広島~遅れて輝く物語

岡山生まれの直木賞作家・重松清氏が、『赤ヘル1975』(2013年)という本を書いている。
カープが初優勝した年の広島の熱狂を、東京から引っ越してきた少年の目を通して描いたものだという。
個人的な話だが、この1975年は福岡から上京しての大学入学の年、その10月に広島の優勝が後楽園球場で決まった場面をよく覚えている。
直接球場に足を運んだわけではないが、巨人のV9の舞台となったアノ後楽園球場が、広島ファンで埋め尽くされるとは、ある意味「我が目を疑う」場面だった。
巨人ファンだったにもかかわらず、地方出身者にとっては、何か大きな「励まし」になったのも事実。
さて前述の重松清が、25年ぶりの広島優勝を「カープが紡ぐ”育つ物語”」と新聞に寄稿していた。その内容は次のとおりである。
原爆で灰燼に帰した地方都市に、親会社を持たない市民球団として生まれた「広島カープ」という球団そのものが、「育つ」物語の主役でもあった。
「育つ」とは、紆余曲折があり、試行錯誤があり、伸び悩んだり、向かう先を見失いかけたりするときだってある。実際、カープも四半世紀にわたって優勝から遠ざかっていた。
それは、プロ野球がFA制度やドラフトの逆指名制度によって「育つ」野球を否定してきた時期とも重なる。
資金力と人気のある球団は「すでに育った選手を集める」。しかし、カープは球団名から「広島」の名をはずさず、主力選手を次々にFAで他球団に引き抜かれながらも、スター揃いというわけではない若手選手を育てつづけた。
さらに重松氏は、苦しんできた25年間は、低迷期ではなく、じつは雌伏しながらひそかな成長をつづけていた時期だった。ここ2、3年の「もうちょっとなのに」というもどかしさもまた、いまにして思えば「育つ」物語のうちだったのだろうか。それを敏感に察して、選手たちを応援してくれたのが、マツダスタジアムを赤く染めるカープ女子だったのかもしれない、と書いている。
重松氏は、「育つ野球」の代表として広島の4番の山本浩司をあげていた。確かに広島の看板打者といえば、「山本一義」の方だったし、山本浩司は「法政三羽ガラス」つまり「巨人の富田/阪神の田淵/広島の山本」の中で、一番遅れて「育った」選手だった。
しかし個人的には「育つ物語」の代表として、出雲信用組合から「ドラフト外」で入団した大野豊投手をあげたい。
そしてココカラは「育つ物語」というよりも、無名から育つニュアンスを込めて「遅れて輝く物語」にする。
大野豊の実家は島根県で海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くために出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。
しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。
1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちをもったという。
その3か月後の1976年秋、出雲市内で広島東洋カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチと主戦投手池谷公二郎が講師として参加。
「出雲市信用組合」野球部員は手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、高校時代の監督へプロへの道を作っていただけないかと頼んだ。
恩師に頼んだ経緯もあり、翌1977年2月に特別に受験することとなり、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格。
3月6日、軟式野球出身という異色の経歴で、広島に「ドラフト外入団」を果たした。
ただし、契約金なし、俸給は月額12万5千円の薄給だった。
1年目の1977年は9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之からアウト一つを取ったのみで降板。
自責点5、防御率135.00という惨憺たる成績を残した。
この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰った。
本人によれば、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があり、山本一義コーチから「死ぬなよ」と言われたという。
大野は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。
1978年、南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。
江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。
ドラフト外から広島のエース、さらにはセリーグNO1の左腕投手のストーリーは、「遅れて輝く物語」の代表といえるだろう。

「日本のウイスキーの父」と呼ばれた竹鶴政孝は、広島県竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む家の三男として生まれた。
大阪高等工業学校(現在の大阪大学)の醸造学科にて学ぶが、「洋酒」に興味をもっていた竹鶴は、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造に入社した。入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属され、入社間もなく主任技師に抜擢される。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていたものの「純国産」のウイスキーは作られていなかった。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画し、竹鶴は、1918年社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め1920年に結婚した。
リタを連れて日本に帰国するが、実家の家族にも反対され、いったん竹鶴が分家するという形で一応の決着をみたという。
竹鶴帰郷後、摂津酒造は「純国産ウイスキー」の製造に動き出すが、第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって資金調達ができなかったため計画は頓挫してしまう。
竹鶴は、1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、しばらく大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で化学を教えるなどしたこともある。
1923年、大阪の「寿屋」(現在のサントリー)が「本格ウイスキーの国内製造」を企画し、社長の鳥井信治郎がスコットランドに適任者がいないかと問い合わせたところ、「日本には竹鶴という適任者がいる」という回答を得た。そして同年6月、竹鶴は破格の給料で寿屋に正式入社した。
京都に山崎工場が竣工され、竹鶴はその初代工場長となり、酒造りに勘のある者が製造に欠かせないと、醸造を行う冬季には故郷の「広島」から杜氏を集めて製造を行っている。
1929年、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されるが、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人には受け入れられず、販売は低迷した。
その後、竹鶴は寿屋を退社しスコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意したが、まずは「大日本果汁株式」として、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。
そして1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売し、社名の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名した。
ちなみに竹鶴が旧制余市中学校(のちの北海道余市高等学校)に寄贈した「ジャンプ台」、通称「竹鶴シャンツェ」で訓練して札幌オリンピックで後に金メダルをとったのが笠井幸雄である。
竹鶴正孝がスコットランドで学んで、ようやく「国産ウイスキー」が成功するまで、「遅れて輝く物語」のひとつに加えたい。

世の中には、溢れんばかりの才気がありながら、生まれるのが「早すぎた」と思わざるを得ない人もいる。
逆に「遅れた」ことが幸いして、彼らの仕事をより効果的に実現できた感のある人々もいる。
彼らが出遅れたのは、若き日に「病」を発したからで、一度は死線を彷徨う経験をした。それ故に、人の世の「冷たさ」にも「人情」の温かさにも人一倍敏感になったことであろう。
また、命を賭すれば何でもできると、ハラが据わったということもいえるかもしれない。
ところで、アベノミクスでも、「物価上昇率2パ-セント」を目標に金融緩和を行うなど「数値目標」を掲げている点でも、高度経済成長期の「所得倍増計画」と共通している。
しかし、アベノミクスの金融緩和策はこれまでのところ「円安→輸出増→景気浮揚」というルートで功を奏してはいるものの、3本目の矢である「成長戦略」に欠け、その存続について疑問視されつつある。
今の日本で「成長戦略」を打ち出し人々を納得させるのは至難の業なのだが、それはかつての「所得倍増計画」においてもマックタク同様であった。
所得が増えるどころか「減る時代」をマジカに体験した人々からすると、国民の所得を10年以内に倍増させるというのは、夢のまた夢の成長戦略である。
そうした悲観論が多い中で、「所得倍増」というタワゴトを大胆に言い放った池田勇人という首相がいたことは、ある意味「驚き」というほかはない。
しかし、そのタワゴトを支えた下村治という出遅れたエコノミストいたことはあまり知られていない。
池田の若き日の経歴を見ると、池田の次に首相となる佐藤栄作と同じく、五高(熊本)にまわされている。特別に優秀というわけでもなかったのだろう。
池田は、翌年にもう一度一高にチャレンジしようと五高を1学期で退学するが、翌年も結果は同じで、それで佐藤よりも一年遅れをとることになった。
さらに池田は東大受験にも失敗し、京大法学部にすすんだ後、大蔵省に入った。
官僚の世界では一高から東大が主流であったので、五高から京大は「傍流」であったといってよい。
しかも昭和のはじめの時代、池田が宇都宮税務署長だった頃、全身に水ブクレができる皮膚病にかかった。
そして妻が看病疲れで亡くなるという「悲劇」を味わい、長引く闘病生活で大蔵省「退職」に追い込まれてしまった。
広島県竹原の生家で「失意のドン底」にいたのを、同郷で遠い親戚筋にあたる女性が懸命の看病で支えたが、この女性と後に結婚することになる。
池田は、病気回復後「全快挨拶」のために東京に出て三越に立ち寄り、そこから大蔵省に挨拶の電話したところ「復職」させてやるから戻ってこいという返事であった。
この時、池田は日立に就職が「内定」していたので、この時の電話は、ある意味「運命的」な電話となった。
ところで、官僚として税務畑の実績をつんで、衆議院議員選挙に当選し、佐藤栄作らとともに、いわゆる「吉田学校」の一人となる。
池田内閣が成立した時には、日本の独立や安保改定ナド戦後処理に関する大きな案件がヒトマズ片付いたことが、「遅れてきた」池田にとって幸運だったかもしれない。それによって政策の中心を経済に向けさせることができたからだ。
そして「安保の岸」から「経済の池田」へ、そのキャッチ・フレーズこそが「所得倍増」であった。
現在の安倍首相の祖父岸の後を継いだ池田首相は、「寛容と忍耐」「低姿勢」「所得倍増」といった平易なスローガンで世論に訴えかけた。その一方で「貧乏人は麦を喰え」など、真意を伝えられなかったにせよ、一国の首相としてはドウカと思える「失言」があったことも事実である。
そして、池田の派閥「宏池会」は、広島が旗揚げの地となり、池田に近い経済人、学者、官僚など多くが池田政権のイシヅエとなった。
つまり、池田の「知恵袋」たちがあつまり、「所得倍増計画」を精緻なものに仕上げようと箱根のホテルにこもった。
「所得倍増」の源流は一橋大学長を務めた中山伊知郎が、1959年1月3日の読売新聞に載せた寄稿だったという。
そして「所得倍増計画」は、池田勇人と佐賀出身の下村治というエコノミスト二人のタッグによって実現した感がある。
下村は池田のまわりをかためていた官僚の大平正芳や宮沢喜一とともに、中山理論を「所得倍増論」に昇華させていった。
実は、池田勇人首相とタッグを組んだ下村治もやはり病気で出遅れた人物である。
下村は、東大卒で大蔵省に入省したものの、結核の病に悩んだ。そのせいで大蔵省では「主流」からはずれた。
池田も下村もともに「死と隣り合わせ」の病にかかり病を克服したこととで「官界」に復帰している。
下村は1948年ごろ結核にかかり徐々に衰弱していった。長男によれば「あの時は、本人も「もうだめだ」と思ったようだという。
それでも下村は病床で「論文」を執筆する。闘病は結果的に、下村を官僚ポストの階段ではなくエコノミストへの道を進ませた。
池田の派閥「宏池会」の事務局長・田村敏夫が、役に立つ秀才が省内にいると言って下村を池田に引き合わせたのが出会いである。
下村治は1934年東大経済学部を出て大蔵省に入った。経済企画庁の前身「経済安定本部」で最初の「経済白書」の執筆にかかわった。
そこでは、大蔵省出身の田村がイニシアティブを取り、その中核として、近代経済学の数式を使ったモデル分析を駆使する下村治を据えた。
下村の根底には「国のために尽くす」という思いが強くあり、やはり「国のために尽くす」という覚悟があった池田勇人との出会いでカタチとなった。
悲観論も多くあった中で日本という国を「肯定的」にとらえていた点でも共通している。
逆境を乗り越えたことは、下村の「経済理論」に確信を与えた。 つらい経験をした人ほど明るいというが、池田や下村が病を克服した体験が「回復力」への信頼となり、焼け跡から国民生活の向上への強い信念に繋がったのかもしれない。
広島で旗揚げされた「宏池会」の流れをくむ政治家の名を少しあげると、大平正義元首相(香川)、鈴木善幸元首相(岩手)、宮澤喜一元首相(広島)、岸田元外務大臣(広島)らがいる。
ちなみに、池田の出身校は、忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)だが、その一つ上の上級生には竹鶴政孝がおり、池田が亡くなるまで交流が続いた。
マッサンこと竹鶴の影響もあり、池田は国際的なパーティーでは「国産ウイスキー」を使うように指示していたという。