ローアングル

「ローアングル」つまり、低いところからものをみる視点。職業上、低いところを見るのが「靴職人」。
ロシアの文豪トルストイが書いた短編民話「人は何で生きるか」の主人公は靴職人である。
腕の確かな靴職人のおじいさんがいた。しかしいつの間にか流行におくれ、店に靴を飾っておいても なかなか売れず、おじいさんもおばあさんも 貧しい生活を強いられた。
そしてついに この皮で靴を作ったら 次の靴を作ることが出来なくなるところまできてしまった。
おじいさんは、これでもう靴を作るのは最後と思い、最後の靴を良い靴に仕上げようと、いつもより時間をかけて作った。
その日は雪模様で手元も暗くなり、皮を切り終えても針に糸を通して縫い始めることが出来ず終いであった。
続きは明日にしようと、おじいさんは仕事場の机の上に、丁寧に切り取った皮を並べておいた。
次の朝、おじいさんは、仕事場に行って驚いた。
昨日切っておいた皮を綺麗に縫いあげた靴が、素晴らしい出来栄えでそろえてあったからだ。
大声でおばあさんを呼んで、二人で靴を確認したところ、丈夫なうえに流行も取り入れた良い靴に仕上がっていた。
これは間違いなくいい値で売れるとおじいさんが思ったとおり、一人の紳士が良い値段で買ってくれた。
おじいさんは そのお金で靴二足分の皮を買い丁寧に皮を切り、その日も薄暗くなったので、机の上に皮を並べて仕事場を後にした。
翌朝、やはり昨日と同じように 素敵な靴が2足、若い婦人用と紳士用のおしゃれな靴が出来上がっていた。そして二足ともうれしい値段で売れた。
おじいさんは今度は、4足分の皮を買いにいき、靴用の形に切り取って、また仕事場を後にした。
すると次の日の朝には、可愛い子供靴、シックな婦人靴、丈夫な仕事靴、歩きやすい靴がちゃんと出来上がっていた。
おじいさんもおばあさんも、こんなことが毎日起こるので喜んでいるばかりではいられないと、夜中にそっと仕事場をのぞいてみた。
時計が12時を打ったころ、皮を置いたところで 動いているものが見えた。
そこには、油のないランプの火の下に、二人の裸の小人達がいた。
おじいさん、おばあさんは驚いて思わず 声が出そうになったが、口を手で押さえて小人のすることを見ていた。
小人たちは「俺たちは靴の妖精、働き者のおじいさんのために、朝になるまで靴作り」と歌いながら、すばやく皮を縫い、小さな槌で形を整え、最後にキュっキュっと靴を磨いて素晴らしい靴を仕上げた。
そして靴が出来上がると、ふたりの小人はランプの火を消して、日の出の頃には薄闇の中に消えていった。
おじいさんも おばあさんも 自分たちが見たことが信じられない思いだったが、確かにそこに素晴らしい出来の靴があった。
そして二人は小人の作った靴じっとを眺めていたが、ふとおばあさんが、「おじいさん、あの二人の小人は 裸でしたよねぇ?」とつぶやいた。
そして自分たちがこれまで楽な暮らしになってきたのも小人たちのおかげだから何かお礼をしようと、おばあさんは二人分の小さな服をつくり、おじいさんは、二人のために小さな靴をつくった。
そしてその日の夜、テーブルの上に、切り取った皮の代わりに並べておいた。
二人は扉の影から 仕事場をのぞいて見ると、彼らはおばあさんの作ったシャツとズボンにかわいいチョッキを着、おじいさんが作った革靴を履いてみていた。
小人たちは、大喜びでお互いに腕を組んでスキップしたり、歌ったりしながら踊り始めた。
おじいさんもおばあさんも、それがとても嬉しくて何度もうなづきあった。
それから小人達は 二度と現れることはなかったが、おじいさんの作った靴は、それからも作ったそばから売れていき、おじいさんも、おばあさんも幸せに暮らした。
民話を題材にしたこの物語に、不思議な感動と心の安らぎを覚えるのは、登場人物の目線の低さ、つまり「ローアングル」にあるのかもしれない。
個人的にはこの話を読みながら、映画「トイ・ストーリー」のある場面を思い浮かべた。
まさか「この物語」をヒントにしていることはないとは思うが、なにしろ、作者の名が「トルストイ」なので。

「ローアングル」は、映画監督・小津安二郎監督が撮影の際に使った手法として知られる。
小津監督の「東京物語」は1953年公開だが、いまだに映画史上最高傑作という評価もある。
二度三度と見れば良さがわかるというけれど、個人的にはそこまで見てみようとは思わなかった。
老夫婦が尾道から子どもたちに会いに東京にやってくる。長男も長女も歓待してくれるが、忙しいので、充分な応対はできない。
かといって夫婦はそれを責める様子もなく、受け入れている。
ただ、戦死した二男の嫁(原節子)は親身に接してくれ、これがなによりだった。
老夫婦は尾道に帰るが、妻はあっけなく亡くなる。
子どもたちは尾道に駆けつけるが、葬儀が終わればせわしげに東京に帰ることになる。
二男の嫁は遅れて帰るが、実の娘以上に親子の愛情を感じさせる。
そして父は妻の形見である時計を嫁に渡す。
この物語、どの家族にもある風景を淡々と映しているようだが、その時々ハットさせられる真実を垣間見せられる。
どの家族もをどこかに隠し持っている「業」。それを大仰にではなく、抑制した形で表現している。それだけにリアルな映画ともいえる。
この映画の印象は、カメラが下に固定しておいてあるせいか、人が部屋を歩くシーンでも足元が近い。
確かにローアングルは、観ている者に安心感を与えさせる効果があるのかもしれない。
隅々まで厳しく気を配られ、それが物語のゆったりとした進行のリズムと融合しているのが感じさせる。
小津作品はしばしば、「禅的世界」を描いたと評されるが、老夫婦が自分たちの運命を静かに受容している態度がそれなのかもしれない。
また、妻の死や嫁の再婚にともなって老人の周辺からモノが無くなっていくのが、ひとり人の老人の孤独を浮き立たせるようた。
小津監督の「ローアングル」は様々に論議され考察されているようだ。
これについて個人的にはあるスポーツ番組で、「東京物語」とは何の関係もなく、福田正博というサッカー選手が語った語った言葉がヒントになった。
スアジアムで上から見られるということは、プレーのすべてが「評価」されることだと語った。
逆にいうとカメラの位置を下げるということは、「評価」を抜きにして、より近い位置から真実のみを見ることができるということだ。
福岡ドームにも「コカコーラシート」が出来て、選手と同じ視線で試合を見ることができ、その迫力をより身近に感じることができるようになった。
ただしこの視線からは、全体のポジションなどは見えないため、解説者はまずこの場所にすわって、試合の内容を伝えようとは思わないはずだ。
よく考えると小津監督は「東京物語」で何かを伝えようとしたのだろうか。
映画を作る以上それがないはずはないが、あるがままに家族の日常を映し出しただけのように見せている。
そのローアングルをもって日常意識しなかった真実が見えてくるような気になる。
まるで「オヅの魔法」にかかったように。

苦労したタタキアゲの人は、自然に「ローアングル」が身についている人が多いようだ。
以前、消費者金融の武富士の会長の話が印象に残った。
お金を貸すか貸すまいか迷った時、その人の家に行って、毎日洗濯物がきちんと出されているかを判断の基準にしたという。
京セラを一代で築いた稲盛一雄が日本航空の再建を引き受けたが、本人は2010年2月に会長に就任するまで乗っていなかったという。
日本航空のサービスがマニュアル一辺倒で、心からお客のためという気持ちが感じられなかったからだ。
幹部10人ぐらいと会って話を聞いたところ、自分が感じていた「印象」は間違っていなかったと気が付いた。
皆優秀で、言っていることも素晴らしい。しかし零細企業から身を起した稲盛氏からすれば「官僚的」で、心がともなっていない。
これでは何万人もの社員が心から信服してついてくるわけがない。つまり潰れても当たり前だと思った。
実際に倒産後「JALは横柄で、倒産しても当然だ」と、客から罵声を浴びた。
そこでリーダーの意識改革から、人間の生き方まで説いたという。
ところで最近、石原慎太郎が田中角栄元首相の評伝を「天才」と題して本を書いている。
この本は読んでないが、秘書・早坂茂三の本(例えば「駕籠に乗る人担ぐ人」)には、田中角栄の目線の低さがよく紹介されている。
新潟の寒村を出た田中は東京に出てでしばらく「理研」で働いた。その後神楽坂で土木建築会社をたちあげ成功し、財を築いた。
そして政界に入り、史上最年少の若さで総理大臣になっている。東大卒だらけの大蔵省で、高等小学校卒ながら大蔵大臣になった時の田中の挨拶は、その生きざまをよく表している。
「私が、田中角栄がある。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政、金融の専門家揃いだ。私はシロウトだが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささかの仕事のコツを知っている。
一緒に仕事をするには、お互いよく知り合うことが大切だ。我はと思わんものは、誰でも遠慮なく大臣室に来てくれたまえ」。
田中は、役人の優秀性を知る一方で、役人の「限界」というものをよく知っていた。
それは、役人は自分達の「視線の高さ」でしかものを考えられないということであり、田中は役人ではできない発想をもって数々の「議員立法」を実現している。
前述の早坂茂太の本には「おやじさん」と呼んだ田中角栄の言葉がいくつも紹介してある。そのいくつかを紹介すると、次のとうり。
「悪評を恐れることはない。人の口に戸は立てられない。 世の中はやきもちの大海だ。目立つやつは目障りになる。 態度のでかいやつには風当たりが強い。
ところがまた、この世間の悪評ほど移ろいやすいものはない。 一匹のいぬが吠えれば、ほかの万匹の犬が、わけも分からずにいっせいに吠えたてる。日本はそういう国だ。
そして風向きが変われば、犬の鳴き声は一気にとまる。世間は手のひらを返す。世評、何ぞ気にすることあらん。顔を上げて吾が道を行く」。
「人は誰でも世にスタートしたときは、右も左もろくに分からない。
だが、風雪の歳月を経て経験を積み、百石もの汗を流した甲斐あって才能も花開き、時流にも恵まれて、世間が丁重に迎えるということになると、人間は普通、鼻が下を向かないで上を向くようになる。目線が高くなる。
そうなれば本人の行く手に黄色の信号がチカチカ点滅する。いばりくさって世の中は渡れない。そのうち誰も相手にしなくなる」。
「無理をして味方を作ろうと思えば、どうしても借り作ることになる。無理して作った味方は、いったん、世の中の風向きが変われば、アッという間に逃げ出していく。そうしたシロモノがほとんどだ。だから無理をして味方を作るな。敵を減らすことだ。
自分に好意を寄せてくれる人たちを気長に増やしていくしかない。その中からしだいに味方ができる。
そのためには、他人、とくに目下の人をかわいがることだ。誰にも長所がある。それを引き出すことだ。
いばるな、どなるな、言えば分かる。手のひらを返すような仕打ちをするな。いつでも平らに人と接することだ」。

ところで、日本における「ウエストサイド物語」の公演には、田中角栄が深く関わっている。
それは田中と現在「劇団四季」を主宰している浅利慶太氏との出会いがきっかけであった。
1960年代はじめの日本には、外貨規制というのがあって、外貨を使うにも一つの団体で使える枠というものがあった。
その「特別枠」を一つ一つ定めている大蔵省であり、その時の大蔵大臣が田中角栄である。
日生劇場に所属する浅利慶太らが中心になり、「ウエストサイド物語」の日本公演を実現しようという動きがおこった。
ところが日生劇場は後発の劇場で、そんな「外貨枠」などなかった。
だがこのままでは、せっかくくまとまりかけた「ウエストサイド物語」招致の話は御破産になる。
困り果てた浅利氏は、新聞社の関係者に相談すると、たまたま自民党の担当デスクであったため、田中蔵相と会う機会を取り計らってくれた。
浅利が、定例記者会見直後に大臣室に戻った田中を訪ね、手短かに「ウエストサイド物語」の紹介をして、ぜひこれを招きたいので日生劇場に外貨の特別枠を認めてほしいと嘆願した。
それに対して田中は逆に、そんな「不良の話」をやったら、に日米関係を悪くしないのかと尋ねた。
浅利が、日本人もアメリカ人の芸術的感性に打たれるはずだと説明すると、田中蔵相は、わかったなんとかしようと答えた。
そして田中は浅利に、道楽のために外貨が減ったんではしょうがない、ほどほどにしてくれといいつつ、すぐに電話をとり、当時の大蔵省為替局資金局長を呼んだ。
局長が1分後に現れるや、「ここにいらっしゃるのは、日生劇場の浅利慶太さんだ。今度アメリカから”ウエストサイド物語”を招かれるという。この作品は傑作で、日本人が見るとアメリカ文化への理解が深まるだろう。新しい文化交流のあり方として重要なケースだから、10万ドル外貨の特別枠をつくってあげてくれたまえ」と語った。
浅利から見て田中蔵相の指示は、すべてを知っていたのかと思わせるほど明快だったという。
浅利が田中と会ったのは、わずか5分間であったが、これ以後、浅利は田中と会ったことはない。
浅利が、前述の新聞関係者に聞くと、田中氏は陳情があっても即刻物事を決したりはしないのだそうだ。
かならず事前に何らかの情報を得ているという。
となると、「ウェストサイド物語」の情報源は一体何だったのだろうか。
当時、田中角栄氏には20歳の可愛がっている娘がいた。
この娘さんは、演劇好きで1968年から1年間、福田恆存の劇団「現代演劇協会・雲」の研究所に入って女優修業をしていた。
そして彼女は日生劇場の「櫻の園」に出演したことがあるという。
となると「ウエストサイド物語」日本公演の実現の背景には、この「女優」をめざした娘の存在があったのだが、この娘とは、後の外務大臣・田中真紀子のことである。
思い浮かべるに、「ウエストサイド物語」のポスターは、ローアングルで撮ったもので、やたら足の長さが目立った。
映画におけるカメラワークのことはしらないが、プエルトリコ系移民とポーランド系移民の非行少年グループ対立という物語の設定自体も、当時のアメリカ社会に抗するかのように、「ローアングル」で描いたものだった。