プラントハント

日本の鳥類学者には皇族・華族が多いことが知られている。そこで「殿様生物学」という言葉さえある。
それは、政治と直接関係ない動物学を趣味とするのが、江戸時代の殿様からの日本の「伝統」となったということもできる。
ただ、華族は西欧文化と早くから接することができたことから西欧の「博物学」の刺激を受けたということがあるのかもしれない。
さて昭和天皇は、生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いだことでしられる。
1925年6月に赤坂離宮内に「生物学御研究室」が創設され、御用掛で生物学者の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。
1928年9月には皇居内に生物学御研究所が建設されている。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。
少し話はズレルが、日本では、日中戦争中の1939年頃から空襲時の「猛獣脱走対策」が本格的に検討されるようになった。
1939年には「空襲により檻が破壊されて脱走した」との想定で実施された。
そして日米関係が悪化して太平洋戦争が迫った1943年には空襲の脅威は、より現実的なものとして意識されはじめ逃亡予防を目的とした「戦時猛獣処分」が上野動物園を皮切りに始まっている。
昭和天皇についてのエピソードは、軍部から使者が生物学研究を止めさせようと出向いたところ、昭和天皇がある海域のプランクトンの減少に気づいた為、「異常海域」を調べた結果、「敵潜水艦」の発見につながり止めさせるのは断念したという話が残っている。
昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。

聖書には「野に咲く花を見よ。栄華のソロモンでさえもあのようには着飾っていなかった」という言葉があるが、なぜに植物はあのように多様で美しいのか。
それは本来的に人の目を楽しませるためのものではなく、自らが生き延びるためである。
すべての生き物たちは、相性のよい配偶相手に出会い、健全な子どもを残し、その遺伝子をさらに子孫へと伝えるように仕組まれている。
そのために都合良いように動物は様々な形態をとり、その行動も進化した。
相手にできるだけ目立つ存在になろうと装いを凝らし、力をアピールし、ダンスを磨き、住まいを整えたりするのだ。
ところが植物は、こちらから配偶相手を探すに出かけることも、直接的に遺伝子を交換する行動に出ることがきない。
ではどうするか、仲介者を探すことだ。仲介者を遺伝子情報の詰まった「花粉まみれ」にすること。仲介者がその花粉を他にスリつければ、作戦は大成功。
だが植物の中には、虫や鳥などの助けはいらないものもある。
例えば、アサガオの場合、雄しべと雌しべが同じ花にあり、花が開くと、雄しべの花粉が、雌しべにふりかかる。
このような仕組みの受粉を「自家受粉」というが、アサガオの場合はどうか知らないが、一般的にに「自家受粉」は遺伝的に健全ではないため、「運び屋」の力を借りて「他家受粉」をする。
これは、雌しべの柱頭が、「他の花の」雄しべから出た花粉を「受粉」をすること。その方法は、昆虫によって運ばせたり風によって飛ばしたり、水に流したりするなど様々ある。
「他家受粉」は、花の蜜を吸いにきた虫に、「花粉」がつくようにする方法で、このような仕組みで花粉を虫にはこばせる花を 「虫媒花」 という。
「虫媒花」では、虫の体に花粉が都合がよくつくよう、花粉がネバネバしていることが多い。
また、虫媒花の花の色や大きさは虫に気付かれ易くするために、「目立つ」ものが多い。
虫媒花は、虫をひきつけるために「蜜」をだすが、よく似たものに「水媒花」や「鳥媒花」などがある。
花々は派手さばかりで目立つわけではない。目立たぬように可憐に咲く花に惹かれるポリネータもいる。夜に香りを発して蛾を「運び手」にしたりもする。
ハエをポリネータに選んだ植物は、人が鼻をつまむ「腐った肉」のような匂いを発する。
その他、風によって花粉を運ばせる「風媒花」では、 風に飛ばされやすいように、花粉はサラサラしていて軽いものが多い。
こういうのが「花粉症」を起こしているが、植物は人の意など介しながら命の営みをするものではない。
花々はなぜ多様で美しいのか。結論をいうと、配偶相手と結びつけてくれる「仲人」、つまり花粉の「運び手(ポリネータ)」を誘き寄せる術に工夫をこらした結果といえる。
植物進化の歴史は、植物と動物(送粉者)がお互い相手に合わせて、「チューンナップ」しながらつくってきたといえる。
例えば、鳥に花粉を運んでもらいたい植物は赤い花をつけていることが多い。
鳥は赤が見やすいといわれており、ほかの色が見えないわけではないが、鳥は自分の花は「赤い」ということを認識しているかのようだ。
花粉の送粉者となる昆虫の中でも、特にミツバチなどのハナバチの仲間は一生花の「蜜」と「花粉」に依存して暮らす。
このような植物と動物のパートナー関係が「密接」であればあるほど、花粉を運んでくれる動物の数が少なくなってしまうことは、植物は繁殖にとっての「危機」を意味することになる。
「世界でたったひとつの花」を咲かせるのにも、花自体の努力や戦略ダケでは、どうしようもない部分もあるのだ。

人間の世界でも植物の「運び屋」がいる。未知の植物を探す「プラントハンター」とよばれる人々である。
その歴史は古く紀元前のエジプトまで遡るが、17世紀から20世紀初頭にかけて、欧州では王族や貴族のために、世界中の珍しい花を求めて冒険する人々がいた。
日本では殿様生物学の一端をになう冒険家でもあった。
実は、ペリーが黒船で来日したときに「プラントハンター」が同船しており、日本の植物を採取している。
なにしろ、「新種」であればその販売におけるパテントを取得できるため一攫千金のチャンスがある。
その意味では「トレージャー・ハンター」にも似て、常に危険と背中合わせだ。
個人的に、実質「プラントハンター」的な人物として、秦の始皇帝から派遣された徐福を思い起こす。
中国の皇帝ならば望ものはなんでも手に入れられただろが、どうしても手に入れられなかったものが、「不老不死」。
始皇帝は徐福という男に命じて、東の海に浮かぶ仙人が住む島「蓬莱山」に行き、不老不死の薬を貰ってくるか、仙人を咸陽に連れてくるように命じた。
古代中国では、東の海に浮かぶ島に不老不死の仙人が住んでいる、という伝説があったためだ。
徐福は多くの部下とともに船出したが、着いた先で仙人を見つけることができなかった。
戻ったら始皇帝に殺されると思った徐福は、当地で広い平野と湿地を得て王となり、咸陽に戻らなかった。
この徐福がたどり着いたといわれる「徐福伝説」は日本各地に残っている。
さらに時代が近いところでは、ペリーが来航した際に黒船艦隊は「米国北太平洋遠征隊」の名のもとに、植物学者と植物採集家を遠征隊のメンバーに加え、琉球、小笠原、薩南諸島、伊豆下田、横浜、箱館及び北海道周辺で大がかりな植物採集を行い、米国に持ち帰っている。
他国のこととはいえ、19世紀のアメリカで、植物学の基礎研究のために海軍が便宜供与を与えていたという事実に驚く。黒船は捕鯨が目的であったが、「植物遺伝資源」の重要性を認識する先見性を物語っている。
1823年に来日したシーボルトは、長崎出島にオランダ人医師として来日したが、実はドイツ人である。国籍を偽ってまで日本にやってきたのは、それなりの理由がある。彼の本質は医師というより「プラントハンター」であったといってよい。
それは彼が書いた「日本植物誌」や「日本動物誌」などからわかる。
ところで、いわゆる「シーボルト事件」は次のような経緯で発覚した。
シーボルトはすでに、1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐集できたが、日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送っ。
ところが、間宮は外国人との私的な贈答は「国禁」に触れると考え、開封せずに上司に提出した。
この間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容から国外持出し禁止の「日本地図」の持出しなどが発覚し、関係した幕府天文方の高橋景保らは捕らえられ、シーボルト自身も国外追放となったのである。
背景には高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。
ちなみにシーボルトが日本で収集した植物はオランダのライデン大学に保管されている。
ところで、1633年以来長崎・出島のオランダ商館から、毎年3月に使節が江戸に行き将軍に贈り物をするのが慣例となっていた。
シーボルトも江戸参府を求められた、彼が九州において通った道が長崎街道である。
そして福岡市に近いところを通る長崎街道沿いの宿場町が二つ遺跡として残存している。
それが山家(やまえ)宿と原田(はるだ)宿だが、 ケンペルやシーボルトがこららの宿場町に滞在したことを示す、詳細な江戸旅行日記が残っている。
長崎オランダ商館付きのドイツ人医師・ケンペルが長崎を出発し江戸に向かったのは1691年2月13日で、その4日目に筑前領に入り、次のように記録している。
「山家は200~300戸の村で住民も多く大へんよい旅館があってそこで一休みした。山家の手前に1本のクスノキがあり、われわれが見たもののうちで4番目の並外れた大木であった。昼食 を終えて出発すると、我々の行く手には山道があって恐らく馬では登れそうもないので、四方とも開け放しになっていたが、小さい屋根の付いた狭い四角形の駕籠にやっとの思いで乗り込まねばならなかった。そしておのおのの駕篭を二人の男が担って半里の道を全速力で冷水峠の麓まで行き、それから峠の1里の道を登って名もない小さな村まで駕篭にゆられて行った。噂によると、この村の住人はみな今なお生きている一人の曽祖父から生まれた子孫であるという。われわれは村人が、ことに婦人がたいそう良い姿をし、着ているものも態度も話し方も感じが良く身分相応の教育を受けているように思った」。
それからほぼ100年後の1823年、長崎オランダ商館付きのドイツ人医師シーボルトはまだ27歳であったが、その江戸行きの道中に観察した日本の植物・動物・鉱物に関する記述は驚くはど精細である。
「原田付近ではたくさんのナタネやカラシナがあった。日本のカラシナは品質が優良で、その味はイギリスやロシアのものによく似ている。今日は一匹のカワウソが私のすぐ前から小川へ飛び込んだのでびっくりした」。
「われわれが泊まった山家で、われわれはまもなくこの土地の珍しい物を見つけた。中にはとくに珍しい鉱物のコレクションがあって日本人が めったに見たこともない化石が主なもので、この地方や近くの宝満岳で集められたものであった」。
1828年、シーボルトが国外に地図を持ち出したことが発覚するが、その半年ほど前、福岡藩主黒田斉清が養子の斉溥をつれてシーボルトを長崎のオランダ商館に訪ね、動植物についていろいろ質問している。

福岡県筑紫野市山家(やまえ)は、山を挟んで飯塚市との境にあり、米の山峠を20分ほど車を飛ばせば飯塚市「穂波町」という地につく。
そのほとんどの人が立ち入ることのない山間の地に、日本の国旗(日の丸)誕生と関わりのある「記念碑」が立っている。
ところで、太陽を表すとされる「日の丸」は、太陽信仰から生まれたものと一般的に解釈されているが、古事記などに見られる日本神話、その中心的存在である天照大神のイメージとともに語られてきた。
やがて「日出づる処」、つまり「日ノ本」の国という概念が出来上がっていったと思われる。
この太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献を探すと、「続日本紀」(797年)の中にある文武天皇の701年の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとある。
これが日の丸の「原型」で最も古いものといわれている。
さて、黒田藩主の福岡藩11代藩主、黒田長溥(くろだ・ながひろ)は、「蘭癖大名」というくらい西洋の文物を取り入れた人物だがそれもそのはず、長溥は11歳の頃に島津藩から福岡藩の黒田家に養子として迎えられ、やがて藩主となっている。
薩摩藩の同じく開明的な島津斉彬の大伯父にあたる人物だ。
とはいっても二人は二つ違いで、兄弟のような間柄であったといわれている。
この二人の熱き「絆」を物語るエピソードは次の通りである。
島津斉彬は家督相続をめぐって「お家騒動」が起こり、斉彬派への激しい弾圧の中、4人の藩士が脱藩して福岡藩に逃げ込み窮状を訴えた。
薩摩藩は直ちに藩士の引き渡しを求めるが、長溥はこれを拒絶すると、 幕府老中を通じて将軍家慶を動かし、薩摩藩の「お家騒動」を鎮めると、ついに斉彬を藩主の座に導いている。
その3年後の1853年11月に、薩摩藩主島津斉彬は幕府に大型船・蒸気船建造申請を行ったときに、日本船の「総印」として、白い帆に太陽を象徴した、白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言した。
これにより幕府もその必要を認めて、1854年に日の丸を日本全体の総印とする旨を、全国に布達した」と表現されている。
さて島津斉彬が「日の丸」のサンプルを作って幕府に提出しようとするが、当時の薩摩の染色技術では斉彬が望むような色が出せなかった。
そこで、鮮やかな赤の染料と染色技術を求めて、縁戚関係にある福岡藩主・黒田長溥を頼ったといわれる。
長溥所領の山口村には赤色の染料となる茜草が産出し、「茜屋」という地名が残るほど茜染が盛んに行われていたからだ。
鮮やかな赤を出し、さらに変色を防ぐために様々な工夫がこらされた「茜染め」は黒田藩の「秘伝」となっていた。
筑前茜染は、「歳月とともに赤みを増す」と世間に高く評価され、その鮮やかと美しさは「日の丸」に相応しいものであったといえよう。
この「茜染めの日の丸」が、日本の(実質上の)国旗としての位置づけを得る契機となった。
1854年、薩摩藩が建造した昇平丸が江戸品川に入港した時「日の丸」が揚げられ、それから日の丸は貿易の際、外国に対して日本の標識として「必要不可決」なものとなっていった。
穂波茜屋(山口)を訪問すると、江戸末期に国旗制定の基となった日の丸の旗を我が国ではじめて染め上げた「筑前茜染めの碑」がたち、近くには日の丸を染め上げた17代松尾正九郎の墓と、茜染めに使った「さらし石」を確認できる。
というわけで「日の丸」成立の背景のひとつに、島津家による福岡藩穂波(山口村)に咲く茜草の「プラントハント」があったのである。