決定的な「光景」

人は誰しも内側に様々な光景を抱いている。いつも回帰する光景もあれば、逃れたい光景も。
胸に焼き付く光景もあれば、閃光のよう消える光景もあるにちがいない。
日本文学研究家のドナルド・キーン氏は、終戦直後アメリカ占領軍の情報将校として、氏の人生を変えた「源氏物語」の日本にやってきた。
敵国・日本に「憧れを抱いて」やってきたのは、キーン氏ぐらいであったろう。
キーン氏は、来日当時の「光景」を次のように書いている。
「私は旅立ちの感傷に浸っていた。すると舟尾の地平線に雪をかぶった富士山が突然、浮かび上がった。緩やかな稜線が朝日に照らされ桃色に輝く。まるで葛飾北斎の版画だ。光の加減で色が刻々と変わり、私は感動で目を潤ませていた」。
キーン氏にとって、この時の「富士」は間違いなく胸に「焼き付いた光景」であろう。
さて、同じく占領軍の一員としてやってきた若いアメリカ兵の中には、日本で見た光景が「決定的」な影響を与えた人がいる。
それは根本的に「生き方を変えた」という意味で「実存的光景」とでもいえそうだ。
ハーバード大学サンデル教授の本にしばしばその名が登場するアメリカの哲学者ジョン・ロールズである。
ロールズは、幼き日に流行病に罹病し、その結果、感染した弟二人が病死するという出来事が起こった。
誰それが何を言うわけではないものの、自分が生き残って弟二人が死んだということは、ロールズの心に深い影を落とすことになる。
プリンストン大学に進み、花形選手だった憧れの兄を目指して、フットボールに没頭した。
大学卒業後、陸軍の士官として日本との戦いにニューギニア、フィリピンと転戦し、日本の全面降伏後は、占領軍の一員として広島・長崎の原爆の惨状を目のあたりにした。
以来、それまで疑うこともなかった「アメリカの正義」に疑問をもちはじめ、「正義とは何か」を考えるようになったという。
ところでアメリカでは社会科学という学問は、没価値的な自然科学のような科学のありかたを追求するという傾向が強くあった。
ベトナム戦争において、最優秀の人材(ベスト アンド ブライテスト)が、戦争を安く効率よく勝利をおさめる方法を研究するといったことが、そのよい例である。
そういうプラグマチズム(実用主義)の土壌の中で、ロールズは「社会的公正」もしくは「社会正義」を正面きって論じた稀有な存在であり、社会科学者というより「社会哲学者」と位置づけられている。
ところでロールズにアメリカの正義に疑問を抱かせたのが「広島の焼け跡」ならば、中国の小説家・魯迅が「中華思想」の病理を決定的に思い知ったのも、日本の仙台でみた「ひとつの光景」であった。
1908年に留学生として来日した魯迅は、東京の弘文学院を卒業後、中国人留学生が多く住む東京をはなれて一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。彼はこの大学で彼自身の人生を転換せしめる決定的な体験をする。
ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見たのである。
魯迅は、日本兵の行為の残酷さよりも、その銃殺現場の周囲にいる中国人民衆の「無表情さ・無関心さ」に大きなショックをうけた。
周囲の日本人学生の喚声があがる中、彼自身の内部で憤怒と恥辱が入り混じった感情をおさえることができなくなった。
そして医学を学んで人間の体を直すよりも、中国人の精神を正すことが先決だという思いがふつふつと沸き起こった。
魯迅が終生の課題としたのは、中国こそ世界の冠たる国であるという「中華思想」の呪縛であり、これこそが近代中国にとっての最大の疾病であった。
西洋列強に国土を蹂躙されながらも、人類の文明の真髄は中国にあるという凝り固まった意識は、肥大化の一途をたどっていた。
近代化に後れを取りながらもナゼ中国の方が変化しなければならないのかというのが、当時の中国人の偽らざる気持ちだった。
魯迅は中国民衆のこうした心の壁に立ち向かうべく精神の医者となることを決意し、文学の道を志した。
彼が東北大学の階段教室で見て衝撃を受けた「光景」の中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが、彼の代表作「阿Q正伝」である。
ところで10年ほど前に東北大学に行って、このとき魯迅が階段教室で座っていた「座席」を確認したことがある。
前から7列目ほどの席で、魯迅の背中が見える位置に座った日本人学生のなかで、その暗がりの中、魯迅の背中が微かに震えていることに気づく者はいただろうか。

玄界灘に面した新宮沖のハートのカタチをした相島(あいのしま)は、江戸時代に朝鮮通信使を迎えた島として知られるが、近年急速に「猫の島」として全国的にも知られるようになった。
おととしの夏、相島で印象に強く残る「光景」と出会った。
相島には77メートルという一番高いところに「遠見台」がもうけられ、狼煙によって朝鮮通信使の到来を告げた。
ある文書に、この島の高台に「有待邸」とよばれた施設があるという記録があり、大きな井戸や住居跡などから、ここが「客館」かと推定されてきた。
しかし2006年、山口岩国の客館において、相島の地図が見つかり、船が到着する波止に近いあたりに客館の位置が明確に示されており、また発掘によってもそれが「裏づけ」られた。
この地図は、1748年に、通信使の接待の方法を視察に来た岩国藩の藩士が描いたものだという。
相島のミステリアスな一面は、毎回500人を超える異装の朝鮮人来島という大イベントにつき、伝承や口承などがほとんど残っていないという事実である。
なにしろ、「客館」の位置を示す地図さえ他藩で見つかるぐらいなのだから。
もうひとつのミステリーは、島の東側の海岸に面してある「積石塚群」の存在である。
相島の「神宮寺」の文書に、947年に農民達、渡海してこの島を開拓したという記録があるが、石塚群の存在はそれ以前にこの島に住んでいた人々がいたことを物語っている。
彼らは、どのような人々であったのか、今のところ、安曇族や宗像族というのが有力説である。
ただ、その石塚数254基は、日本で二番目という小さな島にしては、明らかにバランスを欠いた長遠な「積石塚群」である。
足を取られながら石塚群を歩くうち、大人から幼児までの石塚の墓があることに気がついた。
そのうち「賽(さい)の河原」という言葉が思い浮かんできた。
「賽の河原」は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石による塔を完成させると供養になるというが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうというものである。
この「賽の河原」という言葉が浮かんだのは、当時再放送で見た松本清張原作のテレビドラマ「霧の旗」(2007年)のラストの風景がよぎったからだ。
「霧の旗」は、貧しさのため兄の弁護を引き受けなかった弁護士に復讐する女性の物語で、星野真里の演技は「白眉」といってよいものだった。
ドラマのラストは、石だらけの川辺に風車がささったシーンで、そのエンドロールに「賽の河原」という言葉があったのを記憶している。
ところで、新宮沖の相島の石塚群は河原ではなく海辺にあるが、青森県に海に面した場所に「賽の河原」とよばれる場所があるのを知った。
ネットで調べると、その場所こそ松本清張の「砂の器」のロケに使われた場所だという。
TBSのドラマで放映された「砂の器」(2004年)では、ドラマの舞台設定に関わらず、日本各地の美しい「原風景」を映し出されていた。
この「賽の河原」は、世界遺産の白神山地の日本海側からの入り口にあたる森山海岸に存在する。
この森山海岸には「ガンガラ岩」という奇勝があり、この海岸から少し丘をのぼったところに「賽の河原」という場所がある。
写真では穏やかな日本海を優しく見守っているようだが、冬場なら「荒涼」とした風景となるのだろう。

人には、胸の内に「負の光景」を抱えながら、それを克服すべく生きている面もあるにちがいない。
例えば、明治を生きた会津人にとって、若松城が落城する光景は生涯消えることなく、そこに何度も回帰しつつ賊軍の汚名をはらそうとしたに違いない。
白虎隊唯一の生き残りで電気技師になった飯沼貞吉や山川健次郎(初代東大総長)はじめ津田梅子(津田塾女子大創設)や新島八重(新島襄夫人)も、その光景を焼き付けて生きてきたのだろう。
個人的な体験だが、1980年代のバブルへ向かおうとした時代、東京・丸の内の地下街の昼食時間に、中後年の男ばかりの黒山の人だかりを目撃した。
その男たちの視線の先には、NHKのドラマ「おしん」の画面があった。
「おしん」にでてくる風景は山形県庄内地方だか、彼らが育った風景と「おしん」の風景が重なりあったにちがいない。
さて、多くの日本人が共有する「原点」となった風景とは、終戦時の「焼け跡」ではないだろうか。
「食べ物の恨みは一生忘れない」という言葉があるが、逆に「食べ物の恩」についてもいえそうだ。
戦後、日本の子供達がアメリカの兵士たちに好意をもったのは、彼らが配ったガムやチョコレートの味が忘れられぬほどにうまかったからかもしれない。
もっともアメリカが送ったのは、日本人との戦闘に参加したことのない、つまり日本人にいかなる「敵意」も持たない若き米兵(GI)だった。
最近、1964年坂本九の大ヒット曲「幸せなら手をたたこう」の誕生秘話をめぐる番組を見た。
この曲はレコードが発売された時点では「作者不詳」で発売されたが、後にそれが早稲田の大学院生の作曲であることが判明した。
番組は、その学生が少年の頃、たまたま東京で出会った米兵と二人でバスケットボールをするシーンから始まった。
米兵は二人の思い出にと「バスケットシューズ」を少年にプレゼントした。少年がそのシューズを履くには大きすぎで、そのまま大事に保管していた。
その少年・木村利一は早稲田大学に進学し、アジア比較法を研究する大学院生となった。クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、フィリピンの若者と共に「街の復興」のために働くことになった。
1954年、当時25歳の木村は、YMCAのキャンプに滞在したが、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!!」と厳しい言葉をなげかけた。
現地の人々の脳裏には、日本兵に村を焼かれ、家族や友人知人、あまたの人が虐殺された第二次世界大戦の傷が生々しく残っていた。
木村は現地の一人の青年ランディと出会う。ただ一人友好的な態度をとってくれていたランディでさえも、実は大切な家族を目の前で日本兵に殺される経験を持っていた。
南太平洋に進出した日本軍は、現地のゲリラ活動を警戒するあまり、一部の兵隊が暴徒化したものだった。そして、木村は自分があまりにも無知のまま、この地に足を踏み入れたことに気がついた。
そうであるが故に、「帰れ」といわれても、そう簡単には帰れないという思いにかられた。
しかし、現地の青年たちとトイレ作りなどを行っていくうち、敵意でピリピリしていた現地の若者達とも打ち解け合うようになった。
そんな折、戦後初めて日本にやってきた日本人ボランティアということで、ラジオ出演の依頼があり、木村はラジオで日本が「平和憲法」の下、戦争を放棄したことを訴えた。
また木村は、幼き日にバスケットボールを教えてくれたアメリカ兵のことを思い出した。というのも、米兵がくれたバスケットシューズを持参してきていたのだ。
そして小学校にバスケットボール・コートを作る許可を得て一人黙々と草取りを始めた。
そうした木村の働く姿を見て、現地の人たちも次第に心を開き、コート作りに協力していった。
木村には、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につくが、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
現地の人々が、木村への感情を「態度に示した」ことや、聖書で見つけた「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(旧約聖書・詩編47編)という言葉にインスピレーションを得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しづつ広まっていった。
そしてこの曲が、歌手の坂本九の耳に届いたのは「偶然」以外の何ものでもなかった。
たまたま坂本は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かを感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にした。そして「作曲者不詳」のままレコード化された。
しばらくして、部屋の外から聞こえるそのレコードを聴いて驚いたのが、作曲者本人の木村利人だった。
「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。そして坂本の楽屋を訪れた木村は「幸せなら 手をたたこう」は、"歌で世の中を平和にしたい。苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という思いを込めて作ったことを語り、二人はすっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの「顔」として、世界的ヒットとなった「上を向いて歩こう」などを外国人を前に披露したが、それとともに「幸せなら手をたたこう」も歌った。
特に、カナダのフイールド・ホッケーチムの通訳は、英語に訳してそれを伝え、「幸せなら手をたたこう」は、カナダの小学校でも歌われる曲となっていった。
ところで、木村利人氏の「利人」はドイツ語の「リヒト(光)」。人々の「光」となってとの願いを込めて父が命名したという。
後にスイスのジュネーブの大学教授で、 エキュメニカル研究所副所長になった木村によってヨーロッパにも、この歌は知られた。
木村は、命と人間の尊厳の究明へと研究の道を広げ、日本の「生命倫理」の草分けとしての大きな業績を残している。 木村は2013年、かつて奉仕活動を行ったフィリピンのダグパン市のロカオ小学校を訪問した。
木村は、かつて友情を温めたランディを探したが、彼の消息は不明であった。
500人を超す児童が校庭に座り79歳の木村が立った。
「ここを離れて54年。いつか帰りたいとの思いが実現した。今日は人生で最良の日です」。
そして「この歌は戦争の苦しみから生まれました。私たちは武器で戦うのでなく平和をつくるため、未来に向けていっしょに働こうではありませんか」と締めくくった。そして全員が立ち上がった。
児童はフィリピン語、木村は日本語。二カ国語で歌う「幸せなら手をたたこう」が響き合った。