時代の「けじめ」

評論家・立花隆が「天皇と東大」(2005年/文芸春秋)という本を書いたのは、日本社会の変化は、東京大学の変遷と関係が深いという認識に立つものであった。
その具体例として、東京大学に「社会進化論」の講座が導入された経緯が紹介されている。
日本で人権といえば、明六社などの「天賦人権思想」の導入により始まるが、「天賦」という言葉にキリスト教の影響が見られる。
そしてこの思想は、「閥族打破」や「国会開設」を掲げる自由民権運動として具体的に表れる。
だが、明治20年頃になると、「民権思想」と「国権思想」の対立が顕在化して激しい抗争が起こった。
「民権思想」は、人民の自由な活動によってはじめて国力が充実するという考え方で、「国権思想」は、国家が強大になってはじめて人民の自由も保障されるという考え方である。
東京大学は元々「官吏養成機関」としての役割が期待された学府であり、そここにキリスト教やら民権思想が蔓延ることは、極力防がなければならない事情があった。
そこで明治政府は、「天賦人権論」にかわる西洋思想として、「社会進化論」を推奨していく。
東京大学初代総長である加藤弘之は、もともと「明六社」に名を連ね、天賦人権思想を日本に紹介した人物のひとりだった。
しかし1882年に書いた「人権新説」では、ダーウインの生物進化論を社会的に解釈し、国家の利益を優先する「国権論」を唱え「民権論」を否定するという驚くべき変節をなしている。
それでは加藤が民権論から宗旨替えした「社会進化論」とは一体何なのか。
ダーウィンは1859年に「進化論」を発表するが、これを人間社会に適用して、「食うか食われるか」の帝国主義時代の指導理念として利用する傾向が生じた。
そして「優勝劣敗」や「生存競争」といった言葉が標語となって広まり「社会進化論」とよばれる。 この社会進化論が明治10年代中葉以降、東京大学に入り込み、民権思想への「対抗理論」として利用されることになった。
そしてこうした東大学内の変化の中で大きな役割を果たしたのが、アメリカから招かれたアーネスト・フェノロサという人物である。
東京大学という最高学府で、西洋思想はキリスト教ばかりでないことを外国人教師自身が示すことに大きな意義があったわけだ。
そういうわけで、フェノロサの講座は自由民権思想への防波堤となって、日本における官吏養成機関としての「けじめ」として利用されたといってもいい。

佐藤優著「国家の罠」(2005年)は、いまだ記憶に新しい2002年に起きた外務大臣・田中真紀子と外務政務次官・鈴木宗男の確執が描かれている。
著者である佐藤優は、その争いに巻き込まれ「背任、偽計業務妨害」という罪で有罪となった人物である。
佐藤優は当時、外務省・ノンキャリアのロシア情報分析の専門家として「外務省のラスプーチン」ともよばれた。
この本の中で最も印象深い場面は、取り調べにあたった西村検事との以下のようなヤリトリである。
西村検事:「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は、時代のけじめをつけるために必要なんです。時代を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」。
佐藤被疑者:「見事僕はそれに当たってしまったわけだ」。
西村検事:「そういうこと。運が悪かったとしか言いようがない」。
このヤリトリの中で、西村検事の「時代のけじめ」という言葉が不気味に光るが、どういう意味だろうか。
佐藤は、同志社大学の神学部と大学院で、「組織神学」を学び、チェコスロバキアの共産党政権とプロテスタント教会の関係を研究テーマにした外務省の中でも異種・異能の人といえる。
佐藤氏の情報収集能力は、いくつかの目覚ましい実績によって評価が高い。
エリツイン大統領辞任とプーチン首相の大統領代行就任を世界の先進諸国に先駆けて入手したのは佐藤の情報網なのだという。
また、総理へのロシア状勢のレクチャーなども行っており、総理から直接電話を受けることもたびたびであったという。
佐藤は500日を超える独房生活で、「聖書」から「太平記」まで200冊以を読破し、「読書と思索にとって最良の環境だった」と振り返っている。
その佐藤は、西村検事の言った「時代のけじめ」の意味について次のような見立てをしている。
「内政におけるケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換」。
なんだか難しそうな見立てだが、すべての始まりはその4年前に、小泉政権が誕生した時に遡る。
田中真紀子外相の登場で、外務省内の権力闘争があわただしくなり、官邸の思惑も絡んで前例のない騒動になった。
あわてた外務省は「危機の元凶」となった田中真紀子を放逐するために、外務政務次官・鈴木宗男の政治的影響力を最大限に利用しようとした。
その一つが、鈴木の圧力で、アフガニスタン復興支援東京会議に「特定NGO」が招待されなかったことである。
さて、外務省には「日米同盟」を基調としながらも、三つの異なった「潮流」があった。
第一の潮流は集団的自衛権を認めて、さらに日米同盟を強化しようという狭義の「親米主義」。
第二は中国と安定した関係を構築することに比重を置く「チャイナスクール」で「アジア主義」といいかえてよい。
そして第三が東郷和彦・欧亜局長や佐藤優らの「ロシアスクール」が主導した「地政学論」である。
この「地政学論」という名の所以は、日本がアジア・太平洋地域に位置していることを重視するためであるが、日本とロシアの関係を近づけ、「日ロ米三国」で将来的脅威となる中国を抑えこもうという考え方である。
ところが、鈴木宗男は「ムネオハウス」など一連の疑惑で悪玉となり、「地政学論」つまりロシアスクールが外務省から排除された。
さらに父親をついだ「親中派」の田中外相の失脚で「アジア主義」が後退し、結局唯一生き残ったのが「親米主義」。
つまり「対米追従一辺倒」の外交政策の勝利で、今日の自衛隊のイラク派遣や多国籍軍参加や安部首相による集団的自衛権の閣議決定にも繋がっている。
また佐藤優は、「鈴木疑惑」が日本の社会・経済モデルを従来の「公平配分」型から金持ち優遇の「傾斜配分」型に転換させる機能を果たしたと喝破する。
鈴木宗男は公共事業で中央の富を地方に再分配する「公平配分」型の代表的政治家だが、小泉政権は「政治腐敗」の根絶をスローガンに鈴木を悪玉にすることにより、「傾斜配分」型モデルへの路線転換を容易にすることができたというわけ。つまり「一極集中型」の経済へと舵を切ったということだ。
ただ、鈴木には外務省と対立しながらも実現した功績がひとつある。
戦前のノンキャリア外交官でリトアニア領事であった杉原千畝の名誉回復である。
1991年8月、ソ連共産党守旧派が引き起こしたクーデターが失敗し、沿バルト3国(リトアニア、ラトビア、エストニア)が独立した。
日本もバルト3国と「国交樹立交渉」を行うことになり、そこに浮上したのが外務省の令に反して「命のビザ」6000を発行し、ユダヤ人の命を救った杉原千畝の存在である。
リトアニアの首都カフカスには、「スギハラ・ストリート」もあるくらいだから、リトアニアとの国交樹立には、杉原の名誉回復が必要であったといえよう。

福岡県太宰府市のの九州国立博物館は、歴史的な意義の深い展示物で多くの観覧者を招いている。
この九州国立博物館を「構想」の段階にまで遡った時、ひとりの人物に行き当たる。
岡倉天心。ある時期、日本美術界に君臨した人物といってもいい。
彫りの深い顔に髭面。それに似つかわしくない「天心」という名前。人前には「和服姿」で現れ、この人物が驚異的な英語力の持ち主であったことなど、おおよそ想像できない。
言動において「アジアは一つ」などと壮士風のことを言ったかと思えば、自分を引き立ててくれた上司の妻との不倫スキャンダルなど、人物像を複雑にしている。
人間は多面的な存在であるから、人間の幅とも受けとりたいが、それでも全体像が不調和な印象がぬぐえない。
岡倉天心の「実像」とはどのようなものだったのだろうか。
個人的には、岡倉を画家とばかり思い込んでいたが文部官僚あがりで、日本の美術界に君臨とはいっても、その晩年はバッシングからの逃亡生活に近い。
本名は岡倉覚三。7歳で生母に死別し、間もなく父の再婚によって里子に出されている。
彫りの深いその相貌の裏側には、寂しがりの幼児の顔が張り付いていたのだ。
東京大学卒業後、「文部省美術掛」となるが、役人にしてはおおらかなところを人々は慕っていたという。
常識はずれで、奇抜な服装をするのもおおよそ役人らしくない。
後に「天心」と名乗るのも、時流に流されるのを嫌い、あらゆる人為的拘束から離脱し、無為自然の境地に遊ぶことを願ったからのようだ。
そして、岡倉の主要な著作はすべて英語で書かれ、はじめから外国で読まれることを想定していたのだから、当時の日本人としては「規格外」の語学力を有していた。
なにしろ、ボストンでは英語に自信があるから和服で通すなどと長男に語っていた。
ではこの語学力をどこから身につけたかというと、岡倉は福井藩士の子でありながらも、貿易商の子として横浜に生まれたことが大きい。
幼い頃より英語学校に学びつつも、母死亡後に寺に預けられ、そこでは漢籍を学んでいる。
こうして英語力と漢籍の素養が岡倉に吹き込まれ、岡倉の重層的な人格形成がなされた。
前述のフェノロサは来日後まもなく、仏像や浮世絵などの日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると同時に全国の古寺を旅した。
実は、フェノロサが日本にきた時代は「廃仏毀釈運動」が吹き荒れており、明治天皇や神道に権威を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってただ同然で破棄されていたのだ。
そのことに強い衝撃を受けたフェノロサは、日本美術の保護に立ち上がり、自らの文化を低く評価する日本人に対し、それらが如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。
なにしろ1880年に誕生した長男の名前であるカノーは「狩野」派に由来するものだった。
同年、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。そして法隆寺など救世観音像などの秘仏の開帳などを行っている。
岡倉は東大を卒業後に文部官僚として、東京帝国大学で講義をしていたフェノロサの通訳をしつつ、いつしか日本美術の伝統に精通してしまった。
フェノロサは日本伝統美術の研究をしようとしたが書物が読めないので、よく岡倉にいろいろ書物を調べるように頼んだ。
この経験が岡倉の「伝統美術」に関する基礎学習の機会となった。また調査資料をフェノロサのために英文で作成することは、後年岡倉が英語で日本の文化論を執筆をする上での貴重な訓練になったといえる。
というより、岡倉自身が「日本の美」に覚醒する過程でもあった。
そして28歳の若さで、東京美術学校の校長になったのも異例で、岡倉自らカリキュラムを作り、制服まで考案した。
岡倉の精神は官僚的でなく、時代の流れ抗していく性向をもっていたようである。
例えば、岡倉が考案した制服は奇抜すぎて不評であった。ただし、後に裁判官の制服として採用されることになる。
また、岡倉が校長として教授に迎え入れたのは、日本画の絵師や仏像を彫る仏師たちだった。
彼らは、幕府や大名が凋落し、後ろ盾を失い不遇な時代をすごしていた人々である。
当時、文化財調査などは富国強兵の時代にあってはマイナーな位置づけしかなく、文化財保護という意識も当時は希薄だった。
実際、岡倉がフェノロサに伴う文化財調査の過程で見いだしたのは、廃仏毀釈運動の中で荒廃しつくし廃墟となった文化財の現実だった。
岡倉は日本で初めて文化財の保護を訴え、それが戦後の文化財保護法へと繋がっていく。
そして岡倉は、1884年から87年の30代前半が絶頂の時で、文部官僚としての自身の抱負が存分に発揮され、その前途も洋々にも見えた。
ところで、東京美術学校は、発足時にフェノロサの芸術観を受け継いだ岡倉天心が中心となって、洋画を含めず日本画一本で出発したが、開校後10年を経過した1896年に洋画科が設置された。
主任教授として迎えられたのは、長くフランスに留学して洋楽を学んだ黒田清輝で、フランスから帰国した洋画家たちが教授陣にむかえられる。
当時日本は「脱亜入欧」を合言葉に、列強の仲間入りをめざし国をあげて西洋化に取り組んでいただけに、美術界において「アジア一辺倒」で西洋画を軽視する岡倉に対する風当りが強く「怪文書」が出回ったりするようになる。
「洋画科」設置の3年後の1898年に起きたのが、学内を揺るがすいわゆる「美術学校騒動」で、突如、岡倉の上司・九鬼龍一を帝国博物館館長より更迭したのである。
そうなると、文部官僚・東京美術学校校長としての岡倉の立場も危うくなった。そこへ、突然もちあがったのが、岡倉と上司・九鬼の妻との不倫であった。
岡倉はバッシングの嵐の中、36歳にして官界を去ることになる。
その後、岡倉は東京谷中に新たに「日本美術院」を創設し、その際には横山大観・橋本雅邦以下教授達も辞表を出し日本美術院に加わった。
彼らは、今でこそ大家だが、彼らの画は当時はほとんど売れず、学校経営は困難をきわめた。
ところが1902年、岡倉は41歳の時、1年近くインドを旅して日本を留守にし、インドから帰国後、逃げるように東京を去り、茨城の五浦へと居を移した。
また、岡倉はこの頃からアメリカのボストンに滞在することが多く、最晩年は中国、インド、ヨーロッパへと海外滞在を繰り返し、最後は50歳で妙高山の別荘で死を迎えている。
岡倉の最後の9年間は結局、ボストンと日本を半年づつ往来する亡命にも近い落魄生活のようにもみえる。
岡倉天心もまた、脱亜入欧に向かう「時代のけじめ」として「悪玉」とされた点で、鈴木宗男や佐藤優と同列の存在ではなかったか。
さて、岡倉天心は、「アジアは一つ」という芸術観を語ったが、皮肉なことにその言葉が「アジアの盟主」になろうとしていた日本の軍部などに利用され、岡倉のイメージを極度に歪めてしまった。
ところが、岡倉天心の芸術観「アジアは一つ」は、我が地元福岡でカタチを変えて蘇った感がある。
岡倉が日本美術院の移動展示会を福岡で開いた際に、観世音寺に感嘆、また聖福寺の大鑑禅師の画像を絶賛し、九州にも国立級の美術館・博物館の必要性を説いた。
福岡太宰府の地に九州国立博物館の開館は、2005年10月、「岡倉の提唱」からおよそ100年の時を経て実現した形となり、彼の構想どおりアジアとの文化交流の拠点となっている。