国家機密漏洩

数年前、エドワード・スノーデンという人物が、CIA(中央情報局)が世界中に仕掛けた「盗聴活動」を暴露したことに、世界は大きな衝撃を受けた。
アメリカ政府はその行方を追っているが、もし彼が逮捕されれば「終身刑」を免れ得ないだろう。
それでは、スノーデン氏が「国家機密の漏洩」に及んだ動機とは何なのだろうか。
社会正義(思想)か、真実の希求か、それとも自己顕示欲か。様々な要素が絡んでいると思われるが、少なくとも「国家反逆」の汚名だけでその人格まで裁く気はないし、逆に英雄視するつもりもない。
スノーデン氏自身は、CIAやNSA(国家安全保障局)の勤務時代に見た、アメリカ政府の悪辣な行為に「幻滅」を感じたと語っている。
ところで、昨年11月に見たNHKスペシャル「盗まれた最高機密~原爆スパイ戦の真実」は、国家機密漏洩につき公文書と当事者の証言を根拠にしたものであったが、その内容は「驚天動地」という言葉が最もふさわしい。
なにしろ、アメリカ核開発計画「マンハッタン計画」の中心人物が、ソ連に「原爆の作り方」の情報をソックリ渡したというのだから。
さらに驚いたのはその「動機」である。彼は次のような証言をしている。
「わたしは原爆の秘密をロシア人に渡すことに決めた。なぜならわたしには、…まるでナチス・ドイツを作るように一つの国を軍事的脅威に変え、その脅威を世界に野放しにすることになる『核の独占』などはあってはならない、ということが重要に思えたのだ。これにあたって一人の人間がすべきことには、たった一つの答えしかないように思えた。
なすべき正しいこととは、アメリカの独占を壊すように行動することだったと。 ロスアラモスで、原爆の破壊力を知って自問した。アメリカが原爆を独占したら一体どうなるのか。私には信念があった。核戦争の恐怖を各国の指導者が共有すれば、彼らは正気を保ち、平和が訪れると思ったのだ」と。
さて、冒頭のスノーデン氏の告白を聞いたとき、実話に基いたアメリカ映画を思い出した。
ショーンペンが主役を演じた「コードネームはファルコン」(1983年)という映画で、政府の非合法活動に怒りを覚えた青年が「国家機密」を漏洩するという話である。
1973年、父親が軍需産業の最大手の会社に勤めるクリストファー・ボイスは学校退学後に、父の紹介で軍需産業の会社に就職する。
国防総省関係の部署に配属され、全てが「最高機密」となっている場所にも自由に出入りするようになる。
さらに面接をうけて、スパイ衛星の為に最高度の「守秘義務」が課せられる「ブラック・ボルト」(黒い情報室)の係員となる。
彼がそこで見たものは衛星を使ってスパイ活動をするCIAの非合法な活動とその連絡文である。
それを読んだクリスは他国に内政干渉するCIAの活動に言い知れぬ怒りを憶える。
そんなクリスには、幼馴染のアンドリュー・ドルトン・リーという親友がいた。
彼も裕福な家に育ったが、金の為に麻薬売買に手を染め、逮捕保釈後もメキシコに逃れ、違法な入国を繰り返していた。
クリスとドルトンはCIAの非合法活動を金にしようとはかり、メキシコに逃れたドルトンは在ソ連大使館へと密かに接触する。
そのうち二人は深みにはまっていき、麻薬捜査の過程で二人が行った「国家秘密漏洩」が発覚するというストーリーだった。
この2人は逮捕されてクリスは40年、ドルトンに至っては麻薬密売等の余罪も加算されて「無期懲役」になったらしい。
興味深いことは、ドルトンの方は「仮釈放」になった後、この映画でドルトン役をつとめたショーン・ペンに雇われたという経緯がある。

さて、「自然」はしばしば母性に喩えられるが、「国家」は何に喩えられるだろうか。
ドイツ語で国家や領域をあらわす言葉”Staat”や”Reich”は、「男性名詞」となっている。
国家は、国民の生命や財産を保護し福祉サービスなどを提供する一方、法律に元づいて「権力」を執行する峻厳さから、「父性=権力」のイメージがつきまとう。
国家をさらに「暴力の独占装置」と定義する学者もいるくらいだ。
仮に子供達を無視したり虐待する父親の存在への「反発心」が国家権力に向かうといえばそれは明らかに飛躍だが、その父親が実際に「国家権力」の一翼を担う存在であったならば、国家と父親への憎悪が重なることもあるかもしれない。
昔、あくまでフィクションだが、1968年におきた「三億円強奪犯」を白バイ警官の息子だとするドラマをやっていたのを思い出す。
こんな話をするのも、「コードネームはファルコン」では、いまひとつ二人の「国家機密漏洩」の動機が描ききれていない気がしたからだ。
ショーン・ペンが後に監督をした映画「イント ザ ワイルド」(荒野へ/2007年)の中で、同じような境遇に育った青年を描いており、間接的に「国家機密漏洩」の青年の心中を描いているようにも思えた。
ちなみに「イント ザ ワイルド」の原作は登山家でジャーナリストである人物によるもので、「実話」に基くノンフィクション小説である。
1992年の夏、アラスカの荒野でクリスという若者の死体が発見された。
クリスは「宇宙衛星システム」を開発する技術者の家庭で裕福に育ち、成績優秀、スポ-ツ万能の好青年で将来を嘱望されていた。
ところが、大学卒業後なぜか、荒野での生活を夢見て旅に出ている。
クリスの家庭環境や心の傷、そして放浪の過程で出会った人々の証言、書き残したメモをもとに追跡し、クリスが何ゆえ荒野を目指し、何ゆえ死んだのか「心の謎」を明らかにしていくという展開である。
彼のアラスカでの死にいたる行跡を追跡するなかで、サウスダコタの小麦畑、コロラド川の激流、グランドキャニオなどの自然やヒッピー夫婦との出会いなどを描かれている。
クリスは途中で中古車も捨て、手持ちの紙幣も焼き捨てるが、最終的にクリスは、大自然の過酷な洗礼を受けることになる。
実は、「イント ザ ワイルド」はショーンペンが原作を読んで深く感動し、自ら監督をかってでて制作されたものである。
軍事産業に勤め、家庭をおろそかにする父親への反発からか、荒野にて権力とは無縁な人々との交流と出会いを求めていく姿は、どこかショーン・ペンが演じた「コードネームはファルコン」の青年と重なり合うものがあった。

さて、冒頭で述べたNHKスペシャル「原爆スパイ戦の真実」という番組の内容は、ほかにも驚くべき内容が含まれていた。
1939年8月、第二次大戦勃発1ヶ月前、アインシュタインは、ナチスからの亡命科学者シラードの勧めで、ルーズベルト米大統領に「ナチスより先に」アメリカが原爆を開発するように促した。
その後、太平洋戦争勃発半年後の1946年6月になって、ルーズベルト大統領は、ドイツの原爆開発に対抗して「マンハッタン計画」と呼ばれる原爆開発を推進することを決定した。
それは、ドイツに先を越されてはならじと原子爆弾開発に全精力を傾けたのだから、開発目標はあくまでも枢軸国ドイツに対抗するためであった。
その後、ある時点でドイツには核開発計画は存在しないことが判明するのだが、「マンハッタン計画」は推し進められた。
番組の中で、開発を指揮したグローブス准将が「ドイツに核開発は存在しない。それがどうしたというのだ」といって計画を変えようとはしなかったことが描かれている。
結局「マンハッタン計画」で開発された原子爆弾が実際に投下されたのが日本の広島・長崎だったが、戦後は社会主義国家ソ連を対象とするものとなり、冷戦時代のアメリカの「世界戦略」の柱となっていく。
第二の驚きは、ドイツの同盟国だった日本では理化学研究所で核開発がすすめられていたことである。
1940年、理化学研究所の仁科芳雄博士が、陸軍航空技術研究所長に対して「ウラン爆弾」の研究を進言したといわれる。
それを受けてか1941年4月、日本陸軍航空本部は、理化学研究所の大河内所長に原爆開発を要請し、仁科芳雄研究室が「ニ号研究」(「ニ」はニシナの頭文字)が受託し、ウラン濃縮研究を開始した。
1943年1月、理化学研究所の仁科芳雄 博士を中心に、天然ウラン中のウランU235を熱拡散法で濃縮する計画がはじまり、1944年3月、実際に理研において熱拡散塔が完成している。
しかし仁科教授らを悩ませたのが、原料となるウラン不足である。そこで同盟国であるドイツからUボートで日本に運ばれていた。
ところが、そのUボートが輸送中に北大西洋上でアメリカ軍によって拿捕され、仁科芳雄教授を中心とした「核開発計画」が頓挫したのである。
ちなみにUボート拿捕前、日本人海軍士官2名はあらかじめ用意していた薬で服毒自殺していた。
そして第三の驚きこそ、冒頭で述べた「驚天動地」の告白の内容で、マンハッタン計画の中心をになったユダヤ人の若き物理学者が、原始爆弾の「製造法」をソビエトにそっくり渡していた事実である。
この人物の「スパイ工作」によって、ソ連の核開発は急速な進歩をとげることが可能になったのである。
その男のコードネームは「イノマス」で、匿名を意味する。
「イノマス」は本名セオドア・ホールという人物であった。彼は核開発の中心にありながらも、アメリカによる核の独占を心配し、原子爆弾の製造法をソ連要人に渡すことにするが、頼まれてもいないにソ連側がその情報を信じるはずもない。
それゆえ、とにかくソビエト側のの核科学者に渡せば判ると資料を手渡した。
そこには、まぎれもなく「原子爆弾はどう作るのか」が明確かつ具体的に示されていたのである。
ホールはニューヨーク生まれのユダヤ人で、飛び級でハーバード大学へ進学し、18歳で大学を卒業する。
1944年、なんと19歳で「マンハッタン計画」に抜擢され、研究の拠点であったロスアラモス国立研究所では最年少の物理学者であった。
ホールは1944年秋に休暇で故郷に戻った際、ニューヨークの「ソ連総領事館」と接触し、ソ連政府に原爆に関する情報を渡すことを自ら申し出ている。
この信じがたい話は、ソ連側文書を解読した「ベノナ計画」文書(1944年11月付)に、セオドア・ホールの勧誘と接触について書かれており、しっかりと裏付けられている。
その危険に満ちた「接触」は、ホールのハーバードでの学友で共産主義への共感をもつ人物の手助けで行われた。
ホールは彼と共に一緒にニューヨークを訪れ、身元を調査された末にソ連外交官との面談の席を設けられた。
ホールはこの席で、原爆の詳細なスケッチを見せ、この情報はモスクワへ送信された。
ホールは、戦後ロスアラモスを離れてシカゴ大学に行き、生物学の研究に転向した。
ここで彼はX線による微量分析の重要な技術の先駆者となった。
1962年にはソ連によるスパイ行為が「ベノナ計画」(暗号解読計画)により発覚した後の1951年、ホールはFBIによる尋問を受けているが、告発されることはなく、ホールに対する嫌疑も公表されることはなかった。
当時のFBI高官によれば、当時の「ベノナ計画」による解読文書は間接資料でもあり、裁判で使う証拠としては不完全なものと認識されていたようだ。
その後、ホールはケンブリッジ大学で働くために渡英し、ストックホルム平和誓約運動の署名集めの活動も行っている。
そして1999年11月、イギリスのケンブリッジで死去している。

1950年代のアメリカで、国務省職員の中にソ連と通じるスパイがいると証言して物議をかもしたのが、マッカーシー上院議員である。
このマッカーシー旋風は「赤狩り」ともよばれ、それは根も葉もないものだと認識していた。
それが、前述のNHK番組「原爆スパイ戦の真実」によって、そうした認識の一部は打ち砕かれた。
さて、「赤狩り」つまりソ連と通報している可能性のある共産主義者探しの最初のターゲットとなったのが、「ハリウッドの映画界」であった。
共産主義者のブラックリスト「ハリウッド・テン」が作られそして300人以上の映画人が追放された。
その中には、後に「ローマの休日」の脚本を書くことになるダルトン・トランボがいた。
トランボは、1940年代初期「反フアシズム」で米・英・ソが「共同戦線」(人民戦線)をはっていた時期に、実際にアメリカ共産党に入党している。
1947年9月トランボは非米活動委員会に召喚され、翌月に非米活動委員会「公聴会」が開始された。
いわゆる「思想調査」がはじまったのである。
異様な雰囲気の中、皆が共産主義者でないという「身の証」を立てねばならず、自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げる。
密告を恐れて、古くからの友人同士が口もきかなくなったりする。
そんな悪夢のような風潮の中、トランボたちは「証言しない」ことで「赤狩り」に抵抗した。
また、「ローマの休日」の監督となるウィリアム・ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていたが、当時の有名監督やグレゴリー・ペックなどスターたちと抗議団体を設立して「赤狩り」に反対し、ブラックリストにあがった「ハリウッド・テン」を真っ先に応援した一人であった。
しかし1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄された。
しかし、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続けた。
赤狩りの嵐が吹き荒れる中で、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」であった。
ハリウッドでの自由な映画制作は絶望的となったが、ワイラー監督はハリウッドから追放された人達とともに仕事をすることを望んだ。
そしてローマなら、ワイラーの意のままに撮影でき、内容について注文がついても「知らなかった」で済まされるとフンだ。
ちなみに、ジュルアーノ・ジェンマらの「マカロニ・ウエスタン」がイタリアで撮影されたのも、そういう事情による。
ワイラーは信頼できる人物だけをローマに連れて行き、1952年夏 ローマで撮影が開始された。
脚本担当のトランボは、何よりも優れた映画を作って人々を感動させることこそが、自分を追放した者に対するプロテストだと思ったに違いない。
ところで「ローマの休日」では、女王はじめ皆が皆「ウソ」をつきあっており、その姿がユーモラスに描かれている。
「ローマの休日」の名場面といえば、スペイン広場の「真実の口」の場面がある。
「真実の口」は、嘘つきが手を入れると手を失うという伝説があるのだが、あのシーンはトランボの脚本にはなかったもので、グレゴリーペックとオードリーヘップバーンとの二人のアドリブだったという。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
こうして中世の暗黒時代を思わせる人間抑圧に抗するかのように、映画史上に燦然と輝く「ローマの休日」が誕生したのである。
映画のラストを飾る王女と新聞記者達の面会の場面で、新聞記者は撮った「スクープ写真」のすべてを王女に手渡した。そして、二人の思い出として永遠に「封印」された。