アリーナと鎮守の森

アメリカ大統領選挙における候補者同士のテレビ討論対決を見ていると、「アリーナ」という言葉が思い浮かんだ。ラテン語の"arena"の原義は「砂」。
そこから「流血を吸収するために砂を撒いた闘技場」の意味に転じ、そのような闘技場が設けられた施設をアリーナと称するに至った。
つまり、アリーナとは「血」を流し、それを吸う場所なのだ。 実際、アメリカのバーでジョッキを傾けながら、テレビで討論を見る人々の姿は、ボクシング観戦時のソレとさほど違わないように見えた。
大統領討論会の二度目(日本時間2016年10月10日)では、演台はなく、ステージ上に置かれた2つの椅子にそれぞれ腰かけ、順番に立って発言するという形で、「リング上」を思わせた。
なにしろ身から出たサビから、身内のスキャンダルまでも攻撃の的となったため、プライベートにおいても互いに無傷というわけにはいかない。
トランプはノックアウトされても仕方がない苦境にありながらも立ち続け、ヒラリーの方が自分の発言が終わるとコーナーに戻って椅子に腰掛ける。
トランプは、リング上を自由に歩き回り、ヒラリーが発言している時も、あえて「背後」に回って、無言の威圧感を与え続けた。
結局、優位にあったクリントンであったが、「トランプKO」を印象付けるまでには至らなかった。
アメリカ大統領選において、長い選挙戦に国民が飽きないのは、ベスト8からベスト4に絞られ、勝ち残った二人の決勝戦へとトーナメントを進むように続くプロセスにあるのかもしれない。
日本でも選挙戦は、党の「公認候補選び」まで含めると長い時間をかけているが、それが「ブラックボックス」だけに、気づきにくい。
たまたま同時期に争われた、東京都知事選における小池百合子氏と増田寛也氏、福岡六区の補欠選挙で自民党県連の息子蔵内謙氏と鳩山邦夫の息子鳩山二郎氏の「自民党公認」争いなどは、隠れている分、陰惨な匂いさえ漂っている。
一般に日本人は党における「候補者」の発掘から「党の公認」に至るプロセスをほとんど知ることはないが、アメリカの大統領選では予備選挙から含めて「ショー」のように演出を施して、まるで国家的イベントであるかのようだ。
日本の衆参の議員選挙と大統領選挙を同列とするわけにはいかないが、それでも日米両国の「選挙」に対する意識の違いを感じさせる。
その意識の違いはどこから生まれるのだろうか。
歴史を遡ると、アメリカは、国が広くて通信手段が原始的だったから長期に渡って選挙が行われざるを得ないということがある。
また、アメリカの大統領選挙は、州ごとに割り当てられた「選挙人」を選ぶというユニークな方式をとっている。
国民が投票用紙に大統領の名を記入するわけではなく、選挙人を一人でも多く獲得した党がその州全部の選挙人を獲得することになる。
この不思議な「選挙人制度」は1787年のアメリカ合衆国憲法制定のときに導入され、憲法規定はないものの19世紀には慣例化された。
これも、馬車くらいしか移動手段がなく、投票に行くのも容易ではないし、政党もメディアも未発達で、政治家たちがどんな主張をしているかもわからない。文字を読めない人も多かったため、「選挙人」に任せることにしたのである。
思い浮かべるのは、1992年まで続いた大橋巨泉司会の「クイズダービー」という番組で、出場者は直接クイズに答えるのではなく、正解をだせそうな人物を解答者(はらたいら、竹下景子、北野大、井森美幸、篠沢教授)の中から選んで、「もち点」を賭けるというものがあった。
大統領選において、国民が「もち点」を賭けるなんてことはしないが、どの大統領を選ぶかで国民のそれぞれの「所得水準」が変わってくるくらい、影響力が大きいということはいえる。
しかし、今日のように輸送や通信手段が発達していると、「選挙人制度」には不合理にも見えるが、そこには先人達の知恵が秘められている。
アメリカ建国の父といわれるワシントンやジェファーソン、マディソンといった人々は民主主義の危険性をよく洞察していた。
それは、民主主義はいともたやすく「衆愚政治」に陥る危険があり、「独裁制」を生む可能性があるということだ。
そのためには、判断力があると思われる「選挙人」をまず選ぶことは、「衆愚政治→独裁政治」をふせぐための防御壁を二重・三重に作ることを意味する。
なにしろ、大統領は「核のボタン」いつでも押せる状態にいる人なのだから、長い選挙戦を戦うことで、候補者をシッカリと見定めなければならない。
短期間なら表面を取り繕えても、長期にわたって世間にさらされれば、人間の本性はかならず表れるというものだろう。
またアメリカの選挙期間が長いもう一つの理由は、アメリカがユナイテッド・ステーツ(合衆国)であるということにも関係がありそうだ。
アメリカの州はヨーロッパからの移民によって形成されたが、「ルイジアナ州」はフランスの国王「ルイ」から名前がついたし、「バージニア州」はイギリスの国王「エリザベス」のニックネーム”処女王”の名前に由来する。
州は独立性が強く、自の軍隊や法律を持っており、学校制度が違ったり、タバコや酒の年齢制限、ギャンブルやポルノ、売春まで合法・非合法が州によって違う。
中央政府が各州を下手に統一しようとするなら「州権侵害」ということにもなる。
それぞれの州が独立が強いだけに、それをひとつの「国家」としての意識を持たせることは、並大抵のことではない。
太平洋戦争において、ルーズベルト大統領は、日本軍の真珠湾攻撃を「リメンバー・パールハーバー」という合言葉で糾合して、アメリカをヒトツにしたことはよく知られた話である。
結局、大統領選挙期間とは、「国家的お祭り的イベント」を通じて、アメリカに住んでいる人々が「アメリカ人」になるためのイニシエーション期間ととらえることもできそうだ。

国立競技場はじめ、1964年の東京オリンピックの主要会場となった場所は、代々木・原宿・表参道あたりで「神宮の森」に囲まれた地域である。
神宮とは明治神宮のことで「表参道」という地名がその入り口をあらわしている。
また、あまり知られていないが、神宮の森の一角「原宿駅」には、天皇御用列車が出発する専用ホームがあり、今も使用されている。
ただここを訪れ、よくぞこんな深い森が都心に残ったものだと感心するのは、チョット違う。
実は、今から100年ほど前に、当時の日本人が、明確なデザイン意図と壮大な構想力をもってつくり上げた森なのである。つまり、明治神宮の森は、「天然林」ではないのだ。
1912年(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御なされた。するとまもなく全国から「御聖徳をしのぶ」声が上がり、当時の帝国議会や経済界を動かして、明治天皇を祀る「神社創建」の機運が生まれる。
そこで政府は候補地の選定に取りかかり、全国各地で40近くの候補地が挙げられたが、明治天皇が東京に縁(ゆかり)が深かったことを念頭に東京の4カ所に絞られ、この「代々木御料地」が選考された。
この地は、江戸時代を通じて大名の屋敷があったところで、そこを明治になって宮内省が買い上げ、「御料地」としたのである。
実は決定した1914年当時、この代々木御料地周辺には荒地のような景観が広がっていた。
明治天皇を祀る神社をつくるからには、まずは「鎮守の森」が必要となる。そこで、この“ 荒地”に森を造成することになったのである。
林学の専門家や有名造園家などを集め、森の造成計画が本格的に始まった。
計画の骨子は、「神社の森は永遠に続くものでなければならない。それには自然林に近い状態をつくり上げること」であった。
ところが、この構想に当時の内閣総理大臣・大隈重信が異を唱えた。伊勢神宮や日光東照宮のような荘厳な杉林にすべきであり、明治天皇を祀る社を雑木の藪やぶにするつもりかと反対したのである。
しかし、明治神宮の地は関東ローム層の洪積台地にあり、潤沢な水を必要とする杉は十分に育たない土地柄であった。
そこで計画に携わった本多静六博士が、東京の杉の生育が悪いかを「樹幹解析」の結果に基づいて科学的に説明して、ようやく大隈首相を納得させた経緯がある。
本田博士らの「計画」では、カシやシイ、クスノキなどが主木としてさらに成長するとともに、2世代目の木が育ち、常緑広葉樹林が広がっていく。こうして主木が人手を介さず、自ら世代交代を繰り返す「天然林相」に到達したとき、森は完成する。
本多博士をはじめ主導者たちの情熱が、日本全国から賛同の声を呼び起こし、国民運動となっていった。
そして1920(大正9)年11月、日本全国から集められた10万本もの献木の植栽工事がほぼ終了し、「鎮座祭」が行われた。
造営に従事した勤労奉仕者の数は延べ11万人、国を挙げての大事業だったのである。
現在でも通用する植生遷移の考え方をもとに、緻密な植栽計画と、100年先を見た樹林構成のモデルを描いいた見事なグランドデザインだった。
目先の利便性だけを追求する最近の日本社会の風潮を、この森の存在が痛烈に批判しているように見える。

最近、皇居周辺をジョギングする人の姿はテレビに映るが、全国各地から多くの人々がグループを作って上京し、皇居の中でボランティアの清掃活動を行っていることは、あまり知られていない。
しかしその数、平成に入ってからの「実績」で言えば、1年間を通じておよそ1万人にもおよんでいるという。
清掃活動はまったくの無報酬であるのはもちろん、交通費も宿泊費もすべて自己負担。それでも約1万人もの人々が毎年、皇居での勤労奉仕を続けているのは驚きである。
では、この「皇居勤労奉仕」はいつ、どのような「経緯」で始まったのか。
1945年12月、つまり終戦の年の年末、当時日本は占領下にあった。皇居も各門にはアメリカ兵が見張りに立っていた。
皇居自体も、外観こそ戦前と変わらぬ様子であったものの、一歩中に入ると戦災の跡が歴然として痛々しいまでの変貌ぶりで、木造の建造物はほとんど焼失していた。
手入れが行き届かないため、雑草があちこち伸び放題に生い茂っていた。これは皇居前広場も同様だったから、外からも一目瞭然にわかった。
そんな折、皇居の坂下門の門外に60人ばかりの青年の一団が到着した。
この若者たちは、門衛の皇官警察官を通して、次のように申し入れた。
「私たちは、宮城県栗原郡の各村のものでありますが、二重橋の前の広場に雑草が生い茂って、たいへん荒れている、ということを聞きましたので、草刈りやお掃除のお手伝いのため上京してきました。どうかお手伝いさせて下さい」。
関係者は、その熱意に打たれて「一同の厚意に謝するとともに、遠路はるばる上京されたのだから、二重橋前もさることながら、皇居の内は人手不足のため、宮殿の焼跡には、いまだ瓦やコンクリートの破片が到るところに山積している。どうか、皇居の内にきて、それを片付けては下さらぬか」と提案したところ、この予期しない言葉に一同の喜びはたいへんなものであったという。
しかし、いかに善意の申し出ではあったにせよ、皇居に立ち入るなどということを簡単に認めるわけにはいかない。
この熱意ある申し出に対し、宮内省で対応した筧素彦総務課長氏は次のように書いている。
「当時はすでに占領下にあって、ことごとに占領軍の抑圧を受けている極めて酷い事情の下にあるので、こういう申し出をされる方も命がけなら、それを受け入れる決断をする方もまた異常の覚悟を要する状態でした。(中略)これを組織による意思決定の形をとったら、(中略)万一の場合、上の方にご迷惑が及ぶことがあっては一大事であると考え(中略)一切の責任を負って自分だけの独断でやることを決意しました」。
かくて筧氏は、信頼するただ一人の上司にだけ打ち明け、その内諾を得るや、ただちに二人に「勤労奉仕」の許可を申し渡したのである。
これ自体大変な勇断であったが、奉仕の初日に一同にとって思いもよらぬ感激的な場面が待っていた。
皆の前に昭和天皇が姿を現され、その後、女官を伴って香淳皇后もお出ましになった。両陛下のお出ましに一同がどれほど感激したか、察するに余りある。
宮城県栗原郡の若者たちは「みくに奉仕団」と名乗っ男性55名、女性7名の計62名で、団長・副団長を除き、ほとんどが22、3歳の若さだった。
当時の交通事情を考えると、宮城県栗原郡の地元から上京してくるだけで、大変な苦労があったはずだ。しかも終戦直後だから経済情勢は極めて悪く、食糧の入手さえ困難な状況下、皇室そのものの行く末もなお不透明だった頃である。
そうした中で、60人もの若者たちが意を決して上京してきたことは、それ自体驚くべきことだった。
苛酷な占領下のことゆえ、彼らの行動に対しGHQがどのような対応をとるか予測がつかず彼らの中には、両親兄弟と「永い別れ」の水盃をかわしてきたものさえもいたという。
「みくに奉仕団」のことが各地に伝わると、我も我もと次々と奉仕団が結成され、勤労奉仕の申し出が宮内省に殺到した。何しろ翌1946年には早くも188の奉仕団が名乗りをあげ、1万人余の人々が勤労奉仕に参加しているのだ。ピークは1951年で、何と4万人近くの国民が参加した。
こうした動きに対し、GHQもさすがに疑念を抱き、背後に強力な組織があって、巨額の資金を投じ、彼らにとって良からぬ策謀をめぐらしているのではないかと、独自の調査を行ったらしい。
海外のメディアも、敗戦で日本の皇室が滅びるどころか多くの国民がボランティアで皇居の清掃活動を行っていることを不思議に思ったようだ。
しかしそこには何の背後関係もなかった。人々のひたむきな皇室への思いだけがあったのである。
占領下から独立回復後、昭和から平成へと時代は推移しても、「皇居勤労奉仕」は一年の中断もなく続けられている。これまでの参加者は、1945年からこれまで(平成19年まで)の累計で約120万人にも達している。
実は1946年から1954年まで9年間かけて行われた、昭和天皇の「地方巡幸」は、この勤労奉仕の「お礼」を兼ねたものだった。

今日のアメリカ大統領選挙と、明治期の日本の「神宮の森」の建設と戦後の「皇居勤労奉仕」を並べて書いたのは、大統領選挙を通じて「アメリカ人になる」ために莫大な予算と時間をかけるアメリカと、「国の統合」ということにほとんどコストがかからない日本とを対比するためである。
「アリーナ」と化した大統領選挙選は、日米の精神的な「インフラ」の違いを「逆照射」するように浮かび上がらせる出来事でもあった。
そもそも、日本とアメリカでは、「コミュニティ」という言葉の概念がかなり違っている。
アメリカのコミュニティは、見知らぬ人間が寄り集まってきてコミュニティが作られていった。
一方、日本人のコミュニティは、その地域には人々と一緒に氏神様があり、時には先祖の墓もある。
つまり、先祖や神様と一緒にあるのが日本のコミュニティの姿である。
それは「鎮守の森」といっていいもので、日本人が明治神宮建設や皇居の清掃活動が国民運動として拡大していったことも、そうしたコミュニティで育ったことと大いに関係するところであろう。
明治時代の「鎮守の森」の伐採に大反対したのは、菌類学者の南方熊楠であるが、それは生態学的な理由からばかりではなく、日本人の根源的なものを失うことへの危機感からくるものであったであろう。
「鎮守の森」で人々が集まって話し合いをする時、氏神様がいて、それを見つめる先祖の目さえも感じるならば、人々は厳粛な気持ちでそこに臨んできたにちがいない。そこで話し合ったことは、公明正大であらねばならないという思いも働いたであろう。
そうした厳粛な思いが働くか否かが、料亭での「密談」とは違う点なのかもしれない。