正しく予想する人々

ものごとの「正しさ」が証明されるために、長い時間を要することがある。
それが、人々の世界観や人生観を変えるほどのものなら、予測というより「予言的色彩」を帯びる。
先日、アメリカの研究チームが検出したと報道された「重力波」の存在もそうだった。
「重力波」は、重い星やブラックホールが合体したり動いたりすると、まわりの空間が伸び縮みし、その歪みが水面の波紋のように広がるもの。
その存在は、アインシュタインによって100年も前に予言されていた。
我々は日常、時間や空間は伸縮しないという「大前提」の下で生きているが、重力の影響で時間や空間自体が伸び縮みしながらも、我々の日常には影響がない程度で済んでいるということだ。
とはいえそのこと自体「世界観」が根底から覆された思いがする。しかしそもそも「時空が伸縮する」という現象はどういうことなのか。
考える手立てさえないので、あえて素人考えをいえば、時空が伸縮しなければ、辻褄が合わない現象が存在するということから導き出された考えではなかろうか。
「ニュートン力学」では重力というものを、質量と質量の間に働く力と解釈しているため、光(ひかり)は質量がなく、何かに引っぱられて曲がる理由が無い。
つまり、光は秒速30万キロメートルでまっすぐ進む物体と同じとみなす。
しかしニュートン力学による計算では、説明できないなんらかの「誤差」が生じるため、アインシュタインは、光が何かのかたちで重力の影響を受けていると考えた。
そこで、重力によって質量のない光がまがるハズもないので、「空間」の方が曲がると発想したのではないか。ただし、「現象」としてはあくまでも光が曲がっているように見えるのである。
では本当に重力で空間(現象としては光)が曲がるか、実験で確かめられれば、真偽のほどはすぐに明らかになる。
しかし、旧来の観測装置の精度が充分ではなく、アインシュタインのいう「現象」が起こるか否か確定できないまま、時代は過ぎて行った。
このことについての歴史上初めての観測は、1919 年、イギリスのエディントン卿の観測隊により「日食(にっしょく)」を利用して行われた。
日食の日にしたのは、昼間でも星がよく見えるという単純な理由による。その時、その星が本来在るべき位置と比べて、少しズレた位置に見えたとしたら、太陽の重力で空間が押し曲げられた事が証明できる。
この観測によって、光は曲げられて地球に届く事が確認されたものの、太陽の質量程度では空間はそれほど強く曲がらないため、観測データの「有意性」は微妙なものとなった。
理論値で見積もられた誤差の範囲内に入らなかったため、見過ごされた誤差が他にあるということになり、「重力波」の存在の証明とまでは至らなかった。
そこで、観測機器を置いた地面の揺れなど、重力波と無関係の「雑音」を徹底的に取り除く必要であった。
このたびのアメリカ研究チームが地下に設置したのが、長さ4キロの検出器であった。
これによって、地球から13億光年離れた二つのブラックホールが「合体」したとき出た重力波を「十分な精度」で検出できたという。
それは、水素の原子核の1万分の1程度という微小なものであった。

我が在住の福岡では、平和台球場の解体によって可能となった考古学的調査により、古代の迎賓館「鴻臚館」の存在が証明された。
しかも、その場所は今から約60年も前に、九大医学部教授の中山平次郎が、万葉の時代にうたわれた内容を元に推測した位置にあり、教授の予測の「正しさ」が証明されたことになる。
それは見事な予測であったが、世界レベルでいうならば、中央アジアにある「さまよえる湖」にまつわる予測ほど、人々のロマンをかき立てたものもないであろう。
なにしろ、予測から30年の時を隔てて、巨大な湖「ロプ・ノール」が砂漠の中を本当に移動していることが「証明」されたのだから。
さて、中国の文献には、タリム盆地の東側に大きな湖があることが記録されている。
東トルキスタン(タリム盆地)東部のロプ砂漠は、地球上に残された数少ない「地理的空白地帯」で、そんなに大きな湖があるにもかかわらず、それがどこにあるのか、当時は誰も知らなかったのである。
19世紀後半、そこにあるはずの湖へのロマンは各国の探検家をロプ・ノールの探求に駆り立てた。
さて、「史記」大宛列伝には、「楼蘭姑師、邑有城郭、臨塩沢」という記述である。
ここにある「塩沢」や他の中国の史書に「蒲昌海」「輔日海」「牢蘭海」などと記されるものは、いずれもロプ・ノールを指すと考えられる。
そしてもう一つ、この記述に登場しているのが「楼蘭」である。シルクロードの古代都市「楼蘭」とは、中国の史書に西域諸国の一つとして記されている都市で、敦煌から西へのびる古代シルクロードが天山南路(西域北道)と西域南道に分岐する場所に位置したために、貿易上の重要な中継地点となっていた。
ところが、6世紀以降に楼蘭一帯は広範囲にわたって無人化したため、当時はもう楼蘭がどこにあったのかさえわからなくなっており、その実態は全く不明のままだった。
つまりこの地域には、謎の湖「ロプ・ノール」に加えて、謎の都市「楼蘭」という、もう一つの謎が残っていたのである。
これらの謎を解くためには、ぜひともロプ・ノールを発見する必要があった。
さらに、もし楼蘭までも発見できれば、その都市が臨んでいる湖は「塩沢」、すなわちロプ・ノールであるから、同時に両方の謎が解けることになる。
1900年の探検でスウェーデンのヘディンはロプ砂漠を北から南へ縦断し、その縦断面図(高低図)を作成し、この断面図から湖らしい地形を見つけだした。
そこには夥しい数の螺貝の殻や厚い塩の層(塩皮殻)、枯れた白楊の林があったのである。
さらにヘディン隊は、古代の湖床の上を進んでいき、偶然、いくつかの廃址に遭遇し、そこに人々が生活していた痕跡を見出た。
ヘディンは翌1901年、同じ遺跡で木簡や紙文書を多数発見して持ち帰り、これらの文書は、専門家によって次々に解読されていき、この遺跡が古代都市「楼蘭」だったことが判明した。
そうすると、ヘディンが見た古代の湖床は、楼蘭に臨む湖、すなわち「ロプ・ノール」ということになる。
ロプ・ノールと楼蘭はどこにあるのかという「二つの謎」は、こうして全面的な解決をみた。
しかし、そこに「新たな謎」も浮かんできた。確かに古代にそこに湖があったことはわかったが、今となってはその湖に一滴も水が残っていない、つまり湖がなくなっていることである。
この謎を説明するために、ヘディンは大胆な「仮説」を提唱した。
ヘディンは、北部の楼蘭遺跡と南部のカラ・コシュンとの間の高低差が、わずか2メートルしかないことに注目し、このような平坦な砂漠を流れる河川は、わずかな地表の変化にも反応して「流路」を変えるのではないかと推測した。
そしてこのメカニズムによって、楼蘭が滅びた理由を次のように説明した。
かつて楼蘭地方に流れ込んでいたタリム河の下流が、「堆積作用」の進行に伴って4世紀頃に流路を南へ変え、タリム盆地の東南部にあるカラ・ブラン、カラ・コシュンという二つの湖に流れ込むようになったからではないか。
楼蘭遺跡から出土した漢文文書の下限は330年頃であるから、楼蘭はそれから間もなく放棄されたと考えられる。
楼蘭に水が流れてこなくなって湖が干上がれば、都市機能を維持していくことは困難であり、こうして楼蘭は滅びたとしたのである。
さらにヘディンは、カラ・ブラン、カラ・コシュンの二つの湖に「堆積物」が沈殿しつつある一方で、楼蘭遺跡付近は烈風による「侵食」が進んでいることにも気付いた。
とすれば近い将来、以前とは反対のことが起こり、タリム河下流はかつての流れに再び戻り、湖もかつてのロプ・ノールの位置に「出現」すると予測したのである。
そしてロプ・ノールとは川の流れの変動に伴って移動する湖であるという、壮大な仮説を提唱した。
彼はこの仮説を印象的に表現する言葉として、ロプ・ノールのことを「さまよえる湖」と呼んだのである。
そして彼の予測は見事に的中した。
1921年頃からタリム河下流は流れを変え始め、それまで南東方向に曲流していたタリム河の下流が、東方向にのびる旧い河床に流れを戻し始めたのである。
ヘデインが「さまよえる湖」説を提唱してから30年以上経った1934年4月、自ら考え出した仮説が見事に実証された喜びをかみしめながら、ヘディンは新しくできた河をカヌーで下っていった。
そしてその先には、旧位置へ戻ってきたロプ・ノールが、満々と水を湛えて広がっていたのである。

1970年代後半、大平正芳内閣当時、ア~ウ~と答弁する首相の下での政局の混乱ばかりが目についた。
ただ、大平氏が在任中に何を言いい、何を構想したのかという「中身」については、全く知らなかったといっていい。
その不明を恥じるが、今日の日本社会にあって「大平構想」がいかに先見性にとみ、その方向性が正しかったか、今更ながら知ることになったのである。
逆に言うと、もしあの時「大平構想」のひとつでも実現していたら、今日のような日本の姿にはなっていなかったということである。
大平氏の首相在任中、福田赳夫氏との政権抗争、60日間抗争やら国会の空転、増税などで散々タタカレまくり、良い材料はほとんど見当たらなかった。
1981年、与党内造反による「不信任」可決によるハプニング解散で「衆参同時選挙」が行われ、その選挙期間中に大平氏は急逝した。
その「弔い」ムードが自民党の追い風となり、自民党は当初の劣性を大挽回し、なんとか勝利することができたのである。
さて、大平正芳が首相になったのは1978年、第二次石油ショックが起きた時代で、なんとか「第一次石油ショックを乗り越えた時期だった。
大平首相は、「財政再建」を第一の使命とした戦後最初の首相といってよい。
その中で大平首相は、「一般消費税」の導入をうちだし、国民は大反発した。「天下り」など放置しておいて、なんで国民に負担を押し付けるのかという雰囲気であった。
ただ大平首相はこの時「増税」を、様々な措置のうちの一つの可能性として取り上げたにすぎないのだが、マスコミと野党はこの部分を大きく取り上げ、大平首相の意図は「歪曲」されて国民に伝えられていった感がある。
そこで与党の候補者ですら「一般消費税の反対/増税反対」を訴え、野党提出の内閣の不信任案の議決に際して「造反欠席」しての、ハプニング的解散・総選挙となった次第である。
今の時代から見て、大平首相の一番の「予測の正しさ」は、遡る蔵相時代に、官僚たちによる赤字国債発行の「恒久化」への要望を退け、毎年毎年しっかり議論すべきこととして、1年限りの「特例法」にしたことである。
もしそれがなければ事態はさらに悪化していたにちがいない。
日本は1973年の第一次オイルショックで戦後はじめての「マイナス成長」を記録するが、1975年度の予算編成で、三木内閣の蔵相であった大平正芳氏は連日の省議の末、やむなく2兆円の「赤字国債」発行を決断した。
大平氏は、もともと「小さな政府」論者であったが、このことをひどく無念として「万死に値する」とまでいい、さらには大平氏は「一生かけて償う」とまで周囲に語ったという。
今から思えば大平氏は官僚出身だけに、赤字国債発行が「パンドラのふた」であることに気づいていたのだ。
また、大平氏が打ち立てた9つの研究会の1つに「家庭基盤充実研究」グループがある。
経済学者の伊藤善市を議長とするこの研究会は1年間の議論を経て、大平首相が亡くなる直前の1980年5月末に報告書「家庭基盤の充実」が提出された。
その内容を簡単にまとめると、
(1)国や地方自治体が国民の福祉を全部みるのは無理であり、国民の健全な勤労意欲も失わせる。
(2)まずは、国民一人ひとりの自助努力が必要で、その上で家庭・地域・企業・同業者団体が国民の福祉を担い、国は最後のセーフティーネットとなるべきだ。
(3)そして、家庭が福祉を担う存在として国はその基盤を充実させる政策を採るべきで、その意味で英国型でも北欧型でもない「日本型」の福祉社会を目指すというものだった。
「自助努力/セーフティ・ネット/家族福祉」の路線を打ち出しており、この時大平首相には、これから「少子高齢化」が進めば、年金財政の破綻も必至であり、生活保護費の急増も財政を逼迫させていくということが描かれていたのである。
大平構想の要点は、「家庭による福祉」を国が税制でも支援し、国民を導こうという「長期的ビジョン」に立脚するものであったといってよい。
ところで現・安倍政権は専業主婦らの所得税などを軽減している「配偶者控除」の大幅な見直しをはかろうとしている。
配偶者控除を意識して女性が就労時間を抑えるケースが目立つため、働きやすい制度に改めて「共働き」の子育て世帯を後押しする考えである。
しかしこれは、安部首相の掲げる「美しい日本」を取り戻すという大きな理念に反しないのだろうか。
実際、自民党内部からも「配偶者控除」の見直しについては反対の声があがっている。
また、安倍首相の女性活用政策の一つとして指導的地位に占める女性の割合を2020年までに3割以上に増やすというのだが、「男女共同参画」路線をひたすら突っ走るような安部政権に対して、日本のよき価値と伝統を重視する政党としては、むしろ行き過ぎの「男女共同参画路線」を修正できるかの方が問われている。
また、数値目標にこだわるもののチグハグ感がぬぐえないのは、待機児童ゼロを目指して保育園をふやすことも、子供の健全な発育のために家庭教育を重視することも、配偶者控除を見直すことも、「同時進行」で語られているからであろう。
女性の職場進出の推進といっても、働くことの意味を「経済性」だけに求めているわけではなく、子供の教育を含めた文化的価値や、高齢化時代の両親の介護など社会的価値において自分の力を生かすことを望んでいる。
そこで、パートや専業主婦の方に生き方の軸をおく女性も多い。もともと日本の戦後教育で不十分なのが家庭教育だということは多くの人が認めるところで、働く女性への支援と同じく、子育てをし、家族の結びつきの中心軸となる主婦への支援を忘れては、社会がイビツになりそうだ。
そうした点で、家庭基盤を重視した「大平構想」は一貫したものがあった。
最後にもうひとつ、戦後の日本が唯一自発的・主体的に提唱した「世界秩序構想」が、「APEC(アジア太平洋経済協力)」というものである。
これは、1978年に大平正芳首相がアジア太平洋地域の経済協力体制構想すなわち「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことに始まる。
中曽根康弘首相が「大平構想」に注目し、大平首相時代ののブレーンを中曽根内閣のもとに「再結集」して、1989年に生まれたのが、APECであったことを付言しておこう。