家庭内「軍事」

家の中には、軍事転用技術が溢れている。ペンタゴンが通信施設が破壊されても情報交換が可能になるように開発したのが「インターネット」。
家の中を見渡すと、「ミシン」は機関銃、「ライター」は手榴弾、「掃除機ロボット」は地雷探査機などに軍事技術の一端を推測できるが、ちゃんと確かめたわけではない。
一番手近なところでは、ボールペンやライター、衣服においてもカーディガン、トレンチコート、さらには割烹着までも戦争と関わりがあると知れば、たとえ「平和論者」であっても、戦争の恩恵にあることを思い知り、腰砕けになろう。
「腰砕け」には、体幹をコルセットで補強するのが一番だが、これは身体のクビレを追求した「コルセット夫人」の考案である。
コルセット夫人は、動き安い下衣服を考案した「ブルマー夫人」とともに、後世に名を残すこととなった。
さて、太平洋戦争で日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性からアメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
「あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの」、「はやく故郷に帰んなくていいの 両親元気かな」、なんて甘ったるい英語でササヤカれたら「戦意喪失」しそうで、実際にそれを狙ったものだった。
GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ」探しだったというから、そこにナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
日本の戦時下、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが国策として推進された。
そうして満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
男は企業に滅私奉公して尽くし、専業主婦がその家を守るというのが、高度経済成長時代の政府・経済界推奨の夫婦像となった。
あ~、それなのに、究極の安らぎを求めてエプロン喫茶やら割烹着スナックなんかに、足しげく通う企業戦士現われたのは、国策に無理があったようだ。

個人的に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」で妙に印象に残った一節がある。
「人生は一箱のマッチに似てゐる。重大に扱ふのは莫迦々々しい。重大に扱はなければ危険である」。
マッチを重大な発明というには莫迦々々しいが、それでは重大な発明ではないのか。その発明は、意外にもワットの蒸気機関改良以後の発明なのだ。
マッチは1826年に、イギリスの薬剤師ウォーカーによって初めて発明された。軸木の先に黄燐を付けた「黄燐マッチ」であった。
なんとライターが初めて登場したのは、1772年のことでマッチに先立っている。平賀源内がゼンマイを使用した火打石と鉄を用いた、煙草用のライターを発明している。
ただ、この時のライターの形状は、現代のライターとはかけ離れたもので、日本で最初に実用的なライターが発明されたのは、1920年のこと。
汽船乗組員だった本城真玄がアメリカで見つけたライターを真似して作ったものが、現在のオイルライターの第1号となった。
さらに、ボールペンが誕生して普及する背景には戦争がある。
第二次世界大戦のこと、爆撃機などが高空でも航空計算に使える筆記具を必要とした。なぜなら万年筆ではインクが漏れるからだ。
折しも元校正職のハンガリー人がボールペンの開発に取り組んで、完成させた。ある米国人がそれを特許に触れないように改良し、米軍は大量に採用し、爆撃攻撃に大活躍したのである。
さて1853年、クリミア戦争に砲兵少尉として従軍した若き日のトルストイは「セヴァストポリ物語」で戦場の悲惨を生々しく描いた。
セヴァストポリ要塞は黒海に突き出たクリミア半島南端のロシア海軍の基地で、18世紀末クリミア=ハン国を併合したロシアのエカチェリーナ2世が築いた。
そして、ロシア軍とトルコを支援する英仏軍はクリミア半島で激突した。
セヴァストポリ要塞をめぐる攻防戦は陰惨を極め、要塞に立て籠もったロシア軍は349日めに、チカラつきて降服した。
ロシアの「南下政策」はまたしても失敗に終わったのだが、この戦争で看護婦として参加したのがイギリス人女性ナイチンゲールである。
敵味方に関係なく傷ついた兵士を看病したので「クリミアの天使」とよばれたが、ナイチンゲールの真骨頂は、むしろ冷静な情報分析とそれに基づく環境改善にあった。
戦場から還った彼女はこの経験を生かして近代看護学を確立し、1880年には看護専門学校(ナイチンゲール・スクール)を設立している。
ところで、この壮絶なクリミア戦争で後世に名を残したのはナイチンゲールばかりではない。
クリミア戦争のバラクラヴァの戦いにおいて勇猛な突撃を行ったイギリスの国陸軍軽騎兵旅団長がいた。
その名は英の第7代カーディガン伯爵ジェイムズ・ブルデネルである。
司令官として参戦したイギリス軍のカーディガン伯爵は、負傷兵が着やすいように「前あきのセーター」を考案した。
保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを、怪我をした者が着易いように、「前開き」にしてボタンでとめられる様にしたのである。
この服は、男爵の名前をとって「カーディガン」と名づけられた。
クリミア戦争ではまた、「カーディガン」の他に「ラグラン袖」も生まれた。
同じイギリスのラグラン男爵は、厳しいクリミアの冬を乗り切るために、あり合わせの素材でオーバーコートを作ろうとした。
戦場のことだから丁寧な仕立ては困難であった。そこで袖の生地を首の付け根まで伸ばして、「袖付け」の作業を簡略化した。
すると袖はユッタリとして負傷兵でも楽に着こなせるようになった。
この仕立ては戦後コートやカジュアルのジャケットなどにも採用され、「ラグラン袖」と呼ばれた。
映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着ていたトレンチコート姿は、「ハードボイルド」のイメージを植え付けたといってよい。
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する「防水型」の軍用コートが求められた。
その原型は既に1900年頃には考案されていたが、「トレンチ(塹壕)」の称は、このコートが第一次大戦で多く生じた泥濘地での「塹壕戦」で耐候性を発揮したことによる。
確かにトレンチコートは、軍服としての名残を多分に残している。

1854年にペリーが2度目の来航をしたときに、将軍家にミシンを送った、というものがもっとも古い記録である。
この後、1860年にはジョン万次郎がアメリカからミシンを持ち帰っている。ちなみに、日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だといわれている。
日本で、ミシンが普及をはじめるのは明治期になってからである。初期は輸入のみで、修理などを通じて技術を取得した技術者によって、徐々に国内生産が開始された。
最初の製造業者は、江戸時代までは「大砲職人」であった左口鉄造であるとされ、1881年に東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に国産ミシン第1号として展示された。
「大砲職人」といえば、福岡県庁前の東公園の「日蓮上人像」を作ったのは、佐賀の大砲製作所であった。
佐賀市長瀬町に生まれた谷口清八は、明治の「鋳鉄王」とよばれる。
谷口家は、代々佐賀藩の御用鋳物師をつとめた家柄で、直正の時代には大砲を鋳造した。
1883(明治16年)、谷口鉄工場を設立。特に水道用鉄管は、外国製品に劣らない優良品を製造した。
大正初期には従業員数が500人を超えるまでに発展した。
「日蓮上人像」の建造はその実力を示す格好の機会となったのである。
さて、大正時代から、日本でもミシンの量産がはじまったが、量・質ともに「シンガー」などの輸入品にはかなわなかった。
第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは軍用ミシンのみ製作されることになる。1945年に終戦を迎えると、国内で大ブームとなったものが「家庭用ミシン」だった。
戦後洋服が普及し、家庭で縫われるようになったためである。
国内に100社を超えるミシンメーカーが乱立し、トヨタや三菱も参入した。そして銃をつくる機械装備があったジューキも製造へと乗り出した。
ジューキの創設は1938年12月で、太平洋戦争中に陸軍が使用する「九九式小銃」を生産するために設立され、1943年に東京重機工業株式会社に改称した。
終戦の焼け跡の中、敗戦により苦肉の策でパンやアイスキャンディの製造で窮地を凌いだこともあった。
当時、ミシンの市場はドイツやアメリカのメーカーが席巻し、80社もの国内工場がつぶれた。ジューキは外国のミシンをコピーしながらも、なんとか生き残っていた。
しかし故障が頻発、苦境に立っていた。たまたま欠員が出て小塚忠(こづかただし)という当時35歳の男を採用した。
不敵な面構え、聞けば過去に8つの会社をやめたという男。なぜその男を採ったのか、誰もが訝しがった。
小塚は出社早々、いきなり上司にかみついた。
外国のモノをコピーしているのでは売れるはずがないと。社員からは、生意気なやつがはいってきた、ミシンを舐めていると反発をくらった。
そこで小塚に「縁かがりミシン」の改良が命じられた。ハンカチやズポンのすそ、そのほつれを防ぐのが「縁かがり」で、布の端をジグザグに縫うミシンである。
外国のものをコピーしたものは、振動でミシンがゆれ縫い目も乱れ、返品が相次いでいた。
周囲は、小塚にそんな改良ができるわけがないと冷ややかだったが、小塚は黙って図面と向かいあい、2ヵ月後に作った図面を上司に提出した。
それを見た上司は息をのんだ。小塚の設計図は強度はもちろん部品の動きまで精密に書かれていたばかりか、明らかにアメリカのミシンの構造とは違ったからだ。
そしてなにより小塚自身、「これは新しいミシン」だと言い放った。
実はこの時まで、社員たちは小塚が何者か知らなかった。
小塚は17歳で難関の海軍兵学校に入学し、海軍士官の道を目指したたが、敗戦で中断された。
実家のある岐阜に帰る途中、焦土となった広島を見、くやしさがこみ上げた。
幼いころから機械が好きで、技術で国のために尽くそうと誓った。就職したのは、鉄を延ばす圧延工場。
しかし圧延機械はすぐ故障し、鉄が冷め延びなくなっていた。小塚はノートを計算式で埋め尽くして改良のアイデアを考えた。そして、機械を改良してみると、実際に鉄は赤く燃え続けた。
小塚は、そのことにより「技術の求道者」になろうと決めた。そしてもっと高いレベルの技術を得ようと会社を渡り歩いた。その結果が会社を8つも辞めたということだったのだ。
絶えず自分の限界を打ち破りたいと思っていた小塚にとって、会社を渡り歩くのは「武者修行」のひとつで、同じ会社に3年いてはマンネリ化するしかないと感じていた。
その間に小塚が設計したのは、小型化した「農耕機用エンジン」、ガスの燃焼効率を飛躍的にあげた「湯沸かし器」、10倍の耐久性をもつ「印刷機」などで、小塚改良の新型機は各分野20種類におよんでいた。
そして小塚はジューキにて、「振動がなく、縫い目がきれいなミシン」を完成させ、皆が小塚に一目を置くようになったが、小塚はまたもやここではこれ以上得るものがないと会社を去ろうと思っていた。
そんな時、ひとつのミシンに目が留まった。ドイツ・カフ社の「穴かがり」ミシン。
一瞬にしてボタン穴をつくり、世界最高の性能といわれた。小塚はその構造に釘付けになった。これが小塚の「ミシン開発」の果て無き戦いの始まりとなった。
1963年ごろにはミニスカートが流行。服は既製服を買う時代に変わり、ミシンも家庭で使うものから、縫製工場で使う工業用のものへと変わった。
ジューキの営業担当は、価格をさげ海外で売って活路を見出そうと思った。
そして世界シェア3割、ドイツのパフ社に立ち寄ったところ、従業員5000人、特許は500、技術の圧倒的な差に身が細る思いがした。
ところが、販売店で担当者が、ミシンの世界で皆が頭を悩ます難問に「糸きり」があると語った。
実は当時、一枚の背広で200回糸を切り、縫い上げねばならない。糸きりにはミシンをとめ、針をあげ布を大きく引きだし、はさみで切る。その手間、縫っている時間の倍はかかった。
布を引き出す際にたわみが生じ、製品が傷つくこともあった。
営業担当は、自動で糸が切れるミシンができないか、これでだめならジューキはおしまいだと思った。
開発をまかされたのは、大学で機械工学を学んだ期待の若手だったが、ミシンを前にため息が出た。
針がおりる間隙のわずか0.3秒の間隙で糸をきるなんてことは、プロペラの中に手をいれるより難しいと思った。
試作品を作ってみたが、針と糸をきるメスがぶつかり、針が真っ二つに折れた。
そこで、上層部から小塚に声がかかった。小塚は世界で誰にもできないミシンの開発に武者ぶるいが起こった。
そして小塚がリーダーで、中堅社員、若手社員3人によるプロジェクトができた。
中堅は、会社をすぐ辞めて長くは続かない人間にはついていけないと思ったし、若者は開発にし失敗し、落ち込んでいた。
小塚は、二人を連れだし、埼玉の縫製工場に向かい、そこで働く、農家の主婦や娘たちの話を聞くことにした。
主婦がいった。1日1000回以上糸をきる。手が疲れてどうしようもない。娘がいった。ミシンを覚え金がとれるのに1年もかかる。
小塚は、ミシンにしがみついて仕事をしている人々の助けになることが、我々の仕事ではないかと語った。
二人は心を打たれ、世界でただひとつのミシンの開発に向かう決意を固めた。
最大の難問は、0.3秒の間隙だった。メスで糸を切るのに、実際はその時間の幅が全部つかえるわけではない。もっと少ない間隙だった。
小塚は、かつて設計した農耕機のエンジンのノートを見て「カム」の仕組みを思いついた。
針とメスをふたつの動力で独立させるのではなく、ヒトツの動力にすればいい。連動するような仕組みにすれば針があがる瞬間にメスで糸が切れる。
この「カム」の仕組みは、機関銃つきの戦闘機で、銃弾をプロペラの間に通過させる技術でも使われているものだった。
プロペラが機銃の射線を塞いでいる間、機銃の発射を抑える装置で、自らプロペラを破壊しないよう射撃をプロペラの回転に合わせる「連動装置」が組み込まれていた。
1946年6月、パリで4年に1度の世界百社が参加した国際ミシン見本市が始まった。
ジューキも、会社の命運をかけ、「自動糸きりミシン」を出品した。他にも自動糸きり機を装備したミシンはあったが、ジューキの「自動糸きり」の性能は他を圧倒した。
ブースに続々と人々が集まり、小塚を取り囲んだバイヤーから一斉に拍手が起こった。
なんとか受け入れてもらえばいいと、三人のプロジェクトで開発を進めたミシンは、今や世界市場シェアの4割をしめている。
小塚は、今度は会社を去らず現場にこだわった。千鳥縫いミシン、ポケットを縫う二本針ミシンなど、70もの特許をとった。
テレビで紹介された、小塚が書いてきた70冊のノートには、流転の技術者人生の「魂」が詰まっているように見えた。

篠宮は、ペダルを後ろに踏むだけで糸が切れる仕組みを考えた。青山は小さなメスに磨耗しにくい高速度鋼をとりいれ、半永的にきれるミシンを目指した。1カ月後、試作品ができた。国内出荷にふみきったが、電話がかかった。糸がきれなくなった。不良品だ。苦情が殺到した。
昭和44年7月、故障の究明にあたった。出来回路の一部が焼きついていた。耐久試験では問題なかったのに、上司は故障したものばかりではよいといったが、全部回収してくれと上司に譲れなかった。
つまり買い戻して損害はでた。故障したミシンは夕日で真っ赤にそまっていた。電源で熱をもつ。西日の熱でしょーとした。篠宮は熱を逃がすアルミ製の部品おと交換。高温度実験室で一日6時間、一週間裸で踏み続けた。小塚は技術者になったなのと声をかけた。
折しも元校正職のハンガリー人がボールペンの開発に取り組んで、完成させた。ある米国人がそれを特許に触れないように改良し、米軍は大量に採用した。それは爆撃攻撃に大活躍した。 ところで、イスラム世界では一般的に、女性の髪と胸元を布で覆うことがイスラム女性の宗教的な義務と見なされていて、ブルカやヒジャーブなどのファッションが生まれた。
しかしこれは、イスラム教で夫は絶えず「ジハード」(聖戦)のために家を空けなければならなかったという現実と関係しているのかもしれない。
というのは、宗教の「戒律」ではないものの、日本でも同じようなことがあったからだ。
日本は、日清戦争・日露戦争で「軍国主義社会」に突入するが、日本政府としては、戦争に勝つためには戦場にいる兵士の士気を高めて、全力で戦えるようにしなければならない。
前線で戦っている兵士は、いつも不安な状態にあるので、些細なことで気持ちが「萎縮」してはならない。
ちょうど太平洋戦争で日本発のラジオ放送で「東京ローズ」と呼ばれた女性からアメリカ兵に向けて甘い声が流れてきた。
あんたの奥さん他の男と仲良くなってんのじゃないの、はやく故郷に帰らなくていいの、なんて甘ったるい英語でササヤカれたら戦争なんかヤメテ家に帰りたくなるに違いない。
戦場からは逃げ出すことは出来ずとも、全力で戦う気は失せるかもしれない。
ラジオ電波に乗った「東京ローズ」の甘いササヤキは太平洋の島々で日本軍と戦うアメリカ兵に大人気だったそうだから、実際の効果もあったかもしれない。
極限状態にいる兵士は冷静にモノゴトを考えることができなくなっているので、意外と効果があるのカモ。
そして、GHQが日本に上陸して真っ先にしたことといえば、「東京ローズ」探しだったらしいが、そこにナントモ複雑な感情が入り乱れていたことは想像に難くない。
日本の戦時下、こういう事態を防ぐためにも、妻はどんな時にも「貞節を守るべき存在」であらねばならぬとして、「一人の夫を一生涯愛す、貞節な妻」のイメージ作りが「国策」として推進されたのだ。
そうして満州事変後に「銃後を守る」女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
ユニフォームに指定された理由は、「きれいな着物姿は、夫以外に見せるものではない。女性が外で着飾るのはよくない」という理由だった。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
男は企業に滅私奉公して尽くし、専業主婦がその家を守るというのが、高度経済成長時代の政府・経済界推奨の「夫婦像」となった。
それなのに、究極の安らぎを求めて「割烹着喫茶」とか「割烹着スナック」なんてものまでが生まれて、足しげく通う「企業戦士」が現われたのは、皮肉ともお生憎とも。
日本にも、太平洋戦争の終わって、進駐してきた米軍の兵士がボールペンを持ち込んだことから広がった。

国難到来を唱え、南無阿弥陀仏を唱えよとしたのが日蓮だが、亡くなる年後に実際に「元寇」が起こった。
福岡県庁には、日本とモンゴル軍との主戦場となった場所に、亀山上皇像と日蓮上人像がたつが、この日蓮上人を作ったのが 佐賀の大砲製作所であったことはあまり知られていない。
佐賀市長瀬町に生まれた谷口清八(せいはち)は、明治の「鋳鉄王」とよばれる。谷口家は、代々佐賀藩の御用鋳物師をつとめた家柄で、直正の時代には大砲を鋳造した。
1883(明治16年)、谷口鉄工場を設立。特に水道用鉄管は、外国製品に劣らない優良品を製造した。
大正初期には従業員数が500人を超えるまでに発展した。
プロペラの回転に同調する円盤に、機銃の前にプロペラ羽が来るタイミングで切り目を入れておくと、その瞬間だけ機銃の引き金が戻る単純な装置。
1854年にペリーが2度目の来航をしたときに、将軍家にミシンを送った、というものがもっとも古い記録である。
この後、1860年にはジョン万次郎がアメリカからミシンを持ち帰っている。ちなみに、日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だといわれている。
しかし、外国製品は故障が多く、加えて品質が安定していない点に、ミシンの修理で生計を立てていた安井正義、實一兄弟(ブラザー工業創始者)が着目。彼らは、性能の良い国産ミシンは売れると確信し、製造に着手した。
1928年に「麦藁帽子製造用環縫ミシン」を発表し、販売し始める。
全く壊れないと大評判となり注文が殺到し、安井兄弟のミシンは瞬く間に広がった。
耐久性の秘密はその「造り」にあると云われ、針があたっても壊れないよう「糸受け」を硬く加工しながらも内部に柔らかさを残す為、「浸炭焼入れ技術」という独自の方法を採用した。