患難、忍耐、希望

東京のランドマーク「六本木ヒルズ」に近い赤坂には巨大なビルと空間のコンプレックスがある。
全日空ホテル、サントリーホール、テレビ朝日社屋、レストラン・ショッピング街を有するアーク森ビルを含む「アークヒルズ」である。
このアークヒルズ一角「カラヤン広場」に流れる人工の滝の裏側に刻まれている言葉がある。
「我々は患難においても幸せである。というのも患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない」。
これは、新約聖書「ローマ人への手紙」の言葉だが、これは、一代で世界最大の貸ビル会社を築いた株式会社森ビルの創業者・故森泰吉郎氏の座右の銘である。
森氏を支え動かした原動力は、この聖句にある「患難・忍耐・希望」であったに違いない。
ちなみに、「アークヒルズ」のアーク(ARK)とは箱船のことで、キリスト者であった森氏が、旧約聖書の大洪水を乗り切って救われた「ノアの箱船」の物語から得たコンセプトだ。
森氏が若き日に洗礼をうけた「霊南坂教会」もこれに隣接しており、かつて、三浦友和夫妻の結婚が行われた教会としても有名である。
さて、最近のニュースで、創業者の森泰吉郎の三男で森トラスト社長の章氏(79)の長女・伊達美和子氏(44)が社長に就任したことが伝えられた。
男社会の「不動産」しかも最大手の会社に若き女社長とは異例だと思ったが、昔から「男社会」に風穴を空けた女性たちは少なからずいた。
それは「患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すこと」を証明したような生き様であった。

聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれた。
そのうちのひとりが、「金剛組」初代の金剛重光。工匠たちは、日本最初の「官寺」である四天王寺の建立に携わった。
重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけた。
創建時、四天王寺は当初計画にあったとうりに廻廊と講堂の建築を残していた。
これらの完成は8世紀の初め、創建時から百数十年を経た奈良つ時代前期のこと。
その時すでに初代金剛重光はこの世にはなく、その技術と心は二代目から三代目へと代を重ね、後世に受け継がれていった。
1576年、「石山寺の戦い」に巻き込まれ、四天王寺は支院を含め伽藍全体が焼失するが、 豊臣秀吉が全国を統一したあとの1597、秀吉により四天王寺支院・勝鬘院の多宝塔が再建された。多宝塔にある雷除けの銅板に、今でも「総棟梁金剛匠」との銘が残されている。
ところが、大阪冬の陣で、またもや四天王寺焼失。焼失の後まもなく、江戸幕府によって四天王寺の再建が開始される。
その際に、金剛家当主第25代是則が伽藍の再建を命じられている。
「金剛家」の仕事は大阪にとどまらない。茨城県水戸市にある偕楽園は、金沢の兼六園、岡山の後楽園とともに日本三大公園の一つである。
1842年、水戸藩主徳川斉昭が造園したこの園の一郭に、往時の文人墨客が遊んだ「好文亭」がある。
数奇屋造の端正な美しさを誇ったこの重要文化財は、昭和の戦火を浴びて焼失する。
1958年復元後、再び火災にあい、1972年、再度復元された。
この仕事に携わったのが「金剛組」で、金剛組は宮大工としての優れた技術をかわれ、この二度にわたる復元工事に参画している。
  さて、江戸時代までは、金剛家は四天王寺の「お抱え」の宮大工であった。
つまり毎年、定まった禄にあずかっていたのだが、明治になると、晴天の霹靂、この関係は一変する。
1868年にいわゆる「神仏分離令」が出され、後年その余波を受けて四天王寺は寺領を失う。当然、禄は廃止される。
これ以降、金剛組にとって「試練」の時代が始まり、四天王寺プロパーというわけにもいかなくなった。
昭和の時代にはいっても、「金剛組」の苦難の道は続いた。
戦時中は、護国神社や軍神の造営などの神社関係の仕事はあったものの、寺院関係の仕事はブッツリと途絶えてしまった。
そればかりか政府による「会社統廃合策」で、他社に「併合」される危機にも見舞われた。
第37代金剛治一は、無類の職人気質で、今いうところの営業活動などさらさら念頭になく、金剛組は極度に困窮していく。
1932年のこと、ナント金剛治一は、これを祖先に詫びて先祖代々の墓前で「命」を絶つ。
しかし、その妻「よしえ」が歴代初の「女棟梁」として第38代を継ぎ、東西に奔走して窮地を脱出した。
「金剛組」最大のピンチだったが、そこには、幸運も働いた。
折も折、1934年の「室戸台風」のため四天王寺五重塔が倒壊し、金剛組に「再建」の命が下ったのである。
また戦時中の苦境下にあって、金剛組は軍事用の「木箱」を製造するなどして、辛うじて社の「命脈」を保った。
戦後1955年、株式会社「金剛組」が新生する。第39代金剛利隆は経営の近代化を図り、以後金剛組は広く一般建築をも手掛けた。
第二次世界大戦の戦火、あるいは台風、地震、火災など、昭和に入っても全国各地の社寺は度重なる戦火・火災に見舞われた。
そして、戦後これらを「復興」するにあたり、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が脚光をあびた。
このような時代の要請をうけて、金剛組はいち早く同工法による「社寺建築」に着手し、鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木の「あたたかみ」などを損なわない「独自」の工法を開発した。
2006年、高松建設株式会社の出資を受け、新生「金剛組」として再出発した。
それでも、創業以来1430年余にわたる伝統の技術と心、ならびに従業員・宮大工といった人材をすべて引き継いでの新たなスタートである。
ちなみに、現在「金剛組」が擁する宮大工の数は約120名におよぶ。
この伝統の技を知りつくした力に加えて、最新技術と伝統工法の「融合」を図り、歴史に残る社寺建築をつくりたいと願う若い力が育っている。
それにしても最大のピンチを救った金剛組38代妻「よしえ」の存在は、大きい。

東京の日比谷公園に近い第一生命ビルといえば、マッカーサーの執務室となったので有名である。
またすぐ近く、皇居の中が見えるというので「高さ制限」がかかった東京海上火災ビルといい、生命保険会社の建てたビルは、都市の中でもトップクラスの「偉容」を誇っている。
我が地元福岡一番の高層ビルといえば、東中洲の入り口にある「大同生命ビル」である。
大同生命は、1902年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営していた「加島屋(かじまや)」が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との合併により設立された。
江戸時代、大坂有数の豪商であった「加島屋」は、明治維新の動乱により家勢が傾く。その危機を救ったのが「広岡浅子」である。
浅子は1849年京都に生まれ、大坂の豪商・加島屋の広岡信五郎と17歳で結婚する。
浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」を座右の銘とし、「加島銀行」の設立や鉱山経営に参画。さらに中川小十郎をはじめとする有能な人材を招聘し、「大同生命」の創業に深く関わった。
「加島屋」を立て直した浅子は、後事を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位向上に心血を注いだ。
1919年、71歳でその生涯に幕を下ろした。
生来勉強が好きだった浅子は、結婚後独学で経営について学んだ。しかし時代はまさに維新の激動期に突入。
ビジネスの大半が諸藩との取引であった加島屋は急激に財政が悪化する。
浅子はこれまで学んだことを活かし、若い当主・広岡久右衛門正秋、彼の兄である夫・信五郎とともに加島屋の「立て直し」のために奔走する。
浅子は、新たなビジネスのチャンスをつかむことで「加島屋」の立て直しを図るべく、当時新しいビジネスとして注目されていた「炭鉱業」へと進出する。
1885年、まず最初に浅子が行ったのは、石炭を購入して海外へと輸出する事業だった。しかし海外輸出可能な港への輸送経費が高く、折からの石炭不況もあり、上手くいかなかった。
次に浅子は、筑豊の炭鉱主への出資に続き、福岡県嘉穂郡鎮西村(現在の福岡県飯塚市)にあった「潤野炭鉱」を買取り、炭鉱経営そのものに手を伸ばす。
しかしこれも失敗。炭鉱には大きな断層が立ちふさがり、思っていたような産出量にはならず、炭鉱は休業を余儀なくされる。
しかし、浅子はそれでもあきらめなかった。
1895年、浅子は周囲の反対を押し切って再開発を開始、自ら九州に赴き、現場で生活をともにしながら、炭鉱夫を叱咤激励した。
そして1897年、ついに潤野炭鉱は産出量が急増、優良炭鉱へと生まれ変わった。
ところで、浅子が大阪と炭鉱のある九州を忙しく往復していた頃、成瀬仁蔵と名乗る人物が浅子の元を訪ねてきた。
アメリカから帰国後大阪の梅花女学校校長となっていた成瀬は、女子にも高等教育が必要と考え、日本で最初の女子大学を設立しようと奔走していた。
浅子と面会した成瀬は、資金援助などの賛同を依頼するとともに、自身の著作「女子教育」を浅子に手渡した。
浅子はこの本を繰り返して読んで感涙止まぬほどに共感し、成瀬こそ「女子教育」を託すべき人と、成瀬への協力を約束する。
そして成瀬とともにに、自らが大学を創らん勢いで政財界の有力者に女子大学の必要性を説いて回り、次々と協力を取り付けていった。
そして1901年、ついに日本初の女子大学・「日本女子大学校」(現在の日本女子大学)が設立される。
ちなみに日本女子大の卒業生には、平塚雷鳥、長沼千恵子、市川房江などがおり、最近では、元NHKキャスターの山岸舞彩がいる。

夫の死を契機に、未亡人が潜在能力を発揮するケースといえば、日本史でいえば北条政子、世界史でいえばマリア・テレジアが、その際立った存在であろう。
現代日本でもそういう女性は多いだろうが、新聞コラムに、銀座の老舗洋服屋を復活させた1人の女性が登場していた。
創業者の鰐渕正志が終戦直後の1946年に「銀座テーラー」を創業する。
「世界高級紳士服展」の日本代表に何度も輝くなど、政財界人など日本のトップ層を顧客に持つハンドメイドオーダー服の老舗だ。
正志の事業は成功し数棟のビルを保有したほか、趣味の絵画や骨董品は美術館が作れるほど蒐集していた。
その事業を1984年、正志の息子で2代目社長の鰐渕正夫が継いだ。
バブル到来により50万円や100万円のスーツの注文はあたりまえ、高いものは一着700万円もするものもあった。
「仕立て券」も飛ぶように売れ、銀座テーラーの業績も絶好調であった。
そんな中、社長の一晩の飲み代が100万円は当たり前で、車はロールスロイスのリムジンに乗っていた。
そればかりか社員までベンツに乗るほどだった。
さらに社長は仕事を「専務任せ」にして、趣味の絵画や音楽に走った。
カネを借りて欲しい銀行が接近し、これをさらに煽る。クリスティーズやサザビーズに出かけて、直接競り落とした。
会場の隣の席には銀行員がいて購入をけしかけ、新進の画家の絵も山のように買った。
父・正志の集めた絵や骨董品をすべて売って、自分の好きな絵を買った。そればかりか保有するビルを担保に銀行からカネを借り、絵画を買いあさった。
ところが、バブル崩壊で銀座テーラーの売上は急降下、絵画は暴落した。
絵画は有名な画家の絵でも半額は当たり前、ひどいものは10億円だったものが2億円にしかならなかった。
正夫の妻の鰐渕美恵子が家庭の主婦から営業として入社したのはそんな折、1992年、44歳のことだった。奇しくも、六本木トラスト・伊達美和子社長と同じ年。
ただ、美恵子は低迷する業績をなんとかしたいと思っていた程度だった。
なにしろ会社は男社会、主婦が「場違い」な世界に入ってきた感じだった。
一応、大学卒業後、大阪万国博覧会国連館VIPコンパニオンとなったことはあった。
しかし夫の会社に入社したことは、実質、社会に出るのも、顧客に会うのもすべて初めてであった。
その分なんら既成概念がないという面があった。美恵子は持ち前の熱意で友人や知人などを訪ね歩いたが、会うのは奥さんや秘書など女性ばかりで、紳士服の営業をしていた。
そんな人たちに会っているうちに美恵子はレディースを作ってみたらどうだろうかと閃いた。メンズの生地で、今いる職人に作ってもらえればコストはそれほどかからない。
冷蔵庫の残り物で一品作る主婦感覚だった。ところが、当然のことながら職人はレディースなど作ったことがない。裁断士のトップなど「とんでもない」と、全員が反対した。
それでも美恵子は諦めず、職人たちを個別に説得した。
すると若手の裁断士が「やってみましょう」と同意してくれた。
縫製の職人にも「チャレンジ精神」旺盛な人がいて、紳士服オーダーメイドの会社にあって、ついにレディースが日の目をみることになった。
これが従来の顧客の奥さんに好評を博したばかりではなく、思わぬ「副産物」もあった。
レディースのやり方を工夫したことがメンズにも生かされたのである。
美恵子は次に、オーダーの革製品がないことに目をつけ、オーダーによる皮革製品のジャケットとパンツを売り出した。
美恵子が入社して3年後、会社を仕切っていた専務が退社し、美恵子は総支配人になった。このとき初めて会社の実態がわかった。
社長は嫌いなこと(会社経営)には一切興味を示さず、生活費を残して一晩で使い切った。年間6億~7億円の売上なのに借金が100億円もあった。
そして妻は、覚悟をきめた。最初にやったのが自宅のお風呂の改装で、風呂を広くし、ジャグジーにした。
それは、唯一の娯楽はお風呂にしようという闘いの始まりを意味した。
専務がいなくなると、銀行からの「借金返済」の督促電話が次々にかかかってくるようになった。
銀行に説明に行こうにも、美恵子には事業計画や返済計画が作れない。
仕方なく、社長が銀行に勧められて巨額のおカネを借りることになった経緯などを文章にして銀行の担当者に渡すほかはなかった。
そして趣味に生きる夫に代わって社長に就任。見事に老舗高級紳士服店を建て直したのである。ちなみに夫は、病で1983年に他界している。
美恵子は、「風と共に去りぬ」で主人公が言う「この試練には決して負けません」という言葉に勇気をもらい、ワグナーの「ワルキューレの騎行」を聴いて元気を得たという。
「神様 仏様 奥様」。