善悪を知る木

「神話」を非科学で荒唐無稽なものと、全面否定する人もいるが、心の奥底にまで響く「神話」には、何らかの「本質」が秘められているに違いない。
聖書によれば、神は「エデンの園」を設け、そこに人を住まわせた。そして園の中央に「二つの木」を植えたという。
それが「命の木」と「善悪を知る木」であるが、そのことにつき聖書は、次のように語っている。
「また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた」(創世記第2章)。
さらに神は人(アダム)に、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記2章)。
ところが、人はヘビの巧みな誘いに乗ってしまい、「善悪を知る木」からその実を食べたことにより、もともと永遠に生きる存在であったのに、「死ぬ存在」となったのである。
そしてアダムと妻エバはエデンの園から追放されるが、アダムは930年もの間生きた。つまり神の言葉どうりに「死んだ」ということである。
この930年というのはあまりに長すぎだが、ノアの洪水の頃に神は、神の霊は人に長くはとどまらないと、人の齢(よわい)を120年まで縮小した(創世記6章)。
ナルホド、自分は120歳を超えて生きている人を知らない。
ちなみに、アダムとエバの子である兄カインが、さっそく弟アベルを殺し、人類で最初の「殺人」を犯している。
人類は、その門出において、ツマヅキまくっているのだから、始めが悪くて、終わりが良かろうハズがない。
さて「エデンの園」で確認しておきたいことは、神は「善悪を知る木」についてのみ、取って食べてはならないと言っているが、「命の木」について、何もふれていないということである。
しかし神は、人間が「善悪の木」の実を食べた後、つまり人間が「死ぬ存在」になった後に、「命の木」に対して、「或ること」を施している。
「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」と、「命の木」の周辺に回る炎の剣(つるぎ)を置き、そこに人が近づかないようにしたという(創世記3章)。
ところで、「善悪を知る木」の実をたべて人が「死ぬ」存在となったというのは、我々の常識からすれば、かなりブッ飛んだ話である。
なぜなら、家庭でも学校でも、まずは子供達を、善悪をわきまえた人間に育つように教育しているからだ。
神は人が善悪を知ることを望んでいないのだろうか、という疑問が起きる。
「エデンの園」では、神の心と人間の心が調和していて、そもそも「善/悪」という概念自体がなかったのではなかろうか。
人が神の意思に沿っていきることがごく「自然」なことであった。しかし人が、そこからはずれた時に想像以上の大きな「禍(わざわい)」を招いたのである。
つまり神に背いた罪の代償は死であり、人が「死ぬ存在」になった以上、我々はこの罪を背負っていることになる。
そして、神の意思からはずれて生きなければならなくなった人間の状態を「原罪」とよぶ。
「失楽園」以降人は、不調和な環境や様々な条件と折り合いをつけるべく、「善いこと/悪いこと」を仕分けするようになり、「善/悪」という判断基準を身につけていったといことではなかろうか。
我々は、この世を生きる子供達にそれを伝えるべく教育をしているわけだ。
しかし「エデンの園」の出来事が教えるメッセージとは、本来のコトの良し悪しは、人間がこの世の経験で学んだ「善/悪」にあるのではなく、神の意思そのものにあるとうことだ。
しかし人間はもはや、自ら「良し」と思うことをして生きる存在になった。
人間は、もはや神の意思や心をたずねることをしない存在となったということである。

道徳とは、よりよく周囲と適応する智恵を、人間の経験から生み出したものである。
そうした優れた知恵の集大成のひとつが中国の「論語」であるといえよう。
しかし、それが知恵の集大成に過ぎないことは、人間が一人で無人島に暮らしてみる状況を想像してみれば、わかりやすい。
人は無人島に「論語」をもっていって何の役に立つだろうか。
もっていくなら「聖書」であり、そこに宗教と道徳の根本的な違いがある。
ところで、道徳は人間固有のものかと思ったら、そうでもなく、動物にもそれらしきものがあるらしい。
動物にも「徳」の備わった立派な「生きもの」がいるということだ。
最近では、動物がいかに「共感能力」に優れ、欲望を制御し「利他行動」をとるかが次第にわかってきている。
とりわけ人類の仲間であるボノボやチンパンジーといった霊長類は、他者を気づかう行動をとるだけでなく、傍観しようと思えばできるのに、他者どうしの諍いを「仲裁」するなどして、自らのコミュニティーの調和にも配慮できるものもいる。
人類の知性は、生物の中で卓越していとはいえ、「道徳性」に関していえば突出しているとはいいきれず、他の霊長類との「連続性」の上にあるぐらいに考えた方がよい。
逆からいうと、人間の道徳の行き着くところは、せいぜい「群れの安全」とか「種の保存」に関わるものなのかもしれない。
我々は、経験によって道徳的であることが、人を生かし周りを生かし、幸せに長寿をまっとうできることを知ったにすぎない。
さて、2000年代にはいって、学校でもボランティアの義務化がなされるようになった。
当初、自発的すべきボランティアが、なぜ強制的にやらせられるのかといった疑問をもった人も多かった。
しかし実際の経験により、何の見返りのない行為をすることがいかに気持ちいいことかと、「ボランティア」に目覚めた人も少なからずいたに違いない。
それまで、こういう体験をする機会が地域の場であまりにも少なくなっていたからだ。
こういう「ボランティア精神」や「貢献心」は多くの人々に眠っているもので、機会さえ与えれば目覚めるものであり、道徳的人間を育てるのによい機会であると思う。
そこで、人が喜んでいくれる場や機会を与えることによって、何より自分自身がうれしく、人は幸福になる要素のひとつを見出すにちがいない。
ただ、人にいいことをすることが自分にもうれしいという発見があるとすれば、「貢献心」は無償の行為などではなく、ある面で欲求もしくは自己表現にすぎないともいえる。
したがって、「美徳」というほどのことではないのかもしれない。
人間にとって、「道徳的」であることは、「得」なことや「快」のことが多く、それらは幸せになる大きな要素であることは間違いない。
逆に人は、「不道徳」であることが、いかに人々に排除され、不快を多く経験し、損なことなのかを学ぶのである。

生物学者の日高義隆氏の「環世界」の概念は、人が生きることの意味を考えるうえで有効である。
日高氏によれば、生きものはそれぞれの「知覚的な枠」のもとに構築される「環世界」の中で生きているという。
例えばダニにとっての「世界」は、光と酪酸のにおい、そして温度感覚、触覚のみで構成されている。
ダニのいるところには森があり、風が吹いたり、鳥がさえずったりしているかもしれないが、その環境のほとんどはダニにとって意味をもたない。
動物たちは、それぞれがそれぞれの生活に「役立つ」環境のなかに棲んでいる。「役立たない」情報は認識されないと言い換えてもよい。
それは客観的なものではなく、主観的なもので、それぞれの動物によって違うもので、日高氏はすべての生き物は「イリュージョン」を生きているとしている。
アメリカ大陸を世代を超えて渡る蝶がいるが、彼らを地球の磁気を感じ取って移動している。我々はそれを感じ取ることはできない。
われわれには紫外線や赤外線は見えない。われはそれを見ることも感じることもできない。ただその作用を受けいるだけである。
ただ、現実のものではなく、あくまでその動物主体によって、抽象された主観的なものだとしても、客観的事実と一致しない誤った知覚であるという意味ではない。
本能としては、環境のなかの幾つかを抽出し、それに意味を与えて、自らの世界認識をもち行動している。
人間とてヒトの「環世界」、すなわちヒトが生きるうえで有効な概念世界に生きている。
さて前述のように、人間は「善悪を知る木」の実を食べてしまい、楽園を追放された存在である。
したがって人間の「環世界」とは、「善/悪」を基準として取捨選択して形成される世界でのことである。
その「環世界」にあっては、人は自らが善悪の「審判官」として生きるため、おのずから「神不在」の世界を生きるようになったのである。
近代におけるその画期は、デカルトの「我思う故に、我あり」宣言であったといえよう。
したがって、人は時に、世の価値感や受けてきた教育によって「正しい」「絶対だ」「善だ」と刷り込まれていることに対して、時々は「イリュージョン」が入っているのではと、疑ってみることも、生きていくうえで大切なことではないだろうか。

聖書は、「道徳書」や「倫理書」と限定して都合よく切り出そうとする人にとって、めまいを起こしそうな世界である。
つまり、「善悪」を超越するような話がとても多く、すくなくとも神がなすことに対して、人間が良し悪しを語る立場にはないことを思わせられる。
たとえば、不条理と思える不幸に見舞われ続ける旧約聖書「ヨブ記」の主人公がそれにあたる。
さて、新約聖書の冒頭から、イエスが一番攻撃したのは当時の律法学者であり、パリサイ人であった。
律法とは、人と神との関係のためであるが、イエスはパリサイ人達の信仰が、律法遵守にすぎず、それも「人に見せるための行為だ」と攻撃している。
要するに彼らは信仰者としてよりも、あたかも道徳を生きるようなレベルで生きていたということかもしれない。
しかも彼らは、人々の前にあたかも「道徳的強者」として立ち振舞っていたのでる。
「道徳的強者」とはオキテさえ守っておけば、神の前に何ら落ち度はないと思い、それができない人間を一方的に見下す人々のことである。
しかしイエスが愛し、またイエスが最後まで目を注いだのは、ある意味「道徳的」(or律法的)たりえなかった人々であった。
そしてパリサイ人は、イエスに対して「取税人、頼病人、罪人の頭と何ゆえ共に食事をするのか」と、イエスを「悪霊につかれている」と批判したのである。

人は何事もついても善悪を判断基準とする「環世界」に生きている。
しかし、神がなすことつき、人間はことの「善し/悪し」を判定する立場にはないことを思わせられる話は数々あるが、その中の比較的よく知られた話をひとつを紹介したい。
パウロは、「ローマ人への手紙」8章で、次のようなことをいっている。
//あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。//
ここで神が「卑しい器」として作り上げるとはどういうことか。即ヒラメイたのが、「出エジプト記」に登場するエジプト王パロである。
しかも神は、パロを「神の力」を表わすべく選んだというのである。
しかし、その栄光の表わし方は、逆説的な方法であった。
パロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」(「ローマ人への手紙」9章)//。
紀元前13世紀頃に飢饉のためエジプトに寄留していたイスラエルの民が、いつしか奴隷の待遇を受けて苦しむに至り、神がイスラエルの指導者モーセをエジプトの王パロの元に送り、「イスラエルの民を去らせよ」とせまる。
しかしパロは幾度もそれを「拒絶」して、そのたびごとにエジプトで、ナイル川が血の色に染まるなど、神のワザが現われることになる。
そして、パロはエジプトを襲った疫病で息子を失うことにより、ついに「イスラエル人解放」の決断を下す。
この「出エジプト」とよばれる出来事の中で、聖書はパロの「拒絶」の理由について意外なことを語っている。
パロが拒絶したのは、「神がパロの心を頑なにした」というのである。
つまり、パロがモーセの言葉に耳を貸さなかったのは、神がソウさせたということである。
神はモーセを通じてパロに、「イスラエルを去らせよ」といわせながらも、当のパロの心をもかたくなにさせ、その結果「神の力」を次々に表われてい く。
そして、「神の名」ヤハウエェの名が諸民族に広まったのである。
つまり「出エジプト」の出来事では、地上で様々な人間が動いているのだが、結局は神の「一人(?)舞台」であったということもできる。
さて、冒頭の聖書の言葉に続く言葉は次のとうりである。
//だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者をかたくなになさるのである//。

「エデンの園」から追放された人間が、「救われる」ということは、「エデンの園」を回復するということを意味する。
そのことは、「神の国は汝らのうちにあり」(ルカ17章21)という言葉にも対応するが、ある意味で、「神の国」とは「善悪」や「損得」を判断の基準にしない生き方ということである。
人間は、この世に生き周囲と折り合いをつけながら生きることを「賢い生き方」と思っているので、それはある部分で愚かにもみえる生き方であるのかもしれない。
ところで人間は、この世界の始まりにおいて、「命の木」ではなく「善悪を知る木」を選択し、自らに「死」をまねいたが、イエスは「死」から「よみがえる」ことによって、人間がその罪の結果支払った「死」をうち破る力を示したのである。
このことは、神から課せられた「死」をイエスがうち破り、「永遠の命」を与えてくれる存在であることを示している。
アダムによって人類に死が入り込んだように、イエスによって永遠の命が入ったということに他ならない(ローマ人への手紙5章)。
つまり、エデンの園の中央にはえたもうひとつの木、すなわち「命の木」の周囲にめぐらされた炎の剣(つるぎ)を取り去り、人に「命の木」の実を食べる道を示したということである。