ステージという人生

突然に、まわってくるステージというものがある。
ステージには代役で登場する人も、スポットライトから忽然と消える人も。また、予期せぬ奇跡もハプニングも起きる。
ステージは、まるでリハーサルなしの「人生劇場」。
チャーリー・チャップリンの初舞台は、母親のステージ上でのアクシデントがキッカケだった。
チャーリーが1歳の時に、両親は離婚していたが、母親がミュージックホールのスターであったため、生活にはさして困らなかったが、母親がノドをこわして歌えなくなり、母子の生活は一変した。
ある日、母親は客に野次を飛ばされ、舞台から引き下がらざるをえなかったのである。
わずか5歳のチャーリーはその「代役」に、急遽、舞台上に引き出された。
そして、母親の「嗄れ声」を無心でマネて歌い踊ったのだった。母親にとっては残酷な話ではあった。
実際にソノ時を境に、母親の声は二度と戻ることはなかった。
そんなことは意に介しない客は大喜び。笑いと拍手と小銭の雨が舞台に降ったという。
ともあれ、これが「世界の喜劇王」チャーリー・チャップリンの「初舞台」となったのである。
さて、日本のエンターテイナー・タモリこと森田一義(タモリ)のステージも突然まわってきた。
正確にいうと自らステージに「闖入」したというのが正しい。
その舞台とは、西鉄大牟田線の薬院駅に近いタカクラホテルの一室。ホテルに知り合いを訪ね、ブラタモリしていたところ、その部屋の扉が半開きだったことが、「運命の扉」となった。
タモリは、黒田藩家老の森田家の出で、福岡市南区市崎生まれ。
福岡の進学校から早稲田大学へと進学し、モダンジャズ研究会に所属するが、授業料未納のため除籍処分となる。
それにもかかわらず、モダンジャズ研究会には何食わぬ顔で、顔を出していたそうだ。
1968年福岡に戻った森田は保険の外交員、喫茶店、ボ-リング場の支配人などをしていた。
保険外交員時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともあったという。
この時期に、同僚であった女性と結婚している。
1972年、大分県日田市のボウリング場支配人をしていた頃、福岡で渡辺貞夫のコンサートがあった。
大学時代のジャズ仲間がスタッフとして関わっていた事からコンサートを観に行き、ライブ終了後には友人が泊まっていたタカクラホテルの一室を訪れたのだ。
イザ帰ろうとホテルの部屋から出た際、ヤケに騒がしい一室があり、「半開き」になっていたのだ。
彼らは、渡辺貞夫のコンサートに参加していたメンバーで、その打ち上げをやっていた真っ最中であった。
森田が中を覗くや、虚無僧姿の男と目が合ってしまった。そこで、思わず闖入してゴミ箱を取り上げて、自ら歌舞伎を踊り始めた。
その虚無僧の男が、森田の「非礼」をデタラメ外国語でなじったところ、森田がそれをウワまわる乱脈な外国語で返し、虚無僧男と森田とのデタラメ外国語の応酬となった。
森田が表情をつけてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、虚無僧男はついに笑いで息ができなくなり、森田に軍配があがった。
この騒ぎは、朝始発が出るまで続き、その後森田は「モリタです」とだけ名乗って、虚無僧のごとく朝焼けに消えた。
さて、この大騒ぎしていた者たちこそ「山下トリオ」といわれる山下洋輔、中村誠一、森山威男の三人であり、当時の山下達はライブ後ホテルで大騒ぎをすることをツネとしていた。
そして「虚無僧男」を演じていたのが、中村誠一であったが、中村はあのモリタと名乗った博多の男のことが忘れられない。
あの男はきっとジャズをやっていたに違いないと確信した山下が、博多のジャズバーに「モリタ」という名の男はいないかと問い合わせたところ、ついに森田はあるジャズバーの常連であることが判明した。
そして山下らは、「森田を東京へ呼ぼう会」を発足させる。
それに応えて森田は会社を辞めて上京したのだが、「博多に奇人あり」のウワサを聞きつけて、「披露会」にやってきたのが漫画家の赤塚不二夫だった。
赤塚は森田の「異能」ぶりに感極まり、彼を自宅に居候させることとした。
そして森田はマンション住まいでベンツを乗り回す堂々たる「高級居候」となり、住居を貸した赤塚は下落合の汚いアパートの部屋で寝起きしていたという。
あの博多の夜、ホテルの部屋の扉が少しも開いていたかったならば、とはいうまい。
森田は、いずれ違った形で発見されていたに違いない。
ただ、山下や赤塚が森田に出会った頃の、片目の眼帯をつけた「反骨心」あふれる異能ぶりは、すっかり影をひそめた感じがする。

タモリと「笑っていいとも」で共演したのがフジテレビ・アナウンサーが菊間千代だが、この人は、突然にしてステージから消えた。それも二度も。
菊間は早稲田大学法学部卒業して1995年念願かなってフジテレビ・アナウンサーになった。
父親は、バレーボールの名門・八王子実践高等学校監督であり、そのことが彼女の運命を微妙に左右したともいえる。バレーボールの取材後に「ある事件」が持ち上がったからだ。
フジテレビ入社後は「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンアナに抜擢されたのを皮切りに、「発掘!あるある大事典」、「FNSスーパーニュース」(スポーツキャスター)などの番組を担当し、アナウンサーとしての実績をつんでいた。
また、父親の縁ということもあり、バレーボールワールドカップ、バレーボール・ワールドグランプリといったバレーボール中継のMCを担当するなど、幅広くに活躍していた。
しかし1998年9月2日突然の不幸がふりかかる。
当時リポーターを務めていた「めざましテレビ」のコーナーで、災害時に高所から脱出する避難器具の体験リポート中であった。
マンション5階の窓から落下、地上のマットに叩きつけられ、全治3カ月の重傷(腰椎圧迫骨折)を負い入院した。
生放送の番組内で起こった事故であっために、番組スタァッフばかりか視聴者にも衝撃を与えた出来事だった。
翌年には「現場復帰」したが、リハビリは1年にわたった。 ところが健康を回復するヤ、今度は自ら招いた「災難」に見舞われる。
2005年7月16日、バレーボール中継後に他の社員とともに、当時未成年の男性アイドル・ユニットのメンバーだった男の子と飲酒していたことが発覚し、「無期限謹慎処分」を受けた。
この出来事で、自分に対する会社の雰囲気がイッキに冷ややかになったことを感じ取ったという。
ただアナウンサー仲間が温かい励ましの声をかけてくれたことが、何よりも救いだった。
だがこれを機会に、大学で学んだ法律を生かす仕事を考えるようになった。
しばらくはアナウンサーの仕事と並行して、ある法科大学院大学に入学し、法律の勉強をしていった。
そして司法試験の受験勉強に専念するため、2007年12月31日をもってフジテレビを退社した。
そして2010年に司法試験に合格し、はれて司法修習生となる資格を取得したのである。
ごく最近、菊間がアナウンサー時代の思い出や司法試験に挑戦した経緯を若者達に語った。
入社当時は女子アナ35歳定年説などもあり、10年後もアナウンサーでいるのは無理だと思ったという。
いつか司法試験に合格して自分に付加価値を付け、40代からは報道記者としてバリバリやっていくといった「人生設計」をしていたことを明かした。
また1998年に情報番組「めざましテレビ」での転落事故直後にICUで10日間の治療を終えた。
一般病室で、テレビを見ると、自分の出ていた番組にもう他のアナウンサーが出ていた。
自分にしかできない仕事だと思っていたが、(アナウンサーも会社にとっては)1つの「駒」にすぎなんだと思った時のショックが大きかったと当時のことを振り返った。
そして、仕事のために人生をスリ減らすのがバカらしくなった。
今は1日1日を悔いなく生きることが大切と、あの転落事故が人生観を変える出来事となったことを語った。
そして若者に、「10年後になりたい自分を具体的に考えて」というメッセージを送った。

「ステージ上」では予期せぬアクシデントもあれば、感動をよぶ「奇跡」もおきる。
1993年、ニューヨークのハーレムの小学校教師ロベルタ先生と50人の子供達による、有名ヴァイオリニストを交えたセッションが、カーネギーホールで行われた。
「カーネギー・ホール」といえば鉄鋼王カーネギーの寄付によって建設された世界の「音楽の殿堂」である。このステージに出演することこそ「一流の証」であり、日本人でも一握りの歌手しかこのステージに立っていない。
ところがこのステージに、ひとりの音楽講師の先生の指導を受けた子供たちが、ヴァイオリン演奏を披露することを許されたのだ。
そこには、ロベルタ先生と子供たちの「感動の実話」があった。
この実話を記録した「ドキュメンタリー」が作られたが、そのドキュメンタリーを基に、1995年メリル・ストリープの主演の映画「ミュージック・オブ・ハート」が制作された。
夫に逃げられて意気消沈したロベルタ(メリル・ストリープ)は、赴任先で購入した大量のヴァイオリンとともに実家へ戻ってくる。
同級生ブライアンの口添えで、彼女はヴァイオリンを教える臨時教員の職にありつくことができた。
場所は、イースト・ハーレムの小学校で、複雑な家庭環境に育った一筋縄にいかない小学生達ばかりであった。
最初は、何でヴァイオリンなんか習うのかという同僚や親達の反発が数々よせられた。
実際、はじめはヴァイオリンを「遊び道具」にしか思っていない子供達であったが、音楽を奏でる喜びと誇りを抱くに至ってミルミル上達していった。
そして、保護者を前に開いた演奏会も大盛況に終わった。
しかしその一方で、ロベルタ先生の「実生活」は大変なものだった。離婚以来荒れて手のつけられなくなった息子との関係に悩み、交際していたパートナーとも別れることになった。
しかし苦難の時を経て10年後には、ロベルタ先生のヴァイオリン教室は3校に150人の生徒を擁し、受講者を抽選で決めねばならないほどの人気クラスとなっていった。
しかしそこへ晴天の霹靂。市の「予算削減」のためクラス閉鎖が通告されたのだ。
そこでロベルタ先生は、クラスをナントカ続けるための資金を得るため、保護者の協力で「救済コンサート」を開くことになった。
彼女の友人の夫がヴァイオリニストだったことも手伝って、一流のヴァイオリニストがこのコンサートの趣旨に賛同したことが大きかった。
ところがまたもや壁が立ちふさがった。コンサート会場がトラブルのため使用不能になり、コンサートの「開催」さえもが危ぶまれる事態に陥った。
ところが、そこへサプライズ。事情を知った有名ヴァイオリニストの運動で、会場が「世界の音楽の殿堂」カーネギーホールに決定したのである。
そして1993年10月その聖地にて、大勢の観客が見守る中、ロベルタと50人の子供たちは、プロのヴァイオリニスト達との「夢の共演」を果たしたのである。
観客達は、子供達のヴァイオリン演奏にスタンデイング・オベーションで応えた。
そしてロベルタの作ったヴァイオリン教室は大きな話題となり、市の支援でその後も存続することとなったのである。
ちなみにロベルタ・ガスパーリは1971年にハワイで「スズキ・メソード」の教室を見学して大きな影響を受けたそうで、映画全編を通してスズキ・メソードの指導曲集が使われている。
また、メリル・ストリープは彼女は楽器を弾いた経験がなく、この役を引き受けてからヴァイオリンの特訓を受け、たった2ヶ月で、J.S.バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲(スズキ・メソード指導曲集第4巻の曲)をカーネギーホールでみんなをリードしながら弾けるようになるまでなったという。

ヴァイオリン演奏における「奇跡」といえば、ロベルタ先生らのカーネギーホールでの発表会のおよそ7年前、アメリカのタングルウッドの町で、ひとりの日本人少女が「奇跡」を起こした。
この時の演奏は、「タングルウッドの奇跡」として今でも語り草となり、アメリカの教科書にも載るほどの出来事となった。
主人公は日本の少女で、天才ヴァイオリニストといわれた五島みどり。
「タングルウッド」(Tanglewood)はマサチューセッツ州バークシャー郡にある地で、ここで毎年夏に、タングルウッド音楽祭が開かれる。
1936年、ボストン交響楽団が初めて「テントの下」で演奏会を開き、それ以来タングルウッドは、ボストン交響楽団の夏季の「活動拠点」となっている。
1994年には、「小澤征爾ホール」も建設され、世界的指揮者レナード・バーンスタインの1990年8月の「最後のステージ」こそがここでの演奏会であった。
ところで、五島みどりは2歳の時、ヴァイオリニストであった母親が数日前に練習していた曲を正確に口ずさんでいたことから、その優れた「絶対音感」を見出される。
それからピアノのレッスンに通わせたが、3ヶ月程で挫折してしまった。
しかし母方の祖母が、3歳の誕生日プレゼントとして「1/16サイズ」のヴァイオリンを買い与えたのを機会に、ヴァイオリンの「早期英才教育」をうけるようになった。
6歳の時、大阪で初めてステージに立ち、パガニーニの「カプリース」を演奏した。
1980年、8歳の時、演奏を録音したカセットテープをジュリアード音楽院のに送ったところ、「入学オーディション」に招かれた。
1982年五島みどりは、周囲の反対をモノトモせず、母に連れられて渡米した。
そして、ジュリアード音楽院において高名なディレイ教授の下でヴァイオリンを学ぶことになった。
アメリカの演奏会にデビューするや、日米の新聞紙面に「天才少女」として紹介された。
1986年、当時14歳の五島みどりは「タングルウッド音楽祭」に参加し、ボストン交響楽団と共演した。
レナード・バーンスタインの指揮の下で「セレナード」第五楽章を演奏中にソノ「出来事」は起こった。
ヴァイオリンのE線が切れるというアクシデントに見舞われたのだ。
当時五島は「3/4サイズ」のヴァイオリンを使用していたが、このトラブルによりコンサートマスターの「4/4サイズ」のストラディヴァリウスに「持ち替え」て演奏を続けた。
しかし、再びE線が切れるという信じがたいトラブルが起きた。
そして二度目は副コンサートマスターのガダニーニを借りて、演奏を「完遂」したのである。
これには指揮者のバーンスタインも言葉を失い、演奏後には彼女の前にカシズキ、驚嘆と尊敬の意をストレートに表した。
翌日のニューヨーク・タイムズ紙には、「14歳の少女、タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」との見出しが一面トップに躍った。