモルフォーゼ(変身態)の典型なのだ。
さて、我が地元福岡の福岡城は天守閣さえないつまらない城なのかと思っていたら、とんでもない。黒田官兵衛にふさわしい「知略」にあふれた名城なのだ。
櫓の中に収められている干しものや紐など様々なものが、実は籠城にそなえて食糧に「転用」されうる。
つまり城の内部に平時と戦時の間で転用される仕掛けがいくつもある、いわば「メタモルフォーゼ」である。
以前、テレビでギリシアの島々に残る遺跡の紹介を見て、古代遺跡それ自体も興味よりも、そうした島々で安穏と暮らす人々に羨ましさをおぼえた。
しかし歴史の真実は、そうした思いを吹っ飛ばす。平和な町並みや人々の生活は「戦い」に転じられるメタモルフォオーゼなのだ。
地中海は船の通行路であり、船舶ばかりではなく海賊が拠点としようとした島々は常に海賊の「脅威」にさらされてきた。
そのため「迷路」のように街並みが形成されており、白塗りの住居のいたるところに「銃眼」の跡がなましくなましく残っている。またいざという時には屋根を伝わって逃げられるような建築上の工夫がなされている。
キリストの使徒・ヨハネはパトモス島にて人類の未来を予言するおそるべき文書「ヨハネ黙示録」を筆記している。
11世紀には、このヨハネを記念して聖ヨハネ修道院が建てられた。
このパトモス島の住民たちは、聖ヨハネ教会で必要な資材や食糧を供給するために働く人々が多く、そして聖ヨハネ修道院は、修道院というよりまるで軍事要塞のような外観をしていることが印象深かった。
つまり、人々の聖なる礼拝場でありつつも、いざという時には人々が逃げ込む要塞と化すメタモルファーゼなのだ。
そして島全体が聖ヨハネ修道院の「城下町」のような感じさえするのだ。かつて海賊が来たときは、聖ヨハネ修道院に屋根屋根を伝わって逃げ込めるような「屋上道」を用意していることであった。
こうしたギリシアの島々を見るにつれ海賊の脅威がこの地域でいかに大きかったかということを知らされる一方で、「海賊」として生きる他はない人々のことも思った。
ローマ帝国に滅ぼされ行きき場のなくなった人々や難民なども多くいるのだろう。
彼らも好き好んで「海賊」のなったわけではない。海賊も平時は大人しいメタモルフォーゼなのだ。
さて我々日本人が「小泉八雲」の名で親しんでいるラフカデアィオ・ハーンの生誕地も、このパトモス島から遠くない。
1850年6月ギリシャのレフカダ島(リューカディア)でアイルランド人の父とギリシャ人の母との間に生まれた。
そして生地レフカダ島から「ラフカディオ」という名が付いたのだ。
2歳の時、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。イングランドの神学校に在学中、16歳のときに左眼失明、父の病死、翌年に大叔母の破産など不幸が重なり退学する。その前後にフランスでも教育を受けた。
その後、アメリカの新聞記者として頭角を表し、ある出版社の「通信員」として日本にやってくる。
ハーンは、ふたたびこの島に帰ることなく、日本で生涯を終えている。
レフカダ島には、 驚くほど多彩な景観、手つかずの自然がそのまま残っているが、ハーンの作品のなかに、生まれ故郷のこの島の面影が、遠くこだましているに違いない。

大人気のミュージカルといえば「マンマ・ミーア!」。2008年には映画化された、エーゲ海に浮かぶ美しい島で暮らす親子の物語である。
島でホテルを営むドナ(母)はソフィー(娘)と二人暮らし。ソフィーは結婚式を目前にひかえていたが、彼女は未だに父親の存在を知らなかった。
そんなソフィーがある時、母の日記を盗み見て父親の候補が3人居ることに気付く。
そこで結婚式の「招待状」を3人全員へ送りつけ、自分の父親を探し出す計画に出る。
ソフィーの計画には何も知らずにドナと再会を果たす3人の父親候補、サム、ハリー、ビル。
ヴァージン・ロードを父と歩きたいと願うソフィーと、昔の恋人に再び恋心を抱く母親・ドナの幸せの行方はどうなるだろうか。
映画「マンマ・ミーア!」といえば、バックに流れる「アバ」の名曲の数々だが、映像に見える「美しい風景」にも心をひかれる。
映画の舞台はギリシャのエーゲ海に浮かぶ架空の島という設定になっているが、実際に撮影地に使われたのは「スコペロス島」という島である。
エーゲ海北西部のスポラデス諸島の北部に位置しており、その中でも最大の島である。
年間の平均気温は18℃と温暖なのが特徴。人口は5000人程度で、夏になると観光客の絶えないスポットとなっている。
さて日本人のポップスの中で、ギリシアの海を描いた歌はいくつかある。
その代表は、ジュディオングの「魅せられて」で、レースのカーテンを引きちぎるような乱暴な女性が登場する。
また、高橋真梨子の歌「桃色吐息」(康珍化作詞)の舞台も地中海のようだ。
♪金色 銀色 桃色吐息♪
♪海の色に染まるギリシアのワイン♪
♪灯り採りの窓に 月は欠けていく おんなたちは そっと呪文をかける♪
♪愛がとおくへと いかないように きらびやかな夢で しばりつけたい♪
アノ歌の歌詞を聞くと、どうしてもクレオパトラにまつわる「歴史の風景」が浮かんでくる。
古代ローマ史の中で、アントニウスは、カエサル(シーザー)亡き後では、何といっても随一の存在である。
カエサルの養子オクタヴィアヌスがいるが、まだ若すぎた。
彼はカエサルのような名門の出ではなく、田舎者マル出しのところがあって、場所柄もわきまえず酒と女に溺れて人々の顰蹙をかったりしたが、このころでは男マサリの妻に教育されて、ダイブおとなしくはなっていたが。
それがでトルコのタルソまで来て、戦勝の宴に酔ううちにカエサルの恋人クレオパトラのことを思い出したのである。
アントニウスはかつてはカエサルの家来であったが、今やカエサル一派を支援したことへの「申し開き」をクレオパトラに求めることさえできる最高権力者となっていた。
そして、アントニウスはトルコのタルソスで、クレオパトラをよびつけた。
かつて、クレオパトラは「絨毯」にくるまれてカエサルと出会ったが、クレオパトラはアントニウスより「一枚上手」で、時の権力者のの呼び出しを待ち受けていたといってよい。
そして、クレオパトラがアントニウスと出あった時に見せた演出は、「林立する燈火」の数とソノ趣好をこらした配置だけでも、アントニウスの目を見はらせるに十分だった。
数多の美しい侍女たちが、海の精ネレイスの衣裳で、舳先や艫に立ち並んでいた。
クレオパトラは、「金色の船」に「銀の櫂」で「紅の帆」をかかげ、楽の音に合せてシズシズと河を遡ってきたののである。
コレゾ「桃色吐息」の世界である。
そしてクレオパトラはアントニウスと会食をした後、今度はエジプトのアレキサンドリアへ来ていただきたいと招待した。
誘われるままに彼は、ローマへ帰るかわりにアレクサンドリアへ冬を過ごしにでかけた。
当時のアレクサンドリアは、ギリシアの大王アレクサンドロスが築いた当時の地中海世界の最も富裕で豪奢な都だった。
そして、招待された夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度胆を抜かれた。
翌日も、翌々日も同様だった。
四日目には床一面、くるぶしを没するまでの深さに「薔薇の花」が敷きつめられていた。
こうなると、アントニウスはもはやクレオパトラの言いなりになる他はなかった。その後は、クレオパトラゆえに青色吐息となってしまう。

さて、地中海のほぼ中央に位置するマルタ島で、この島の名は「冷戦終結」のシンボルともなった。
1992年、ゴルバチョフとレ-ガンの会談はマルタ沖の船でなされ、東西冷戦時代の終わりをつげ、以後戦後の「ヤルタ体制」が解かれ「マルタ体制」へと移行した。
この小さな島の名が、世界の時代を画する名が冠されようとは、誰も予想できないことだったが、この島は世界遺産の「青の洞門」さながらに、神秘を湛えているかのようだ。
その神秘のひとつが、聖地奪回を目指す十字軍遠征の騎士団のひつ「マルタ騎士団」が結成され、その「マルタ騎士団」はいまなお活動しているという。
マルタは、バチカンのようにイタリアから独立領土として承認されてはいないものの、今もローマに本部ビルを保有し、建物内は治外法権を認められている。
また政府運営の地としてマルタ宮殿を使用しており、一応そこを首府としている。
国連はマルタ騎士団を「オブザーバー」として参加するために招待を受ける国際組織のひとつとして扱っているが、国としては認めていない。
そういう意味ではPLOと似ている。世界の約94か国と外交関係を持ち、在外公館を保有しているが、日本はマルタ騎士団を国として承認しておらず、外交関係も持っていない。
さて、国家としてのマルタ共和国の首府はヴァレッタ市で、入江に突き出す半島に16世紀、計画的な街が作られ、道路は碁盤の目のように走っている。
ヴァレッタ市街への入り口には深いお堀があり、人の力だけで深さ50mまで掘り下げたという。
お堀は完全に半島を分断し、これで海からも陸からも敵が侵入することができず、敵をいち早く発見するために海に面して「見張台」が建っている。
この街を作ったのがマルタ騎士団で、武装した修道士の集団でヨーロッパ中から集められたという。
16世紀にキリスト教世界のヨーロッパにオスマン帝国が進出しようとしていて、地中海の交通の要所であるマルタ島を奪うために攻めてきたが、1565年にマルタ騎士団がオスマン帝国を撃破した。
マルタ騎士団が、いわばヨーロッパを守る「最前線」として、ヴァレッタに要塞都市を作ったのである。
またマルタ島で栄えた古代巨石文は世界遺産に指定されており、ブルーグロットつまり「青の洞門」は世界的に知られている。
そしてこの島と日本との因縁を物語るのが、この島に立つ「大日本帝国第二特務艦隊戦死者之墓」である。
日本は、第一次世界大戦の折、地中海に艦船を送ったが、駆逐艦「榊(さかき)」は1917年6月11日にマルタ沖で撃沈され、59人の戦死者の墓がマルタ島にもうけられた。
ちなみに、昭和天皇が1921年皇太子時代に行ったヨーロッパ歴訪もこの島にたつ日本人墓地の慰霊から始まったのである。

「潮騒」(しおさい)は、三島由紀夫の10作目の長編小説で、三島の代表作の一つである。
三重県鳥羽市に属する「歌島(現在の神島の古名)」を舞台にした、若く純朴な恋人同士の漁夫と海女の純愛物語である。
三島由紀夫自身が語っているところによれば、この小説は古代ギリシアの小説「ダフニスとクロエ」に着想を得て書かれたものだという。
1954年に新潮社より刊行され、たちまちベストセラーとなり、アメリカでも翻訳出版されベストセラーとなったという記念碑的な作品である。
個人的には「ダフニスとクロエ」という小説のインパクトは大きかった。
エーゲ海のレスポス島を舞台にこんなのアリかと思うほど甘美でのびやかな世界が描かれていた。
また、モーリス・ラヴェルは「ダフニスとクロエ」を元に作曲し、1912年ロシア・バレエ団によりパリのシャトレ座にて初演された。
「ボレロ」「スペイン狂詩曲」と並ぶラヴェルの管弦楽曲の代表曲である。
また、シャガールも「ダフニスとクロエ」を描いている。
さて、三島由紀夫は水産庁に依頼し「都会の影響を少しも受けてゐず、風光明媚で、経済的にもやや富裕な漁村」を探してもらい、金華山沖の某島と三重県の神島(かみしま)を紹介された。
そこで三島は万葉集の歌枕や古典文学の名どころに近い神島を選んだ。
三島が元にした万葉集に歌われている伊良湖岬には、「潮騒」(万葉仮名では「潮左為」となる)という言葉が出てくる。
「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」
この歌は、持統天皇が伊勢神宮参拝と舟遊びを兼ねて伊勢に旅した時に、都(飛鳥浄御原宮)に残った柿本人麻呂が、お供をした人々の中の女官の一人を想って詠んだ一首で、「伊良虞」は、伊良湖岬もしくは神島のことである。現代訳は以下のとうり。
「潮流がさわさわとざわめく伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろ愛しいあの娘は乗っているのだろうか、あの波の荒い島の廻りを」。
三島は、ギリシア古典に着想を得たばかりではなく、「潮騒」のプロットはほぼ原作どおりのプロットを作ったとしている。
伊勢湾に浮かぶ歌島で漁師をしている久保新治は、貧しい家に母と弟と暮す18歳の若者であった。
ある日、新治は浜で見知らぬ少女を見かけ心惹かれる。少女は砂浜に座り、じっと西の海の空を見つめていた。
少女・初江は、村の有力者で金持ちの家・宮田照吉の娘であった。初江は養女に出されていたが、照吉の跡取りの一人息子(初江の兄)が死んだため島に呼び戻されたのであった。
それまで恋愛を知らない新治は、初江の名前をきくだけで頬がほてり鼓動が激しくなる自分の感情がよく分からなかった。
しかし監的哨跡で偶然、鉢合わせしたり、新治が浜で落とした給料袋を初江が拾ったり、灯台長の家でも顔を合わせた二人は、お互い相手に惹かれている自分の気持を知りはじめる。
しかし、初江の「今はいかん。あんたの嫁さんになる」という誓いと、新治の道徳に対する敬虔さから二人は衝動を抑えた。
しかし灯台長の娘で春休みで帰省していた千代子は、新治と初江が一緒に帰るところを見てしまう。
新治に気があった千代子は初江に嫉妬し、川本安夫に告げ口をした。
やがて新治と初江の噂は初江の父照吉の耳にも入り、照吉は二人が会うことを禁じた。気落ちする二人にとって秘密裡に交換する手紙だけが唯一の絆だった。
しかし、健気な二人に新治の親方・十吉が加勢し、仲間の龍二が郵便屋をしてくれた。
また、二人の悪い噂を流した千代子の東京からの贖罪の手紙を読んだ灯台長夫人や、義侠心にかられた海女たちが、新治と初江の仲をとりもってやろうと応援し、新治と初江の願いは成就する。
なお神島は、鳥羽から市営定期船で約50分かかるので、地理的には愛知県渥美半島の方が近い。
まもなくはじまる「伊勢志摩サミット」で、ギリシア古典に材をえたMISHIMA YUKIOの「The Sound Of Waes」(潮騒)の舞台「神島」にも話題がおよぶだろうか。