歴史的警備

1989年当時、ベルリンの壁が崩壊へと至る一連の出来事のきっかけのひとつに、同年8月19日に、ハンガリーのショプロンで行われた「汎ヨーロッパ・ピクニック」なるものがある。
その舞台となったハンガリーは、もともと東社会主義圏の中では、最も開放的な国であった。
そのため、とりわけ夏に避暑のためにやってきた東ドイツ市民と西ドイツ市民が再会し、旧交をあたためる場所となっていた。
この事実に注目した民主化グループによって、ヨーロッパに長い歴史をもつハプスブルク家の助けを借りて、東ドイツから西ドイツへの脱走計画が隠密裏に進められていた。
「汎ヨーロッパ・ピクニック」とは、ハンガリーとオーストリアの国境を開放して、ショブロンに集まってきた東ドイツ市民を、一挙に大量に西ドイツ(西側)へ逃がし亡命させてしまう策略である。
NHKの特集番組では、このとき起きた或る「感動的な場面」が映されていた。
国境のゲートを走りぬけようとする多数の東独市民の中に、一人、赤ちゃんを抱いた女性がいた。
彼女はあわてるあまり、ゲートの直前で赤ちゃんを落としてしまう。
そこに国境警備兵が近づいてくる。「もうおしまい」と思った瞬間だった。
警備兵はその赤ちゃんを抱き上げて、優しくその女性に手渡したのである。
このワン・アクションが、東ドイツを脱出しようとする市民へのメッセージとなった。
実は、ハンガリーの「国境警備兵」は、東独市民の逃亡を「見逃す」ように命令をうけていたのだ。
それどころか、当時のハンガリー政府は、東独市民の国外脱出を「黙認」するどころか、「支援」する用意さえもがあったのだ。
この「汎ヨーロッパ・ピクニック」で、一度に国境を渡った東ドイツ市民は、およそ1000人だといわれている。
しかし続々とハンガリーに集まってきた堰をきったような約6万人の東ドイツ市民の流れを、東ドイツ政府はどうすることもできなかった。
こうして起きた「ベルリンの壁」崩壊の陰には、ネーメト首相のハンガリー政府の決断があったといってよい。
ネーメト首相は密かに西ドイツを訪問し、西ドイツコール首相に、ハンガリーに不法滞在する東ドイツの人々を、何の見返りもなしに、西ドイツに出国さえるつもりであることを語った。
コール首相は、この勇気ある決断に感謝し、泣き崩れたという。
他方で、ハンガリー政府は、東ドイツ市民の強制送還を要請してきた東ドイツ政府に対して、同じことを通達した。
これによって、東ドイツ国内では民主化(つまり移動の自由)を求める大規模な街頭デモが繰り返され、これ以上の暴動を恐れる政府は、「壁の開放」を容認せざるをえなくなったのである。
この出来事、世界史に残る「歴史的警備」(またはソノ解除)といってよい。

1960年代、イギリスのリバプール生まれの四人組・ビートルズは世界をトリコにした。
1966年6月29日に来日した時はデビュー4年目にあたるが、ソノ始まりはたった一本の国際電話であった。
ビートルズのツアーマネージャーから、ビートルズが日本へ行きたがっている旨が伝えられたのである。
電話を受けたのは協同企画という会社を経営するプロモーターの永島達司だった。
永島は早速交渉のため渡英し、マネージャーのブライアン・エプスタインと会った。
エプスタインは永島に「ビートルズのギャラはどうでもいい、それで採算が取れないならギャラを減らしてもいい」と、チケット代は上限6ドルという「破格」の条件を出してきた。
当時、日本は高度経済成長期のタダ中、ビートルズが日本でも話題となっていた。ただ、大人たちはビートルズを「不良」と認識しており、来日に際してビートルズを見に行くことを禁止する学校もあった。
当時、ビートルズを迎えるにふさわしい屋根付きの大きな会場は、日本武道館しかなかった。
しかし日本武道館は「武道の聖地」であったため、当時の首相・佐藤栄作はそのことにつき苦言を漏らしている。
しかし、ビートルズがイギリス王室から「MBE勲章」を授与していたことが功を奏し、日本武道館使用が許可されたという経緯がある。
当時、東芝音工(販売元)で、ビートルズの初代音楽ディレクターとなったのがにいた高嶋弘之。
高島はビートルズのシングル30枚など国内で様々な販促活動を行ない、日本におけるビートルスの「仕掛人」となった人物である。
ちなみにその娘がバイオリニスト・高嶋ちさ子である。
高島弘之は何が何でもビートルズを売り込み、「日本公演」を成功させたいと思った。
高島は、ビートルズの人気をメディアで取り上げてもらうため、東芝音工の社員らを床屋に連れて行って髪型をマッシュルームカットにさせた。
そして、その様子を週刊誌等に取材させ「今ビートルズカットがブーム」等といった記事を書かせたこともあった。
その結果ビートルズは日本においても大ヒットを連発し、高嶋も一躍その名を知られるようになる。
高島は、イギリスでのビートルズのデビュー時に「Love Me Do」のサンプル盤を聴いてこれは駄目だと思ったが、「Please Please Me」には衝撃を受けたと振り返る。
そして「抱きしめたい」などビートルズの初期の楽曲の邦題のほとんどを高嶋が付けた。それだけに思いがこもっている。
ビートルズの「Norwegian Wood」は「ノルウェー製の家具」という意味だが、高嶋は「森のイメージが湧いた」として、「ノルウェーの森」と訳し、それが近年の村上春樹の小説のタイトルになっている。
その後、邦楽部門に移りザ・フォーク・クルセダーズや黛ジュン、由紀さおり、ジローズなどのディレクターを手がけた。由紀さおりのヒット曲「夜明けのスキャット」の曲名を命名したのは高嶋である。
1991年に、高嶋音楽事務所を設立し、主にクラシック音楽のアーティストのマネジメントやプロデュース等を手がけた。
もう一人、来日したビートルズに密着した人物がいる。カメラマン浅井慎平。
前年、日本広告写真家協会賞受賞していて、ビートルズ来日公式写真集のカメラマンに抜擢された。
ビートルズ到着予定日、台風が日本を直撃し、ビートルズはアンカレッジで足止めを食らった。
予定より11時間を過ぎて訪れたビートルズを迎えたのは警察官と報道陣のみだったから、その分警備の負担は軽くなったというわけではなかった。
実は、ファンは検問で追い返されていたのだ。
ビートルズを載せた車は、羽田の滑走路から高速道路へ直行し、首都高速は上下線とも通行止めとなった。
ホテル周辺警備には860人が動員される中、ビートルズは午後3時頃、ヒルトンホテルにて最初の記者会見にのぞんだ。
今から考えても、異様な厳戒態勢だが、ビートルズ警備の最高責任者となったのは、警視庁警備課長・山田英雄であった。
当時学生運動が熱を帯びていた時代でもあり、山田は学生相手に「百戦錬磨」の経歴の持ち主だった。
とはいえ、ビートルズ日本公演の裏では、警察と呼び屋が激しい攻防戦を行っていた。
山田が、公演会場の下見をした時、たむろしていた一人の女子学生が漏らした言葉が気になった。それは「足が折れてもいいからステージに上ってキスがしたい」いう言葉だった。
山田は、観客の安全確保のためには、相当な人員と対策の必要を感じ、「人海戦術」で臨んだ。
そして、動員した警察官はオリンピックに迫るのべ8370人、費用は約9000万円(当時)に及んでいる。
「警備プラン」においは、高さ2mの飛び降り防止柵をもうけ、アリーナに客席を設けない、消灯しないなどだった。
ビートルズは3日間で5回ステージに立ったのだが、ホテルでのカンヅメ状態にしびれを切らしたのか、ポール・マッカートニーだった。
日本滞在3日目、ポールは皇居を見たいと二重橋付近へ向かったが、5分後には警察に「捕獲」された。
同時刻、ジョン・レノンも脱走し、原宿の古美術店へ向っている。
ファンに取り囲まれたジョンは、1時間後逃げるようにホテルに戻っている。
一方、「カンズメ状態」のビートルズを少しでも喜ばせようと、プロデューサーの永島はビートルズが欲しいものを買えるよう、業者を何人もホテルに呼び、メンバーとの人間的な交流もした。
カメラマン浅井は同じフロアに泊まっていたが、ようやく部屋には入れた浅井は、「会えばただの兄ちゃんが音楽になると神がかる、それを天才と呼ぶのではないか」などと述べている。
警備責任の山田は、ライブ中に席を立てないファンの様子や「不満気な」ビートルズを見て、自ら警備をヤリスギたかという思いにもかられたという。
しかし、そうした山田の気持ちを吹っ切るような出来事が、ビートルズの次の訪問地であるフィリピンのマニラで起こった。
ビートルズが到着したマニラ空港でモミクチャにされ、身の危険を感じるほどの状況に陥ったのだ。
そのあと、ビートルズは、「日本は素敵だった」と発言した。
それを聞いた山田の気持ちは、スカットジャパン!とまではいかないとしても、カナリ和らいだという。
「無理を強いたけれど、よかった、分かってくれたんだと思った」と語っている。
山田英雄は、1985年第12代警察庁長官に就任している。

昭和天皇が狙撃されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれたのだが、この事件は数多くの人々の運命をも巻き込んだ。
当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死した。
長兄は勤めていた鉱業会社を退職し、難波の出身地であった山口県の県知事に対して2ヶ月間の減俸がなされた。
驚くのは、途中難波が立ち寄った京都府府知事は譴責処分となり、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職したことである。
それほどの出来事であり、当然、警備責任を負っていた警視総監および現場の指揮官も「懲戒免官」となった。
ところで、一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
こういう観点から語られることはないが、天皇としても死の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
終始巡幸に随行した侍従長は「昭和22年は大巡幸が5回、小巡幸が1回で、21県を行脚せられた。その自動車での走行距離だけでも、優に1万キロを突破するだろう。合計67日間は文字通りの南船北馬であり、櫛風木雨の旅であった」と語った。
1946年2月、クリスチャンの賀川豊彦が巡行の案内役を勤めた時ののこと、賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇が一人一人に挨拶をした時であった。
左翼も解放せられている時代に、天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
そして1947年歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、「日の丸」を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸を1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
ただし、悲惨な地上戦(沖縄戦)が展開され多大な犠牲者を出した沖縄は除かれたが、沖縄訪問(巡幸)は、昭和天皇終生の悲願であったようである。
ところで、「虎ノ門事件」に話を戻すが、虎ノ門事件における警備の「現場指揮官」だったのが、当時警視庁・警務部長の正力松太郎で「懲戒免官」となり、その後読売新聞社長におさまっている。
当時、読売新聞は左翼思想ではあるが優秀な記者も多かった。その一方正力は、元警視庁幹部として彼らの「プロファイル」を知り尽くしていた。
彼らの弱みを握っていた立場でもあり、読売新聞の経営を次第に軌道にのせていった。
また正力は、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し「読売巨人軍」を創設する。
さて、昭和の歴史に刻まれた野球の試合といえば、1959年6月19日の巨人・阪神戦。
この試合は、天皇ご臨席の「天覧試合」ということを抜きにしても、劇的に過ぎる試合であった。
この時ロイヤルボックスには、天皇・皇后・女官2名、セ・パ両リーグ会長を含む20人の重要人物がいた。
その重要人物の一人が正力松太郎であった。
この試合が天覧試合となったキッカケは、昭和天皇が水道橋方向(後楽園球場)を眺めていた時「あの灯りは何か?」と侍従に尋ねると「プロ野球のナイター試合であります」と答え、それに関心を示したことである。
それを伝え聞いた巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎が「野球人気を高めるためには天覧試合を開催すること」を思いたったという。
そして、1959年1月、正力と部下が宮内庁と交渉をすると、宮内庁は「単独の球団での要請では動けない。球界全体の総意が必要」という意向を伝えた。
正力は、パリーグには秘密で動いていたが、実はパ・リーグ側でも、映画試写会に昭和天皇を招いた大映社長の永田雅一(東京オリオンズオーナー)が「天覧試合」実現に向ける動きをしていた。
そのため、プロ野球史上初の「天覧試合」実現にはそれほど時間を要せず、パリーグ側も「巨人ー阪神戦」に異を唱えることはなかった。
そして、6月25日に後楽園球場にて「巨人ー 阪神戦」を天覧試合とすることになった。
巨人の先発は藤田元司、阪神は小山正明。先制したのは阪神で、3回に何と投手の小山がタイムリー。
しかし、その小山が、5回に長嶋と坂崎一彦に連続ホームランを浴び1対2と逆転される。
一方、藤田も落ち着きを取り戻せずに、6回三宅秀史にタイムリーされると藤本勝巳に勝ち越し2ランされ、阪神は4対2と再びリード。
ところが、小山が7回に王貞治に同点2ランされ、試合は振り出しに戻った。
。 そこへ新人投手の村山がマウンドに上り7、8回を何とか抑え、9回裏先頭の長嶋茂雄に立ち向かった。
そして2ストライク2ボール、長嶋の打球が左翼スタンドに吸い込まれ、ドラマは終わった。
ちなみに、両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までで、両陛下退席まで「残り3分」の劇的幕切れだった。
さてコノ「天覧試合」は、「虎の門事件」からおよそ40年の時を経て、正力が昭和天皇と時と場所を同じくする場面でもあった。
正力がなぜ史上初の「天覧試合」の実現に執念を燃やしたのか。
昭和天皇を後楽園球場を導き、試合を心おきなく楽しんでもらえること~それは、「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力の汚名挽回の機会でもあったに違いない。