物理的「民主主義」

最近のビッグニュース、国内では「マイナス金利導入」、海外ではイギリスの「EU離脱」。
ふたつの決定の「共通点」は、これから経済に大きな影響がでてきそうなこと、もうひとつはホボ「一票差」の決定であったこと。
そういえば、我が福岡市も那珂川を境に西側の「福岡」の名か東側の「博多」の名にするかでもめて、市議会で一票差で「福岡」に決定している。
ただし、JRの駅名を「博多駅」とすることで、東側は博多商人の矜持を保った。
もうひとつ、「伝説の一票差」を紹介したい。
1995年4月、香川県善通寺市の市議選挙で、堺敏昭という候補者が、1票差で落選した。そして、「無効票」の中に「ひっこしのさかい」と書かれた票が1枚見つかった。
実際、堺氏は「選挙前」に引っ越しをしていたそうで、当然、堺氏は「『ひっこしのさかい』は自分に投じられた票だ」と主張した。
しかし、みんなが思い浮かべるのは、アノ引っ越し業者、香川県選挙管理委員会の判断は「無効」となり、堺氏の主張は通らなかった。
さて民主主義は、語源的には「民衆=多数者の支配」を意味しており、手続き的には「話し合い→多数決→過半数で決定」と小学校でならった。
「一票差」の重大決定などの場面で特に思うところだが、多数者が「正しい」と思うことが、本当の「正しさ」を意味するものではない。
多くの国で「違憲立法審査権」が認められているのも、そのことを「暗に」しめしている。
さらには、多数決には、暗黙の「前提」があるように思う。それは、参加者の話が通じあうということ。
「話が通じあう」とは、対立のなかにあっても融和点や妥協点を見出しうるという意味で、例えば地球人と異星人で決を採ると、たまたま「数が多い」方が勝つという物理に則した結果しかでてこない。
今、アメリカ社会をはじめ、こんな物理と化した「民主主義」が蔓延っているのではないか、という思いにかられる。
アメリカにおける対立は、経済においては「大きな政府」を主張する立場と「小さな政府」を主張する立場があり、こうした経済的概念に付帯するように政治概念として「保守」と「リベラル」という言葉がある。
市場メカニズムを重視して「小さな政府」を志向する「保守」と、政府の役割を重視して「大きな政府」を志向する「リベラル」という関係が成り立つ。
アメリカの場合、「共和党」は政府の権限は縮小して自由市場や個人の自由を重視すべきとして、「民主党」は連邦政府は強力な権限を持って福祉政策などを展開すべきとしている。
つまり、アメリカにおいて共和党は「保守」で、民主党は「リベラル」とされ、1世紀半もの間、両党による「二大政党制」が続いている。
総体的に見ると、「古きアメリカ」を代表するテキサスなど中西部では共和党が強く、様々な移民が住みついている州が多い西海岸や東海岸などでは「民主党」が強いという構図がある。
その支持層から特徴をいうと、共和党大会の代議員層は、白人男性が圧倒的で黒人の数は極端に少なく、アジア系もヒスパニック系も探すのに苦労する。その一方、民主党の支持者たちは、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系で「多様性」が目につく。
BS放送で、朝見ることができるアメリカのアニメ「お助けマーニー」は、道具たち(ネジ、ドラバー、トンカチ、メジャーなど)を率いてこまった人々を助ける若い「修理屋さん」の話である。
舞台はカリフォルニアのどこかの市で、会話の中に時折スペイン語を交えるなど、民主党的世界観たる「文化多様主義」をよく表現している。
ところが、米国の南北戦争の際に南部側で「奴隷制を支持」していたのが民主党であり、一方北部側で「奴隷解放」を唱えていたのが「共和党」である。
特に「奴隷解放宣言」を行ったA・リンカーンは「共和党」の最初の大統領である。
興味深いのは、南北戦争で敗北した民主党はその勢力挽回のために、「新しい移民」をターゲットにして移民船の到着する港で「党員勧誘」を行ったのである。そして「労働者や貧困の党」を看板にアピールしていく。
つまり、元々は奴隷制度支持の民主党が、奴隷解放後は一転して「黒人優遇政策」を唱え出したのである。
こうした両党の「屈曲」により、今はオバマ大統領を出した民主党の方に黒人の支持者が多いのである。
対する共和党は1960年代から「党勢拡大」を狙い、とりわけ南部白人層への迎合を重ね、かつてのリンカーンの党とは思えぬ状況にある。
その根っこに、南北戦争期に南部に巣くった「人種秩序」を基盤とする復古的な階級社会を求める思想がある。
つまり、共和党と民主党は「党勢拡大」の過程において、磁石のN極とS極がひっくりかえるようなことが起きたということだ。
そして今日のトランプ氏は、その共和党の「狭小さ」をそのまま体現したかのようだ。人々の不満や怒りをあつめているだけではなく、その怒りをメキシコ人やイスラム教徒になどに向けている。
トランプの支持層には、二つの特徴があるという。
ひとつは低学歴・低所得層からの支持で、特に男性さらに白人男性に顕著である。
米国内の製造業の衰えなどに伴い、こうした労働者階級の白人男性の厳しい状況はここ20~30年続いている。
もうひとつのトランプ支持層は、社会的な繋がりが薄い人だという。これまで階層や人種を結び付けていた宗教肝炎団体やボウリングクラブが衰退している。こうした目に見えないインフラが欠乏すると、人々は孤立する。
ヨーロッパの富裕層の若者がイスラム国を目指すように、孤立すると他人への寛大さや、政治的に協力する姿勢が低下するという。

近年、アメリカ議会で新年度予算のための「債務上限ひきあげ」法案がなかなか通らないという「非常事態」が生じて、職員に給与が払えくなり有名な博物館が休業したりした。
これは、アメリカという国ソノモノに埋めがたい「亀裂」が生じていることを表している。
その亀裂は、「ティー・パーティ」のように極端に「小さな政府」を求める運動から、「ウォール街を占拠せよ」といった運動までが起こる大衆運動の「振幅」の大きさにも表れている。
アメリカ社会には「二つの世界」といえるくらいに「二元化」している。
この、「歩みよる」余地さえなくなるほどの亀裂は、どうして生じたのだろうか。
アメリカ建国当初、北部の共和党は「保護政策」をおこなって自国の経済を守ってきたが、今や「市場万能主義」(小さな政府)を唱えるのはむしろ共和党の方である。
1980年代のレーガン大統領時代の時代、ケインズ政策ではなく規制緩和などサプライサイド重視策をとったころから「経済格差」が広がっていった。
そして産業の中心が、製造業から金融サービスへシフトし、ソ連崩壊による軍事産業から金融業界への人材が移動がそれに拍車をかけた。
1990年代にはいると、ヒトとモノの輸送費と通信費が著しく低下し、先進国はハイテク製造業とソフトウェア(金融、情報、通信)などに特化して、「発展途上国」は豊富な労働力を動員して、ドコデモ誰でもつくれるようになった「製造業」を経済の基盤におくようになった。
そのため、先進国では特許をともなう高付加価値製品とソフトウェアの輸出により巨万の富を築くことができるものの、その富はますます少数者の手にむかうようになった。
また、資本を外国からの投資に頼る発展途上諸国が稼得する「付加価値」の約半分近くが先進国の金融資本に流れる仕組みとなっている。
先進国は富めるものをマスマス富ませ、貧しい者をマスマス貧しくさせる社会になりつつある。
その結果、先進国も、大邸宅からすこしはなれると、スラムが広がる「南半球」と同じような光景が繰り広げられるようになっている。
こうした格差の拡がりの中にあって、「保守主義者」は貧困につき本人の「自助努力」が不足していたとみる。
なぜ「自助努力」を怠るかというと、貧者を救済するための「福祉」が過剰だからである。
福祉はモラルハザード、すなわち「依存」を生み出し、社会の活力を低下させるから、必要最小限度にとどめるべきである。
一方、リベラリストは「貧困」につき、親が貧しかったために十分な教育をうけられなかったり、幼少時に健康を害したり、生まれつき能力が劣っているなど、本人には「不可抗力」の受難ゆえであり、政府はそれに対して積極的な支援すべきであるとする。
以上のように「保守」は、自助と自己責任を徳目としてかかげるがゆえに、市場を重視して「小さな政府」を志向する。
また保守主義は、定義的には伝統的な国家と家族を守る思想であり、シングルマザーや同性愛者の同居などについては厳しい目をむける傾向にある。
ただし、国を守るために必要不可欠な「軍備の拡張」については、「賛同」する傾向がみられる。家族基盤や伝統文化は「国の安全」によって保障されるからだ。
一方のリベラリストは、市場は不完全であるがゆえに失業やインフレなどが生じるのであり、「不均衡の是正」のために「政府の介入」は積極的に行うべきであり、「大きな政府」とそれを支えるだけの「高負担」はヤムナシと考える。
リベラリストは「文化多元主義」の立場に立ち、「マイノリティ」の権利をも大切にし、同性愛者など「異端」に対しても寛容ば傾向がある。
彼らは国家という枠組みに必ずしも捉われずに、「国防」にアマリ重きを置かない「平和主義者」である。
今やグローバリゼーションの奔流は「国家」という岩盤でさえ打ち砕きそうな勢いだ。国民を繋いできた様々な「橋」を押し流し、社会の「寛容度」を奪いつつある。
保守が大切にする伝統的と家族の立場からすえば、グローバリゼーションは共和党との相性がヨカロウはずがない。むしろ、文化多元主義に立ち異文化やマイノリテーに融和的なりベラリズムとの方がヨホド相性がよい。
日本における「市場万能主義」の小泉政権やソレに近い安部政権の下で、「靖国神社参拝」や「教育改革」が前面に打ち出したりするのは、そうした保守の相反する相の表れの一つとみることができる。

アメリカという多様な移民の集合体をまとめてきたものは何であろうか。
アメリカの社会には昔から貧富の差はあったが、二つの世界を「橋渡し」してきたのが、「中間層」である。
アメリカの「中産階級」コソがアメリカ社会の安定のモトイとなってきたが、現在のアメリカの姿は、「中産階級の没落」により、その橋がくずれかかっている。
アメリカン・ドリームつまりの物質的・金銭的成功の基礎にあるのは「プラグマティズム」(実用主義)だが、中産階級こそが敬虔な「キリスト教信仰」とそれに基づいた労働意欲、つまり「プロテスタンティズム」を保全してきたといって過言ではない。
実は、この「中間層」の広がりを生んできたのは製造業である。工場で集団的にモノ作りをして「果実を分ける」社会と、一人の発案でつくるソフトウェアが莫大な利益をもたらす社会を考えた時に、「果実」の裾野の広がり方を想像するばわかる。
そして「中間層」の存在は、共和党および民主党それぞれに「穏健派」というグループを生んでいたのである。
共和党・民主党の「穏健派」が結集して大事な法案を通していく「橋渡し」役を果たしたともいえる。
唐突だが、最近「刑事コロンボ」を見ていてハタと思ったことがある。あの刑事コロンボの容疑者の追求方法は、相手の言葉をとらえて自己矛盾においつめる「ソクラテスの問答法」というものに近いにちがいない。ただし、ソクラテスと違うのは「証拠」に語らせるところにある。
ソクラテスの「問答法」は、ヘーゲルの「弁証法」として社会的に適用され、マルクスにおいては歴史法則に使われた。
それは白と黒に交えて灰色にするといった平板なものではなく、「"正"対"反"」という二極対立をより高い次元で統合するところに意味がある。
アメリカ社会にあって、この「統合」の役割を果たしてきたのが「中間層」だ。
ところが今や、アメリカでは「中産階級」が没落して統合(橋渡し)役もなく、相手の悪口と批判の「中傷合戦」に終始している。

日本で、民進党の「党首選」が行われようとしているが、自民党が3分の2議席を占めるなかでの、「野党」の立ち位置と役割をどうするか大きな問題となっている。
もちろん民進党は、自民党と並んで二大政党の「一極」になることをめざしている。
「二番手でいいじゃないですか」発言で有名になった蓮舫氏だが、そういうわけにはいかないらしい。
蓮舫氏は「私たちには対案がある。でも、残念ながら国民に届いていない。自分の発信力で、ここを変えていきたい」と自分の「発信力」を強調している。
確かに、55年体制での野党第一党の社会党の「お家芸」となった牛歩や審議拒否といった「日程闘争」からみれば、各段の意識変革ではある。
かつての社会党衰退の原因は、自民党を批判ばかりして何ら現実的な対案をしめさかったこと、また民主党では 「マニフェスト(政権公約)」を掲げて政権を担いながらも、沖縄のアメリカの基地移転などあまりに理想的にすぎ、現実性を欠いて失敗に終わったこともある。
、 マニフェストで失敗した過去があるだけに、政策が現実的かどうか、国民の期待にこたえられるかどうかが問われるが、この厳しい財政難にあって出来ることは限られる。
「批判ばかりではなく対案を」となると自民党との「差異化」が大きな問題としてあがってくる。
その一方で、対案を出し政府提出法案の「修正協議」に応じれば、「野党共闘」は崩れ与党を利することにもなる。
野党が自民党との対立軸をどうつくるのか。要するに、民進党は「自画像」をどう描くかということであり、蓮舫氏が「発信力がある」というのなら、その辺をしっかりと発信する必要がある。
しかし、この二大政党制というのは、何か日本人的ではない。「三人集まれば文殊の知恵」ということわざもあるし、日本人考案の「じゃんけん」には絶対的な勝者はいない。
アメリカでさえも、二大政党制とはいいながら、その背後に「中間層」という目に見えぬ第三極があった。
ところで、「二大政党」の嚆矢といえば、イギリスのホイッグ党とトーリー党。
それぞれ党の名前を、互いに相手の悪口(トーリー=ならずもの ホイッグ=謀反人)を自分の政党の名としたユーモアと「寛容度」がすごい。
両党の中身は置くとして、相手の反論によってコソ、己の存在が引き立つという二大政党制の理想が表れている。
ナチスを分析した心理学者ハンナ・アーレントは、「社会的な孤立や不満は乾燥した草原のようなもので、それだけで燃えているわけではない。しかし、雷が落ちると、あっという間に広がる。言い方を変えれば、点火するためにはリーダーが必要なのだが、政治的に向かうその方向性は、リーダーによって左右される」。
1970年「明日に架ける橋」(S&G)の歌詞に、「怒涛の海に自ら身を横たえて橋にならん」とあるが、そうした「存在」があって民主主義は機能する。さもなくば民主主義は「物理」と化する。