異な仕事の世界

TVで「仕事の流儀」という番組があるが、「流儀」以前に「仕事そのもの」に興味がそそられる。
特に、特殊な仕事の世界に生きる人々のことが知りたいと思う。
まだ自分が小学生だった頃、松下竜一原作のTVドラマ「豆腐屋の四季」という番組があった。
この番組で、豆腐をつくることが、時々の気候条件や温度に左右されやすいデリケートな仕事なのかを教えてもらった。
また当時、労災で体の一部を失った時の欠損箇所ごとの「補償額」の違いをやたら話したがる人がいて、その話を子供心に強烈に覚えている。
要するに、関係者でないと、なかなか聞けないような「異な仕事」の話が一番面白い。
映画にも、「異な仕事の世界」で働く人を描いた「マルサの女」や「おくりびと」などの作品があった。
ある程度「戯画化」されてはいるものの、これらの映画でその世界で働く人々のやりがいや苦労の一端を知ることができた。
さて最近、福岡市中央区白金の小さなホテルが、ひとりの外国人客から「忍者がいる」とネットにアップされて海外で評判になったという。
おそらく、ホテルの女将が客の居ない間に部屋を片づけたり、服をたたんでおく絶妙さに感動し、その驚きを「忍者がいる」と表現したのだろう。
人影も人の気配も全く感じさせずに、それがなされるのは、長年の経験や勘に裏打ちされたサービスには違いない。
「忍者がいる」と海外にまで評判になった仕事の秘訣や段取りなど聞いてみたいものだ。
さて、松本清張の小説「点と線」において東京駅のプラットホーム間の「4分間の見通し」は、いまでも時刻表トリックの傑作として語り草となっている。
この4分は、列車の行き来の合間にプラットホーム越しに向こう見通せる時間をさしているが、最近では「東京駅の7分間」が海外で話題となっている。
新幹線の折り返し停車時間は12分、乗客の乗降時間を差し引いたのがコノ7分間である。
その間の社内の清掃が「7分間の奇跡」として世界の称讃をあびているのだ。
清掃員たちは、新幹線が到着すると同時に準備を開始する。トレイの掃除やブラインドを上げたりするなど驚くほどの手際良さ。
この間、清掃員は、1人当たり100席を担当する。
座席のラックのチェックもスピーディーで、清掃員たちのチームワークは抜群。
そして、仕上げの床掃除から車内の全ての清掃を終えると、車両の前で一礼して終了。
それはまさに、「ニンジャ」のような仕事ぶりではないか。
この新幹線の「清掃チーム」の働きぶりは、海外メディアから絶賛されている。
ところで、清掃業といえば、「きたない きつい 危険」の3Kの代表である。
だが、この「7分間の奇跡」の背景には一つの「意識改革」があった。人よんで「新幹線劇場」。
すべてのスタッフや従業員も、「舞台の一員」なのだという意識もしくは自覚によって可能となった。
清掃活動を「劇場」に仕立てたのは、客が主役であり、従業員が脇役となって、一緒にこの場所で素晴らしい思い出を作ろうという意味合いが込められている。
「感謝」「感激」「感動」のNew3Kが「奇跡の7分」を生んだといえる。

最近の仕事事情を描いだ映画では、三浦しおんさんが書いた小説をもとに、辞書をつくる人々の格闘を描いた「舟を編む」や、林業で働く青年達の姿を描いた「WOOD JOB!」が話題をよんだ。
特に後者は、矢口監督が丹念な取材でリアルな現場を再現したと公開前から評判になっていた。
都会っ子の青年がひょんなことから山間部の村で林業に従事することになり、嫌々ながらも村の人と自然に囲まれて成長し、林業のよさに気づいていくストーリーである。
日々「森林浴」に与っていけるのもいい。
映画では、チェーンソーで木を切り倒したときの充実感や、高い木の上から見る自然の美しさが次第に青年の心をとらえていく。
また主人公は村の小学校の女性教師にひかれ、気持ちの高鳴りを覚える。
林業家にとってのひとつのジレンマは、木が高く売れることを知って、山の木を「ぜんぶ切ってしまおう」という気持ちがおきることだ。
映画ではこうした放言をする若者を、親方が「自分たちが切り尽くしてしまえば次の世代が困る、今ある木も何世代も前の人たちが残してくれたものを切らせてもらってるんだ」とたしなめる場面がある。
もちろん林業ならではの苦労がある。考えてみると、林業は農業比べても、結果すぐに出ない仕事なのだ。
林業は、雨が降ったら休みだとか、帰りが遅かったり早かったりとか普通の会社員と生活のパターンがぜんぜん違う。
さらに山林での仕事だけに危険も多く、自然の恵みへの感謝をささげること忘れてはならない。
以前、何かの本で、たくさんの樹を伐採するとき、なぜか魚のオコゼを捧げるという「奇習」を聞いたことがある。
では「林業」の仕事内容と、魚の「オコゼ」がどうして結びつくのか。またタイやヒラメならまだしも、なぜオコゼなのか。
それは、オコゼは顔が見にくいので森の神様を怒らせない(嫉妬させない)ための風習らしい。
和歌山県の「熊野古道物語」に、「山の神」の話が伝わっている。
尾鷲市の矢浜は、東が青い松が生い茂り、砂の白い国市浜で、「海の神様」がときどき手下の「魚族」を連れて散歩を楽しんでいた。
また矢浜は田畑が多い村で、上地・下地・野田地の三地区には、それぞれ「田の神」がいて地区の田畑を守っていた。
11月の稲の収穫がすむと、田に用がなくなるので、「田の神」は山へ帰って「山の神」になる。
だから矢浜では農耕者達が、それぞれ2月7日に「田の神」としての山の神を祭り、同じ神社を11月7日には林業者たちが「山の神」として祭りをした。
あるとき海の神と山の神とがばったりと会い、お互いの慢話になり、手下が何種類いるかという「争い」になった。
「海の神」は、タイ、ヒラメなどで、「山の神」はキツネ、タヌキなどの手下をかき集め、お互いに種類の数を確認しあったところ同数であった。
この勝負があわや「引き分け」になろうとした時、海からオコゼが一匹はい上がってきた。
それで勝負は「海の神」の勝ちとなったが、それ以来「山の神」はオコゼを恨むようになった。
さて今日、矢浜の「山の神」の祭りには、1人がオコゼを一匹ふところに入れて参列する。
もう1人が神扉を開くと、オコゼの頭をチラリと出し、そのとき当人はじめ氏子一同がアハハと「大笑い」することになっている。
この意味は、オコゼの姿があまりにも醜いため、あれは魚の種類に入りませんよと、「山の神」をなだめるのだという。
この尾鷲に残る「オコゼ」の話から、ヨ-ロッパ中世のどこかの町で、戦に勝利した凱旋軍をむかえる町の人々が、兵士達を徹底的に笑いものする話を思い浮かべた。
それは、戦士たちを「讃える」あまり、神様が嫉妬しないように、そうするのだそうだ。
それではキリスト教の神はそれほど「狭量」なのかといえば、この神様とは「守護聖人」のタグイらしい。

昨年亡くなったさ作家・白川道(とおる)には、ドラマ化された「天国への階段」という小説がある。
冒頭で北海道の日高で「競走馬(サラブレット)を育てる場面が登場し、これがなかなか美しい。
北海道の雄大な自然の中で、馬を育てることは、想像するだけでも心が洗われるような思いにかられるが、 現実の競走馬を育てる世界は、そんな「甘さ」を誘うような世界ではないらしい。
そこには、馬主、馬喰(ばくろう)、調教師などを含む、人間社会の利権や欲得がからんでいる。
さて小説「天国の階段」では、牧場を騙し取られ父親を自殺に追い込まれ、最愛の女性を失った男が、その復讐の為に実業家となり、26年をかけて資産家に復讐を仕掛けるというものであった。
ちなみに、作家の白川道自身が、投資ジャーナルや豊田商事などとも関わり、インサイダー取引やマネ ーロンダリング等の違法行為で逮捕、実刑判決を受けた経歴もある。
白川氏は、随分と傾いた(カブイタ)人生を歩まれた方のようだが、「天国への階段」の主人公に見るかぎり、一人の女性への一途な思いが雲を貫く光線のように一貫しているところを見ると、本質的にピュアな人物なのにちがいない。
さて人間には「美人薄命」という言葉があるが、競馬の世界では、圧倒的な勝利を収めた馬は、恵まれた余生を送ることはないという。
というのも、才能ある競走馬は、ほとんどが「栄光」の直後には世を去るからだ。
したがって、遺伝子を残さず、その速さ、強さは語り草にはなっても、「遺伝的」意味合いにおいて「歴史的名馬」になるものはほとんどない。
このあたりの「事情」を少々調べると、そこには自分が全く知らない「競走馬」世界があった。
競馬の世界では、現在でも毎年、約8千から1万頭の子馬が生まれている。
馬の寿命は、健康なら30歳、中には40歳まで生きるので、こんなに馬がいたら、馬糞ばかりになりそうだが、そうはならない。
驚くべきことに、毎年生まれる馬のうちのほとんどは、2歳、3歳、4歳といった若さで「処分」されてしまうといいう。
処分とはつまり「屠殺」のことである。
「屠殺」される理由は、レースに向かないから、勝てないから、血統にあまり価値がないからである。
要するに「コスト対ベネフィット」の関係で、競馬で勝って馬主を儲けさせてくれない馬は、生きる価値がないと見なさる。
競争中に骨折なんかしたら、まずは生き残れない。
また人の心を見抜く「世間ずれ」したような馬はダメで、心も体も未熟な成長期の子供の馬が競走馬にはむいている。
その若さで、競走馬たちは、騎手を乗せ、ものすごいスピードで1キロ、2キロの走路を駆け抜け、勝つことを要求される。
関係者によれば、現役競走馬の80パーセント近くが、ストレスと偏った食生活のせいで、慢性胃潰瘍に苦しんでいるという。
競馬を見ていると、骨折などの事故が多いのは、骨がまだ未熟なうちに、過度の負担をかけ続けているのからで、調教も決して馬に優しいやり方ばかりではなく、トレーニングに出たのを最後に、いろいろなトラウマを負っておかしくなる馬もいる。
ストレスに耐えられず、あるいは恐怖感で、訓練を嫌がったり、体調を崩したりすれば、あとは屠殺場行き。
競走馬として生まれた子馬が、天寿を全うできる確率は、1パーセントもない。
日高地方では「不要牝馬回収」のトラックが、毎週「いらなくなった繁殖牝馬」をたくさんトラックに乗せて、屠殺場へ運んでいるという。

鮮やかな青春恋愛小説「パイロットフィッシュ」(2004年)で一躍世に知られた作家・大崎善生は、それ以前に「聖の青春」や「将棋の子」で将棋に生きた天才少年達の姿を描いている。
この作品群の繋がりの意外さに、大崎氏の経歴を調べると、日本将棋連盟に勤め、雑誌「将棋世界」の編集に携わったとあった。
そういえば「パイロットフィッシュ」の主人公は、ある雑誌の編集者であるという設定になっている。
大崎のデビュー作「聖の青春」は悲運の天才棋士・村山聖(さとし)という人物を描いている。
聖少年は5歳の時にネフローゼという腎臓の難病にかかり、6歳の時に将棋に出会う。
めきめき頭角をあらわし、「中国こども名人戦」で5年連続優勝したり「飛車落ち」でタイトルホルダーを破ったり、中学1年で上京した際に、伝説の「真剣師」として知られた小池重明と遭遇し、彼と指し合い勝利したエピソードがある。
谷川浩司が21歳にして、「史上最年少」で名人になったニュースを聞き、病をおして「プロ棋士」を目指すことを決意をした。
1982年、森信雄を師匠とし、奨励会を受験・合格するものの、一度は他棋士とのトラブルがあって入会が認められず、翌年「再受験」して入会している。
奨励会入会後は、異例のスピードで四段に昇進し、「プロ棋士」となる夢を実現した。
。 その間、師匠である森信雄は単身で暮らす病身の村山を親身な世話をして支えた。
村山は生来闘争心が激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意剥き出しの対応をすることが多かったが、同世代の羽生に対してだけは特別の敬意を払っていたという。
村山は「怪童丸」の異称で呼ばれ、奨励会員時代から「東の羽生、西の村山」と並び称されたほどの実力者となっていた。
しかし体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあり、実績では羽生に遅れをとった。
1992年に王将への挑戦者となり、谷川浩司王将と戦うも敗れている。
その後、病と闘いながらもA級8段までのぼりつめたが、血尿に悩まされるなどで順位戦の成績が不振で、197年春B級1組に降級した。
その後、進行性膀胱ガンが見つかり入院、膀胱を全摘出する大手術を受けるが、休場することなく棋戦を戦い続けた。
脳に悪影響がでて将棋に支障がではしまいかと抗がん剤・放射線治療を拒んでいたいう。
1998年にA級復帰を決めたが、ガンの再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」すると発表し、この年3月の最後の対局を5戦全勝を最後に、対局の場から姿を消した。
同年8月8日、入院先の故郷・広島の病院で29歳にて他界している。
本人の希望により家族のみで葬儀が行われ、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。
東京市ヶ谷のお堀端から見える「日本棋士会館」の壮観な外観が、この建物に通いつめたであろう挑戦者たちの壁の高さにも思えてきた。
ところで、作家・大崎義生は、どうして「村山聖」を主人公とした作品を書いたのだろうか。
実は、大崎の妻である高橋和(やまと)も「棋士」であるが、村山と同じくハンディを負いながら棋士として戦い続けた。
高橋は、4歳の時に交通事故に遭い左足の切断も考えなければいけないほどの重傷を負った。
娘に生きる術を与えたいという父親の配慮で7歳の時に将棋に出会った。
14歳でプロデビューすも、タイトル挑戦などの履歴は無いが、事務所所属のタレントとして、テレビ出演などを通して、「女流棋士」の存在のアピールに貢献した。
子供への普及活動にに専念するため、2005年2月に現役を引退している。
そして大崎は、妻である高橋和と難病にある少年との交流を作品「優しい子」に描いている。
作家・大崎は、将棋の世界で若き日から戦いを強いられる少年少女達の知られざる世界を描いた。
とはいえ、わずか一手の違いによる運命の分かれ道にたたずむ子供たち。
小さな胸に抱いた苦悶や苦闘は、おそらくは身近な者以外には知ることはないであろう。
どこか、鼻先三寸で争う「競走馬」の世界と重なるものを感じた。