マクロの決死圏

先日、日本銀行が「マイナス金利」に踏み切った。お金を預けると「金利」がもらえるのではなく、(手数料=罰金)がとられる。
とはいっても、我々一般人と市中銀行の関係ではなく、市中銀行が日銀に「預金準備」として預けている「当座預金」の追加分で「手数料」をとるというもの。
そんな「奥の手」もあるのかと思ったら、すでにスゥエーデンやデンマークなどでやっているという。
すでにゼロに近い金利が「マイナス金利導入」でさらに下がるのなら、金利をとらない「イスラム教の規範世界」に近くなる。
日銀のシナリオでは、市中銀行が「手数料」をとられないように日銀に預けなかった分、お金を企業等に貸し出しにまわすため、市中にお金が出て「景気刺激→物価上昇」といきたいところだ。
しかし、経済のエキスパート達は、そうやすやすとシナリオどうりにコトが運ぶとは思っていないはず。
それよりも、「2パーセント物価上昇目標」に対して、日銀がこれ以上打つ手なしという空気を払拭し、旗をイマダ降ろしていないことをアピールするネライの方が強かったのではないかと推測する。
確かに、前政権までの「通貨価値の安定」を至上命令としてきた「守りの日銀」とはウッテ変わって、物価上昇のためには「出来ることなら何でもやる」という様変わりようだ。
その効果はすぐに現れ、年度当初から低調だった株価は実際に上がっている。
とはいえ、、日本銀行の9人の委員のうち、「マイナス金利」導入に賛成5、反対4のぎりぎりの決定だったようだ。
銀行がお金を日銀に預けたら「手数料=罰金」をとるというのは、大きな「賭け」といわざるをえない。
それでは「マイナス金利」が失敗に終わるケースとしてどんなことが考えられるか。
性格は全然異なるものの、鎌倉時代よりたびたび出た「徳政令」から考えてみたい。
幕府による「借金帳消し」令は、借金に苦しむものを一時的に助けるが、そんな命令が繰り返し出されるようば、結局は誰も金を貸さなくなる。
つまり、それ以降幕府の御家人が苦境に陥っても、助けなくなるということだ。
そしてナニヨリ、金を借りれないということは、長いスパンで見ると経済規模自体が「縮小」することを意味する。
現在、市中銀行は国債を日銀に売って当座預金を預けているが、その当座預金に「罰金」がつくなら、市中銀行はソモソモ日銀に国債を売らないことになる。
これは明らかに、従来のアベノミクスの方向性とは「逆」である。
確かに、銀行が実際に「貸し出し」を増やせばカネ回りはよくなるが、金利低下による「収支悪化」のため、銀行は逆に「貸し出し」を慎重にする可能性もある。
また格言にあるとうり馬をいくら水場に連れて行っても、馬が水を飲む気がない限りはどうしようもない。
それに同じく、銀行に貸し出す資金が増えたとしても、企業が設備投資に乗り気で、お金を積極的に市中銀行から借りようとしない限りは、「信用創造」の歯車はまわっていかない。
近年の日本は、80年代に大きな借金を抱え込んだ企業が、90年代の資産価格の暴落で「債務超過」のような情況に陥り、お金を借りるどころか、投資や消費を抑え「借金返済」にまわっている状態である。
そんな中、いかに銀行が貸し出そうとしても、企業が設備投資にまわす資金を積極的に借りにくるだろうか。
つまり、人を救うはずの「徳性令」が経済を縮小させたように、「マイナス金利」は景気刺激どころか、経済規模の縮小というカタチで、「裏目」に出る可能性がある。

最近の経済状況の中で、「原油安」が一番ありがたい。個人的には、パソコン関連の驚くほどの値下がりにも恩恵に預かっている。
しかし、2パーセントの物価上昇を至上目標としている政府・日銀からすれば、それは面白くないことなのだろうか。
素人目には、この「数値目標」が日本経済の自縄自縛の度合いを高めているようにみえてしまう。
あまりにソレにこだわるなら、「一将功なりて、万骨枯る」という言葉にもあるように、「日銀 功なりて 日本経済 枯る」ということになりはしないか。
政府日銀は、物価上昇2パーセントをなんとしても達成したいのだろう。
もし達成できなければ、肝いりではじめた「インフレターゲット」政策は、二度と導入することができなくなるからだ。
それよりも、政府・日銀の経済政策の失敗の責任が問われることになるからだ。
政府と日本銀行が物価上昇目標2パーセント、いわゆるインフレターゲットを導入したのは、約2年前である。
1980年代より、デフレスパイラルに陥っており、人々が、物価が上がっているという意識を持たせることが、経済を活発化させるということだった。
物価が下がっている時、人はもっと下がるだろうと金を使わないが、上がっている時は早めに使ってしまおうと思うからだ。
そこで金利を下げて金まわりをよくしたのだが、金利がゼロに近づいてはどうしようもなく、あとは異次元という「量的緩和」まで打ち出した。
そこで、日銀が市中銀行から国債を大量に買ってきたが、それも「限界」に近いてきている。
日銀は毎年、80兆円の国債を買っている。10年間買い続けると、すべて買い切ってしまう。
17年頃に日銀は国債を買えなくなるらしく、現在の日銀総裁の任期までに方向をきめないといけない。
もし国債の買い手がいなくなれば、金利があがり、国債は暴落する。
財政は破綻し、公務員給与や諸経費を削るか、それができないならば、政府はオカネを印刷せざるを得なくなり、ハイパー・インフレがおきる。
しかし、最近新思わぬ「朗報?」があった。
中国経済の減速で、外国人が比較的「安全な資産」といわれる日本国国債を買っているというのだ。
「中国経済の減速」により、国債の買い手がでてきたのはいいが、爆買いの中国人客は減り景気面での悪影響がでる面もある。
しかしそもそも、財政難の日本の国債が比較的安全といわれる理由は何だろうか。
例えば、ギリシャに比べてもはるかに借金残高が多い日本国債が安全なのは、ギリシャ国債は「ユーロ建て」という根本的な違いがあることを忘れてはならない。
ギリシア人はユーロという通貨を使えるけれども、ユーロを勝手に印刷したり、発行する権限など与えられていない。
ギリシアとは対照的に、日本の国債売買が結局は「日本人同士」の貸し借りであり、国債を一番保有しているのが個人投資家よりも都市銀行だからだ。
国債を皆が売りにだして、日本経済全体を危殆に瀕させるようなことは、マズしないだろうという安心感がある。
その点、日本はグローバル化とはいえ、政府指導が行き渡る「国家経済」の残滓がいまだに色濃く残っている。
ただ、この安心感が長く続かないのは、外国人が保有する国債の比率が上がるという事実そのものの中にある。
外国人投資家は、他に魅力的な金融資産があれば簡単に乗り換えるため、一気に資金を引き上げる可能性があり、その時に国債暴落→金利上昇→ハイパーインフレという最悪の事態となる。

アベノミクスの最大の特徴は「期待」に働きかける政策であることだ。
前述のように金利はその下限に達していて政策金利としてはもはや使えない。
そこで、あとは「量的緩和の受け皿」となるのが、人々の「期待」である。
ただ、債権・株・為替など資産市場では、「期待」に働きかけて反応しやすいが、問題はそれが需要や生産といった「実体経済」にどこまで影響を与えられるかである。
そこで、現在のアベノミクスで際立つのは、「官民対話」という形でおこなってきた、本来企業が自ら決めていたことに対しての様々な注文である。
企業は内部留保を吐き出せ。雇用や投資をふやせ。
賃金をあげろから、女性をもっと活用せよ、まで喧しい。
さらに、際立つのは株式市場にオカネを誘導する政策を次々に打ち出している点で、「株価上昇」も「官製相場」という批判をうけている。
その代表が、公的年金資金を運用する世界最大の機関投資家GPIF(年金積立金管理運用独立法人)をめぐる動きである。
GPIFが株式への資金配分を増やす方針変更を「政治主導」で進めその比率を高めた。
もちろん株価が上がれば株を持つ人だけではなく、年金運用の改善など恩恵は広く国民全体におよぶ。
しかし株価はグローバル化がすすむ経済全体の動きを反映するため、アメリカなど諸外国の政策変化や地政学リスクなど一国では対応できない理由で動く。
運用対象が年金積立金だけに、危ない橋を渡りはじめたと思ったら、昨年末それが現実のものとなった。
GPIFによる年金運用において8兆円もの損失を出した。
この点につき、安倍首相は一時の損失であり、もっと長いスパンで見て欲しいと語っている。
しかし、今は「少子高齢化」が進行し、長い目でみれば日本経済は、世界1位の額を誇る金融資産を「消費」に変えて食いつぶす時代に入っている。
長いスパンでみるからこそ、年金運用を「株価上昇」という 一時の政治目的に使ってほしくないという気にもなる。

さて、経済学に「期待」を明示的に取り入れる理論が初めて経済学の教科書に載ったのは、1980年代前半ぐらいだったように思う。
皮肉なことにその「期待」とは、アベノミクスのように経済政策が効力をもつように導く「期待」ではなくて、経済政策の効力を「奪い取る」期待として登場したものだった。
その理論とは、ミルトン・フリードマンの「期待失業率仮説」である。
これは現代版の「貨幣数量説」で、お金を増やしても、実体経済(雇用や生産)にはいかなる影響を与えない。つまり物価のみが上下するだけという、ケインズ政策の「効力」に真っ向から挑んだ学説であった。
貨幣数量説は、貨幣とモノの代替を重視する立場で、物価はあくまでモノの量との関係できまる。
物価が下がると貨幣の価値である購買力は上昇する。そのため、人々や企業は保有している「貨幣購買力」が実質的に増えた分、その一部をモノやサービスの購入に向けようとする。
これはマクロ経済全体でいれば、物価が下がると、国内総生産に対する需要が増えることを意味する。
一方、ケインジアンは、人々は増えた実質貨幣残高をモノへの購入に向けるのではなく、債権や株式といった貨幣以外の金融資産の購入に向ける。
例えば、債権の購入に向ければ、債権価格は上昇し、逆に債権の金利は低下する。
銀行の貸出金利が一定のまま、債権の金利が低下すると、銀行は債権を保有するよりも貸出をしたほうが有利になるのえ、貸出を増やそうとする。
すると、貸出市場の需給が緩んで貸出金利も低下するため、設備投資や住宅投資が増加する。
さて、前述のフリードマンの「期待失業率仮説」を簡単に言うと、市中銀行が貸し出し増などによって通貨量を増やせば、企業の資金繰りにも余裕が出て賃金率をあげることができる。
しかし、その上昇分に対応して 企業や人々が物価上昇が起きているということに気がつけば、実質賃金(賃金率アップ/物価上昇)は変わらないので、雇用水準はもとの「自然失業率」におさまる。
したがって、通貨量をどんなに増やしても、もとの自然失業率仮説に戻るだけで、「雇用水準」(=生産水準)になんらの影響を与えることはできない。
結局、経済政策が影響を与えられるのは、「名目上」の賃金率アップという錯覚に陥っている「短期」に限ってということになる。
つまり、経済政策の方向性が人々に「読まれている」かぎりは、ケインズ政策はいかなる効果ももたいということだ。
言い換えると、経済のパーフォーマンスに完全に心理要因が「織込み済み」のケースである。
そこでフリードマンは、いっそのこと政府自ら「Kパーセント・ルール」を宣言して、毎年Kパーセント通貨量を増やすと人々の心理に織込ませておけば錯覚による「かく乱」も生ぜず、その時々の生産力に応じた安定した経済が望めるとしたのである。
ところで、フリードマンの「期待」理論をさらにカゲキにしたのが、「合理的期待仮説」である。
これによると、個々に人は予測を誤るかもしれないが、集計体としては「正しく」予測するので、錯覚は生じない。
そこで、「合理的期待学派」は一時的な経済政策効果さえも否定し、経済政策の「完全無効」を唱えたのである。
合理的期待学派の結論はかなり極端だが、「期待」(=予想)が、経済政策の効果を奪い取ってしまうことはしばしば起きることだ。
このたびの「マイナス金利」政策が、ある程度効果を持ちえたのも、それが人々の予想を裏切ったからである。

日銀の「マイナス金利」導入につき、随分昔に見たある科学SF映画を思い出した。
1966年公開の「ミクロの決死圏」で、何かの映画賞を受賞したイマダに名作の誉れ高い科学映画である。
どこかの国からやってきた政府要人が撃たれ、瀕死の重傷となる。絶対に守らなければならない要人の命ゆえ、危険な手術は出来ない。
そこで、医療チーム数人がアリのようにミクロ化して、人体に侵入して「患部」に近づき、治療を施すというものだ。
映画では赤血球や赤血球やら様々な物質が風船のように浮かんでいたのが印象に残っている。
そして、その物質の間を「超ミクロ」のシャフトに乗ってスリぬけ、患部に治療を施すことに成功する。
しかし、本当の難題はこれからである。
医療チームがミクロ化していられるのに「時間制限」があり、それが刻一刻と迫っているのだ。
タイムリミットを越えると、医療チーム全員が死ぬばかりではなく、すべての治療が無駄に終わる。
彼らは、ギリギリ涙腺をとおって「目」から脱出することに成功する。
今、日本経済の様々な「マクロ・パフォーマンス(数値)」からみて、出口のない状態になりつつある。
まず日銀は、国債を大量に買い込むにつれて、国債暴落のリスクを一手に引き受ける方向にあるため、いずれは「金融緩和」の出口を見つけなければならない。
しかし、金融緩和の「出口感」のなさは、極めて単純に説明できる。
日銀が「異次元金融緩和」を縮小して金利が上がったら、当然に国債の価値は下がる。
市中にオカネを流すために、GDPの半分に近い国債を買い込んだ日銀が、一気に資産を失う結果になるからだ。
今でも1000兆円の債権があるが、1パーセントの金利上昇はなんと10兆円分の減価が生じるという。
また、金利があがることは日本国政府の借金返済の負担を重くし、財政再建の道をますます困難にすることにもつながる。
そこに追加増税から、「マイナンバー制度」の悪用などの不安もよぎる。
今後、政府・日銀が、タイムリミットまでに「自縄自縛」の縄目を解き解いて安全に抜け出すのは、サーカス並みの至芸が求められる。
それは「マクロの決死圏」のよう思える。