事件の繋がり

JR博多駅とJR吉塚駅の間、福岡高校グランドと大きな通りを挟んだ鹿児島本線沿いに「吉野公園」がある。
名前から想像できるとおり、春には桜がさき目の前の保育園児の元気な声がいつも響く場所である。
この場所に「桜」が植えられたのはいつ頃からだったのだろうか。
あくまでも推測だが、ある「事件」と関係があるのかもしれない。
1947年5月20日のこと、当時この公園にあった工場試験場で二つの死体が発見された。
死体は銃で撃たれ、刃物による刺し傷など乱闘を思わせる傷があった。
捜査当局が調べたところ、軍服の闇取引を行っていた中国人衣類商と日本人ブローカーの死体であることがわかった。
この事件の犯人とされたのは、この闇取引に関わったとされる会社社長と、現場の取り引きに立ち会った石井という人物である。
当時の闇取引は、暴力団も関与するという疑心暗鬼の中、日本人と中国人との間で乱闘が起き、石井は護身用にもっていた拳銃を発砲し、「誤認」により二人を射殺してしまう。
ところが、警察は「架空の軍服取引を持ちかけ、被害者2人をおびき寄せた強盗目的の計画的犯行」と断定し、いずれも元軍人の社長を首謀者、石井を実行犯として、「強盗殺人容疑」で逮捕した。
しかし、社長も石井も、発砲はあくまで偶発的なものであって、共謀などした覚えはなく、強盗殺人を完全に否定した。
この事件を「福岡闇商殺人事件」というが、1948年社長と石井の両名は、福岡地裁で「死刑判決」を受け、1956年に最高裁で死刑が確定した。
こうした厳しい判決となった背景には、終戦直後の混乱期で敗戦国・日本は戦勝国「中国」に負い目をいだいており、中国に対しては腫れものにさわるような雰囲気さえあったことがあげられる。
そこで傍証席から中国人達が容疑者を「死刑にしろ」といった声もかかり、裁判官が被害者側の心情にかなり傾いた判決となった可能性も否定できない。
さらに、他の受刑者の証言などから、逮捕後に逆さづり水攻めの拷問を受け、自白を強要されていた事実が判明している。
ところで、この判決で「死刑囚」となった社長および石井と福岡刑務所で会い、「冤罪」を確信した人物がいる。
熊本の住職で教誨師として福岡刑務所を訪問していた古川泰龍氏である。
古川氏は原稿用紙2000枚にもおよぶ「真相究明書」とまとめ法務大臣に提出し、その印刷代を捻出するために実家である温泉旅館を廃業して、家族ともに全国を托鉢してまわった。
そしてこの事件は、戦後初の死刑判決というばかりではなく、日本裁判史上初めての「死刑執行後の再審請求となった。
ちなみに石井は、「月が割れるほどに無罪を主張する」という内容の和歌を残している。
しかし、古川氏が「再審請求」のために全国を回ったことが、思わぬ人物を彼の元に引き寄せようとは、誰も想像だにしなかったに違いない。
1964年、古川泰龍氏宅に弁護士を名乗る男が突然やってきて、当時古川氏が行っていた「死刑囚助命運動」への協力を申し出たのである。
そして、古川氏が運動の中で懇意となった協力者の名前を語ったため、弁護士の男のことをすっかり信用し、 その男はそのまま古川宅に居候することになる。
実はその男、古川氏の郵便ポストから運動の協力者の名前を、あらかじめ「盗み見し」ていたのだ。
ところが、古川氏の三女(当時10歳)は、住宅街に貼られてあった「全国指名手配犯のポスター」から、この男が逃亡中の「連続殺人犯・西口彰」であることを見破った。
家族もそこから疑いを持ち始め、様々な怪しい行動が見えてくるようになる。
実は、突然居座った「弁護士」を最後まで信じきっていたのが古川氏自身だが、疑いをもち始めたのは「福岡闇商殺人事件」の裁判の再審に協力をしたいと言ったにもかかわらず、事件の基礎事実をほとんど知らないことだった。
家族は、通じてもいない電話で架空の会話をする西口の様子を下の階の電話をとって確認し、「西口」と確信するが、警察に通報したものの、即逮捕というわけにはいかず、恐怖と緊迫の一夜をすごしたのち、西口彰はついに逮捕された。
この西口彰が古川氏宅に居座るまでに犯した5人の殺人事件については、映画「復讐するは我にあり」(原作:佐木隆三/主演:緒方拳)に詳細に描かれている。
その犯人像は、2000年に起きた「世田谷一家殺人事件」の犯人に似て、死体とともに夜をすごしたり、平気で食事をとるなどの「非人間性」が認められる。
そこがノンフィクション作家・佐木隆三に、犯人の「生い立ち」に対する興味を掻き立てたポイントであったにちがいない。
西口は、「死刑判決」に対してもヒルム様子はまったく見られず、最後までその態度は一貫していた。
ただ、長崎のカッソリックの家庭に育った彼が、教誨師の牧師から旧約聖書の一節「復讐するは我にあり」の”我”が、「人間」つまり彼自身を指すのではなく「神ご自身」を意味するものであったことを初めて知って、「痛恨」の表情を見せたことが、唯一の「人間的な反応」であった。
1947年に起きた「福岡闇商殺人事件」と、1963年~64年の「西口彰連続殺人事件」は、まったくの「独立事象」だが、ふたつの事件が「死刑後の再審請求運動」を通じて繋がるのが面白い。

「歴史は繰り返す」という。つまり同じようなことが繰り返し起きるということだが、時間や距離を隔てて起きた出来事に、何か似通っているというのはどういうことであろうか。
「独立事象」のように見えながら、しばしば「過去」の出来事を意識する人の意志が関係する場合もある。
佐木隆三の「復讐するは我にあり」という作品も、トルーマン・カポーティのノンフィクションの金字塔「冷血」を意識して書かれたものである。
人間は、意識している「何か」に動かされて歴史をつくる面もある。その「何か」が「血の繋がり」ということも大いにありうる。
例えば、安部首相の政治スタイルと祖父の岸首相の政治スタイルとの近似がしばしば指摘されるところである。
世界史に目をむけると、ナポレオンという軍事の天才は古典が大好きで、カエサルやアレクサンダーを読みふけって彼らの行動を自分の血肉としていた。
ナポレオンは、戦闘の場面場面で古典の中の「記憶情報」から彼の行動の基準を見出して行動している。
例えば、ナポレオンの「ロゼッタ石発見」に繋がる文化調査団の引率は、アレクサンダー大王と同じくエジプトに帝国の夢を見ていたからだろう。
ところで、ナポレオン(1世)には後継者とすべき子供ができず、ナポレオンの弟と妻ジョセフィーヌの連れ子オルタンとの間に生まれたナポレオン3世がその「後継者」となるが、英雄であった叔父のナポレオンを意識しすぎて、無理な対外戦争を繰り返し、セダンにてプロイセン軍の捕虜になるという「大失態」を演じている。
日本史でも「歴史は繰り返す」で思いつくことはいくつかあるが、繰り返すというより、ほとんど「ツインな出来事」が生じている。
1903年日露戦争時に日露開戦を唱えた「東大七博士」の建白と、40年の時を隔てた太平洋戦争終結を唱えた「東大七博士」の建白で、きちんと7教授に収まっているのも面白い。
前者の建白は、1900年義和団事件以後もロシアは撤兵せず、満州を占領状態のまま朝鮮にまで食指をのばそうとしており、日本の防備の「危機」が迫っていると、この時期を失すべきでないと「開戦」を主唱したのである。
なにしろ東大の法科大学教授のいうことである。その位格は今よりも高く10名前後の教授の内の7名が「ロシアと戦うべし」という建白書を桂太郎首相はじめ政府高官に送りつけたのである。
その社会的インパクトたるやとても高く、日露開戦へとむかう世論をリードしたといえる。
それから40年後、今度は太平洋戦争の終戦構想を打ち出したのが、奇しくも東大七博士の「太平洋戦争終結」の建白なのだ。
ただし、日本の終戦について一般に名をとどめているのは、木戸貫太郎首相・米内光政海軍大臣・東郷茂徳外相で、「東大七教授」建白の方は「秘史」の領域であり、教科書の欄外にも載っていない。
実は、この七人の教授、将来もコノコト一切を秘密に葬り去ることを「誓い」合ったという経緯もある。
後に吉田茂首相により「曲学阿世の徒」とよばれる南原繁教授らはこの「終戦構想」において、空襲の危険ばかりか管憲の警戒監視をくぐりぬけ、何度も内大臣の木戸幸一や海軍首脳と会って、構想を提示し、天皇の裁断と詔勅による終戦以外に、とるべき道のないことを示した。
その構想の中には、「戦後における国民道徳の基礎を確保するために、天皇は終戦の詔勅において、内外に対する自己の責任を明らかにするとともに、終戦後、適当な時期において退位すること」という重い内容が含まれていた。
南原教授を含む東大七教授による「終戦建白」は、日露開戦時における東大七教授による「開戦建白」という影の記憶を意識し、それを「打ち消す」カタチで行われたようにも見える。
我が地元・福岡の関連で興味深いのは、新旧いずれの「東大七博士」にも、修猷館高校の卒業生がそれぞれ一人含まれていた点である。
日露開戦建白の寺尾享、太平洋戦争終結建白の田中耕太郎である。
ともあれ、新旧の東大七博士の建白が、「開戦」と「終戦」と対極に向かったことが、かえって両建白が「非独立事象」であることをうかがわせる。

日本を成長させてきたモノヅクリは、グローバル化と円高によってますます不利な環境に置かれつつあり、土地や労働力が安い新興国にシフトしていく流れを止めることはできない。
アメリカ同様に、「製造業」に代わって「金融業」が重きをなしつつある。
ところで近年、金融界と芸能業には様々な「共通点」があることを思わせられる。
まず第一に、時代の「花形」であること、時には「虚業」ともいわれること。さらには歴史を遡れば「賤業」だったことに加え、「闇社会」とのツナガリが深いことなどである。
歴史的にみて、「金貸し業」や「芸能の世界」には、ノシ上がり的願望や金銭欲など様々な人間の欲望が噴出している業界であり、トラブルがたえない世界でもある。
その辺の匂いをイチハヤク嗅ぎ付けるに巧みな「闇世界」の人々に、「活動」の場を提供しているということもあろうか。
ところで「金融」をめぐる事件でインパクトが強いのが、終戦まもない頃の「光クラブ」の経営破綻である。
この「光クラブ」を経営していたのが、東京大学の山崎晃嗣という学生であった。
東大のエリート学生と「金貸し業」は不似合いな感じだが、山崎はそういう社会的評価にも頓着しない合理的精神の持ち主だったようである。
山崎は日本マクドナルドの創業者・藤田田(ふじたでん)と東大で同期生であるが、藤田は次のように語っている。
「私は光クラブの社員ではなかったが、山崎を尊敬していたし、山崎に資金を融通していたことも事実。私は今まで山崎ほど頭のいい人間にお目にかかったことがない。そういうと、山崎が『お前ほど心臓の強いヤツに会ったのははじめて』と、答えたことをおぼえている」と。
山崎は、戦後の混乱期の1948年、東大在学中にヤミ金融「光クラブ」を設立させ、商店主らに高利で金を貸し付け、事業を急拡大させて世間を驚かせた。
当時、反社会的で無責任な若者たちは「アプレゲール」とよばれ、山崎もその雰囲気のある人間で、東大で同期の三島由紀夫の小説「青の時代」のモデルにもなっている。
山崎は「私は法律は守るが、モラル、正義の実在は否定している。合法と非合法のスレスレの線を辿ってゆき、合法の極限をきわめたい」といった言葉を残している。
つまり山崎は、戦前の価値観が転倒し、金だけが頼りという「拝金主義」が蔓延した時代の「申し子」であったといえる。
とはいえ山崎は、「物価統制令違反」などの容疑で逮捕され、それがキッカケで事業が破綻し、青酸カリを飲んで自殺している。
さて山崎のように「金を稼ぐ」ことで力の限りを試し、世の中を騒がせた若者像は、記憶に新しい。
ただ、彼らの登場した時代には、「金貸業」はスタイルを変えながらも「時代の花形」にまでならんとしていた。
そのキッカケは、「ソ連崩壊」による冷戦終了後、アメリカの軍事産業から、金融業界に極めて優秀な人材が流れてきたことである。
彼らのIT技術を駆使して作り出す金融商品は、軍事的ノウハウの転用であり、極度なデジタル的商品であることが特徴的であった。
それまで理工系の人間が金融業を目指すということはほとんどなかったが、理工学部なんかにも「経済工学」といった講座が設けられるようになっている。
そして平成の時代に登場した堀江隆文(ホリエモン)、村上世彰いずれも東大の学生時代から実業の世界に身をおいている。
そしてやはり「光クラブ」の山崎同様に、「合法なら金を儲けて何が悪いか」という信念のもと、既存体制に挑戦した「やり過ぎ」が破綻の原因となったという点でも似ている。
ホリエモンの「やり過ぎ」は、免許事業で護送船団方式の典型である放送業界に切り込んで、ニッポン放送を買収し、フジテレビの経営に介入しようとし、日本で最も閉鎖的集団であるプロ野球界に風穴を開けようとしたことである。
つまり旧い体制を担った人々を怒らせたという面が強い。
ホリエモンはプロ野球を牛耳っていた体制の人達の反発を買って追い出されたが、その「間隙」をついてはいってきた、三木谷浩史が「楽天イーグルス」を、孫正義が「ソフトバンク・ホークス」を経営することになった。
検察が堀江や村上の捜査に力を入れたのだが、政治家や暴力団の悪質なマネー・ロンダリングにまで踏み込まず、実際に罪に問うたのは自社株売りとか架空取引などの「粉飾決算」でしかなかった。
しかも掘江は、粉飾行為については極めて正当な行為で、そんな意識はまるでなかったと主張している。
また村上の動かしていた金額は、バブル期にカリスマ相場師を中心とした「仕手グループ」が扱った資金に比べても、10倍にもあたるケタ違いの大きさだったといわれている。
これだけまとまった金が村上ファンドに流れ込んだのは、政治家や裏社会のアングラマネーが流れこんだという以外には考えられない。
ライブドアの野口英昭氏が沖縄で怪死したのは、その「闇」との接点を感じさせるものがあった。
ただ掘江や村上が関わったに違いない「闇」の世界にまでメスをいれることはなく、一斉にスプリンクラーが作動するように冷却へと向かったのである。
結局、検察が動き出したのも「合法に金儲けをするならば何でもしてもいい」という風潮を正すためなんかではなく、既得権益にガッチリ組み込まれた放送局など「体制側」の一部を、胡乱(うろん)な若者に渡すわけにはいかなという体制側からの「取り潰し」ということであろう。