柴兄弟の奇遇

世の中には、機縁もしくは奇遇というものがあるが、初の女性都知事となる小池百合子と登山家・野口健との関係もそれにあたるであろう。
このたびの都知事選で、小池氏の「カイロ大学」卒業という学歴に興味がわいた。
小池は、兵庫県芦屋市生まれ、高校卒業後、関西学院大学社会学部に入学するも、「国際連合の公用語にアラビア語が加わる」旨を伝える新聞記事をきっかけに、アラビア語通訳を目指すことにした。
1971年9月に大学を中退してエジプトへ留学。
いわゆる「芦屋のお嬢様的」怖いもの知らずの行動にも思えるが、父親の小池勇二郎は、海軍中尉、満鉄経理部にいた気骨の人。
復員後、ペニシリン販売で財をなし、得意の英語力を生かし、石油会社など4つ会社を経営した。
関西経済同友会の幹事や全国中小貿易連盟の理事をつとめたほどの人だった。
石原氏の「厚化粧発言」関連で面白いのは、小池勇二郎は石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて1969年旧兵庫2区から衆議院議員総選挙に立候補したが落選した経緯があることである。
さて小池百合子のエジプト留学中のエピソードといえば、第四次中東戦争に遭遇したこと、ピラミッドを登りその天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたこと。
21歳の頃、同じく日本人留学生だった一般人男性と結婚したこと(その後直ぐに離婚)。
その後、一家はエジプトに渡り、 現在のカイロで日本料理店「なにわ」を経営している。
カイロで日本料理店を始めたのは、母恵美子さんが発案者で、家族の猛反対を押し切って、20年間もの間、カイロで店を切り盛りしたという。
小池百合子の方は、大学卒業後はアラビア語の通訳として活動したり、テレビニュース番組のアシスタントやキャスターを務めている。
個人的には、1979年から85年まで「竹村健一の世相講談」でアシスタントキャスターを務め、毎回トチッテいた頃の記憶がある。
その後ニュース番組のメインキャスターとして活躍し、1992年、前熊本県知事の細川護熙が結党した日本新党に入党し、比例区から出馬して参議院議員に初当選している。
ところで、エジプトと繋がりがある人といえば、登山家の野口健氏のことが頭に浮かぶ。ここで「繋がり」とは「血の繋がり」のことである。
1998年に25歳でチョモランマの登頂に成功し、当時の七大陸最高峰登頂最年少記録を樹立した。
また、エベレストや富士山の清掃活動など、環境問題に取り組んでいる。
野口健の父親が野口 雅昭という外交官である。外交官時代は、アラビア語の専門教育を受けたアラビストであった。
東京大学卒業後、1963年4月に外務省入省し、1983年より在エジプト大使館公使、1985年より在イギリス大使館公使、1987年より在イタリア大使館公使をつとめている。
登山家の野口健は、この元外交官の野口雅昭の父親と、エジプト人の母親とのハーフ。幼少期を海外で過ごしている。その後、イギリスの立教英国学院小学部に6年時に転校。
本人の弁によれば“落ちこぼれの不良”であり、学校の先輩と喧嘩をして1ヶ月の停学処分を受けている。
ところが、停学中の一人旅で「植村直己」の著書と出会い登山を始める。その後、日本の亜細亜大学に入学し、世界の名立たる山々へ挑戦を挑み、各地で最年少登頂記録を樹立する。
そして当時の七大陸最高峰の世界最年少登頂記録を更新するが、野口はそうした登山体験を積むうちに「地球環境の破壊」を実感することになる。
野口健の経歴で少々意外だったのが、「会津若松生まれ」というものだった。実は、野口健の祖父は旧帝国陸軍で参謀などを務めた野口省己である。
そして野口健と小池百合子は、「エジプト繋がり」ばかりではなく、「環境保護」という点で親交があり、2005年9月の衆議院議員総選挙では、小池百合子の選挙応援に駆けつけたこともあるという。

「エジプト繋がり」「会津繋がり」でいうと、柴四郎という陸軍軍人のことが、脳裏に浮かんだ。
そしてその弟・柴五郎も陸軍軍人であり、特筆すべきことは柴兄弟は二人とも「世界史的な奇遇」を体験した不思議な兄弟なのだ。
1900年の初夏、山東省に蜂起した義和団は清国に進出した西欧勢力とキリスト教徒を本土から追放しようと勢力を増し、それがために北京城の外国人たちの不安は高まった。
さて籠城することになった各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。
イギリス公使のマクドナルド(のち駐日大使)が全体の指揮をがとることになったが、軍人出身のマクドナルド公使は会津出身の軍人・柴五郎の才能を見抜き、五カ国の兵の指揮官に命じたのである。
そのうち、外国人たちも柴の能力を自然に認めるものがあり、作戦用兵の計画は柴五郎大佐の意見で決まっていった。
柴大佐は英語・フランス語に堪能であり外国人武官に作戦をよく説明できたし、また連絡文もみずから書いたいう。
北京に籠城した人員は4千人以上であるが、義和団は何万という数にものぼっていた。
柴大佐はかつての諜報員であった面目躍如で、密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日簡の北京籠城戦を持ちこたえた。
ところで列強それぞれの守備隊が組織されていたが、その中にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソンは柴大佐を認め、二人は友人になる。1963年のアメリカ映画「北京の55日」はチャールトンヘストンがモリソンを演じ、伊丹十三が柴五郎を演じた。
1902年、日英同盟が成立したが、同盟締結を推進したのは、駐日公使となっていたマグドナルドであった。
マグドナルドは義和団事変で柴大佐と戦火を共にし、その能力を大いに認めたという関係であった。
イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからであるが、超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をすて、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
マクドナルドの胸の中に、柴大佐の像が「信頼するにたる日本人像」を形作っていたのかもしれない。
ところで 陸軍大将・柴五郎は、「ある明治人の記録」として自伝を書いている。
敗戦で会津藩士たちがたどった苦難の姿と、藩士たちの心情が切々と綴られている。
柴五郎は、1860年に会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれた。8歳で藩校日新館へ入学し、戊辰戦争が勃発すると、新政府軍が城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで大叔母の家にいて、難を逃れた。
しかし、祖母・母・妹らは自邸で自決し、屋敷は消失してしまった。
柴は会津若松落城のときはわずか10歳であった。
会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年柴も東京へ護送された。
その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後旧会津藩の藩士らは青森県・下北半島の斗南へ移され、柴もそこへ行った。
北の冷涼でやせた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよったという。
「挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに、父は「薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ」と叱責したという。
柴は、藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校へ15歳で入学することができた。
ちなみに陸軍幼年学校で柴は秋山好古と同期である。
日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て1898年に米西戦争の折にアメリカに行き秋山真之と一緒となっている。
つまり柴は、士官学校を経て、軍人としての頭角を表し、薩摩・長州の藩閥によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで昇ったのである。

サムライ30名ほどがスフインクスの前で休憩している写真を見た人は、結構多いと思う。
「スフインクスとサムライ」というあまりにチグハグな出会いは、一瞬コマーシャル用の「合成写真」のようにさえ見えてしまう、そんなチグハグサさか印象深い写真である。
しかしこの写真はマガイ物でもなんでもなく、正真正銘1884年にエジプトで立派な写真家によって撮られた写真なのだ。
1863年末つまり明治維新の4年前、フランスとの外交交渉を主とする「文久遣欧使節団」を乗せた仏艦ル・モンジュ号は池田筑後守を団長とする徳川家の家臣34名をのせ横浜を出航した。
江戸幕府が1858年にオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと結んだ修好通商条約で交わされた新潟・兵庫のニ港および江戸・大坂の開港開市の延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のためのものである。
往路、エジプトに15日間滞在し、二本のレールを走る火輪車を見たり、蒸気ポンプで稼動する製鉄所を見たりしている。そしてスフィンクスの前で記念撮影したのがこの写真である。
一行はピラミッドはもちろん異文化に驚いたろうが、それ以上に相手も珍奇なイデタチの日本人に驚いたであろう。翌年(1864年)3月13日パリに到着したが、交渉は不調に終わった。
ところでこの「サムライとスフィンクス」を撮ったF.Beatoはイタリア生まれでイギリス国籍を持ち、クリミア戦争・インドのセボイの反乱など主に戦争写真を撮ってきた「従軍写真家」である。
開国前の日本の混乱期に興味を示し1863年春頃来日したらしいく、当時の日本写真界の第一人者といって過言ではない。
しかしこの段階で、日本とエジプトとの何らかの交流が生まれたわけではない。
ところが明治の初期、日本の軍人とエジプト独立運動の志士の真摯な交流があった。その軍人こそ、柴五郎の兄にあたる柴四郎である。
柴四郎は、その兄弟と同様に藩校日新館で学び、少年期に会津藩士として戊辰戦争に兄と共に従軍した。
最後まで新政府軍と戦った賊軍の会津藩士には、官界や軍隊の中で立身出世する見込みはなかった。
しかしその例外的存在が、この柴兄弟である。
1877年(明治10年)、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)に見出されたのが大きな「転機」となった。
ちなみに土佐出身の谷は、戊辰戦争で会津と戦った間柄だったから面白い。
柴四郎は27歳のとき岩崎家の援助を受けてアメリカに留学し、ペンシルベニア大学及びビジネス・カレッジを卒業して、1855年に帰国した。
この年、アメリカ生活で培った持論「国権伸長論」を基調とする「佳人之奇遇」を「東海散士」の名で発表して、その本がベストセラーとなり一世を風靡した。
そして「佳人之奇遇」の内容は、当時の政治小説の内容としては、実に驚くべき内容を含んでいた。
その内容は、自身の体験と歴史的事実が織り交ぜながら語られている。
小説の前半、会津の遺臣である人物がアメリカにわたりフィラデルフィアで、アイルランドやスペインの高貴な女性とめぐりあって交流し、後には中国の明朝の遺臣もそのサークルに加わり交友を築いていく姿が描かれる。
いずれも「亡国の憂い」を抱き、権利の回復運動に進もうとしており、ハンガリーのコシュートが亡国の代表として「実名」で各編に登場している。
後半では、エジプトの指導者アラビ・パシャの運動やスーダンのマハディの反乱なども取り上げられるなど世界的「民衆史」への共感がみられる。
そしてこの小説の白眉は、明治政府の農商務大臣となっていた谷干城が、通訳(柴四郎)と共に1886年の欧州視察旅行の途中に、イギリスによってセイロン島に流刑となっていた「アラビ・パシャ」を訪れた話である。
二人はパシャからエジプトがイギリスによって植民地されていく過程を涙を流さんばかりの気持ちで聞く場面である。
実は、これ作り話でもなんでもなく、実際の体験に基づくものである。つまり、柴四郎は、アラビ・パシャとセイロンで再会したのである。
アラビ・パシャは、エジプトの民族運動指導者で、西欧列強の内政干渉に抵抗し武装蜂起し、一旦はイギリスに破れその支配下におかれるものの、後の独立運動に影響を与えた「伝説の人物」である。
また柴四郎は、谷干城農商大臣の通訳としてエジプトを訪れ、1899年にエジプト民衆の立場から「近世埃及(エジプト)史」という大著を著している。
日本人の手になるはじめての「エジプト史」であるが、東海散士こと柴四郎は、なぜそれほど熱心にエジプトを描いたのか。
柴四郎は自ら賊軍であり会津藩士として苦しみを味わった人物であったことも大きいであろう。
柴四郎は「会津の運命」と世界次元で見た「日本の運命」を重ねていたのかもしれない。
それは小国が大国の圧迫によって植民地化されることへの「警告」として書いたものである。
「近世埃及(エジプト)史」において、小国が大国に依存した状態では民族的解放ができないこと、小国の国民は国を守る気概を持たなければならないこと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説かれている。
政治家としては、1892年(明治25年)以降福島県選出(進歩党・憲政本党)の衆議院議員として活躍し、8回も当選している。
ところで、日本が日露戦争で勝利したことは、大国の圧迫に脅威を抱いてきたアジアや中東諸国を大いにはげました。そしてエジプトも例外ではなかった。
すでに新渡戸稲造の「武士道」は英語に翻訳されていたが、さらにアラブ語に翻訳されてそのエッセンスがエジプトの陸軍学校の教科書としても使われたという。
また、エジプトのナセル大統領は、彼自身が起草した1962年に制定されたエジプト国民憲章に、世界でただひとつ日本に触れた箇所がある。
「エジプトがその眠りから醒めた時に、近代日本は進歩をめざして歩み始めた。日本が成功裡に着実な発展の道を歩み続けたのとは対照的に、個人的な覚醒運動は阻害され、悲しむべき損失としての後退をもたらしたのであった」と。
1965年の「ツタンカーメン秘宝展」では門外不出といわれた黄金のマスク、金張りのベッドなどを含む秘宝45点の公開となり、上野の東京国立博物館のまわりに七回り半の行列ができた。
東京、京都、福岡の三会場を合わせると入場者は300万にのぼったという。
この実現困難と思われた「ツタンカーメン秘宝展」を日本で開くことに最終的に決断したのは、日本から多くを学ぼうとしていたナセル大統領であった。
そして印象的な出来事は、1984年ロスアンゼルス・オリンピックの柔道決勝の舞台。
山下が前の試合で負傷し、右足を引きずっていたにもかかわらず、その弱点を攻めずに銀メダルに終わったエジプト・ラシュワン選手にフェアプレー賞が贈られた。
しかしラシュワンが、山下の右足を攻めなかったというのは、必ずしも真実ではなかったようだ。
ただ山下と再会した際に、連盟会長の「けがした足を攻撃しろ」という指示に「そんなことはできない。私はアラブ人としての誇りがある」と断ったことを明らかにした。
そのうえで、ラシュワンは普段どうりの戦いを心がけたという。
、 確かに、怪我した足をまったく攻撃しないというのも、かえって不自然かつアンフェアーな気がする。