悪より救いたまえ

一人の下人が門の下に佇んでいる。平安京は衰微しておりその余波からか、下人は主人から暇をだされて、格別何もすることはない。
下人は何とかせねばと思うがどうにもならない。結局、餓死するか盗人になるか、と途方に暮れている。
そんな時下人は、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆をみて、ひとかたならぬ嫌悪と憎悪を抱く。
老婆は鬘にして売るのだという。
下人はそれを聞き、あらゆる悪に対する反感が湧き上がり、この時点では、饑死するか盗人になるかと云う問題でいえば、明らかに餓死を選んでいた。
しかし、下人に襟首を捕まえられた老婆は言う。この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女だ。この女のした事が悪いとは思わない、饑死をするのじゃて、この女わしのする事も大方大目に見てくれるであろうと。
皮肉なことにこの言葉は、下人の心に今まで全くなかった勇気を与えた。下人は「きっと、そうか」と確認した上でこう云った。
「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」。
下人は、すばやく老婆の着物を剥ぎとりしがみつこうとする老婆を振り払い、夜の闇へと消えた。
以上は、芥川龍之介の「羅生門」に描かれた場面だが、けして悪人とはいえない下人に「魔」が入り込む瞬間こそが、この物語のハイライトである。
数年前、アメリカ・ニュージャージー州の大学でひとりのコンサルタントが「倫理」についてのある講演を行った。
聴衆は警察官や裁判官を志望する学生だったが、彼が語りはじめたのは、「マイケルダウト」という史上最悪といわれた腐敗警察官についてだった。
1980年代、理想に燃えてニューヨーク市警に入ったマイケルだが、 彼は治安の悪いブルックリン地区に配属された。
80年代当時、マイケルが配属された地区は、1日に200件もの殺人事件の通報が寄せられる過酷な場所で、ドラッグ関係者などと敵対する日々。
無事に家に帰ることができれば何よりといった心境だった。
マイケルは24歳で結婚し息子も授かり、傍目には幸福に包まれているように見えた。
だが実際には、家のローンを抱え、 満足な昼食を食べる金も持っていなかった。
そんな彼を支えていたのは、市民を守るという警官としての誇りと正義感だった。
しかしあるの日を境に、運命の歯車は狂いだす。
ナンバープレートのない車の取り締まりをしていた時、運転手から賄賂を渡されたのだ。
これは自分へのご褒美だ。このくらい良いだろう、と思った。
そしてその日、麻薬取引のアジトで起こった発砲事件の現場に、真っ先に到着。現場にあったお金を自分のポケットに入れてしまった。
その後、上司が現場に到着するが、マイケルはポケットに入れたお金を出し、自分が保管していたと嘘をついた。
しかし、その日の深夜、上司から「俺が着く前に お前が現場で何をしていたかなんて俺にはわからない。うまくやれ、そして山分けだ」と言われた。
その時、マイケルは「承認」を得たと思った。
そもそも現場にある物は正当な方法で得られた物ではないので、奪ったところで正しい人間は誰も傷つかないと、自分の行為を正当化するようになった。
さらに、マイケルは取得した「麻薬」の横流しを始め、それによって大金が簡単に手に入った。
ちょうどその頃、汚職警官13名が逮捕されるという出来事が起こり、当時のニューヨーク市警はこれ以上逮捕者を出したくないとマイケルの汚職の報告に蓋をし、マイケルが逮捕されることはなかった。
そしてマイケルの暴走がはじまった。
マイケルは部下を相棒とし、NY最大の麻薬組織のボス・アダムと手を組んだのだ。
人間は戦う「相手」に似てくるというが、理想に燃える新人警官の面影はもうどこにもなかった。
マイケルはアダムに捜査情報を流し、マイケルはアダムから大金を得ていた。そればかりか、より多く稼ぐために、自ら麻薬ディーラーとなって密売を始め、この頃にはマイケル自身も麻薬の常習者となっていた。
最新の高級車に別荘、手に入らないものは何も無かった。しかし、ついにマイケルと相棒が逮捕される日がやってきた
彼が麻薬を売った客が逮捕されたのをきっかけに、全てが白日の下にさらされたのだ。
2人は罪を認めたため、裁判が始まるまでは「保釈」された。
しかしマイケルが「史上最悪」といわれるのは、ココからの展開からだった。
マイケルはある麻薬組織から、ある計画を持ちかけられていた。
それは、敵対する麻薬組織を襲い、ボスの妻を誘拐、引き渡すというものだった。しかも その際、ボスの妻の生死は問わないという企てだった。
ここで得られる報酬は莫大で、それだけあれば海外に高飛びできると考えた。人の命を金に替えるまでになっていたのだ。
しかし1992年7月30日、誘拐実行当日、 家の前にFBIが待ち受けて、マイケルは逮捕された。
実は、相棒が計画に恐れをなして密告したのだ。
その後、盗聴器を身につけ、マイケルと会っていたのだ。
マイケル・ダウドは麻薬流通の共謀罪、誘拐未遂などで「懲役14年」の判決を受けたが、相棒は「司法取引」で免罪された。
NY市警の調査委員会を発足し、マイケル・ダウドも招集されたが、彼は、逮捕当日が最も安堵した日だったと振り返った。
彼は自らの行いについては証言したが、相棒とは違い同僚たちの汚職については、完全黙秘を貫いた。
さて、この講演会を締めくくるにあたって講師であるコンサルタントは、驚くべきことを語った。
「この史上最も腐敗した警察官マイケル・ダウドこそ、私なのです」と。
そして、自分の経験を大勢の前で話す事に決めるに至った経緯を話した。
当時、マイケルには6歳の息子がおり、マイケルは父親が手錠をかけられた姿を目の当たりにした。
そのすぐ後、所属していた野球チームを退団させらた。他の子に悪影響があるという理由だった。
そして信頼の失墜が、自分や周囲にとってどんなにか痛手であり、多くのものを失うかと自らの体験を語った。
しかし、成長し面会に来た息子はマイケルに、早く一緒に暮らしたい、そして父親の生きる姿を見たいといった。
その言葉で、マイケルは生まれ変わったという。

オーヘンリーの短編に「20年後」という作品がある。20年後に分かれた場所で再び出会おうと決めた親友同士の話である。
しかし20年後、二人が出会った時に、ひとりは警官、もうひとりは犯罪者となっていた。しかも警官が追跡している指名手配犯である。
そこで警察となった男は、自分がその場で昔の親友を逮捕することに忍びず、別の警官をその場に行かせ逮捕させるという話である。
警察内で、そんな「気遣い」にも話が及んだのではなかろうかと推測される殺人事件が、1984年に起きている。
なぜなら「山中湖畔殺人事件」の主犯格は、仲間内でも特別に信頼厚い元警官だったからだ。
元警察官・澤地は知人の二人と共謀し、貴金属商の太田さんを「厚木市の資産家を紹介する」と偽り、山梨・山中湖村の別荘に誘い出した。
3人は太田さんの隙を見て殺害、現金や貴金属類約6000万円を奪って死体を別荘の床下に埋めた。
この事件、被害者も含め、一見「裏社会」の男達による犯罪にみえたのだが、主犯の澤地は元警視庁の警部だったのである。
1960〜70年代、最も危険な部署と呼ばれた機動隊に勤務し、その正義感や面倒見の良さから周囲の仲間達から絶大な信頼を寄せられていた。
では、澤地はどんな経緯をたどってこの凶悪な殺人を犯すまでに至ったのか。
ことは、事件から25年前に遡る。 当時、警察官になったばかりの澤地には、一人の恋人がいた。
実は当時、彼の名字は「澤地」ではなく「柴田」(仮名)だった。そして2年後、警察官という安定した職業についていたこともあり、両親はまだ20歳を過ぎて間もない2人の結婚を承諾する。
交番勤務を勤める傍ら、猛勉強に励んだ結果、30歳の時、難関の昇任試験を突破し、巡査部長となった。
その後、交番勤務から機動隊に移動して最前線で果敢に闘った。
柴田の正義感と面倒見の良さは仲間達の間で評判となり、やがて多くの同僚達から絶大な信頼を集めるようになっていた。
順調にキャリアを重ねて20年あまり、長男も自分と同じ警察官となり、柴田自身も警部補に昇進する。
しかし 柴田は警察を「もう少ししたら、辞めようと思う」と言い出した。実は柴田には、長年心にヒッカカリ続けていたひとつの思いがあった。
警官になって4年目のある日、交代で当直にあたっていた上司が風邪を引いたため、規定の時間を過ぎても交代せず、翌朝まで1人で留置所の監視を続けた。
ところが、この行動が問題となったのである。
勝手な勤務変更は地方公務員法に抵触するとして取り調べを受けたのだ。
処分は最も軽い「戒告」だったのだが、この処分に納得がいかず、警察組織の矛盾と汚さに嫌気が差したという。
そして事件の4年前にあたる1月、柴田は22年間勤めた警察を退職した。
柴田が第二の人生として選んだのは、大衆割烹店の経営で、西新宿の地にあって全60席と規模の大きなものだった。
飲食店経営の経験などない柴田にとって無謀とも思える挑戦だったが、柴田は、金融機関から開店資金として4000万円の融資を受けることにも成功した。
それができたのも、5人の警察官が「連帯保証人」になってくれたからだ。
そして、柴田の再出発を祝うパーティーになんと400人の警察官が駆けつけ人望の厚さをみせつけた。
こうして準備不足のまま、柴田の大衆割烹「しば長」は開店の日を迎えたが、不安をよそに開店初日から警察関係者が押し寄せ、連日満員の大盛況となったのである。
だがここでも柴田の「面倒見の良さ」、裏を返せば「見栄っ張り」が災いした。柴田は仲間達に格安の値段で飲み食いさせたのだ。
それは、オープンしてから半年が経った頃、金融機関から借りた開店資金4000万円は、最初の半年間は支払いを猶予してもらっていたものの、ついに本格的な借金の返済が始まったのだ。
すると、瞬く間に経営は悪化し、時 高額な利息で社会問題となっていた「消費者金融」に手をたした。
借金取りが店にまで押し寄せるようになると、その噂で客足はさらに遠のいていった。
柴田の名義ではもはや金を貸してくれず、息子名義で金を借りたりもした。
しかし、大衆割烹「しば長」はあえなく倒産。 残ったのは、1億5000万円という莫大な借金だった。
柴田は家族に借金取りの手が及ばないようにするため、妻と協議離婚し「澤地」という姓に改名した。
澤地となった彼は「元警察官」という肩書きを利用して千葉に探偵事務所を開設し、そこで寝起きすることで何とか借金取りから身を隠すことには成功した。
その間、保証人になってくれた仲間達の財産は次々と差し押さえられていった。ある同僚は、教育費として貯めていた貯金を使い果たし、子供の大学進学を諦めざる得なくなっていた。
さらに、息子名義で借りてしまった高利貸しからの厳しい取り立ては、家族にまで及ぶようになった。
そんなある日、元同僚の妻から手紙が送られてきた。 そこには、現在の辛い心情が綴られおり、澤地はたとえ犯罪を犯してでも何とかしなくてはいけないという思いにかられたという。
その後、澤地は元警察官の「肩書」きを利用しようと考えている暴力団関係者など、「裏社会」の人間に接近するようになっていった。
そんな中、朴という男に紹介されたのが、宝石商の大田さんだった。大田さんは、いつも1000万円近い現金を入れたアタッシュケースを持ち歩き、全身に高価な宝石を身に着けていた。
そして、宝石商を騙す「資産家」役を演じる猪熊もまた朴の知り合いだった。
こうして、澤地、朴、猪熊の3人は共謀して宝石商・太田さんから金品を奪い取る計画を練り始めた。
そして、大田さん殺害から数日後、 犯行の痕跡を消すために、澤地と猪熊が別荘を訪れると、澤地は何故か突然、太田さんの遺体が埋まる側に「新たな穴」を掘り始めた。
実はこの時 澤地はさらならる殺人計画を実行に移そうとしていたのである。
もはや 人望の厚い元警視庁の刑事の姿はどこにもなかった。
同月のある日、澤地と猪熊の2人はレンタカーでひとりの女性宅を訪ねた。この女性こそ、澤地の家族にえげつない借金取り立てをしていた女性高利貸しだった。
ふたりは新たな融資を受けたがっている資産家がいるので土地を見に行こうと言葉巧みに誘い出した。そして、人気のない公園に車を止めて用意してきたロープで女性高利貸しの首を絞めて殺害した。
その後、都内から中央高速に入り山中湖の別荘に着くと、高利貸しのバックから現金や通帳など約4700万円を強奪し死体を床下に埋めた。
そして澤地は、奪った金のほとんどを借金の返済に回した。
数日後、女性が失踪したというニュースが流れたが、元警官の澤地は、遺体が見つからない限り、足はつかないとフンデいた。
澤地と猪熊は、僅か2週間で2人の殺害を実行したことになるが、事態は予想外の展開を迎える。
その日、澤地は千葉の探偵事務所で熟睡していたが、そこに現われたのは、かつて機動隊にいた者達で、その中には二人の知人がいた。
そして、澤地は2件の殺人の容疑者として逮捕された。
では警察はどうして澤地に辿りついたのか。
実は宝石商の大田さんには懇意にしている女性がおり、大田さんが家に戻らないことを不審に思った彼女は、警察に捜索願を出し、太田さんが持っていた「澤地」の名刺を提出していた。
だがこの段階で、澤地の目論見通り、警察は動こうとはしなかった。
澤地らは、強奪した貴金属を闇のルートで売りさばこうとしていたのだが、澤地が持ってきた大量の貴金属に不審に感じた暴力団関係者が、この際警察に「恩」を売った方が今後の利益につながると、この情報をタレコんだ。
これらの貴金属を見せられた女性は、大田さんのものだと証言し 警察は澤地が太田さんの失踪と関係していると確信するに至ったのである。
そして澤地が逮捕された日の午後、共犯の猪熊も逮捕された。
澤地と猪熊は2件の殺人に関わったとして死刑判決が下された。なお澤地は、1987年に手記本「殺意の時」を発行している。
澤地は、手記で心情をこう綴っている。「人が人を殺すということは当然ながら正気の沙汰ではない。しかし 残念ながら人は、その正気の沙汰でないことを平気でやることがある。私だけでなく」。
手記から見て取れるのは、澤地はとても真面目で義理堅い性格。「何が何でも、お世話になった人には義理を返したい」という強い思いが澤地を追い詰めていた。
自己破産の手続きを取らなかったのも、周りに取り立てなどの迷惑がかからぬようにという配慮からだった。
そして警察を辞職せざるを得なかった長男は「お父さんも色々あって辛いだろうが、その辛さに耐えて生きていくことが1つの罪の償いでもあると思う」と、拘置所に手紙を送った。
澤地は、事件から24年後の2008年、死刑執行を前に獄中にて病死している。
「我らを試みにあわせず 悪より救い出したまえ」(新約聖書/マタイ6章)。