内村鑑三の5J

 

内村鑑三の「代表的日本人」は1908年に英語で海外に向け書かれたものだ。
この本に登場する日本人は、時代順に日蓮、中江藤樹、二宮尊徳、上杉鷹山、西郷隆盛の5人である。
ちなみに、JFケネディが大統領に就任時に、尊敬する人物は誰かと聞かれ、「上杉鷹山」と答えたのはこの本によるものと推測される。
実際上杉鷹山の藩経営は、ケネディの就任演説の言葉、「国があなた方に何をしてくれるかよりも、あなた方が国の為に何ができるかを尋ねよ」と重なり合う面がある。
ところで個人的な関心は、キリスト教徒である内村がナゼこの五人を日本人の「代表」にしたかということ。なぜなら、内村とは信仰の上で完全に袂を分かつハズの過激な仏教徒さえ含まれているからだ。
そこで内村の五人の選択のヒントとなるのが、内村の有名な「二つのJ」、すなわちJAPANとJESUSを指す言葉である。
内村にとっては、このJAPANの5人はJESUS(キリスト)と通じるものがあるという認識があったにちがいない。
それは、内村の次のような言葉で裏付けられる。
「私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります」。
また内村は札幌農学校第一回卒業生で、ウイリアム・クラーク博士の直接の薫陶をうけている。
そのクラークの有名な言葉、"Boys be be ambitious"(青年よ大志を抱け)だが、これだけでは「大志」というものが「故郷に錦を飾らん」ぐらいの意味に矮小解釈されても仕方がない。
しかし実際には、この言葉の後ろに"in Jesus"という言葉が入っており、この”in Jesus”があってこそ、札幌農学校の第二期生の新渡戸稲造のいった「日米の懸け橋たらん」といった言葉に通じるように思われる。
そして内村もおそらく新渡戸同様に、日本人の5人の生き方にキリスト教精神に通じる「普遍的」なものを見出したからこそ、英語で世界に発信したに違いない。それは次の言葉にもうかがえる。
「何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります」。

さて内村が選んだ5人の中のひとり、二宮尊徳が柴を担って読書する姿の立像が、戦時中の各地の学校に設置された。
この時尊徳(金次郎)が読んでいた本が「何か」について、ある文化人は当時勉学に勤しむ青少年がよく学んでいた『大学』の可能性をあげている。
『大学』とは儒教における「四書五経」のひとつで、儒教のエッセンスを「凝縮」したいわば入門テキストのようなもので、日本にも伝わり、寺子屋などでも自主的に読まれたという。
ところが孔子の教えから始まる儒教は、現世を生きる知恵を説いても、仏教などと比べると、死や実存をめぐって応え得る世界観に欠けていた。
しかし宋代には北方の遼や金やモンゴルの脅威を受けつづけ、それらと手を結ぼうとする“内部の敵”もかかえていたことが、漢民族のおかれた状況を深くふりかえる契機となったのである。
そこで、儒教に「世界観」を提供したのが宋代の朱熹で、朱熹が確立した「朱子学」は新儒教と呼ばれている。そして古代の『礼記』から『大学』を独立させていわば「儒教の入門書」としたのも彼である。
朱熹は周敦頤の『太極図説』を取り込んで理論の体系化をはかった。それによれば、陰陽の二つの「気」が凝集して木火土金水の「五行」となり、「五行」のさまざまな組み合わせによって万物が生み出され、理は根本的実在として気の運動に対して秩序を与えると
したがって朱子学の世界観では、「気」を素材として生まれたモノには物事の原理である「理」が宿っているという「理気二元論」にたつが、この理を究める「格物致知」こそが中心となる。
ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことを意味する。
そして格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を含む「博物学」をも意味しており、日本では明治期に窮理から「理科」や「理学」の語を当てたのである。
朱子学を代表するもうひとつの言葉に「性即理」があるが、「性即理」の「性」とは人間の本性(理)を意味し、この「性」が動くと「情」になり、さらに激しく動きバランスを崩すと「欲」となる。
「欲」にまで行くと心は悪となるため、たえず「情」を統御し「性」に戻す努力が必要とされ、「格物知至」はそれにふさわしい態度ともいえる。
また、自己と宇宙は、等しく「理」という普遍的原理を通して結ばれており、自己修養(修己)による理の把握から、社会秩序の維持(治人)に到ることができるとした。
したがって経書を学び、科挙に合格することによって官僚となった「士大夫」に対し、物の道理を窮め知的判断を高めることで理想的な政治を行うことへの根拠を提供したカタチとなった。
一方、朱子学に少し遅れて確立したのが陽明学で、中国の明代に南宋の陸象山の説を受けた王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なるものである。
陽明学は朱子学の「性即理」に対して「心即理」を唱える。
それは人間の「本性」云々を問題とするのではなく、時に正しいと思う心の発動を重視する。
陽明学の「格物致知」は、”物を格(ただ)す心”こそ重要で、「心即理」とは、心を”性”(天から賦与された純粋な善性)と”情”(感情としてあらわれる心の動き)に分別した上で”性、情”をあわせた心そのものが「理」に他ならないとした。
生まれたときから心と理(体)は一体であり、その心が私欲により曇っていなければ心の本来のあり方が「理」と合致するので、朱子学のいうように、アラカジメ存在する「理」などは存在しないという立場をとる。
そして陽明学のいう「致良知」とは、”良知”を全面的に発揮することを意味し、これに従う限りその行動は善なるものとされる上、”良知”に基づく行動は「外的な規範」に束縛されないという考え方を生んだ。
朱子学の「物を考えよう、観察しよう」から、陽明学では終始己れの良心に顧みて、自分の思索判断から現実を直ちになんとか処理してゆこう、もしくは「変革」してゆこうという態度になる。
それは吉田松陰の「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」といった言葉によく表されている。
以上まとめると朱子学は秩序や法則に重きを置くため、士農工商の社会階層を壊さず安定化させるのに都合がよいものであった。
また仏教の「禅宗」と相性がよく、江戸初期に日本に朱子学を持ち込んだ藤原惺窩は禅僧であった。
一方、陽明学は「理気一元論」の立場にたち主観と行動を重視するため、江戸末期の大塩平八郎のように貧民を救おうとして幕府に反抗した陽明学者の存在を思い起こす。

陽明学は中国では廃れていくが、日本に渡ってからは「日本陽明学」として大成し、その影響は現代においても見出すことができる。
江戸時代、福岡藩には全国でめずらしく二つの藩校があった。
朱子学派より藩校・修猷館が創設され、陽明学派の亀井南冥により藩校・甘棠館が創設された。
修猷館(東学問所)は、明治維新後は廃止に追い込まれるが、旧藩主の黒田長博や卒業生の金子堅太郎の努力により復興が認められた。
その一方、須恵町の眼医者の「娘」として生まれた高場乱(たかば おさむ)は、亀井南冥の息子・亀井昭陽に学び、亀井昭陽門下の「四天王」の一人といわれた。
そして高場乱は、現在の博多駅近くの「人参畑」とよばれていた場所に私塾「人参畑塾」を起こした。
ここに学んだ人々の中に、後に「玄洋社」をおこす平岡浩太郎や頭山満や進藤喜平太らがいたのである。
ちなみに「玄洋社」の名前の由来は平岡の号である「玄洋」によるものである。
そして亀井南冥から高場乱へ、高場乱から頭山満の玄洋社へと日本近代史の「伏流」を創り出すのである。
また、歴代の自民党政治家の「奥の指南役」といわれた安岡正篤は陽明学者で、吉田茂、岸信介、佐藤栄作、大平正芳、中曽根 康弘と、戦後の歴代宰相が安岡を師と仰いで意見を聞いている。
ただ田中角栄は敬し拝まずで、安岡は田中角栄がマスコミに「今太閤」としモテハヤされて登場した時にも、「田中角栄という人は自民党随一の腕利きで、侍大将としてはよいが、もっと本格的な学問をしなければ、高転びに転ぶのではないか」と心配していたという。
実際に田中は、その後田中は金脈問題で辞任に追い込まれることになる。
ところで、内村鑑三が「代表的日本人」として掲げた5人の生き方に共通するものは、実は「陽明学」の影響なのだ。
それは私利私欲を去った行動哲学であり、いさぎよき「武士道」精神につらなるものだ。
また、札幌農学校の一期後輩の新渡戸稲造は、名著『武士道』の著者である。
その新渡戸によれば、儒教と武士道は微妙に違う。最も明らかな相違点は、儒教が「仁」を徳目の最上位に置いたのに対して、武士道はその中心に「義」を置いたことだ。
したがって、武士の行動基準は、すべてこの義をもととし、「仁」「義」「礼」「智」「信」の五常の徳を「仁義」「忠義」「信義」「節義」「礼儀」などに改変し、さらには「廉恥」「潔白」「質素」「倹約」「勇気」「名誉」などを付け加えた「行動哲学」となったのである。
そして、これらの道徳律の集大成として「誠」の徳が最高の位置にすえられた。
「誠」は、その字が「言」と「成」からできているように「言ったことを成す」の意味とされ、そこから「武士に二言はない」という言葉が生まれた。
幕末に京都警備にあたった「新撰組」の上着は大丸に発注されたものだが、その背中に「誠」の文字が書かれていたことでもわかる。
このように武士道とは「儒教」のアレンジであったとしても、『論語』や『孟子』は武家の若者にとって大切な教科書となり、大人の間では議論の際の最高の拠り所となった。
しかし、これらの古典を単に知っているというだけでは評価されることはなかった。
よく知られた「論語読みの論語知らず」ということわざは、孔子の言葉だけをふりまわしている人間を嘲笑しているのである。
武士の典型である西郷隆盛は文学のわけ知りを「書物の虫」と呼んだ。
また石田梅園は、知識というものは、それが学習者の心に同化し、かつその人の性質に表れるときにのみ真の知識となると述べた。
このように知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。
このソクラテスの哲学にも通じる思想は「知行合一」をたゆまず繰り返しといた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである。
朱子学が死という問題につき人々を安心心させる説明を持ち得なかったのに対し、陽明学コソがそこにきわめて精神的な意味を付与することになる。
陽明学はそれを「良知」と名づけ、それを発動することに最高の意味を与えたのである。
生死をかけて武士の道を生きるという精神至上主義を強めていったのである。
『葉隠』の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」はあまりにも有名だ。
また、終戦直後のマッカーサーと天皇の階段にもそれを見出すことができる。
マッカーサーはその『回想記』の中で、最初の会談において、天皇が「戦犯」として起訴されないよう命乞いに来たのかと思っていたという。
しかし、その口から出た言葉はまったく意外なものだった。
「私(昭和天皇)は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国家の議決にゆだねるためおたずねした」。
昭和天皇の発言に接して、マッカーサーは衝撃を受けたという。
「死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事情に照らして、明らかに天皇に帰するべきではない責任を引き受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の目の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取った」と。
これに対して、副官だったパワーズの証言によれば、マッカーサーは「天皇を(処刑して)殺すことは、イエス・キリストを十字架にかけることと同じだ」とまで言ったという。

内村がキリスト教徒になる過程で、「代表的日本人」5人から宗教的感性を養ったというのならば、ロジックとしてはキリスト教精神と陽明学の精神に「何か」通じるものがあるといえる。
実際に、内村の「代表的日本人」5人の中の中江藤樹は日本の陽明学の泰斗であり、天人合一を謳って近江聖人と敬われた。
また西郷は王陽明を読み『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。
武士道をきわめた西郷は、「我を愛する心をもって人を愛せよ」「人を相手にせず、天を相手にせよ」という。また「天を相手にして、己れを尽くし人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ねよ」と。
この西郷の言葉に聖書のいくつかの「聖句」が浮かんでくるのも、陽明学とキリスト教に似通った部分があるからではなかろうか。
例えば、聖書の「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブの手紙2章) などを思い浮かべる。
また西郷の「金も名誉も命もいらぬという人間は、まことに始末に困る。しかし、そのような人間でなければ、天下の大事はまかせられない」。
この言葉に使徒ペテロの「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒行伝4章)を思い浮かべる 。
さて前述の、内村のいう「ふたつのJ」とは、ひとつはJESUSで、もうひとつのJAPANを「陽明学によって行動哲学となった”武士道”」といいかえてもよいかもしれない。
そして内村は最終的に「武士道の台木にキリスト教を接いだもの、それは世界で最善の産物だ。それには日本国だけで なく、全世界を救う力がある」といっている。
ただその一方で内村は、「武士道はたしかに立派であります。それでもやはり、この世の一道徳に過ぎないのであります。その道徳はスパルタの道徳、またはストア派の信仰と同じものです。武士道では、人を回心させ、その人を新しい被造者、赦された罪人とすることは決してできないのであります」と、キリスト教とは一線を画している。
つまり内村が「代表的日本人」で選んだ5人は、当然にJesusたりえるものではなく、彼の内面における「精神的先導者」、つまり「洗礼者ヨハネ(5Jhone’s)」としての位置づけをしているとでもいえようか。