「保育」というレンズ

先日TVであった松本清張ドラマ「地方紙を買う女」の主人公は、夫が政治家の秘書をやっていて、ほんとんど不在。
さらに夫の母親を介護するために折角できた子供を堕さざるを得なくなり、その手術が失敗して不妊となった。
一人の女性に、家族の負担をすべて押しつけられた感があり、老人介護のために幼児の命を犠牲にするのも、何かシンボリックな構図だと感じた。
そして主人公の犯意は、こうした心理的背景から生まれる。
さて先週、「保育制度」の充実を求める2万7千人余分の署名が塩崎厚生労働相に提出された。きっかけは、保育所に子供が落ちた一人の女性の「怒り」のブログだったという。
保育所さえまともに作れずして、「なにが総活躍社会だ!」という気持ちであろう。
さて、近年アウトソーシング(=外部委託)という言葉をよく聞く。
現代の「アウトソーシング」とは、企業が「経費削減」のため、生産工程の一部を外部に委託することを指すようだが、人間の歴史は、古代の傭兵から今日の原発子会社まで、「アウトソーシングの歴史」といっても過言ではない。
そして、最近では政府も赤字財政の打開策をアウトソーシングに求めるようになってきた。
例えば外国では刑務所を民間警備会社に委託したりしている。
我々にとって一番身近なのは、「家庭機能」のアウトソーシングで、家庭はそれによって身軽になり、産業社会に「適応」してきたともいえる。
家庭は「生産機能」を企業に、「教育機能」を学校に、「食事機能」を外食レストランに、「育児機能」を保育所に、「介護機能」を老人施設に、「葬機能」を葬儀屋に、といった具合に外部委託してきた。
「総活躍社会」とは、生活に関するほぼすべてをアウトソーシングてしまうことによって、はじめて実現できる社会なのだろうか。育児休業が終わったあとに、子どもの預け先が見つからないようでは、「共働き」は不可能。また親の介護にいたっては、働き盛りの男性が「介護離職」に追い込まれている。
「生産年齢人口」をフル稼働させる政策なら、家庭内での育児・介護の負担を減らすアウトソーシングによって女性は家庭の外に出られるし、委託された分野で新たな雇用もうまれる。
しかし、ゆりかごから墓場まで「家庭機能」を縮小する社会がまともな社会とは思えない。
男性も女性も、育児や介護と仕事とのバランスを望んでいるはずだ。いいかえると「総(フル)活躍」なんて御免だ。
ともあれ、「保育」の問題は、「子供の貧困」「幼児虐待」「少子化」などにも繋がる広い裾野をもった問題であることを痛感さられる。
そして、より広い視点に立てば、人生の入り口(育児)と人生の出口(介護)にあたって、資源を老人の側に回すか、子供の側に回すか、「現在と未来の選択」の問題ということである。
具体的にいうと、保育士の給料をあげて保育所を増やすか、介護士の給料をあげて介護施設を増やすかなどだが、社会の資源が限られたものである以上、両者は「トレード・オフ」(対抗)の関係にあり、その選択の意味を明確に示すのが政治家の役割であろう。
政治家は、若者や子育て世代の投票率が高齢層に比べて著しく低いために、高齢者をより重視する傾向にあるため、福祉の予算を高齢者から割いて、子育て関係に回すのは簡単にはいかない。
特に都市圏は土地が高いため、従来の基準で保育所をつくることが困難で、待機児童が増えている。
そんな中、地元福岡で一つのみるべき動きがあった。
経済特区の規制緩和として、博多駅から徒歩10分の公園内に、保育所を設置したというニュースである。
知恵をしぼれば、ほかにもたくさん柔軟な対応ができるのはなかろうか。

経済学の基本である市場経済の理論(ミクロ理論)では、需要があればビジネスチャンスとなり供給がなされ、適切な価格でサービスが提供できることになっている。
「市場万能主義」では、保育所不足や介護施設の不足は、市場に任せれば解消するということになるが、問題は市場で均衡する料金では、貧困な家庭ではまかなえず、結局女性の職場進出は公的介入を必要とする。
経済学は市場が適切に機能しないケースとして、「情報の非対称性」など様々あるが、保育所不足が解消しない経学的理由のひとつとして「レント・シーキング」という考え方も有効であるように思う。
レントとは、もともとイギリスの農園主が小作人から徴収していた地代のことである。
土地は価格(地代)に関わらず供給は増減しない。
そこから転じて「土地のように」皆が求めても「増えないもの」が生み出す報酬やその価格を、経済学で「レント」というようになった。
具体的には、労働者が特定の仕事を引き受けたり、企業がある市場に参入したりする場合の誘因(インセンティブ)となる「上乗せ利益分」をさす。
さて、完全競争市場において価格が下がると、厳しい競争の結果、「正常利潤」つまり事業者がその事業にとどまる誘因となる最低限の利益の水準にまで下がることになる。
ここで、正常とは上乗せ分がないという意味で、消費者にはありがたくても 生産者側からみれば、ウマミが少ない。なんとか正常利潤を越えた「レント」が欲しい。
さて、サンデル教授の白熱教室の議論にも似てくるが、スポーツの一流プレイヤーが巨額の報酬(契約金)をもらうのはなぜだろう。それだけの働きをしているかといえば、少々疑問符がつく。
スタープレイヤーは稀少で代わりのきかない存在のことを指す。つまり供給が限られているので、その価値は需要だけによって決まる。
実態に即していうと、実力以上の金を上積みして契約を結ぶ。そうでないと、他球団と契約してしまう可能性があるからだ。
こうした契約を結ぶための「上乗せ分」がレントで、市場の均衡によって労働報酬が決定されるという考えからは「外れた」現象なのである。
大都市圏でなぜ保育所が不足するという問題は、この「レント」の概念で説明できる部分がある。
実は、特権や利権というものは、このレントに近いもので、もっともらしい「規制」によって生みだすことができる。
そして利権を生み出そう、利権を守ろう、利権に与ろうといった様々な活動を「レント・シーキング」とよぶ。この「シーキング」とは「求める/探す」という意味である。
例えば、ある地域に月400万円相当の「理髪市場」があったとしよう。
もしも4店の理髪店があったしたら、各店は100万円程度の月間「売上げ」を期待できる。
この状況下で、出店数を条件を満たす「2店」に制限するという規制が導入されたとすれば、2店の売上はソレゾレ200万円に「倍増」することになる。
この規制によって、「利権」が生じたことになる。
反対にこの地域で通常より多くの利益を得られることから、「新規参入者」は出店できるように「規制緩和」を求めてくる。
他方、「既存店舗」は、既得の利権を守るため「規制の撤廃」には反対する。
その際に、政治家や官僚に働きかけたり、「規制の撤廃」がサービスの質を落とすなどの理由をあげる。
具体的には、株式会社の病院経営を認めるといった「規制緩和」の主張に対して、厚生労働省や日本医師会は、「安全性」が確立していない治療法や医薬品を使用することで患者が「安全上」の問題があることを主張した。
また、裕福な患者だけが特別な医療を受けられること、医療を扱うのに「営利団体は適さない」などの理由をあげて反対している。
この問題も、実は利権追求活動(レントシーキング)が、問題解決を阻んでいるケースなのである。
つまり、それぞれの業界団体の「もっともらしい」言い分の背後には、自分たちの「既得権益」を守りたいというホンネが隠されているからである。
こうした利益集団が、具体的には、ロビー活動、贈賄、接待などをすることによってレント・シーキングはエスカレートする傾向がある。
ところで現在、夫の失業や収入減を助けるために、これまで専業主婦をしていた妻がパートやアルバイトを急に始めたことから、「認可保育所」への入所申請数が急増してきただ。
これに対応して、各区市町とも「定員増」を必死に画策しているところだが、なかなかうまくいっていない。
大変きつい仕事であるため、保育士の資格を持っていても保育士として働かない人や途中でやめる人が多い。
そのために慢性的に保育士不足になっている。
ところで、厚生労働省が管轄する「正規の保育所」(認可保育所)には「公立保育所」と「私立保育所」がある。
認可保育所とは「公立保育所」や、国の基準を満たした社会福祉法人が運営する「私立保育所」のことである。
社会福祉法人は地域の篤志家などが自らの財を提供して設立し、保育園運営を始めたケースが多い。
社会全体からすると、現在の認可保育所の低年齢児童一人当たりのコストは非常に高く、保育費用の大半は「人件費」であるから、この差は公立保育所の保育士の賃金と民間保育所の保育士の賃金の差ということになる。
では、どうしてこのような差が生まれるのか。
「認可保育園」の新設は地方自治体が判断し、株式会社の参入など規制緩和は政府が決定する。つまり、あらゆるレベルで政治がかかわってくる。
そこで、保育園業界は強い「政治力」を備えるようになった。
特に、「保育三団体」(日本保育協会、全国私立保育園連盟、全国保育園協議会連盟)は強い政治力を持ち、厚生労働省の「部会」などにも参加するなどしてレント・シーキングを行っている。
言い換えると、認可保育所をこれ以上増やさないことによって、保育団体および保育労組・厚生官僚に利権(レント)を生じさせているのである。
ところで、人件費の公立保育所が「安い」料金で保育サービスを提供できるのは、自治体から「多額の補助金」が出ているからである。
その「原資」はもちろん人々の税金である。
保育所の公立保育所の安さばかりに目がいって、こうした公立保育所の「不当廉売」が大きな参入障壁になり、結局は、慢性的保育所不足となることになっていることは気が付きにくい。
つまり、公立保育所は必ずしも弱者のためになっていない。
保育所を作ろうとすると、規制を満たすためには高い初期投資が必要になるため、なかなか新規の事業者が参入できない。
さらに競争を恐れる公立保育所の「レント・シーキング」で行政がなかなか認可を下ろさないということもある。
「安さ」を有り難いと思う「消費者」を抱きこんで、自由化・民営化などとんでもないと署名活動までする。
「安さ」の背景に、自分たちの税負担があることを見逃している。
結局、需要が大きいのに、料金の安い公立保育所の供給は増えず、「待機児童」は減らない。
ところで、「認可保育園」と「認可外保育園」(ベビーホテルなど)の経営には、天国と地獄ほどの差がある。
パートやアルバイトで生活費を稼ぐ親の子供が認可保育園に入れなかった場合、認可外保育所に預けざるをえない。
もちろん良質な認可外保育園もあるが、「安かろう悪かろう」といったところも多く、死亡事故も起きている。
認可保育所は、認可外保育所がもらうことのできない巨額の「施設整備費」を受け取っているため、園舎は立派で、園庭も大きい。それでいて、補助金のおかげで月謝の平均は「約2万円」と安い。
一方、都心の「認可外保育所」の多くは、雑居ビルで運営され、0歳児の月謝は6万~7万円かかる。
これだけ差があれば、認可保育所には黙っていても園児は集まる。そして、園児が集まれば、それだけ多くの補助金が入ってくる仕組みなので、認可保育所の経営者に経営感覚は育ちにくい。
。 また、こだけの「特権」をヤスヤスと手放すわけがなく、保育園業界は、団結して「新規参入」を阻止して「レント」を守り抜こうとする。
とにかく「待機児童」の問題は、我々の想像以上に闇が深いといわざるをえない。また待機児童がいることは、今保育園に入れない人が困るだけではなく、若い世代に対しても「子どもを持つと大変だ」というメッセージを送ることになる。
逆にいうと、政府がこれから「待機児童対策」に「レントシーキング」攻勢を退け、どれぐらい本腰を入れるかは、若い世代へのメッセージにもなる。

「すべての道はローマに通ず」という言葉は、ローマ社会すみずみにまでめぐらされた軍用道路のことを指す。
しかし個人的には別の意味合いにも使えるのではないかと思う。
今、世の中で起きていることは、ローマ社会にその原型があるという意味合いだ。
ところでローマ建国の物語は、壮大でも色彩豊かなものではない。
ローマを建設したのは、狼に育てられた子供だったロームルス とレムスという双子で、彼らの名こそローマの名の由来である。
そのローマ社会の代名詞が「パンとサーカス」。
食料配給で働く必要もなく、娯楽や見世物で時間を費やしていたローマ社会では、子供が増えるどころか「出生率」が低下していったという。
男と女がいて避妊法が発達しているわけでもなく、避妊や中絶が適切におこなわれず失敗すれば、子供が生まれるのは自然の成り行きである。
何しろ、働かずとも食っていけるのだから、親が子のために働くという発想が生まれないし、日々の娯楽を前に、子を産み育てるのが面倒で邪魔くさくなったのではないかと推測する。
実際に、元老院の名門貴族の家が「断絶」するので、イタリア半島以外からも名門の家の者を元老院議員に任命して「欠員」を埋めるようになったほどだ。
男女間の性における退廃も著しく、生まれた子が誰の子か分からない。
貴族は自分で子供を育てるわけではないのだが、そんな子に財産を譲るのもばからしいということになる。
そこで、ローマでは「子捨て」が横行したが、「出生率」が低下したといっても、それは見かけ上だったにすぎない。 一方、ローマの金持ちはたくさん奴隷を使っていた。
こうした「奴隷の供給源」だが、「戦争捕虜」や新しい征服地の住民などが「奴隷」としてローマに連れてこられていた。
ところが五賢帝の二番目のトラヤヌス帝の時がローマ帝国の「領土が最大」となった。それ以後ローマ帝国は、新しい征服地がなくなり、「戦争捕虜」も激減した。
それで奴隷の数が激減するかと思えば、意外にも奴隷の数は減らなかった。理由は「子捨て」の増加のためであると推測される。
ローマには、「乳の出る円柱」とよばれる「捨て子」の名所があり、こうした捨て子を集めてまわる業者さえもいた。 こうした業者が捨て子を奴隷として育てて売り、これが奴隷の新たな「供給源」となったのである。
ローマ帝国ほどの繁栄を極めながら、子供にはかなり冷ややかな社会だったといえる。
現代においても、「保育」は日本社会を見通すレンズである。