「かのように」症候

夏目漱石の「我輩は猫である」に、苦沙弥先生の友人の美学者・迷亭が、東京の西洋料理店でトンデモナイものをモットモらしく注文する。
さも、外国で実際に見てきたような顔をして、なめくじのスープや蛙のシチューなどはこの店じゃ無理だろうから、トチメンボーぐらいにしようと注文する。
実は「栃麺」を作る際に、栃の実の粉を米や麦の粉と一緒にコネテ薄く延ばすが、棒で早く伸ばさないと固まってしまう。それで、慌てる人のことを「栃麺棒」(トチメンボー)とカラカッったという。
もちろん、世界中探してもそんな料理はない。
洋食屋のボーイは、メンチボールの聞き違いかと聞き返すが、迷亭は真面目くさってトチメンボーだといいはる。店としては、ソンナ料理ができないと言えば格が下がるし、ましてどんな料理かと聞き返しては沽券にかかわる。
そこで、時間がかかると言って諦めさせようとするが、迷亭はいつまでも待つと言う。ボーイは、やむなく、あいにく近頃は材料が払底しまして、ナドト苦しい言い分けをする。
このやりとりでは、トチメンボーの正体も、その有無さえも棚に上げて展開する点で、人間くさい。
さて、ロシアの文豪・ゴーゴリに「検察官」(1836年)という作品がある。
この作品は、人間が「実体のないもの」に終始翻弄されるという「人間くささ」を見事に描いている。
「検察官」は、ニコライ1世統治下のロシアで、官僚主義の強圧性や欲深さ、御都合主義が蔓延している時代を背景として書かれたものである。
ニコライ1世といえば、1891年「皇太子」時代に滋賀県大津を訪問し、警備中の巡査が切りつけられたアノ「皇太子」である。
検察官といっても日本の刑事裁判の「検察」とは異なり、内容からいえば、「地方監察官」のほうがふさわしい。
ニコライ1世は、国内を管理するため、強固な「官僚機構」を整備したものの、近代化政策ははかばかしい成果を得ることはできず、ロシアは発展からとり残される。
また一方で、そうした強権的な体制下では、当然ながら、不正や腐敗が横行する。
小説はロシアのある田舎町に、検察官がサンクトペテルブルクから行政視察にやってくるというウワサが広がったことから、町中が大慌てするところからはじまる。
或る時、旅館で料金を払えずに四苦八苦しているフレスタコーフと名乗る一人の男いた。
ところが地元の「名士」である彼らは、フレスタコーフが「検察官」であるとすっかり誤解し、それぞれが賄賂をフレスタコーフに差し出す。
地元の名士とは、町長や判事、慈恵院主事、校長、郵便局長等の「お偉方」だが、これまで賄賂や横領などでサンザン甘い汁を吸っていたヤカラばかりで、腐敗追求の矛先が自分に向けられる前に、アノ手コノ手で彼にとり入ろうとする。
おまけに、互いに非難しあって自分の悪行の責任を少しでも軽減しようとはかる。
はじめは状況がのみこめなかったフレスタコーフも、どうやら彼らが自分を「検察官」と誤解しているのに気がつき、いっそ「検察官」になりすまして「賄賂」をまきあげるばかりか、調子に乗って市長の娘に求婚までする。
そして、たっぷり「甘い汁」を受け取った後、フレスタコーフは足早にこの市を立ち去っていく。
フレスタコーフは旅立つ直前にペテルスブルグの友人あてに手紙を出していたが、好奇心と「検閲」の悪弊から郵便局長がソノ手紙を「違法に」開封してみた。
すると、検察官だと思っていた男がただのプータローであることが判明したばかりか、町の「名士」連中を散々コキ下ろしていたのである。
それを知った連中が、顔面蒼白になったのはいうまでもない。
しかし、時すでにオソシ。本物の「検察官」の到着が告げられる。
この作品、出版時に印刷工や校正係が「笑い」で作業が進まなかったというエピソードが残っているから、当時の人間模様をよくとらえていたちがいない。
以上の「ゴーゴリ劇」を読みながら、思い当たるフシを見出した人も多いにちがいない。
それは、必要でもない道路を作ったり、海を埋めて農地にしたりして業者・官僚・政治家が利益を得る「土建国家」日本の姿を彷彿とさせる。
また、国民の税金や年金をを貪りうまい汁をスッテいる支配の構図にも思い至る。
、 またゴーゴリは、「死せる魂」(1835年)で、死んでしまっているのに課税台帳には「生存者」として記載されている農奴の土地を買い集める話を書いているが、最近日本で死んだ者を「生きた者」と装って「年金」を受け取っていたケースなどが思い浮かぶ。

さて、冒頭のトチメンボーのエピソードは特殊なものではなく、実体ナキものをアルかのように論じたり振舞ったりすることは、人間が案外とやっていることなのではなかろうか。
例えば、双方「実体」を見たり触れたりしたことのないもの同士で、果てしもない論争をやっていることを、譬えて「神学論争」とよんでいる。
また、捉えガタイものを、「○○であるかのように」やりとりする。それは、人がアタリマエのようにやっていることであって、人間の「性癖」(習性)ともというべきものである。
漱石と並ぶ明治の文豪・森鴎外は、「かのように」という小品を書いている。その中で、人がモノゴトを認識する際、「かのように」認識する傾向のことを、人の内なる「怪物」とまで言っている。
「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、"かのように"だがね。あれは決して怪物ではない。"かのように"がなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、"かのよう"にを中心にしている」。
さて、森鴎外に刺激されて、自分でも「かのように性癖」のサンプルを探してみた。
数学における「虚数」や「多次元ベクトル空間」のように”実体なきもの”を”存在する”「かのように」形式論理を適用することによって、有効な結論を導き出している。
また実社会においても「かのように」は威力を発揮している。
人々が紙きれを価値ある「かのように」受け入れることによって通貨は流通し、経済社会がなり立っている。そこに疑義が生じれば、経済社会は一気に崩壊する。
また「法人」という考え方も、人間の「かのように」性癖の好例である。
「法人」とは、ヒトである自然人ではないが、法律の規定により「人」として権利能力を付与されたもので、会社などの団体をあたかも一人の人間と同じであるかのように、権利・義務の主体としたものである。
こうみなすことで会社を一人の人間のごとくに相手取って損害賠償などを要求することができる。逆に会社は一人の人間であるかのように権利主体として行動したり責任が生じたりする。
ところで人間個人の責任を考える場合には人間の「自由意思」が前提となる。
しかし、いかなる行為も過去にその原因を持ち環境の諸作用の結果として生じており、純粋な「自由意思」など本当にあるといいきれるだろうか。
つまり善行や犯罪も「自然現象」とおなじく自然に生起する現象に過ぎないのかもしれない。
しかし法律では、人間の行為をそうした諸要因から切り離して、本人の自由意思が働いた「かのように」に見なすことで、はじめてその行為の責任を問題として、社会秩序の維持を図ろうとする。
ソノ点でいうと、「かのように」性癖は、歴史上の人物を評価するする際に猛威をふるっているように思える。ここでも「ないもの」を「あるかのように」認識する。
つまり我々は、歴史上の人物ががまるで自律した行為、自由な行為として行ったかのように考え「審判」するのである。
人の自由を前提にしてはじめて物事の正邪を明確にし、偉大さや卑小さを浮き立たせることができるからである。
つまり人には「選択枝」がいくつもあってその中から一つの行為を選びとったのだと思ってしまいがちだ。
例えば今の人々が日本が戦争に至る過程を考える場合、戦争を避ける余地がいくらでもあったかのように捉える傾向があるが、実際にその時代に身を置いた者にとって、それ以外には選びようのなかったもの、極度に少ない選択肢の中から選ばれた行動であったのかもしれないのだ。
さらに、基本的人権は「自然権思想」から生まれたといわれるが、自然権とは人間が自由・生命・財産をあたかも「生まれながら」に持っている「かのように」措定された権利をさしているにすぎず、その根拠はアヤフヤなものだ。
しかしながら、紛争地域の人権を守る名目で軍事介入がなされたり、独裁者から住民の人権を擁護するために国家転覆が謀られるのだから、「かのように」性癖は人の中に住む「怪物」である”かのよう”にもみえる。

歴史を振り返れば、ナチス・ドイツがユダヤ人の絶滅を図ったのは、よく知られる。
戦後、その反省から欧州では露骨な態度が減ったものの、フランスの右翼の一部には今なおユダヤ人に偏見を抱く人が少なくない。
欧州のキリスト教社会は、ユダヤ人をしばしば「敵」であるかのようにみなす悪しき「かのように」症候に冒されてきた。
ユダヤ人を敵視することで、ユダヤ人以外は結束した。なんら根拠のない「ユダヤ人陰謀論」が大手を振るったのもそのためだ。
昨年11月に、パリで約90人もの死者をだしたテロであるが、次第にその背景が明らかになってきた。
一見「無差別テロ」のようだったが、突出した犠牲者をだしたコンサートホールは、かつてユダヤ系の所有で、イスラエル支援の催しの会場となったこともあった。
近年はユダヤ系の礼拝所や施設が過激派によってしばしば襲撃を受けていることから、今回も狙われたのはユダヤ人だったと推測できる。
イスラム過激派は、こうした「負の伝統」を鵜呑みにし、引き継いでいるといえる。
今、世界に目を向けると「仮想敵」に拳を振り上げる人のいかに多いことか。
仮想的とは、ナイものをアルとして危機をあおり、政治的焦点を己に引き付ける「常套手段」である。
また、経済や治安の「不調」を移民に帰する欧州各国の右翼やアメリカ大統領選挙で、共和党のトランプ氏は、メキシコ移民やイスラム教徒を「敵」になぞらえて糾弾する。
また、日本・中国・韓国も、互いを「敵」呼ばわりする言説が花盛りで、現実に根ざさない「空中戦」のようなものが多い。
しかし、それは「敵」と戦っているようで、自らが作り出した「虚像」にすぎず、鏡に映った自分の「分身」と戦っている図なのだ。
これも「かのように」症候の瀰漫例のひとつといえる。
ところで、アメリカはペリー提督率いる四隻の「黒船来航」によって日本を開国させた。
反対に日本もアメリカを「ある意味で」開国させたといったら意外に思うかもしれない。
新大陸にのみ心を傾けていたアメリカの心をようやく外に向けさせた。つまりパールハーバーによってアメリカに「モンロー主義」(孤立主義)を捨てせたのだ。
ついでにいうと、イギリスは1902年、日英同盟によって「光栄ある孤立」の立場を捨てている。
最近ではF・ル-ズベルトがパールハーバー襲撃を事前に知っていたことが定説になっているが、宣戦布告の事前通達は事務上の行き違いもあって遅れた結果「奇襲」となってしまい、アメリカ国民を怒らせ戦いへと奮起させる結果となった。
F・ル-ズベルトも、コトがあまりにうまく運びすぎて、ふんどしではなく緩んだベルト(ルーズベルト)を締め直したにちがいない。
しかし、日本の急襲もハワイ州までが限度で、アメリカ本土を襲ったわけではない。
その点、2001年、911テロは、ニューヨークのシンボルといってよい世界貿易センターが襲われたことは、相当なショッキングなものであったのにちがいない。
それは、アメリカの心理的深層部をツイタからだ。その心理とは「自分達が人にやったとことを、人にやられる」という不安のことだ。
それは、自分達が(アジア系)先住民を殺害をして国作りをしたという「逆トラウマ」みたいなもの。
アメリカのような大国どうしてそんな不安が生まれるのかという疑問もおきようが、アメリカの建国の父祖達はその不安と戦いながら大陸を開拓していった。
その遺伝子が消えたわけではない。
それも清教徒(ピューリタン)が、聖書にある「千年王国」の如き理想を目指して、まるで清新(ピュア)な世界から不純物を排除するかのようにして住み着いたのである。
パスカルの言葉に「人は天使でも悪魔でもない。ただ天使のマネゴトとをしようとして悪魔になる」というのがある。
開拓期にはボストン近郊で「魔女狩り」などヨーロッパ中世を思わせるような蛮行も行われている。
そして、自分達が開拓し住み着いた所に別の新たな集団がやってきて、その土地を明け渡さなければならなくなるという不安は常につきまとい、それは現代にも受け継がれている。
また欧米の伝統感情のひとつに「黄禍論」があるが、これをもってもパールハーバーがいかにアメリカ人の「負の琴線」にフレタかということも理解できる。
日本の高度経済成長の時代にアメリカで映画「猿の惑星」が作られ、またメイド・イン・ジャパンの家電製品がアメリカで氾濫し始めた頃、「グレムリン」がつくられた。
名前がロシアの王宮クレムリンに似ているが、彼らの襲撃や悪戯が、アジアにある一国のオボロゲな影をまったく意識してはいないとは言いきれない。
なぜなら戦時中から日本人は「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リトル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと呼ばれていたからだ。
さて、パールハーバーのもう一つの側面は、この出来事によってようやくアメリカは一つになった。つまりアメリカは本来の意味で「ユナイテッド・ステ-ト」になったということだ。
それにアジを占めたのか、その後アメリカは、自らの価値に対抗する如き「敵」を絶えず探し、時に「創出」することによって国を固め国力を増大させてきた。
レーガン大統領は、かつてソビエトを「悪の帝国」ときめつけて対決姿勢を強めたし、ブッシュ大統領がフセインのイラクを「悪魔」ときめつけた。
ソ連が崩壊後、アメリカ的価値捻出の「焦点」がボヤケはじめると、「エイリアン」や「未知との遭遇」など敵を地球人ではなく「異星人」にした映画が作られた。
嘘のようで本当の話なのだが、1939年オーソン・ウェルズの語りで「ニューヨークが異星人に襲撃されている」という臨時ニュ-スで始まるドラマの放送を流した時、ニューヨーク市民はすさまじいパニックに陥ったそうだ。
アメリカが異星人に襲われる、言い換えるとアメリカが異文化の人間に蹂躙されるというのは、あの大国にして自らの建国という「原罪」か宿痾のように付きまとっている。
今のアメリカで「銃」による死者がかなり増えているというニュースがあった。それはアメリカという国は格差の拡大と分裂の激しさを物語っている。
だが、建国以来の「不安」という「深層感情」に訴えて「敵」を作りださねば立ちいかないことと無関係とは思えない。
アメリカだけの話ではなく、世界中で「かのように」症候が蔓延しつつある。