雛祭り、バレエ劇場

古文で出だしが見事なのは、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常のひびきあり」(平家物語)ばかりではない。
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれつれづれなるままに」(徒然草)、「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶ うたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」(方丈紀)など、どれも素晴らしい。
枕草子の冒頭「春はあけぼの」も秀逸だが、明治の女流作家樋口一葉は「かりそめの 筆すさびなりける枕草子」と評した。
この「かりそめの 筆すさび」に込められた微妙な「屈折感」がいい。
それでは「すさびごと」とはどういう意味か。辞書で調べると「その場の気分で楽しむ慰み事」とあった。
この「すさびごと」を軽く扱ってはいけない。孤独な女帝が浸った「すさびごと」が、日本全国に広まったり、世界的な芸術にもなったりしたのだから。
さて、「雛祭り」はいつ頃から始まったのか。
平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が残っている。
初めは[雛あそび」にすぎず、儀式的な要素はなかったが、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、雛人形は災厄よけの「守り雛」という性格をもつようになる。
そして天正時代には「雛人形」は武家子女など身分の高い女性の「嫁入り道具」のひとつに数えられるようになった。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき「雛祭り」へと変わり、全国に広まり、飾られるようになった。
そこで、ひとりの女性天皇の存在が、「雛祭り」の全国的普及に大きな役割を果たすが、本人にそんな意図はまるでなかったにちがいない。それは「すさびごと」にすぎなかったのだから。
さて、日本史おいて女性天皇といえば8人いるが、その7番目に即位したのが明正天皇(めいしょうてんのう)である。 この女性天皇の即位については、幕府と皇室との間で緊迫した「駆け引き」があり、「雛人形」はそうした一連の出来事の中で、一陣の薫風のごとき役割を果たしたのではなかろうか。
明正天皇の父は後水尾天皇で、母(和子:まさこ)は2代将軍の徳川秀忠だから、明正天皇は徳川家康の孫にあたる。
徳川秀忠がその娘(和子)を天皇家に入れたということは、徳川家がかつての藤原氏と同じように「外戚」として権力を振るおうとした意図が感じられる。
しかし、和子に男の子は生まれず、その娘は天皇の中宮の地位ではなく、自ら天皇になったのであるから、徳川家としても複雑な思いだったにちがいない。
なぜならば、女性天皇は結婚できず、子も産めない立場であるため、せっかく入れようとした徳川の血も途絶えてしまうのだから。
まさに、この事実そのものが女性天皇即位をめぐる、天皇家(皇室)と徳川家(将軍家)との「駆け引き」を物語るものではないだろうか。
古代より「天皇」となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律があった。
この決まりは元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図であるが、結果から判断すれば、後水尾天皇はこの不文律を利用し、皇室から徳川の血を排除し、後世までその累が及ばぬようにする意図もって、娘の明正天皇を即位させたということになる。
その背景には何があったのか。
後水尾天皇は、1629年の紫衣事件や将軍・徳川家光の乳母春日局が無官のまま参内した事件に関して、江戸幕府への幾ばくかの憤りを覚えていたことが推測できる。
明正天皇は、その父・天皇から、突然の「内親王宣下」と譲位を受け、わずか7歳で践祚した。
明正天皇は徳川将軍家を外戚とする唯一の天皇であるため、幕府は「禁中並公家諸法度」を根拠として朝廷に対する介入がやりやすくなったと捉えられるかもしれない。じかし、事実は逆である。
なぜなら廷内においては、「院政」を敷いた後水尾上皇が依然として「実権」を握っていたためである。
院政は本来、朝廷の法体系の枠外の仕組みであり、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのである。
徳川家は当初、かつての摂関家のように天皇の外戚になることを意図して和子の入内を図ったが、その娘が明正天皇として即位することは、逆に公家や諸大名に通じて幕府に影響を与えることの方を警戒することになったのだ。
したがって「女帝即位」は、かえって朝幕関係の緊迫を招く結果となったのだ。
幼く即位した明正天皇を、できるだけ外部と交流がないカタチにしておく必要があった。
ちなみに、「明正」の名は、奈良時代の女帝の元明天皇とその娘の元正天皇から取ったとされるが、元明・元正とも首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が成人するまでの「つなぎ」の女性天皇であった。
そして江戸時代、明正天皇の治世中は後水尾上皇による「院政」が敷かれ、明正天皇が朝廷における実権を持つことは何一つなかった。
後水尾天皇の娘和子に対する愛情はよく知らないが、母・和子の娘の成長を祈る気持ちは、さぞや強いものがあったことであろう。
京都・山科の勧修寺の寝殿(明正殿)と書院は、明正天皇が生活した御殿を移築したものである。
書院の障壁画は、幕府や後水尾上皇らの許可なしでは外出や他人との面会もままならない一生を過ごした明正天皇を慰めるために、土佐光起親子が畿内の名所を描いたものと伝わっている。
また娘を憐れと思ったにちがいない父母は、娘に豪華な「雛人形」を与えたのである。
親の心情が雛人形にこめられ、雛人形が今日のように雛段の上に鎮座する「座り雛」の形になったのである。
この豪華な「飾り雛」が定番となって、雛祭りの際に、全国的に広まっていくのである。
1643年、明正天皇は21歳で異母弟に譲位して太上天皇となった。のちに出家して、太上法皇となった後、1696に崩御する。享年74。

世界スケールで見たとき、孤独な女帝の「すさびごと」として招いた踊りが、ロシアの地で技法が確立し「ボリショイ・バレエ」として世界に知られていく。
その女帝とはエカチェリーナ2世で、ロシア皇帝の中で最長の34年間在位し、最も領土を拡大したが、出身はロシアではなくドイツであったが故に、孤独と孤立を余儀なくされた。
1744年ドイツからロシアに向かっている一台の馬車に乗っていたのは、ドイツ貴族の娘・ゾフィー、後のエカチェリーナ2世であった。
ロシア皇太子の妃候補として宮廷にあがろうとしていたのだが、ゾフィーには、ポーランド国王の娘・マリアンヌというライバルがいた。
マリアンヌの方が、中流貴族の娘であるゾフィーよりはるかに上の地位であった。
しかし、ゾフィーがこの縁談をぜひとも勝ち取りたい理由があった。それが母親との確執である。
母は弟ばかりを愛するばかりか、ゾフィーを「醜い」と言い続けた。
そこで、ゾフィーは外見ではなく、内面的な教養を身に着けることに関心を持った。
当時、ロシアを治めていたのは、女帝・エリザベータ。ライバルに競り勝って妃の座を射止めるためには、この女帝の信頼を勝ち取らねばならない。
そのためにゾフィーは、心からロシアを愛し、ロシア人になりきることを決意。
ロシア語を完璧に習得しようと努力し、さらに父親の反対を押し切って、ロシア正教へと改宗する。
女帝は、彼女の姿勢に女帝は心を打たれ、ロシアを愛するこの娘こそ、皇太子妃に相応しいと、改宗したその日に「エカチェリーナ」という名前を与える。
1744年6月、皇太子ピョートル3世と婚約。遂に、皇太子妃の座を射止めるものの、この夫はエカチェリーナの想像を超えた「ダメ夫」であった。
1756年、領土を巡ってプロシアとの7年戦争に突入し、勝利目前のロシアであったが、1762年に夫がピョートル3世として即位すると、突如、プロシアと講和を締結し、占領していた土地を放棄してしまい、無条件で兵も引き揚げてしまった。
戦闘における14万もの死者はなんであったのか。
実は、ピョートル3世は、ロシア皇帝でありながら、敵国プロシアの啓蒙専制君主・フリードリヒ2世を尊崇していたともいわれている。それが、プロシアに対する戦意喪失の原因かもしれないが、周りはたまったものではない。
何しろ、おもちゃの兵隊で遊び、その遊びでも勝つのはドイツであった。
軍事顧問をドイツから招き、軍服もドイツ風の青色に変え、ロシア伝統の緑の軍服は、うち捨てられてしまったのである。
これでは妻・エカチェリーナが何のためにロシアに馴染もうとしたのかと思ったに違いない。
しかも皇帝は公然と愛人を作り、妃にすると宣言し、エカチェリーナは捕えられ別荘に監禁されてしまい、妃の座はもとより、命まで狙われてしまう。
エカチェリーナは、クーデターを起こそうと同志を募り、1762年6月クーデターを決行する。
そして皇帝を見限った多くの軍人がエカチェリーナの下に参集し、圧倒的な兵力で皇帝ピョートル3世を負かす。
捕えられた皇帝は、サンクトペテルブルクの別荘に幽閉されて、亡くなる。
クーデターに成功したエカチェリーナは、1762年7月33歳にして、外国人として初めてロシア皇帝の地位に立った。
ドイツ生まれのエカチェリーナがロシアへの愛を示すために取った最初の働きは、ドイツ風軍服からロシア伝統の軍服に戻したことである。
そして彼女の夢は、辺境の二流国にすぎないロシアの国力を高め、西欧列強に肩を並べることであった。
当時ヨーロッパは絶対君主制であった。
法律の整備がなされ、中央集権的な国家体制が築き上げられ、豊かな文化や産業が花開いていた。
しかしロシアは、国民の8割の農民を貴族が奴隷のように支配しているという現状であった。
エカチェリーナは、ロシアを法治国家にしようと、農奴制の廃止を考えるが、貴族たちは、資産を失うことになるため猛反発する。
そんな中、恐れていたことがおきる。1773年貧しさに耐えかねた地方の農奴プガチョフの乱である。
ロシア史上最大の農民暴動で、20万人に膨れ上がった農民は、地方都市を次々と陥落させ、貴族や兵士を惨殺する。
反乱を抑えるのに2年もの歳月が必要で、貴族たちも「農奴制」の孕む危険を知らされ、エカチェリーナは改革を断行する。
中央の政策が各地にいきわたるようにし、全国300カ所にロシア初の小学校を設立する。
さらに全国に診療所を整備し、農奴でも教育や医療を受けることができるようにした。
ところで、ドイツから嫁いだ娘がロシアで皇帝として君臨することは並大抵のことではない。
ロシアでは、代々女帝の結婚は許されていなかったが、舞踏会で知り合った軍人ポチョムキンと秘密の結婚をする。
理想の伴侶を得たエカチェリーナ2世は、最大の野望である領土拡大へと向かう。
ポチョムキンの勧めに従い、エカチェリーナはクリミア半島の占領に乗り出す。
ロシアにとって重要なことは不凍港で、クリミア半島セバストポリを、安定して確保することはロシア海軍に必須であった。
当時黒海沿岸は、オスマントルコの支配下となっており、ロシアは南への領土拡大をする為に、これあめも度々トルコと争っていた。
そしてそして遂にトルコに勝利し、クリミア半島を手に入れセバストポリの軍港に戦艦を配備することに成功した。
しかしその幸せは長くは続かなかった。1791年10月エカチェリーナの元に届いた知らせは52歳でのポチョムキンの死であった。南方でかかった伝染病が原因だった。
それ以後、エカチェリーナは、人生の歯車が狂ったかのようで、面白おかしく書かれた分を差し引いても、大方の評判はよくない。
それもこれも、女帝の孤独の表れだったにちがいないが、エカチェリーナ2世が、ドイツうまれでありながら、ピュートル1世(大帝)の遺志を継いで、ロシアをヨーロッパの列強と肩を並べるほどの大国へと引き上げたことは否定することはできない。
1796年11月エカチェリーナ2世は死去する。享年67であった。
さて、エカチェリ名ーナ2世は単にロシアを大国にしたばかりではなかった。
世界的な「ボリショイ劇場」や「エルミタージュ美術館」を作ったのも彼女である。
様々な本に、エカチェリーナは、「ロシアの国威」を示すためにバレエ劇場や、美術館の創設したとあるが、そればかりとは思えない。
14歳にしてドイツから1人ロシアの皇太子に嫁入り、その後その夫を殺さずにはいられなかった女性。
また、皇帝になってしまった以上は結婚できず、最愛の人ポチョムキンをも病で失ってしまう。
彼女自身の孤独を癒すための「すさびごと」が、舞踏や美術品の鑑賞ではなかったか。
当時後進国であったロシア帝国にフランスから宮廷バレエが伝わる。1730年代にフランス人ジャン・バティスト・ランデにより首都サンクトペテルブルクに帝室舞踊学校が創立された。これがマリインスキー・バレエの起源となる。
「マリインスキー・バレエ」は、ロシア帝国の宮廷バレエを起源とし、ロシア国内で最も格調の高いバレエ団である。
二百年以上の伝統を誇り、どの時代においてもロシア国内で最もレベルの高いバレエ学校を擁し、常に素晴らしい人材を輩出してきた。
18世紀後半、 宮廷バレエから「劇場バレエ」へとなったのは、1783年、女帝エカチェリーナ2世の勅令によりオペラとバレエ専用の「ボリショイ劇場」(サンクトペテルブルク)が建設され、ここを活動拠点としたことに始まる。
フランスを中心にロマン主義の影響を受けた作品が生まれ、これらを積極的に取り入れていれ、フランスから招聘した振付師マリウス・プティパの活躍により、多くのクラシック・バレエの演目がこのバレエ団から誕生した。
3大バレエ「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」も、このバレエ団から誕生した。
また、20世紀初頭は政治的に不安定になり、1917年ロシア革命を機に国外への亡命者が相次いだ。
彼らが他国のバレエ団でプリンシパルや振付を行い、多くのバレエ団にクラシック・バレエの演目が加わることになる。
また、サンクトぺテるブルクにあるエルミタージュ美術館は、もともとは歴代ロシア皇帝の宮殿であった。
エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、1764年に彼女ドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。
この巨大な美術館は、歴代の皇帝の宮殿である「冬宮」と、エカチェリーナ2世の私的サロンであった「小エルミタージュ」、「旧エルミタージュ」、「新エルミタージュ」そして冬運河を挟んで建てられた「エルミタージュ劇場」の5つの建物によって構成される。
「エルミタージュ」という言葉は「隠れ家」を意味するフランス語で、エカチェリーナ2世はこの私的なサロンで国事を離れて、自ら集めた美術品を親しい友人たちと密かに楽しんだ。 その入り口には次の言葉が掲げてあった。
「この扉を通るもの、帽子とすべての官位、身分の誇示、傲慢さを捨て去るべし、そして陽気であるべし」。