外国人家事労働

昨年末の新聞記事の中で、小さな記事に目に入った。それは、外国人に「家事労働」を認めるというものだったが、結構ひっかかった。
第一に日本では今まで外国人はなぜ家事労働に就けなかったのか。第二にソレが「国家戦略」のひとつとして認められたこと。
第三にソノ社会的影響は、良きにつけ悪しきにつけ、想像以上に大きいのではないかということ。
その社会的影響については、以下に敷衍するケースから、想像して頂きたい。
さて、家事労働を行う「家政婦」という仕事は、歴史上の「乳母」(めのと)や外国の「ベビーシッター」とは異なる仕事だが、幼い子供のいる家庭ならば重なりあう分も多い。
そこで、日本の歴史上有名な「乳母」といえば春日局(かすがのつぼね)が思い浮かぶ。
明智光秀の家老・斉藤家の娘として生まれ、京都の公家・三条西家とも縁戚関係にあり、「乳母」として徳川将軍家として迎えられる。
後の三大将軍家光の「乳母」の他、後の徳川家(松平家)の大名の養育を担当。そして大奥にて絶大な権力をふるい、幕政にも影響をあたえる程の「発言力」をもつに至った。
さらに、世界的に名を残した「ベビーシッター」のケースとして、1962年の世界的大ヒット曲「ロコモーション」を歌ったリトル・エヴァがいる。
「ロコモーション」は、”Comon baby Do the locomotion”の歌詞とともに、伊東ゆかり歌う乗りのいいビートで日本でも大ヒットしたアノ曲である。
作曲は女性シンガー・ソング・ライターのキャロル・キングとその夫ジェリーである。
キャロル・キングはある女性歌手にダンス曲を提供するつもりで「ロコモーション」を作った。たまたまキャロルの家に、歌の上手な黒人のベビーシッターが毎日来ていたため、「ロコモーション」のデモ・テープを彼女に歌わせ、目当ての女性歌手のプロデューサーに送った。
しかしプロデューサーはソノ曲が気に入らず、デモ・テープを突き返してきた。
ところが、これからレコード会社を始めようとしていた人物がベビーシッターが歌う「ロコモーション」をとても気に入り、その第1弾としてデモ・テープのまま、つまりの名もなきベビーシッターの歌のままで発売することにした。
そしてこの週給35ドルのベビーシッターこそがリトル・エヴァであった。
発売するやいなや大ヒットとなり、「ロコモーション」とはどんな踊りかなのかという問合わせが殺到し、エヴァたちは、早速ステップを作り、「ロコモーション」の踊りを披露してみせた。
蒸気機関車のように、人々が何人も連なり、機関車の車輪が動く姿をイメージして、両手を前に回転させて踊るダンスである。
「ロコモーション」の曲とダンスのその後のブームは、タイトルどうり、走り出したら止まらない機関車ソノモノだった。

春日局やリトル・エヴァは、歴史に名を残した「子守役」だが、名を残さずとも歴史に大きな影響を与えた「子守役」がいる。
その女性は、GHQ民政局で、日本国憲法のモデルとなった「マッカーサー草案」作成の一翼を担ったシロタ・ベアテの家で働いていた小柴美代という女性で、独り言的には「家政婦のミヨ」とよんでいる。
さて、ロシアのウクライナ地方キエフの町にユダヤ人レオ・シロタ・ゴードンという音楽家と貿易商の娘との間に、ベアテという娘が生まれた。
父レオ・シロタはオーストリアのウイーンに留学し、1920年代「リストの再来」と評され、世界の三大ピアニストに数えられるほど「超絶技巧」を誇るピアニストとして注目されていた。
しかし、1917年のロシア革命の混乱で帰国不能となり、家族と共に「オーストリア国籍」を取得した。
しかし、当時のヨーロッパ経済は不安定で公演のキャンセルが続き、ドイツを中心として「反ユダヤ主義」が台頭していたこともあり、一家三人は半年間の「演奏旅行」のつもりで1929年の夏、シベリア鉄道でウラジオストックへと向かった。
そしてレオ・シロタはこの「演奏旅行」の途中で、日本を代表する音楽家・山田耕筰と「運命的」な出会いをする。
ハルビン公演を聞いた山田耕筰がホテルを訪れ、日本での公演を依頼したのである。
レオはその年に訪日して1カ月で16回もの公演を行ない、山田耕筰によって東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘された。
そして世界恐慌でのヨーロッパ情勢の不穏の中ベアテ一家は日本に滞在し続け、東京赤坂檜町に居を構えた。
ベアテ家では、母オーギュスティーヌがたびたびパーティを開き、山田耕筰や近衛秀麿、ヴァイオリニストの小野アンナなどの芸術家・文化人、在日西欧人や訪日中の西欧人、徳川家、三井家、朝吹家など侯爵や伯爵夫人らが集まるサロンとなっていた。
幼いベアテにとって、家の近くの乃木神社の境内が格好の遊び場となり、近所の子供たちと遊ぶうち、童歌や童謡などをも聞きながら日本の文化を学び、来日3カ月程で日本語を話せるようになっていた。
そしてベアテはアメリカンスクールに通い、6歳ごろからはピアノ、ダンスを習い始めた。
しかし自分にピアノの才能がないことは、父レオが自分よりも他の生徒達を熱心に指導することなどから、残酷ながら悟らざるをえなかったという。
しかしベアテは、サロンに集まる人々との情報のやり取りの中で様々なことを吸収していった。
さして努力をしているのでもないのに、日本語をはじめとする5カ国語の会話とラテン語をマスターしていったのである。
そしてもう一人、ベアテの精神形成に大きな影響を与えたのが、前述の小柴美代であった。
ベアテ一家は、洋画家・梅原龍三郎の家のすぐ近所でもあった。
あるとき、近所に著名なピアニストが引っ越してきたと聞いた梅原氏が、自分の娘にもピアノを教えてもらえないかと訪ねてきた。
そしてその反対に、梅原がベアテ家に紹介したのが、家政婦の小柴美代であった。
彼女は高い能力がありながらも「教育を受ける機会」がなかった当時の日本人女性を「代表」しているような女性であったという。
小柴を通じて、ベアテの心の中に「日本の女性」についての情報が蓄積されていった。
好きな人と結婚することもできず、父母の決めた全然知らない人と結婚させられる。
結婚の前に一度も会わないことすらもあり、そういう結婚のために嫁いだ先でトラブルに悩まされ、理不尽な生活に追い込まれている女性達がいた。
日本では正妻とおめかけさんが一緒に住んでいる。夫が不倫しても妻からは離婚は言い出せない。夫が他の女性に産ませた子を養子として連れ帰ったとか、東北の貧しい農家では娘を身売りに出しているとかいう話も聞いた。
ベアテ自身も様々な体験の中から、日本女性が置かれている状況について身をもって感じとっていた。
日本の女性たちが夫と外を歩くときには必ず後ろを歩くこと、客をもてなすときにあまり会話に入らないこと、夫婦で話す時間が少なくまして夫婦で何かをする時間がほとんどナイように感じられた。
またベアテにとって忘れられないの日が、1936年2月26日の大雪の日であった。
この226事件が起こった際には、ベアテの自宅の門にも憲兵が歩哨に立ったのだが、ベアテはそれを実際に見ながら、日本人は表立っては優しいのに、内面に過激なものを秘めていると強く思わせられたという。
また軍神・乃木希典をまつった乃木神社には、戦地で亡くなった兵隊達の葬列を見かけることが増えるにつれて、日本の雰囲気が次第に慌しくなっていっていることも、子供心に感じとった。
そして1939年5月、ベアテは日本のアメリカンスクールを卒業し、もうすぐ16歳になろうとしていた。
ヨーロッパでは、「ユダヤ人敵視」をかかげるナチス・ドイツが目覚しい台頭がを見せつつあり、日本はそのドイツと同盟を結ぼうとしていた。
そこで両親は、ベアテをアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のオークランドにある名門女子大学ミルズ・カレッジに留学させることにした。
ミルズ・カレッジは全寮制の女子大学で、ベアテにとってこの大学が「女性の自立」について深く学べる場所となったのだという。
ベアテは、大学卒業後アメリカ国籍をとり、一時期ニューヨークのタイム社でリサーチの仕事をした。
そして1945年太平洋戦争の終結とともに、一刻も早くに日本にいる両親に会いたくて、日本に入国可能な「軍関係」の仕事を探し、偶然見つけた仕事がGHQの民生局であった。
そして民生局課長ケーディス大佐の面接を受けて、「政党科」に配属されたという。
そして「晴天の霹靂」であるかのように、ベアテ・シロタ・ゴードンが22才の若さで、日本国憲法制定の「人権委員会」のメンバーに選ばれたのである。
しかし日本に戻ってきたベアテにとって思いで深い乃木坂の家は焼きつくされ、ようやく玄関の柱で確認できたのだという。
ベテアの両親は軽井沢に逃れていたために難を逃れていたが、悲しみが抑えきれなかった。
日本に帰って1ヶ月ぐらいして、突然に民生局に「憲法草案作成」の指令が出た。
そして、ケーディス大佐は、この大学を出て間もない22歳の女の子?に、「女性の権利」についての条文を書くことを命じた。
ベアテの抱いた悲しみは、日本で新しい「憲法草案」を作るという「使命感」によって次第に打ち消されていった。
しかし、そんなベテアの仕事は「極秘事項」であり、両親にさえ口外することが許されていなかった。
もしそれがわかったら、そんな小娘に日本国憲法が書かせたのかと、「反対勢力」に攻撃される可能性さえあった。
誰よりベアテ自身、小柴美代の口から「子守唄のように」日本女性の地位の低さを聞かされていたのだ。
そして、かつてタイムス社のリサーチの仕事の経験が「憲法草案作り」にも生かされていった。
まずはジープで図書館を回り、世界の憲法が「女性の権利」をどのようにに定めているかをリサーチした。
草案の作成は「極秘」で行われていたために、民生局の人が沢山の本を持っていったとか、一カ所だけで調べものをしたりすると怪しまれるので、いろいろな図書館を回って資料を集め、それをGHQの「民政局」に持ちこんだのである。
だが残念ながら、日本国憲法の「男女平等」はベアテが出した案の多くは、先進的過ぎて却下された。
それでも憲法24条の「両性の本質的平等」を書くにあたって、家政婦の小柴美代の存在がいかに大きなものがあったかは、ベアテが講演などで、必ずといっていいほど小柴を引き合いに出すことや、1966年には、ニューヨークの自宅に小柴を呼び寄せていることからもうかがわれる。

1962年に火がついて大ブームとなった「ロコモーション」から3年後、銀幕の世界では「サウンド・オブ・ミュージック」が世界的に大ヒットして、主演したジュリー・アンドリュースは一躍世界的スターとなった。
このジュリー・アンドリュースが演じたのが、「家庭教師?マリア」である。
映画では、オーストリア海軍の英雄であるグスタフ・トラップはオ-ストリアのザルツブルクの名門貴族の出身である。
7人の子供に恵まれるが、妻を病で失い男一人で子供を育てることになる。しかし次女マリアが病弱であったこともあり家庭教師をさがすことになる。
ちょうどその頃、ザルツブルクのアパ-トにマリア・アウグスタ・クチェラという女性がいた。
彼女は 小さくして両親を失い修道女として生きようと戒律の厳しさで知られるベネディクト会の修道院にはいった。
しかし、あまりに自由奔放であたっために周りからも眉をひそめられるようなことが度重なり、ついに修道女の道を諦め、教師になろうとザルツブルクに出て来ていたのである。
1926年 その彼女に名門トラップ家から家庭教師が欲しいという電話がかかってきたのである。
マリアは格式の高い家の家庭教師になることを躊躇するが、ギタ-を抱えてトラップ 家の屋敷を訪れる。
マリアが最初に目を丸くしたことは、トラップ家では、父グスタフが潜水艦の艦長であったために、集合の合図は笛をもって行われていた点である。
しかも、子供一人一人を呼ぶときの音の組み合わせが異なっていた。
家庭教師となったマリアは、そうした家庭の雰囲気の中で、音楽を教え次第に子供達に愛されるようになる。
また色々な物語を聞かせていくうち、7人の子供達は次第に母を失った哀しみを忘れていく。
父グスタフもマリアの不思議な魅力に惹かれはじめ、家庭教師としてではなく一人の女性として彼女を愛するようになり、翌年結婚する。
この時マリアとグスタフの年齢差は25歳、長男とはわずか5歳の年齢差であった。
しかしやっとつかんだ家族の幸福は長続きしなかった。1929年の大恐慌の影響で トラップ家は一夜にして全財産を失うのである。
この時は、さすがの英雄グスタフも憔悴しきっていたという。
しかし一人元気だったのは妻マリアである。幼い頃から「孤児」として育った彼女はそうした苦難を乗り越える術を心得ていた。
ザルツブルクには神学を学ぶ学生が多く、自宅の1階を礼拝堂にかえ、いくつかの部屋を神学生に貸し出したのである。
そして、この決断が一家の運命を大きく変えることになる。
ある日一人の神父がトラップ家で過し、家族の歌声を聴き本格的な合唱の指導をした。
さらに、イタリアの有名なソプラノ歌手がザルツブルクでの音楽会の際にトラップ家を訪問し、家族の歌声を聴きコンクールの出場をすすめた。
そしてコンク-ルで見事優勝し、「トラップ・ファミリ-聖歌隊」という名でヨーロッパ中を演奏旅行し世に知られていく。
ところが1938年のある日、深夜に響く町中の教会の鐘の音が「異常事態」を告げる。
ナチス・ドイツがにオーストリアにも侵攻し、首相は降伏しなければオーストリアは血の海になると降伏を呼びかけた。
そんな中グスタフはヒットラーを公然と批判するものの、家族の執事であった青年ハンスがナチスに入党したことが発覚した。ハンスはいわば一家の「監視役」となっていたのである。
ヒットラーはトラップ一家を「党の宣伝」に使おうとしていたらしく、ヒットラーの前で歌を歌うことを促したが、グスタフはそれを断固拒否した。
しかしハンスが、迫る「国境閉鎖」の危険を密かにトラップ家に知らせ、家族は「歌」だけを頼りに、無一文で自由の国アメリカへと渡っていく。
苦労してアメリカに渡ったものの、言葉も文化も違い、モダンジャズがはやっていた当時のアメリカではトラップ・シンガ-ズの歌はなかなか受け入れてもらなかった。
そこでド派手な衣装と厚化粧でセックスアピールをし、歌い方を変えたりした。また母マリアは、トークで場を盛り上げようと努力した。
しかし、オーストリア人は「敵性外国人」と疑われたために、星条旗への忠誠を示すために、長男と次男はヨーロッパ戦線でドイツやオーストリアと戦うハメになる。
そのうち家族は、祖国オーストリア・チロル地方の風景に良く似たバーモント州ストウという山間の場所を見つけ、ローンを組んで自力で家を建てた。
そしてコンサート活動をしながらも、ほとんど自給自足の生活をしたのである。
その後アメリカの雑誌「ライフ」がナチスを逃れてアメリカにやってきた理想の家族としてトラップ・ファミリーを紹介した。
1945年、戦争が終わり長男と次男が帰還し、バーモント州ストウでの孫を含めた12人家族での生活が始まった。1948年一家はようやく念願のアメリカ「市民権」を獲得する。
1965年の映画「サウンド・オブ・ミュージック」は、トラップ一家の家庭教師から母となったマリアの「自伝」に基いて制作されたものである。