多々良の鐘

飛行機で福岡空港に降りる時、雲の合い間から広大な敷地を占める「コンテナ群」を見渡すことができる。
これが福岡市東区の「流通センター」だが、このあたり一帯はアル戦いの戦場だった。
それは足利尊氏と菊池氏・阿蘇氏との合戦となった「多々良浜の戦い」。
1336年、2月尊氏は京都で新田義貞・楠木正成らに敗れて九州へ逃れたが、九州にてかなりの武士を味方につけ3月2日「多々良浜の戦い」で大勝した。
その少し前に、宗像大社で「戦勝祈願」をした足利尊氏にとって、多々良は捲土重来の起点となった「記念の地」といってもいい。
ところで、「多々良」という地名は、福岡市民にとって「多々良川」という川の存在ゆえによく馴染んだ地名だが、案外とその地名の由来は知られていない。
加えてコノ「多々良」の地、古来より「政治の匂い」のする場所なのだ。
福岡県八女の豪族・磐井氏が、528年新羅と結んで、大和政権に反して敗れたのちに、生き残った磐井の一族は多々良の地を含む「糟屋の屯倉」を差し出すことにより、延命をはかったという経緯がある。
それでは、この地が「政治的な取引」の対象となるほど「魅力的」な地だったのだろうか。
実は、「多々良」の地名から想像できるように、この地は「タタラ(多田羅)製鉄」が行われた場所であった。
多々良の地から20キロほど南の太宰府の観世音寺の梵鐘は「日本最古」の鐘といわれるが、この多々良の地で698年に製造されたものである。
大宰府天満宮に近い「榎社(えのきしゃ)」にいた菅原道真公の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのは、この鐘のことである。
ところで、この鐘とまったく同じ型、同じ年に多々良の地で作られた、いわば「兄弟鐘」が京都妙心寺に存在している。
梵鐘に「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」と書かれているので間違いない。
しかし、福岡の観世音寺にある鐘と同じ鐘がどうして京都妙心寺にあるのか。
色々調べてみても、答えは見当たらない。
ところが最近、あるテレビ番組で「本能寺の変」の真相を追求をしていて、妙心寺が「明智光秀」に縁が深い寺であることを知り、個人的にアル「奇想」が湧いてきた。
明智が織田を襲撃した「本能寺」と、この「妙心寺」を京都地図上で調べると、おおよそ10キロ程度しか離れていない。
妙心寺は、「七堂伽藍」が比較的よく残されている禅宗寺院だが、「七堂伽藍」とは、三門・仏殿・法堂・僧堂・庫院(庫裏)・東司(便所)・浴室の7つのことである。
東司は、僧侶が起居する場ともなる僧堂に接しておかれ、およそその反対側に「浴室」が建てられていた。浴室は宣明とも呼ばれ、文字通りお風呂である。
番組を見てはじめて知ったことは、この浴室はいつの頃からか「明智風呂」と呼ばれているという。
それは、明智光秀ゆかりの風呂で、光秀没後5年の1587年、塔頭である太嶺院の僧「密宗」が光秀の菩提を弔うために、この浴室を建てた。
「密宗」は、光秀の叔父にあたる人物である。
このような建立の経緯から、ここは僧侶たちの入浴の場としてだけでなく、「光秀を供養」する場として長く用いられてきたのである。

1582年6月21日、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した。いわゆる「本能寺の変」である。
信長は寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害。信長の嫡男で織田家当主信忠は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり自害した。
記録によれば、光秀の軍勢は勝鬨の声をあげて妙心寺に引き上げている。
ちなみに、本能寺に実際にいくと入り口の石柱の文字「能」の字が普通と異なっている。
過去に4回も火災にあった本能寺では、「能」はヒが重なっているので、「ヒは来るな」というという意味で、「能」のヒの重なりの部分を「去」るという字をあてている。
さて、前述のテレビ番組の副題が「本能寺の変の434年目の新事実」であるが、従来、光秀が信長を襲撃したことにつき、信長が光秀に難癖つけて罵倒したとか、領地を没収しようとしたといったことが語られている。
しかし、それらはすべて「憶測」であり、本来学者が採用すべきで説ではないのである。
明智光秀も謎多き人物だが、元々は足利義昭の家臣であったらしい。
将軍家の家臣になるので、天皇家や公家ともかなり太いパイプを持っていたらしく、そのことが信長に重用されていたポイントといってよい。
信長の家臣の中で、最も早く「一国一城の主」となったのが明智光秀で、京都に近い「坂本城」が与えられたという事実が、明智光秀がイカニを信長に重用されていたかという証左である。
だが、知識人で思慮深い明智光秀が、たった一人の思いつきで「本能寺の変」のようなダイソレタことを起こすとは思えない。
光秀には「黒幕」のような存在、あるいは表に出なかった「同盟者」がいたのではないか。
もうひとつの謎は、織田信長の命を狙う人は大勢いるのに、どうして信長は少数の兵だけで本能寺にいたのだろうか。
これらの謎につき、上述のテレビ番組において明智光秀の子達による史料調査により、明らかになった史実がある。
それによると、信長と光秀の対立の原因は、「一人の人物」の処遇をめぐる意見の食い違いから生じたという。 その人物コソが徳川家康である。
信長は、家康を本能寺におびき寄せ、明智に家康を殺すように命じたのだ。
その根拠として、本能寺の変に参加した足軽が書いた書状に「本能寺にむかう理由を家康を討つためと思っていた」と書いている。
また信長と交流のあったフロイスも同様の証言をしている。
信じ難い話だが、明智子孫によれば、ソノコトは「本能寺の変・当日」の家康の行動から分かるという。
信長の盟友家康は、「本能寺の変」当日、堺から本能寺に向かっていた。家康は、長年の労をネギラウという信長の誘いに応じ、わずかの家来とともに京都に向かっていたのだ。
しかし、この時点で織田信長が明智に「同盟者・家康を殺せ」と命じる理由があるのであろうか。
織田信長は、宿敵武田をたおし「天下」をほぼ手中におさめており、武田を抑えていた「徳川家康」の利用価値が減っていたことは確か。
それに、信長は、家康を生かしておけば、いずれ天下取りのジャマになる直感したに違いない。
それに加え、当時の戦国武将が学んでいた中国「孫子の兵法」の影響力を軽んじてはならない。
孫子によれば、「敵を滅ぼしたら、自分を支えてきた家臣を処分せよ」という教えがある。
それを証明するかのように、織田信長は「本能寺の変」の後、同盟を結んだ四国の長曾我部氏を倒す戦さに向かおうとしていたのだ。
その同盟の「仲立ち」となっていた人物こそ、明智光秀に他ならない。
明智光秀は、このままではイズレ、織田信長に明智家もやられると悟ったに違いない。
そこで一族を守るために、「本能寺」における織田信長の「手勢空白」の千載一遇のチャンスに賭けたに違いない。
織田信長は、徳川家康を本能寺に呼び寄せ、光秀に討ち取らせるつもりだった。
ところが、この計画を聞いた光秀は、ゆくゆくは明智一族も滅ぼされると思い、家康に通報し「織田家打倒」を決意する。
家康との談合の末に、信長と息子の信忠の間隙を縫って決起したのが「本能寺の変」だった。
つまり、光秀が一族の滅亡を恐れて「先手」を打ったということなのだ。
さて、明智の子孫は「本能寺の変」の真相を追求すべく、スペインのエスコリアルにて日本にやってきた宣教師の史料にあたった。
エスコリアルは、王家のための修道院から開けていった街で、修道院に併設された図書館で4万冊が保存してある。
日本にやってきたスペインの宣教師の記録があり、そこにアビラ・ヒロンが書いた「日本王国記」の中に、信長最後の言葉が残っていた。
信長が口に指をあて「私は自ら死を招いた」と語ったことが伝えられている。
それでは一体誰がこの言葉を聞いたのか。
宣教師が連れてきたヤスケという黒人がいたが、信長が気に入り「護衛」にした。
事件後、ヤスケは本能寺から南蛮寺に逃げて助かったが、彼コソ「信長最後の言葉」を聞いたにちがいない。
さらに「日本国王記」には、「家康を油断させよう」と少数で本能寺にいたことが、信長のアダとなったと書いてある。
「日本国王記」にある信長の最期の言葉「自ら招いたこと」とは、光秀が逆手にとって謀反をおこし、それを瞬時に悟った信長の言葉であるといってよい。
とはいえ明智光秀は、一人のクーデターを起こすほど「蛮勇」の人なのかと疑問が残る。
実はこの時期、明智光秀と徳川家康の「親密さ」を表す恰好の史料が「井伊美術館」に眠っている。
「井伊美術館」は、徳川家康に仕えた井伊直正の直系の子孫が運営しているが、その史料の中に光秀と家康を結ぶ「パイプ役」となった「木俣清三郎」という人物の書状がある。
木俣清三郎は、もともと家康の家来だったが、いざこざを起こして光秀の家来になった。
光秀を通して「伝言役」であり、その「書状」から光秀が木俣に土産もたせるなど、家康・光秀の「親密」さがよみとれる。
家康は、暗殺計画を知っていたからこそ、あえて信長のさそいに乗った。事件が起きるとすぐに伊賀の峠をこえ岡崎に帰る。
京都脱出のルートも事前にきめられていたから迅速に動けたが、その逃避行に木俣も同行している。
織田家と光秀が同盟して信長の残党と戦う「密約」があったからこそ謀反に踏み切った。
だが、二人にとって豊臣秀吉の動きは想定外なものだった。
秀吉による、いわゆる「中国大返し」で畿内に戻った羽柴秀吉に、明智光秀は「山崎の戦い」で敗れて、「落ち武者狩り」にあい命を落としている。

室町幕府・初代将軍足利尊は、製鉄の地「多々良」が、捲土重来の「記念地」としたことは上記の通りだが、この多々良の地で作られた鐘が、室町幕府・最後の将軍足利義昭の家臣・明智光秀ゆかりの「妙心寺」にあるということに、何らかの「関連」がありそうに思えた。そこで足利義昭の歩みをみてみよう。
1537年 12代将軍足利義晴の子として生まれる。
1542年 足利義昭が奈良の興福寺(こうふくじ 奈良県)に入り、僧になる。
1565年 兄の13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)が家臣の三好長慶と松永久秀に暗殺される。
足利義昭は身の危険を感じて興福寺を抜け出し、近江にのがれる。
1566年 足利義昭が還俗し、越前の朝倉氏をたよって、のがれる。
1568年 明智光秀が織田信長の家臣となり、足利義昭と織田信長をひき会わせる。
足利義昭が織田信長とともに京都に入り、室町幕府の第15代将軍になる。
1569年 足利義昭と織田信長の関係が悪くなる。
1570年 足利義昭が織田信長から出された「5か条」の条件に従うことをのまされる。
これにより織田信長が実権をにぎり、足利義昭の将軍位は名ばかりで、政治から完全にしめだされる。
それに対して、1571年 足利義昭は北の浅井氏、朝倉氏、西の毛利氏、の武田氏とひそかに同盟し、「織田信長包囲作戦」にでる。
1573年 足利義昭が京都で織田信長に反乱を起こすが敗れる。
織田信長が足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼす。
足利義昭は西の毛利氏をたよって、逃げのびる。
1587年 足利義昭が大阪で豊臣秀吉の保護を受けて1万石を与えられる。
足利義昭は出家し、1597年 大阪で死去(61才)している。
さて妙心寺の鐘は、飛鳥時代後期の698年、「糟屋(政庁)」の「評造(役人)」である「春米連広国(つきしねのむらじひろくに)」という人物によって鋳造されたとある。
このように記念銘のある鐘としては日本最古のもので、国宝に指定されている。
この古鐘の通称が「黄鐘調」といわれる。これは何を意味するか。その答えは吉田兼好が鎌倉時代末期に書いた「徒然草」にある。
現代語訳すると次のような内容である。
「鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである」。
元来、黄鐘調とは雅楽に用いられる六調子の中のひとつで、オーケストラの最初の音合わせに用いられる音階、つまり、基本となる音のことなのだが、その意味合いを鐘の音に置き換えて、鐘の最も理想的な音(西洋音階の「ラ」)を“黄鐘調”としているわけである。
この「ラ」の高さの音は、遠くまでよく響く。「ラ」の音が一番響くので、オーケストラの音合せにも「ラ」の高さが用いられているのだろう。
そして驚くべきことは、オーケストラの音合わせに用いられる基本の音の周波数は129ヘルツだが、この古鐘の音の周波数も同じ129ヘルツなのである。まさに、この古鐘は「黄鐘調の鐘」と呼ばれるに相応しい、理想の音を鳴り響かせる鐘なのであった。
つまり、妙心寺や観世音寺の鐘の音の音階は偶然でなく、「意図的」にその高さになるように作られている。
鐘の大きさ、厚さ、材質等が音の高さを決めるのだろうが、7世紀に多々良で鐘を作っていた人は、そういう調整をすることが出来たことになる。
大した技術で、現在そのような鐘を作れる技術者は皆無である。
ちなみに、織田信長は、労働者の集合休憩の合図を鐘を使っており、そのため周囲の寺が鐘を鳴らすのを禁止したという。これは、それだけたくさんの鐘が周囲に存在していたことを意味する。
そして698年に多々良で作られた鐘こそが「黄鐘調の鐘」で、様々な鐘と音合わせのために、各地を移動していたと考えられる。
もともとは聖徳太子が大坂に建立した「四天王寺」の聖霊会において、「楽律」の調整に用いられ、その後、法金剛院(現:右京区花園)に移されたと言い伝えられている。
多々良の鐘は、日本最大の禅寺・妙心寺における「音合わせ」のために、運びこまれたのかもしれない。
ところが、この鐘には「糟屋評」という足利氏にとっては、「めでたき」地名が彫られているではないか。
繰り返しとなるが、「妙心寺」は最後の足利義昭の家臣・明智光秀が、もはや足利の敵ともなった「織田信長」を襲撃した、その直後に参拝した寺である。しかも、明智光秀の叔父が僧侶となっている。
妙心寺の「明智風呂」を思い起こされたし。
この鐘が、足利の旧家臣明智光秀の菩提を弔うために、妙心寺に落ち着いたという推測は、いかがであろう。