カインとアベル

福岡ドームの施設の中に、少々違う空気が流れている空間がある。「暖手(だんて)の広場」というところで、有名人の手のレプリカが数多くあって、握手を求めているように差し出されている。
原寸大の手ということもあり、手から手へ、有名人の手の感触が、子供たちになんらかのメッセージとなることを期待して、ということらしい。
しかし、主(あるじ)なき突起物のような手と向き合うには、多少の違和感もある。
さて今日の格差社会では「ワーキング・プア」という言葉が生まれたが、しばしば引用されるのが石川啄木の「働けど働けどわが暮らし楽にならざり じっと手を見る」という歌である。
おそらく啄木は、日ごろ意識しない自分の手を「客体」としてまじまじと見つめているのだろう。
自分の身体でありながら、この世界と関係をとり結ぶ「前衛」として。
というわけで、モノをつかみとろうする手のイメージは多くの芸術家達を刺激してきたに違いない。
日本の装飾画風に金箔をほどこしたクリムトの官能的な絵などがその代表例である。
また、「手」が主人公的役割を果たした映画はいくつかある。
たとえば「アダムズ・ファミリー」に登場する手は、みずからの意思で動く手であるし、手が邪魔になって世界との関係が結べない男の話もあった。
1990年のアメリカ映画「シザーハンズ」である。
心は純真無垢なのに、「ハサミの手」をもったがゆえに、触れるもの触れるものスベテを断ち切ってしまう「哀しい宿命」を負った男の話である。
「男」とはいっても、主人公のエドワードは、孤独な発明家の手によって生み出された「人造人間」。
しかし発明家はエドワードを完成させることなくこの世を去ってしまい、エドワードは両手がハサミのまま一人取り残されてしまう。
ある日、エドワードの住む城に化粧品を売りに来た男が、彼を家に連れて帰ることにした。
エドワードは植木を綺麗に整えたり、ペットの毛を刈ったりして近所の人気者になってゆく。
そして、エドワードは娘キムに恋をするのだが、人間の社会は「ハサミの手」の男をいつまでも暖かく迎えるはずもなく、辛く悲しい現実が待ち受ける。
この映画をみて、化粧をした主人公が、ジョニー・デッブであることはしばらく気がつかない。
デップの演技が哀愁を帯びるのは、長く売れないミュージシャンとして、この世界と自分を結べなかった自身の姿と重なっているせいかもしれない。
哀愁ただようといえば、アラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」も手が印象的だった。
裕福な青年は貧しい相手の劣等意識につけこむかのようにヨットに誘い、自分の恋人さえも見せつける。
燦燦と輝く太陽の下、相互の青春の残酷さがギラつき、切ない映画音楽がそれを引き立たせ、水面下に潜む確執や葛藤をドラマチックに沸騰させている。
ドロンが演じた貧しい青年が、殺した男のサインをスライドに表示して、手で筆跡をなぞるように模倣するシーンがあった。
ラストシーンで、完全犯罪を自ら祝うかのようにワインを傾けるアランドロンの白い手と、ヨットに絡み付いて打ち上げられた死体の黒々しい手のコントラストが印象的に、そして象徴的に描かれていた。
あふれる陽光は、貧しい青年が掴みとろうした未来を暗示しているようだし、いずれ白陽の下に露になる人間の罪をも表しているようでもある。
さて、「太陽がいっぱい」は親しい友人同士の心理劇と完全犯罪が主題だが、兄弟の確執を描いて今なお新鮮さを失わないのが「エデンの東」である。
映画「エデンの東」は、スタインベックの同名の小説の断片を切り取って制作したものである。
愛らしく純真なアロンとひねくれ者のキャルという兄弟がいる。
町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、ジェームズ・ディーン演じる孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる。
兄は優等生で何をしても父親のお気に入り。なのに弟キャルは父親に気に入られようと色々するが、すべては裏目にでて逆に父親に怒られるばかり。
キャルは、失踪した母を追っていくと、母親が港町で娼婦の仕事をしている事実を知る。そして父が自分に向けている目線こそが母親を追いつめ、母は家を出たのかもしれない、などと思う。
キャルは自分の抱える混沌をブチマケルかのように、母親の真実を兄に伝え、純真一徹な兄は発狂し、父親もそれがもとで亡くなる。
この映画で、悪人といえるほどの人間はいないのに皆滅んでいくのは、「エデンの園」から追放されたさまよえる人間の姿なのか。

多くの物語が聖書からインスピエーションやイマジネーションを得ている。
果たしてルネ・クレマン監督が意識したかどうかは知らないが、「太陽がいっぱい」にも聖書の物語を感じさせるものがある。それは、手による偽装によって、人間の入れ替えが行われる点である。
その話とは、旧約聖書「創世記」にある、「エサウとヤコブ」の物語である。
長男のエサウは猟に優れ勇猛で活動的で父親好み、一方の次男のヤコブはテントから出ず何を考えているのかよくわからない人物。
ここまでは「エデンの東」にも重なるが、母親は父好みのエサウよりも繊細なヤコブの方が気に入った点で、兄弟間のバランスがとれている。
猟を楽しみ野から帰った腹ペコのエサウに、ヤコブはあるワナをしかける。
エサウが「長子の特権」を譲ったら、料理途中のおいしいスープををいくらでも食わせてあげるといったものだが、この企ての意味ところは深い。
新約聖書では、長子の特権とは「地を継ぐ者」を意味し、「救い」を表すものだからである。
エサウは 世事に通じ世故に長けた人間でありながら、かえって本質的なものを軽んじる。目の前の利益に眩んであっさりとヤコブに「長子の特権」を譲る約束をするのだ。
狩人の能力に優れ父に愛されたエサウが求めるものは、あくまでもこの世のもの。
一方、ヤコブは父にこそ愛されなかったが、神にダイレクトに天よりくる祝福を求めた。
とはいえ、ヤコブとエサウでおきた「長子の特権」の委譲は兄弟間の「密約」であって、父親イサクは何も知らない。
そこで母親リベカは、お気に入りの子ヤコブに智恵を授ける。それが「手の偽装」である。
父イサクはすでに視力が弱って床に伏しおり、父長としての特権を譲る時が来た。
その祝福の祈りの場面で、ヤコブはこともあろうに毛深い兄エサウに似せてヤギの毛を手につけて、エサウになりすます。そして父イサクの今際の床で「神の祝福」を祈り受ける。
ちなみに、聖書では、神の子を「羊」となぞらえている。したがってヤコブという「羊」は、一時だけエサウという「ヤギ」に扮したわけだ。
「地の宝」(食べ物)を欲する兄と、奪ってでも「天の宝」(長子の特権)を得ようとするヤコブの姿は対照的である。
この物語では、エサウの節操のなさとヤコブの狡猾さが目立つが、エサウとヤコブの「その後」を見ると、神の恩寵はどこまでもヤコブの側に傾いていく。
新約聖書には「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロ-マ9:13)とあり、ヤコブはその後十二部族の族長となるが、エサウの子孫は聖書の中で「エドム人」としてあらわれ、 ダビデ王の代にエドム人はその属国となり、しばらくして滅亡している。
「兄は弟に仕える」(創世記25章)という預言どおりになったのである。
またヤコブは、経済的な祝福を得て「ヤコブの産業」と称されるほどの財をなしていく。
そればかりではない。ヤコブの子孫はダビデ、ソロモン、イエス・キリストという系図を辿るのだが、エサウの子孫が、イエス・キリスト生誕時に、突如、出現する。
それは、ローマとの協力関係を約してユダヤを統治することになったヘロデ王である。
ヘロデ王は、イエスがベツレヘム生誕の時、「メシア」(救世主)誕生のウワサを聞いて不安を感じ、3歳以下の子供の殺害を命じた人物。その人物こそがエサウの子孫なのである。
最後、民衆はイエスを十字架につけよと叫び、ローマ総督ピラトは手を洗う。勝手にしろといわんばかりに。
さて、ヤコブには彼の特質というべき「神への渇き」を物語るエピソードがある(創世記32)。
ある時、旅の途中で「神の御使い」と出会い、「自分を祝福してください」とすがりついた。
あんまりシツコクすがりついたので、御使いはヤコブのももの骨を一本はずしたほどだという。
その御使いは言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから」。しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」。
それで神はヤコブに「神と争う」という意味の名を与えた。その名こそが「イスラ エル」である。
ところで 聖書によれば、アラブ人とイスラエル人(ユダヤ人)の祖先も兄弟の間柄である。
ただし腹違いの兄弟で、両者の争いはアブラハムの妻サラと女奴隷ハガルという「女の戦い」に端を発しているといってもよい。
両者の祖先であるアブラハムは、長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのが兄のイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、サラの「自分の子」が欲しいという訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
ちなみに「イサク」とは、”笑っちゃう”ほど高齢で生まれたので「笑う」という意味、つまり「笑ちゃん」である。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子がイジメラレル番で、結局アブラハムの元から追い出されるハメになる。
しかし神は、荒野をさまようハガル・イシマエル母子をも見捨てない。
「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)。
ハガル・イシマエル母子は、流れ流れてサウジアラビアのメッカに移り住む。
そして彼らの国民は「アラブ人国家」となり、イサク・ヤコブと続くユダヤ人国家つまり今日のイスラエルと、時に共存し、時に激しく争ってきたのである。

聖書は、兄弟間の確執の話が多いが、一番古くてよく知られた話が、「カインとアベル」の物語である。
なにしろカインとアベルはアダムとイブとの間に生まれた人類創生2代目という古さである。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
物語は、神への捧げモノが神に顧みられなかったカインが、神に受け入れられたアベルに嫉妬逆上し、殺害するという話である。人類は二代目にして殺人を犯したわけである。
アベルの捧げモノが気に入られ、カインの捧げモノが気にいられなかった理由は、聖書の記述からは読みとれない。
ただ違いをいうと、カインは地の産物を持って「供え物」としたのに対して、 アベルは群れのういごと肥えたものを「供え物」とした点である。
「創世記」をさかのぼれば、アダムとイブのエデンの園からの追放後、「地はのろわれる」とあるのがヒントかもしれない。
新約聖書(ヘブル人への手紙12章)には、「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」とある。
そうして、カインはアベルを妬み、アベルを野に連れ出して殺してしまう。
そして神がカインに「お前の弟のアベルはどこにいるか」と問うと、カインは「知らない、わたしが弟の番人でしょうか」とシラをきる。
それに対して神は、「お前は何をしたのか。お前の弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる」と問い詰め、カインはアベル殺害を認める。
さてここで、アベルの血は何を訴えたのか。そのことのヒントは新約聖書にある。
「新しい契約の仲保者イエス、ならびにアベルの血よりも立派に語るそそがれた血である」(ヘブル人への手紙12章)。
この言葉を素直によめば、イエスの血とアベルの血が一脈通じるものがあるということであり、アベルの血は神に復讐どころか、カインの罪の許しをさえ訴えているフシがある。
そのことを考えるもうひとつのヒントがダビデの「詩篇」であり、ダビデは、この世で悪がはびこるのはナゼかという不条理を訴えることはあっても、全編を通じて、誰か特定の人物に復讐をする企てについて祈ったことなど一切なかったといってよい。
たとえば、詩篇73編は、次のとおり。
「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。 しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。 それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。 彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。 人々が苦労するとき、彼らはそうではなく、ほかの人のようには打たれない。 それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。 彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。 彼らはあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げる。 彼らはその口を天にすえ、その舌は地を行き巡る。 それゆえ、その民は、ここに帰り、豊かな水は、彼らによって飲み干された。 こうして彼らは言う。"どうして神が知ろうか。いと高き方に知識があろうか。" 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している」とある。
土の中のアベルの血の訴えは、ダビデの祈りに重ねていうと、次のようなものではなかったか。
「どうしてこんなことが許されるのですか、こんなことがあっていいのですか。あなたの正義はどうなっているのですか」と。
アベルが不条理な死をとげながらも、自分に向けられた罪の許しを願う訴えをなしたという点は、その後のカインが辿る運命からも推測できることである。
神の「あなたは、何をしたのか」という問いかけに対して、カインは神に訴える。
「わたしの罰は重すぎて負い切れません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」。 それに対する神の答えは、とても意外なものだった。「誰でもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるだろう」と。
そして神は、カインが殺されないように「しるし」をつけ、カインを守ろうというのである。
このことからも、アベルの血は「復讐」を訴える血どころか、カインの「許し」を願う血ではなかったかということだ。
ただし、それは地中からの訴えであり、後に天から注がれるイエスの「贖罪」の血とは比べようもないものではあったが。
ところで映画「エデンの東」は、父親に何事も受け入れられる兄と、受け入れられない弟がいて、弟は兄を結果的に死に追いやってしまう。
「エデンの東」は、この「カインとアベル」の物語を下敷きにしているといわれている。
映画のタイトル自体、カインが神の前を去って住んだ場所「エデンの東」からきている。
また、登場人物の「キャルとアロン」という名前の近似からも、それがうかがわれる。