プロフェッショナル

最近、あるテレビ番組で「清掃日本一」になった女性のことを知った。空港の清掃に携わる女性だけに「地上の星」という言葉がピッタリくる人だ。
シンガーソングライターの中島みゆきは、「地上の星」(2000年)の歌詞の中に、人々は空ばかりみて「星」を探すが、身近にいる「星」の存在のことになかなか気が付かないと書いている。
中島みゆきは、そういう地上の星たちのことを、「風の中のすばる」とか「砂の中の銀河」と表現した。
さて、イギリスにある世界最大の航空業界格付け会社・スカイトラックス社が公開している格付けランキングで、羽田空港は2013年、14年の2年連続「世界で最も清潔な空港」に選ばれた。
この栄誉の裏に、ひとりの女性の波乱の人生と「献身的」な努力が存在していた。
彼女の名は「新津春子」で、羽田空港の各ターミナルの清掃指導者である。
彼女の名前は、NHKの番組「プロフェッショナル仕事の流儀」の若きディレクターの「一目ぼれ」をキッカケに、世の中に知れ渡ることになった。
NHKディレクターが「一目ぼれ」したのは、彼女の笑顔で、即出演をお願いしたという。
ディレクターは、これまで「仕事の流儀」では、さまざまな分野の一流のプロが登場したが、プロ中のプロは地位や名誉とは別の所にもいることに気がつかさたと語る。
そして「仕事の流儀」中で最高視聴率をとった番組こそ、この女性清掃指導者を追った「心を込めて あたりまえの日常を」であった。
それでは、このディレクターはどのようにして、この「地上の星」と出会ったのだろうか。
江戸時代に日本にやってきた外国人の多くが、江戸の町がきわめて衛生的であったことを証言している。
ディレクターは、日本の清潔さは世界屈指ならば、必ずやその美しさを支えている「凄腕清掃員」もいるはずだと考えた。
そして幾人もの清掃員を取材していく中で、「羽田空港に、日本一の清掃員がいる」という噂を聞いた。
こうして新津春子さんにたどり着いた次第である。
ディレクターの回想によると、2014年10月彼女と初めて会った時、それまで大柄でたくましい女性をイメージしていただけに、小柄で細身の女性が目の前に現れた時には、意外だったという。
新津さんの一日は、通勤時にエスカレータを使わずに50段の階段をかけ上り、職場についてからは鉄アレイを持って20分以上の体力作りから始まる。
片言の日本語で応じる彼女に経歴を聞くと、第2次世界大戦の時に中国に取り残された日本人を父に持つ、中国生まれの「残留日本人孤児2世」であったことがわかった。
1972年日中国交回復を機に、父親が軽率にも自分たち家族が日本人だということを公(おおやけ)にしたため、その日から誰からも親友からも相手にされなくなり、ついに日本に戻ることを決意した。
17歳で日本に帰ってきたが新津さん家族は、日本の「豊かさ」に日々目を見張る日々で、いかようにも新しい人生が開けるように思えた。
しかし、家族は皆日本語できず、仕事もみつからず、そのうち貯金はつきた。
父親は軽はずみな上に頑なな人で、日本政府から支給される「生活保護」をさえも拒否したのである。
そのため、何か月もの間も、家族は30円の「パンの耳」だけで日々を凌いだという。
ところがある日、「アルバイト清掃員募集」の張り紙をみつけて応募したところ、新津さん一家ごと働くことが許され皆が必死に働き、アルバイトから正社員のなった。
清掃の仕事は3Kといわれてキツイものであったが、言葉ができなくても仕事ができることが一番だった。
それに新津さんは、「自分の居場所」がはじめて見つかったことが何より嬉しかったという。
そして、どんな「汚れ」も見逃すまい、どんな汚れでも「拭い去ろう」と創意工夫を重ねていった。
そのために使う洗剤は80種類を超え、自らも清掃道具を開発して、その数50におよぶ。
テレビで見る新津さんは、ただ目に見える汚れを落とすだけでは満足しない。
たとえばトイレに設置してある手の乾燥機も、「臭いが残っているとだめだから」と、乾燥機を分解して中を清掃する。
その徹底ぶりは、床、ガラス、鏡、便器、あらゆるものに及び、まるで目に見えない空間ソノモノを磨いているかのようにも映る。
彼女は、「心を込めること」「相手を思う優しさ」を第一の旨としているが、そうした「優しさ」とは無縁なところで仕事をしていた時期もあった。
ところで、新津さんは中国から日本にやってきて清掃という「天職」をみつけたが、新津さんとは全く対照的に中国で「将来」を約束されながら、それを捨てて日本にやって来た女性のことを思い出した。
中国蘇州生まれ上海育ちのニ胡演奏家のチェン・ミンさんである。
幼い頃、たまたま通りかかった家の二階で二胡を弾く女性を見た時に、自分もあのようにに美しく二胡を弾きたくなりたいと、早くも将来を固めたという。
音楽教育家の父から二胡を習って、上海戯曲学校でも二胡を専攻をした。
卒業時には、上海越劇オーケストラの「メイン奏者」に成長し、女優の母譲りの美しい容姿、約束された音楽家としての未来はゆるぎないように見えた。
しかし将来を約束された分、自分の未来の光景があまりに見透せることに満たされないものを感じた。
「自分の力」だけを頼りに生きみようと、1991年、中国を旅立ち日本に来日した。
チェン・ミンさんは、日本へ来日した当初、日本語も話せすお金もなく4畳半のアパートに暮らし、アルバイトをかけもちして2年間で学費を貯めた。
この2年間は孤独で貧しく、ただの一度も二胡に触れることはなかったという。
その後、日本文化を学ぶべく、共立女子大学入学を果たしたが、一度試しに「二胡」を奏でてみるが弓が逃げてしまって弾けない。
二胡をやめてしまうかと自分に問いつつ、何とか練習して弾けるようになった。
すると彼女は、中国で弾いていた頃の二胡の「音色」とは全く違うことに気が付いた。
つまり、チェンミンさんは二胡を通じて、いままでとは違う自分と出会う体験をしたのだが、それ以来「二胡」を生涯弾き続けたいと思うようになったという。
そして1997年大学を卒業後、本格的に演奏活動を始め、2001年に日本でリリースしたアルバムで脚光を浴び、中国二胡ブームの「火付け役」となったのである。

羽田空港環境マイスターの新津さんはいう。
「なんにも気にしなければ確かに汚れはすごいきれいになるんですよ。だけどそれでいいの?って。傷になっていれば意味がないんじゃないかな。これ(材質)に対してやさしく掃除してあげると本来の自分のツヤとか姿が出てくるから」。
この言葉に「職人」の意気を感じるが、同じく「プロフェッショナル仕事の流儀」に出演したことのある宮大工の棟梁・西岡常一さんの言葉にも似る。
西岡さんは、プロフェッショナルとはと聞かれ、「目標を持って日々努力し、どんな仕事でも、心を込めてできる人」と答えている。
西岡さんの言葉は、ひとつひとつの言葉が、人生と重なるのが不思議た。
西岡さんは、法輪寺の三重塔復興の時、他の学者が提案した鉄材補強について「そんなんしたら、ヒノキが泣きよります。痛いいうて泣きよります」と反対した。
「鉄骨を入れるためには木に穴をあけないといけません。でも、木は癖があるので、ねじれたりします。鉄骨は動きませんから、どうしても無理がきます。木のいのち、木のこころと言葉で簡単に言いますが、木のいのちを生かすということを具体論としてどうやっていくのか、木のいのちを生かして、どうやって、あんな大きな建造物を組み上げていくのか、ということは本当に大変なことだ」と語る。
また、緑の葉をもつ立木が、伐られて「材」となった後も、木は生きているという。
「木は生育の方位のままに使え、東西南北はその方位のままに」という言葉がある。
生育条件による木の癖を見抜き、適所適材で、それを活用して組み合わせ、北の木は北に、育った木の方位のまま使えという意味だそうだ。
また、「堂塔の木組みは、寸法で組まず木の癖で組め」とは、左にねじれを戻そうとする木と、右によじれを戻そうとする木を組み合わせて、部材どうしの力で癖を封じて、建物全体のゆがみを防ぐとのこと。
また西岡さんの有名な言葉に「木の癖組みは工人たちの心組み」というのがある。
「職人の中には、棟梁になろうとする人もいれば、職人として極めようとする人もいます。棟梁になろうとする人は、ほかの勉強をしなければいけませんが、生涯、大工として職人で通す人は、技術がすごくて本当に上手いです。
でも、名人ばかりだったら、現場が動きません。下手でも一生懸命働き、力があって重いものが運べる若者が必要で、いろんな人の組合せをしなければなりません」。
実は、宮大工の家に生まれた西岡さんは、意外なことに「土」のことを学ぶために農業高校で学んでいる。
最近、「土の職人」として脚光を浴びたのが、NHK大河ドラマで「真田丸」の題字を描いた左官職人の挾土秀平(はさどしゅうへい)さんである。
狭土さんは「カリスマ左官」と言われて、その道では超有名人で、海外でも活躍しているという。
1962年 岐阜県飛騨高山生まれで、地元の工業高校を卒業した。
父親が左官さんだった影響を受けて、幼稚園の時にはすでに「しゃかんさんになりたい」と寄せ書きに書いていた。
21歳で「技能五輪」という職人の技を競う全国大会の左官部門で2年連続優勝した。
その後名古屋の会社で働いたが、人と馴染めず高山に帰っていった。父親の会社で働くも、厳しいノルマのなかボロボロになるまで働いた。
そのうち人間関係も悪化し、先輩に陰口を言われたりして、ストレスで髪の毛まで抜けた。
自律神経も壊れてしまって「職人の心」も失いかけたとき出会ったのが「天然の土」だった。
2001年、ついに、挟土さんは、父が創業した会社を辞めて独立し、「天然の土壁」を作る会社をおこした。
左官職人14人をまとめる親方となり、そこから魂を込めた仕事が評価され世の中に認められるようになった。

数年前、シンガーソングライター・植村花菜さんの「トイレの神様」が話題をよんだ。
美人歌手・植村花菜さんが亡き祖母との思い出を歌った「トイレの神様」は、9分52秒という長さの曲にもかかわらず、「聴く人誰もが泣ける歌」として話題となった。
歌詞のなかに、掃除が苦手な幼い植村さんにおばあちゃんが言った言葉がある。
「トイレには、それはそれはキレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら、女神様みたいにべっぴんさんになれるんやで」
そして植村さんは、べっぴんさんになりたくて、気立ての良いお嫁さんになりたくて、せっせとトイレを磨き続けてきた。
植村さんは、おばあちゃんと暮らしたおかげで実際に「トイレの神様」と出会ったといえる。
つまり、5年間ヒット曲がでずもう歌をやめようと思った時、ようやく植村さんに微笑んだのが、「トイレの神様」という曲だったからだ。
新津さんにも、「清掃の神様」に導いてくれたひとつの出会いがあった。
新津さんは、残留日本人孤児2世というだけで中国でも日本でもいじめにあい、自らの居場所を見いだせずにいた。
さらに 清掃の仕事につくが、中国社会と同様に、日本でも「清掃」が低い位置づけしかされていないことがスグにわかった。
掃除しているとしても、お客に「どうぞ」と言っても相手の返事が来ない。
こっちを見もしないどころか、まったく目に入っていないことを感じた。
23歳の時、羽田空港の清掃員として働き始めるが、そこで日本空港テクノ株式会社の鈴木優常務に出会う。
鈴木さんは、汚れや洗剤で分からないことはないといわれるエキスパートだった。
新津さんはそんな鈴木さんの「熱血指導」を受けている間に「清掃の面白さ」を感じるようになったという。
そして、いつしか「自分にはこの仕事しかない。ならばこの仕事を究めよう」と思うようになった。
しかし、いくら頑張っても鈴木さんは新津さんの仕事ぶりを一度も褒めることはなかった。いつも「まだ、まだ」と同じ言葉が返ってきた。
どこが足りないかと尋ねると、「君は、いまだ清掃のことがわかっていない」ともいわれた。
がむしゃらに学んで3年が経ったある時、鈴木さんから全国の清掃員が集まる全国大会への出場を打診された。
「全国ビルクリーニング技能競技会」で、腕には自信があった。ところが、絶対1位になれると思った予選会は2位だった。
いったい自分には何が足りないのだろうという疑問が強くなった。
そんなある日、鈴木さんが新津さんの掃除を止め、「心に余裕がなければいい掃除はできませんよ」と語った。
つまり余裕が無いと相手に優しさが出ない。自分がどんなにきれいに掃除をしたからといっても、これだけでは自己満足に過ぎない。良しあしを誰が判断するかといえば、結局は客である。
そのためには、技術だけでなく、その物を使う人のことを思いやり、邪魔にならない身のこなし方を体得し、見えない箇所やにおいにまで気を配る姿勢が大切だと悟った。
そして新津さんは気がついた。清掃の技術で高いものがあったが、中国でも日本でもイジメにあい、心の中はいつも「凍って」いたということを。
しかし、それ以来「無理」してでも微笑もうと努め、2か月の間、鈴木さんと特訓に取り組んだ。
そして全国大会においては、見事日本一に輝いた。
鈴木さんに報告すると「優勝するのは分かっていましたよ。そこまでやっているのか分かったから」という返事が返ってきた。
新津さんはそれで、やっと認めてもらえたと嬉しく思った。そして、新津さんは、心を込めて掃除をすると利用する方からも「ごくろうさま」と声が返ってくるようになったことに気がついた。
新津さんは、こうして「清掃の神様」に出会ったといえる。
彼女は「トイレがきれいになっていればいいじゃないですか。誰がやったからじゃないと思う。この(羽田)空港がきれいですねって言われればそれで十分じゃないですか。自分たちが誇れる仕事と思って仕事しているから。それで十分だと思うよ。別に個人的に名前が無くてもいいと思う」と語る。
先日、亡くなった永六輔の書いた「職人」という本は、職人達の名言のコレクションだが、その中にあった「染み抜き」職人の言葉を思い出した。
染み抜き職人の仕事の極意は、自分の仕事の痕跡をのこしてはならないことだ。
したがって「染み抜き」の仕事はけしてカタチとして残ることはない。
清掃の新津さん、宮大工の西岡さん、左官の挾土さんから、「プロフェッショナル」の共通点を見つけた。それは、ひとつの仕事から人生のホボすべてを学べる人といえるのではなかろうか。