鑑真と「007」

映画「女王陛下の007」シリーズ中の「女王陛下」とは、現エリザベス女王のことである。
暗号名「007」ことジェームズ・ボンドは、女王陛下直属の秘密諜報部員という意味で「女王陛下の007」というタイトルとなっている。
この「007シリーズ」の悪役には必ずといっていいほど「海賊の残滓」を感じるのは自分だけだろうか。
さて、現在のエリザベス女王は、「エリザベス2世」だが、1600年代初頭の「エリザベス1世」の時代にイギリスは絶対王権の全盛期に至り、イギリスの「海賊達」がもっとも勢いを得た時代だった。
つまりエリザベス1世は海賊を取り締まるどころか、それを手なずけて戦いの主力としたのである。
イギリスは、この「海賊の機動力」をもって、スペインの「無敵艦隊」を破って世界の覇権を握るきっかけを作ったといってよい。
したがってイギリスの繁栄を築いたのは、「女王陛下の海賊達」(パイレーツ オブ マジェスティ)であり、それはイギリスがどんなに「紳士の国」を標榜しようと、まぎれもない歴史的事実なのだ。
イギリスでは5世紀頃から北方のアングル族、サクソン族が進出し土着化していく。
そして11世紀に海洋民族のノルマン人の侵略をうけて征服され、アングル・サクソン・ノルマンの三者が融合して、現在のイギリスを構成する主要人種が形成された。
17世紀にピューリタンがアメリカ大陸に渡り、東海岸を中心にWASP(白人・アングロ=サクソン・ピューリタン)とよばれる「支配階級」(エスタブリッシュメント)が形成される。
このWASPのエリート達がクゥオンツとよばれる「金融工学」のつかい手を雇って「海賊」にも似た富の収奪しているというのが、現代の「資本主義」のひとつの様相ではあるまいか。
ところで、007シリーズの第5作「007は二度死ぬ」(1966年)は日本が舞台となった。
当時、日本の最先端ホテルだった東京都千代田区紀尾井町のホテル・ニューオータニや地下鉄・丸の内線が登場したが、鹿児島県の秋目海岸での戦闘シーンのロケでは、ジェームス・ボンド(ショーン・コネリー)が地元の海女(浜美枝)と落ち合うシーンなどが撮影された。
日本人としては最初で最後の、いわゆる「ボンドガール」を演じた浜美枝だったが、映画制作陣の「作品」へのこだわりを肌で知ることになった。
1日の撮影が終わっても、自分の部屋以外ではボンドガールのイメージを保つつように求められ、それにふさわしい洋服が5~6着届いていたという。
ところで秋目海岸は、鹿児島県南さつま市・坊津町にあり、古代から海上交通の要地として栄えた。
奈良時代には、唐の名僧・鑑真が過去5回の失敗にめげず、秋妻屋浦(現・秋目地区)に上陸している。
中世には島津氏の統治下にあり、中国(明)・琉球との貿易により栄え、「倭寇」や遣明船の寄港地でもあった。そして、明治から昭和にかけては、鰹漁業や鰹製造の一大集積地として隆盛を誇った。
昭和初年に枕崎市に港が完成するまでは、今では考えられないほど多くの人々の往来があった。
ところで、イギリス映画「007」の撮影場所が、日本の海賊「倭寇」の拠点のひとつ坊津だったという偶然だが、「鑑真和上の上陸記念碑」と並んで、「007は二度死ぬ ロケ記念碑」が立っているのは、東西の面白い組み合わせだ。
それにしても坊津がなぜ映画「007」の撮影場所に選ばれたのだろうか。
坊津は単に港町というだけではなく、時の文化や権力やそれに係わる最先端の人たちが行き交う場でもあった。
また映画や小説の舞台にもなった。歴史や風光明媚な土地柄に惹かれて、明治以後は谷崎潤一郎をはじめ時代の名立たる文豪の多くが好んで訪問し、梅崎春生の小説「桜島」などでは、作中の舞台の一つとなっている。しかし、風光明媚な場所ならいくらでもある。
そこへ、1863年の薩英戦争のことが脳裏にひらめいた。
この戦史で、イギリス側が薩摩藩の蒸気船を拿捕する意図を伝え、薩摩側では坊津辺りに廻船し蒸気船を隠すよう提案されたが、この記憶が現代における映画「007」のロケ地選定と関係があるとは思えない。
ただ、薩英戦争の講和を契機として、薩摩藩は19人の留学生をイギリスに送っているので、イギリスと鹿児島の関係が深かったのは事実である。

古代ギリシャ人の自然哲学者・ターレスが布で琥珀(こはく)をこすると、モノを引きつけることに気がついた。
その当時は誰も、電気の存在ましてその性質など誰も知る由もなく、不思議な現象という以外なかった。
16世紀イギリス・エリザベス女王の時代、当時医者だったギルバートが、鉄・硫黄・ガラスなど様々なものをコスルと、琥珀と同じ「現象」が起こることを発見した。
この発見をきっかけにコノ「現象が、科学の対象として探求されるようになった。
ちなみに、「琥珀(こはく)」(英語: amber)とは、「木の樹脂」(ヤニ)が地中に埋没し、長い年月により固化した宝石である。
「琥」の文字は、中国において虎が死後に石になったものだと信じられていたことに由来する。
実は、琥珀をマサツして静電気でモノを引きつける「現象」は、ギリシャ語で「琥珀」を意味した文字から「エレクトロン」と名づけられ、これが「電気( electricity )」の語源となっている。
そして電気の「実用化」における最大の功労者は、何といってもトーマス・エジソン(1847~1931)である。
エジソンには色々不思議なことがあるが、電話の発明者は、アレクサンダー・グラハム・ベルで、会社や研究所の名前から機器の名前さえも「ベル」と冠されたものが存在し、「AT&T」という世界最大の通信会社に発展しているだが、なぜか「エジソン」の名が冠された機器や単位が存在しないこと。
また「発明王」といわれるわりには、エジソンの名前はノーベル賞受賞者にも名前がないこと。
最後に、我々日本人にとって不思議なことは、京都の石清水八幡宮の境内に「エジソン記念碑」があることである。
石清水八幡宮といえば、源氏から「武神」として信仰が篤く、源氏の広がりとともに当社から源頼義による壺井八幡宮や頼義・頼朝による鶴岡八幡宮を始めとして、各地に「八幡宮」が勧請されたのである。
では、エジソンと源氏ユカリの神社と、どんな関わりがあるのか。
そのヒントは、京阪八幡駅の広場中央の「竹」とエジソンの「白熱電球」のオブジェにある。
さて、トーマス・エジソンが発明したものの中で、最も普及度が高いモノといえば「白熱電球」であろう。
この白熱電球において最大の問題は、実際に光で輝く素材を何にするかということであった。
いくら電気が光を生むとしても、この素材が長く「光」を発光し続けなければ、「電球」としての役割を担えないからである。
そしてこの素材を「フィラメント」というが、フィラメントとはラテン語で糸を意味する「filum」に由来し、細い線から成る細かい糸状の構造を指す。
1878年にエジソンは、「エジソン電灯会社」(後のGE)を設立し、「白熱電球」の研究に取り組んだ。
そして1879年32歳の時、エジソンは「綿糸」に煤(すす)とタールを塗って炭素させたフィラメントを使って、45時間輝く白熱電灯の製作に成功したのである。
しかしエジソンは最低600時間は続かないと、商品化するのはムリであると考えたので、耐久時間が45時間では、「電球」として実用化するには短すぎる。
ところが、たまたま研究室にあった「扇子の竹」でフィラメントを作ったところ200時間も電球が灯ったのである。
エジソンは材質を「竹」にしぼり、20人の調査員を「竹採集」のため世界に派遣して、1200種類もの竹で実験したという。
その助手の一人が1880年に「竹」を求めて来日し、東京で助手と会見した伊藤博文首相・山県有朋外相らが、京都なら良質の竹が入手できるであろうことを助言したのである。
  石清水八幡宮のある八幡男山の山中には、今でも広大な美しい竹林が広がっている。
材質が硬いが 割れやすく 加工しやすいため「竹細工製品」など、伝統的に日本でも様々な場面に使われてきた。
また、温度による膨張や伸縮度が低いため、モノサシにも最適の材料であり、尺八にも真竹が使われている。
そしてエジソンの助手が見つけ採取したのが、この石清水八幡宮境内からとった「真竹」で、白熱電球の改良の際に、この竹で作ったフィラメントを使ったところ、電球はナント2450時間も灯り続けたという。
その後1894年に電球のフィラメントは、セルローズのフィラメントに取って代わるが、京都八幡の真竹は10数年にわたり「エジソン電灯」会社に輸出され、さらに八幡の竹を用いた白熱電球が毎年世界各国に輸出されたのである。
そのことを記念して、京都・石清水八幡宮の境内にエジソンの記念碑があり、2月11日には「エジソン生誕祭」も行われている。
さらに、10月21日はエジソン発明の白熱電球を記念して「あかりの日」となっている。

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
1936年11月19日佐賀県の背振、この日は朝から山全体がすっぽりと雲に覆われて、しとしとと冷たい雨の降り続く、暗く寒々しい空模様であった。
その夕刻の頃の背振山麓、爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、フイに音が途絶えたかと思った瞬間に、山頂の方から木々をナギ倒すような激しい音が響いた。
背振の山あいに住む住民達は、何事かと驚いていると、間もなく「飛行機墜落」の急報を受けた。
さっそく村の消防団は、総動員で蓑笠をつけ、村の婦人会も炊き出しで加わり、飛行機が落ちたとみられる山頂付近をめざして進んで行った。
そして無残に翼は折れ、機体はツブレ急斜面の樹木の中に突っこんだ真っ赤な色をした飛行機を発見した。
さらに村人達が見たのは、つぶれかけた操縦席の中で血マミレになり唸っている青い目の外国人であった。
その男は、フランスの著名な飛行家アンドレ・ジャピーであった。
背振の村人達は、見知らぬ外国人の命を救うべく総動員で動きまわった。
この時、村人の誰かの脳裏に5年前の出来事が頭を過ぎったであろうか。
1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったリンドバーグが妻とともに、日本の霞ヶ浦に飛来した。
リンドバーグ夫妻は日本各地を周り、博多湾の名島にも着水して颯爽と降り立って、福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあったのだ。
その記憶も褪せぬこの時、今度はフランスの飛行機野郎・ジャピーが日本に来ようとしていたのであるが、そんなことを知る日本人は数少なかったし、まして背振の村人が知るハズもない。
また、リンドバーク夫妻のような晴れがましい「着水」というわけではなく、「墜落」という形でやってこようなんて誰にも想像すらできないことだった。
アンドレ・ジャピーは、日本ではそれほど知名度は高くなかったが、フランス人にとってこれまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」であった。
また、ジャピーの一族はフランスきっての大実業家であり、フランス航空界の大スポンサーであり、有名な速度競技「ドゥーチェ・ド・ラ・ムールト杯」の創設者でもあった。
したがって、フランス人からすればシャピーの命運は、固唾を呑んで見守る大いなる関心事であった。
おかげで"Mt.Sefuri"の名は、ヨーロッパ中に伝わった。
さて、ジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」に応募したというカタチをとっていた。
当時ハノイのあったベトナムは、「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であり、当時の30万フランとは、現在の金額にすると約1億~2億円にも相当する金額であった。
しかしながら、ハノイ経由の懸賞旅行とは表向きの話で、その実際の目的は、フランス航空省によるアジア極東地域への「定期航空路開拓」ということであった。
つまり、ジャピーの飛行はある意味で「国家的使命」を担ってのことだったのである。
また、ジャピーが乗った飛行機は、奇しくも「星の王子さま」の作者としても有名なサン・テグジュペリが愛用していたことも知られる全木製の名機「シムーン」であった。
ちなみに「シムーン」とは北アフリカ地域に吹く強い熱風を意味しており、これもフランス人の関心をよぶ理由のひとつであった。
ジャピーは、現地時間の11月15日にパリのル・ブールジェ空港を出発し、ダマスカス-カラチ-アラハバッド-ハノイを経由して香港に着いた。
この「パリ-香港間」の約55時間半の飛行は、当時としては驚異的な記録となっている。
しかし、東シナ海が悪天候となって香港で足止めとなり、一転して香港以後の飛行はかなり厳しいものだった。
シャビーは19日の朝6時25分の再出発したが、この時はまだ天候が十分に回復しておらず、無謀ともいえるものだった。
それまでがあまりに「順調」であり過ぎたため、幾分気持ちがハヤッていたとも推測できる。
ジャピーが長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすることとなり、しばらくすると突然眼の前に山の姿が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの下降気流にたたき落されたのである。
しかしジャピーが咄嗟に機首を持ち上げたため、機体は山の斜面に沿って落ち、深い樹木がクッションとなって、何とか一命をとりとめることができた。
しかし、こんな山間に外国から著名な珍客が訪れようとは、誰も予想だにしないことだったが、 ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、31日には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山にあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。
この「遭難碑」を自衛隊のレーダードームから下って探しまわっていた時に、思わぬものに遭遇した。
なんと「日本茶栽培発祥の地」と記された石碑である。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗をこの地に植え、日本最古の禅寺といわれる博多の聖福寺にも茶の苗を移植している。
以上、女王陛下の007「ジェームスボンド」碑は、日本に戒律を伝えた「鑑真像」に隣接し、「エジソン」記念碑は八幡神信仰の「源氏」ゆかりの神社にあり、フランスの空の英雄「アンドレジャピー」遭難碑は、日本に臨済禅を伝えた「栄西像」と隣接している。
それぞれ、古今東西の記念碑の組み合わせが面白い。(人によっては面白くないかも)。