学校長の出会い

高校スポーツの中で、テニスの柳川高校ほどよく知られた存在は少ない。
そしてこの地は「テニスに青春」をかけたあるカップルの思いがつまった地でもあった。
柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られ後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。
立花氏家老の小野家は明治以降に有力な財界人を生み出し、ジョンレノンの妻オノヨ-コもこの小野家出身である。
1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った「天守閣」も一夜にして「焼失」してしまった。
そしてこの「城址」にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコ-トが設営されているのである。
柳川高校の「創立者」である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月柳川高校の前身となった「対月館」が設立された。
その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われ、2年後柳川本城町の現在地に移転し柳川高校となった。
対月館は解体され新校舎に使われ、当主が作ったテニスコ-トの基礎である「グリ石」も校舎建設のために使われた。
なお対月館の名前は、「御花邸」の中に残っている。
現在は、創立者の一人古賀肇氏の孫にあたる古賀賢が校長兼理事長を務め、「積極的で明るい」学校を目指している。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の所としたが、その地名から柳川の人々は立花家のことを「御花(おはな)」と呼び親しんできた。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子さんである。
「御花」は1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の「財産税」を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策でもあった。
立花の「お姫様」から人に仕える女将への「転身」には、「何もそこまで」と涙する士族出身の人々が少なからずいた。
実はこの文子さんには意外な過去があった。
学生時代はテニスの全日本チャンピオンでもあったのだ。
文子さんは立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代には スキー、水泳が得意なモダンガールで、学習院高等科のころはテニスのダブルスで「全日本女子の王座」についたのである。
文子さんの夫で16代当主で「御花」社長も務めた和雄氏は、海軍元帥・島村速雄の次男で学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタープレイヤーとの交流もあったという。
和雄氏は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、マサカ将来見合いして結婚する相手になろうとは思いもせずシッカリと覚えていたという。
立花和雄氏と文子さんとの間に「テニスコ-トの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子さん)とその夫・和雄氏が居した柳川は、城址に練習コートを設営した柳川高校によって「テニスの柳川」として世に知られていく。

以前勤務したことのある福岡県の商業高校において、その創立に深く関わった二人の人物が、ほぼ時期を重ねて「シベリア抑留」を体験していることを知った。
その一人が初代校長で、「創立記念誌」にそのことが記載され、極寒の零下40度の世界を不屈精神力と生命力をもって生き抜いたともあった。
この「シベリア抑留」は、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
最長11年抑留された者も居れば、2~3年で比較的早期に帰国した人々もいた。
シベリアで6万の人々が命を落としたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
シベリアから帰還する息子を、京都府舞鶴港で待ちわびる母の心情を歌った歌「岸壁の母」が、1954年に大ヒットした。
さて、前述した初代校長は、商業高校の校歌を作ろうと考えたが、たまたま同僚だった教員が日本ビクター専属作詞家の井田誠一氏と知り合いだったため、「校歌」の作詞を依頼したところ、井田氏がコンビで曲をつくっていた作曲家に校歌の作曲を依頼することになった。
その作曲家こそが、吉田正である。
したがって、この商業高校の校歌は、贅沢すぎるコンビで作られたといいてよい。
1963年12月に作詞家の井田氏が東京から福岡に着て、学校をとりまく自然環境や歴史的背景を見た上での作詞となった。
そして吉田門下の人気歌手の三田明が歌ったテープが学校に届き、「お披露目」となったのである。
さて、吉田正という作曲家を語るに、「シベリア抑留」という体験を抜きには語ることができない。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留された。
従軍中に部隊の士気を上げるため作曲した歌に、抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」でいつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した兵隊のひとりが、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらずの歌」を「俘虜の歌える」と題して歌うと評判となった。
吉田氏はそのラジオ放送直後に復員し、半月の静養の後「俘虜の歌える」が評判になっていることも知らずに、以前の会社に復帰している。
ところが9月に、この話題の歌に詞を加えられて「異国の丘」としてビクターレコードより発売された。
この曲がヒットして、このの作曲家がシベリアにいた吉田正氏と知られ、翌年日本ビクター・専属作曲家として迎えられた。
逆境や悲嘆の中で自らを鼓舞するように作られたこの曲は、敗戦の混乱で打ちひしがれていた日本人の心に力を与えくれてている。
吉田氏は、1960年に「誰よりも君を愛す」で日本レコード大賞を受賞している。
その後、「有楽町で会いましょう」「いつでも夢をなど」数々の名曲を世に送り出した。
そして、1998年6月10日、肺炎のため77歳で死去している。
吉田氏が、作曲を通じて日本国民を勇気づけ、励ましてきたことにより、死後1か月後に、「国民栄誉賞」を受賞している。
ちなみに、シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他スポーツ芸能界では、水原茂、三波春夫、三橋達也などもいた。
また作曲家では吉田正以外に、米山正夫がいた。
米山は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られている。

檀一雄の名作「りつ子その愛」は、博多湾に浮かぶ能古島を舞台とする。
能古島には、壇和雄の文学碑があるが、そこから糸島半島の妻リツ子さんの終焉の地・小田の浜も見える。
というわけで、そこに文学碑が立つ理由がよくわかるのだが、能古島の頂き近くには、もうひとつ「折れたコスモス」と題された歌碑がある。
この歌碑には「小さきは 小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」とある。
この歌の作者は、世界各国で特殊教育の講演を続けて今年107歳で亡くなられた元・福岡教育大学教授・昇地三郎氏である。
昇地氏が100歳を超えてからも、世界各地に活動の場を広げてこられてきた事は驚きという他はないが、この歌碑がナゼここに建っているのだろうか。
昇地氏と能古島を結ぶ接点とはナンなのだろうか。
さて、昇地三郎氏は、ご自身のお子さんが二人とも障害児として生まれ、当時は特殊教育も発達していなかったために、自ら福岡市南区井尻に「しいのみ学園」を設立され、試行錯誤の末に日本の特殊教育の先駆者となられた。
ご子息二人は、すでに亡くなられたが、能古島の「折れたコスモス」の歌碑は、日本の特殊教育の「記念碑」ともなったのである。
ではどうしてこの記念碑が能古島に建つことになったのだろうか。
ことの発端は、能古小学校出身で当時高校二年生の上村啓二君が交通事故で亡くなったことであった。
この上村君は、能古小学校時代に書いた作文で小中学校作文コンクールで西日本新聞社・テレビ賞(1978年)を受賞したことがあった。その中に次のような一節があった。
「その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。
コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。
秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。
白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。 他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。
でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった」。
さて、福岡教育大学での昇地三郎氏の教え子達の間で、氏の長年の功績に対する記念碑を建てようという動きが起こった時のことである。
その教え子の中には、特殊教育を専攻した歌手(俳優?)の武田鉄矢氏もいた。
そして、この上村君の「倒れたコスモス」と昇地氏の「折れたコスモス」を結びつけたのが、能古小学校校長の中野明氏であった。
実は、筑紫中央高校時代に武田鉄矢氏が生徒会長、中野校長が副会長という関係にあった。
また教育大学でも、中野校長と武田鉄矢氏とは一緒にJR南福岡駅から大学がある赤間まで通ったという。
中野校長は、教育大学のかつての先生である昇地氏の碑を何処に建てるか土地を探していた時、上村君の父親から「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」と要望され、歌碑建立の運びとなったのである。
昇地三郎氏の障害をもつ二人のご子息への思いと、交通事故で息子を失った上村君の両親の思いがコスモスの花を介して、能古島で交わったのである。

以前前勤務していた福岡県のある普通科高校で、額縁に収められた森戸辰男の揮毫「自主積極」の文字を見たことがある。
森戸辰男は戦後、日本国憲法草案づくりにも携わり戦後初の文部大臣に就任している。
さらに 広島大学学長に就任し教育問題などにも多くの提言をされてきた。私には保守的な人物に映ってしまうのだが、戦前は森戸事件という筆禍事件を起こした経歴をもっている。
戦前の森戸の専門は、ドイツ歴史学派にもとづいて自由主義経済の資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な「社会政策」を志向するものであった。
その後、法科大学より独立した経済学部の機関学術雑誌「経済学研究」創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿した。しかし同論文が、大杉栄等の無政府主義を鼓吹するものだとして批判され、東京大学を休職処分となった。
この問題は、新聞等により流布したため非常に大きな反響を生み、本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴されたのであった。
結局、森戸は裁判で禁固三カ月の判決をうけ森戸は、巣鴨監獄に入り、東京大学を去ったのである。1920年に起こった世に言う「森戸事件」である。
実はかつて勤務した高校というのは、1923年甘粕事件により殺害された無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝の娘2人が通っていた学校(当時は女学校)なのだ。
彼女達の両親が関東大震災のどさくさの中、殺害されたのも実は、森戸辰男が戦前に翻訳し紹介したクロポトキンの思想に強く影響され「無政府主義」を鼓吹したからである。
そして亡くなった大杉の子供達が通っていた高校の校長室に、森戸辰男の揮毫が飾られているという「めぐり合わせ」に何か目に見えぬ力を感じたのだ。
大杉の遺児達が育てられたのはその高校から4キロほど東の今宿海岸で大杉の妻・伊藤野枝の実家がそこにあったのである。
さらにそこには、大杉栄の戒名のない墓もあった。小説家の瀬戸内寂聴は野枝を主人公にして「美は乱調にあり」を書いている。
1923年、大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦からとって「甘粕事件」という。
清朝最後の皇帝・溥儀を描いた映画「ラストエンペラー」の中で坂本龍一が演じた満州国の黒幕つまり溥儀を影で操る男「アマカス」こそは、大杉夫妻を殺害したのはこの甘粕正彦である。
甘粕正彦は、大杉夫妻殺害後、軍法会議にかけられ有罪10年の懲役となり千葉刑務所に服役した。
しかし態度優秀に加えて皇室の慶事による大赦によって3年で出獄しフランスにわたり、その後満州映画会社総裁として復帰したのである。
そして夫妻の4人の幼子、魔子・エマ・ルイ・ネストルのうちルイと違いの姉エマとが今宿の野枝の実家で祖父母に育てられたのである。
ところで、この高校の古い学校新聞などでこの森戸の揮毫について調べてみたところ、広島大学の学長であった森戸氏から広島大学の卒業生であったこの高校の校長に送られたことがわかった。
つまりとても単純な話であったのだ。恩師より、かつての教え子が立派に県立高校の校長になったことを祝って、その高校の校訓を書いた揮毫を送ったというのはごく自然な話である。
ただ個人的に、故・大杉伊藤夫妻の目に見えぬ力がこの揮毫を呼び寄せたとまではいわくとも、この揮毫にはもっと深い意味が込められているような気がしてならない。
すくなくとも森戸氏は、この学校のある糸島の地が同時代を生きた無政府主義者大杉栄や伊藤野枝のゆかりの地であることは当然ご存知だったであろう。
では、森戸と大杉に「無政府主義」という共通項があったにせよ、学窓に生きる森戸と野に生きる大杉とは、何らかの実際の「接点」があったのだろうか。
永畑道子の小説を映画化した「華の乱」を見ると、黒マントの大杉が有島の邸宅を自由に出入りしていたシーンが描かれている。
実は、森戸事件のあと、渡米後に社会主義に傾倒していた小説家の有島武郎が森戸に慰労の手紙を送ったことにより、森戸と有島との交友が始まっているのである。
それなら、有島を介して森戸と大杉には面識があった可能性も出てくる。
この大杉栄と森戸辰男の接点があったのかどうか、広島大学の資料館に問い合わせたところ、二人の葉書のやり取りが残っており、森戸は大杉の行動力を高く評価していることがわかった。
広大学長となった森戸氏が、広大出身のこの高校の校長に、校長就任のお祝いの意味をこめてこの揮毫を送られたにせよ、かつて大正期の世情をにぎわせた甘粕事件で糸島郡の今宿村に葬られた大杉栄や伊藤野枝のこと、そしてこの高校ので学んだ彼らの遺児達のことがきっと心の中を駆け巡ったに違いない。
元・文部大臣と故・無政府主義者の、学校長を介した不思議なめぐり合わせである。